「起きろ、小僧ども!」
武器屋の天井を突き破るような老人の野太い声で、朝の静けさは木端微塵に砕け散った。
それから――アルタとデネルの、地獄のような、しかし光り輝くような日々が始まった。
遡ること、あの夜。
アルタの暴走を案じ、「恐ろしい呪文は封じなければ」と拒絶する母イルの前に、シガテラは杖を突きながら割って入った。
「これこれ、ご婦人。そう怯えるもんじゃない」
シガテラは深く帽子を脱ぎ、敬意を込めた真摯な目をイルに向けた。
「……わしは昔、ほんのいっときだが、旅の途中でオルデガ様にお供したことがある。あの圧倒的な背中を追いかけ、最後まで命を預けるつもりでいたんじゃよ」
遠い日の記憶を噛み締めるように、シガテラは自身の不自由な右足をぽんと叩いた。
「だが、イシスの砂漠で『地獄のハサミ』の群れに襲われ、ワシは片足を失った。足手まといになったワシを、オルデガ様はアッサラームの宿に預け、そのまま旅立たれた。……あの人は、旅の途中でもいつも息子の話をしておったよ。『アルタは今頃どうしているだろうな』『あいつの顔を早く見にてえなぁ』ってな」
シガテラは杖を握る手にぐっと力を込め、イルの前に深く頭を垂れた。
「オルデガ様がワシを置いていったのは、命を救うためだった。今度は、ワシがそのご恩に報いる番じゃ。イル殿、この子が『誰かを守りたい』と願ったからこそ、あの呪文の力が目を覚ましたのじゃ。暴走せぬよう、正しく導く術をワシに学ばせてくれまいか。オルデガ様へのせめてもの報いじゃ……!」
母の強さと、夫の遺した絆の深さを知るイルは、しばらく静かにアルタを見つめた後、ゆっくりと頷いた。
こうして、老練な元・冒険者シガテラによる、ふたりの少年の育成が始まったのである。
シガテラの修行は容赦がなかった。
まだ薄暗い早朝の水汲みに始まり、険しい裏山への駆け足、滝に打たれての精神統一。そして、日が暮れるまで続く過酷な剣の鍛錬。
だが、ふたりの才能の開花は、まったく対照的だった。
剣を振るえば、ポポスの血を引くデネルの才能は爆発的に伸びていった。重い鉄の剣を風切る音は大人顔負けで、どんな型でも一瞬で自分のものにしてしまう。しかし、デネルが教えられた攻撃魔法の呪文を唱えても、ただパチパチと火花が散るだけで、相手を焼き尽くすような炎は微塵も出なかった。
逆に、剣の素振りではいつまでも木刀をポキポキと折り、フォームもおぼつかないアルタだったが、呪文の理論を教えられた瞬間、あの夜の赤い炎を思い起こさせる底知れぬ才能を見せつけた。シガテラが教えた攻撃呪文を、わずか数日で自分なりに応用し、的を正確に焼き焦がしてみせるのだ。
「お前たち! 剣と術は表裏一体! どちらか片方しか使えぬようでは、いつか必ず大切なものを守り切れなくなるぞい!」
シガテラの怒声が山に響く。
ふたりは互いに無いものを羨み、そして歯噛みした。
ある日の剣の修行中、激しく打ち合う最中に思わぬアクシデントが起きた。デネルが振るった木刀が大きく軌道を逸れ、誤ってアルタの額を激しく直撃してしまったのだ。
「――っ!」
鈍い音とともに、アルタがその場にバタリと倒れ込み、額から真っ赤な血が流れ出した。
「アルタ……っ!?」
顔面を真っ青にしたデネルは、慌てて木刀を放り出し、崩れ落ちるようにアルタの傍らに膝をついた。
意識を失い、ぐったりとしている弟。流れ出る血を見て、デネルの胸に激しい恐怖と後悔が渦巻く。
「ごめん、アルタ! しっかりしろ! 死ぬなよ、アルタ……っ!」
震える両手をアルタの額の傷口に強く押し当て、デネルは無我夢中で叫んだ。
――神様! アルタの血を止めて、傷をふさいでくれ……! 頼む、あいつを助けてくれ……!!
