体育館の熱気を背に、私は袴姿のまま裏手の洗面所へと駆け込んでいた。
「全然落ちないから先に部室戻ってて」
そう言って部員たちと別れたものの、頬や髪の生え際には黒い墨が残ったままだ。
「うわ、これなかなか落ちないな……」
冷たい水で何度も顔を洗う。
不意に名前を呼ばれ、振り返る。そこには北くんが立っていた。
「あ、北くん! 仕事はもういいの?」「おん。一段落ついた」
そう答えた北くんは少し息が上がっていた。
まるで仕事の合間に来たというより、急いできたみたいに。
「それより、自分まだインクついとるよ」「えっ、どこどこ?」
慌てる私に、「じっとしとき」北くんは一歩近づき、そっと頬へ手を伸ばした。柔軟剤の香りがふわりと鼻先をかすめる。
「ここやな」指先が触れる。たったそれだけなのに、息が止まりそうだった。
「……よし」指が離れた瞬間、そこだけ妙に物足りなく感じる。もう一度顔を洗っていると、北くんが小さく息を吐いた。
「さっきのパフォーマンス、ほんま格好良かったな」
静かな声だった。けれど、その一言が誰の賞賛よりも嬉しかった。
「なんか……感動してもうたわ」
胸がぎゅっと苦しくなる。
しかし、その空気は一瞬で壊された。
「あーーーっ!! 北さんとさっきの書道部の先輩や!!」
現れたのは宮兄弟と角名くん。宮くんは自分の持っているイチゴチョコホイップのクレープを美味しそうに頬張りながら、私の袴姿をジロジロと見た。
「それにしてもツムちゃん先輩、さっきのパフォーマンスめちゃくちゃカッコよかったですわ! 袴姿もめっちゃ似合っとるやん!」
「あ、ありがとう……。うわあ、そのクレープ美味しそうだね」
お腹が空いていたのもあって、クレープに思わず目を輝かせてしまう。
「一口あげましょか? ほら、あーーーん」「えっ、いいの!? じゃあ、お言葉に預かって――」
私が顔を近づけた、その瞬間。横から伸びた影がクレープをさらった。
「…………へ?」
もぐもぐ。北くんが何事もなかったように咀嚼している。
「ぶ、北さん!?」「俺のクレープぅぅぅぅ!!」「ええぇぇーーっ!?」
宮くんの絶叫が廊下に響く。パシャ。パシャ。角名くんが写真撮る。
目の前に差し出された美味しそうなクレープは、全部北くんが食べてしまった。
口の周りをホイップだらけにした北くんは、冷ややかな目で宮くんを見た。
「……危ないな、このチャラ男」「ひっ」「何が『あーん』や」低い声が落ちる。
「これ以上、餌付けせんどいてな」
「高梨さん、クレープなら俺が後でなんぼでも買うたる。……行こうか」
「あ、うん……っ」
「え、餌付けって……本気やんな北さん……」
「侑、お前完全に地雷踏んだわ」
角名くんの言葉に、宮くんが青い顔になる。
私は顔から火が出そうになりながら北くんの後ろをついていった。