頭をぐしゃぐしゃにかきむしるように祈ったその瞬間、デネルの脳裏に、どこからか鮮烈な言霊が響いた。
――『ホイミ』。
頭に浮かんだその名を、デネルは迷わず叫んだ。
「ホイミッ!!」
次の瞬間、デネルの掌から柔らかな聖なる光が溢れ出し、アルタの額を包み込んだ。
嘘のようにみるみる血が引き、開いていた傷口がピタリと塞がっていく。
「うぅ……ん……?」
数秒後、アルタがうっすらと目を開け、ゆっくりと身を起こした。
「ごめんな! アルタ! 大丈夫か!?」
「うーん……? なんか、頭がぶつかったような……でも、痛くないよ」
キョトンとするアルタを見て、デネルはその場にへたり込みながら、大粒の涙を流して弟を強く抱きしめた。
「よかった……本当によかった……!」
「うん! にいちゃん、ありがとう」
ふたりが安堵に包まれている様子を、少し離れた木陰から、シガテラが片目を細めながらじっと見つめていた。
「ほうほう……。あやつ、いつの間に癒やしの呪文を会得したんじゃ」
老魔道士は口元に不敵な、しかしどこか嬉しそうな笑みを浮かべて満足そうに腕を組んだのだった。
それから、ふたりは互いの足りない部分を補い合うように、死に物狂いで泥にまみれた。
アルタは呪文の合間に必死で剣の構えを学び、デネルはアルタに教わりながらも、自分の内側で目覚めた治癒の力を磨き上げていった。
月日は流れ、アルタは13歳に、デネルは16歳になっていた。
少年から青年の顔つきへと変わったふたりの拳は硬く、その背中は、いつの間にか誰もが振り返るほど頼もしく成長していたのだ。
デネルが王国で成人を迎える日。
アリアハンの王城の大広間には、厳かな空気が満ちていた。
「にいちゃん、おめでとう!」
城の門の前で、アルタは満面の笑みでデネルの背中を叩いた。デネルは少し照れくさそうに頭を掻き、引き締まった表情で玉座の間へと歩みを進める。
王は、ひげを撫でながら、堂々たる体躯に成長したデネルを見据えた。
「デネルよ。お前は本日より成人となり、国家に仕える職業を与える。……望みはあるか?」
アリアハンにおいて、王宮に仕えることは一族最大の誉れであった。誰もが「武術師範への道に違いありません」とざわめく中、デネルはまっすぐに前を見据え、はっきりと告げた。
「王様、私は神に仕え、治癒の力を使い、最前線で戦える僧侶を目指したいと思います」
広間がどよめいた。
「ほう……その若さで僧侶を。城に仕えておれば、ポポスの店も安泰だろうにのう」
王はしばらくデネルの目をじっと見据えた後、ふっと満足そうに髭を揺らして頷いた。
「いいだろう。その気概、惜しい男ではあるが、神殿への道を許可する」
数日後。
デネルは、僧侶としてさらに高みを目指すため、シガテラと共に世界の中枢にある『ダーマの神殿』へ向かう旅に出ることを決めた。
アリアハンの港。
出発の朝、月に一度の貿易船が静かに着岸する中、国中の人々がふたりの見送りに集まっていた。
「にいちゃん、本当に行っちゃうのかよ」
アルタは、デネルの荷物持ちのローブをぎゅっと握りしめたまま、なかなか顔を上げられなかった。
デネルは笑って、アルタの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「泣くなよアルタ。お前はこれからもっと強くなるんだろ? 攻撃の呪文だけじゃなく、もっとすげえ魔法使いになってみせろよ。……すぐに戻ってくるさ、約束する」
シガテラは杖を突きながら、ふっと目を細めて遠くの水平線を見た。
「行くぞい、デネル。そろそろ出航の時間じゃ」
「はい、師匠!」
ふたりはタラップを登り、貿易船の甲板へと歩み出す。
アリアハンの青い海を背にして、外の世界へと漕ぎ出すその後姿は、かつてこの島を旅立った伝説の英雄オルデガの背中に、どこか重なって見えた。
汽笛が鳴り響き、船がゆっくりと港を離れていく。
遠ざかる甲板の背中を見送りながら、アルタはもう我慢できなかった。
夕日に赤く染まった頬を、とめどなく溢れる涙が伝い落ちる。
「にいちゃん……っ!」
声にならない叫びを飲み込みながら、アルタはしっかりと拳を握りしめた。
別れの寂しさと、胸の奥で燃え盛る熱い決意を抱きしめながら、少年の瞳は、まだ見ぬ広い世界へとまっすぐ向けられていたのだった。