仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー リメイク版 作:水野芽生
──2013年5月/鳥取県境港市
1.佐藤酒店の朝
五月の境港は、晴れていても風が冷たい。
まして今日は朝から曇り空で、窓の外には薄い灰色の雲が広がっていた。日本海から吹いてくる風は湿り気を含んでいて、天気予報によれば午後には少し雨が降るかもしれないらしい。
「蓮、そろそろご飯食べなさい。今日は学校、いつもより早いんでしょ?」
「うん。あと五分くらい」
「五分って言った人は、大抵十分経っても動かないのよ」
「……否定できない」
僕がそう答えると、母さんは笑いながら台所へ戻っていった。
佐藤酒店。
それが我が家の屋号である。
鳥取県境港市の、古い商店街から住宅地へ移るあたりにある、ごく普通の町の酒屋だ。決して大きな店ではないけれど、昔からの常連客に支えられて、それなりに堅実な商売を続けている。
父さんは店主で、母さんも店の仕事を手伝っている。
両親とも健康で、働き者で、少しばかり世話焼きだ。
父さんなど、ビールケースを二つまとめて持ち上げながら、まだ体力が余っているとでも言いたげに鼻歌を歌っている。もっとも、それを母さんに指摘されると、今度は「腰を痛めると困るから無理はするな」と小言を言われることになるのだが。
僕は、そんな二人の息子である。
名前は佐藤蓮。小学四年生、九歳。
それから、誰にも話していないことが一つある。
僕には、前世の記憶がある。
前の人生で僕は、広島県にある従業員千百七十六人の会社に勤める、ごく普通の会社員だった。
なぜ従業員数まで正確に覚えているのかと言われても困る。毎年、会社概要の資料に載っていた数字を、何となく記憶しているだけだ。
勤め先の規模を説明するときには便利だったけれど、転生してまで覚えている必要がある情報かと聞かれれば、正直、まったくない。
記憶というのは、どうも妙なものを残すらしい。
もちろん、前世の知識を持っているからといって、現在の僕が何でもできるわけではない。
身体は普通の小学生だし、体力もそれなり。足が特別速いわけでもなく、鉄棒が得意なわけでもない。勉強については、さすがに小学四年生の授業で困ることは少ないけれど、それだって九九や漢字を忘れずに済んだという程度の話だ。
いや、程度というには大きいかもしれない。
少なくとも、算数の小テストで満点を取るたびに母さんが喜んでくれるのだから、悪いことではないだろう。
「蓮、今日は夢みなとタワーだったな」
朝食を食べ終えた頃、父さんが居間へ顔を出した。
「そう。社会科見学」
「港の方は風が強いぞ。帽子、飛ばされないようにしろよ」
「分かってる」
「あと、高いところでふざけるなよ」
「ふざけないよ」
「そうか。よし、じゃあ楽しんでこい」
父さんは満足そうに頷き、大きな手で僕の頭を一度撫でると、また店へ戻っていった。
母さんはその背中を見送ってから、僕の弁当袋に小さな包みを追加する。
「おやつ?」
「ちょっとだけね。お友達と分けられるように」
「ありがとう」
「いいのよ。せっかくの遠足なんだから、楽しんでらっしゃい」
僕は頷いた。
前世の記憶があるせいか、ときどき自分でも妙に大人びた考え方をしていると思う。それでも、こうして両親に送り出される朝は、普通に嬉しかった。
人間というのは、案外そういうものなのかもしれない。
僕はランドセルではなく、今日のために用意した小さなリュックサックを背負い、玄関で靴を履いた。
「行ってきます!」
「いってらっしゃい!」
母さんの声を背中に受けながら、五月の曇り空の下へ出る。
目指すのは境港第二小学校。
今日は、四年二組の社会科見学の日だった。
そして僕は、この時点ではまだ、今日が少しばかり忘れがたい一日になることを知らなかった。
……いや、そんな言い方をすると、いかにも何かが起きそうじゃないか。
やめよう。
普通に遠足を楽しめばいいのである。
2.四年二組、出発
「おーい、佐藤!」
校門をくぐったところで、後ろから元気な声が飛んできた。
振り向くと、中島大輔がリュックサックを揺らしながら走ってくるところだった。
「おはよう。早いな」
「おう! 今日はバス乗るじゃん。窓側取れるかなって」
「席、先生が決めてたと思うけど」
「えっ」
中島が立ち止まった。
「……マジ?」
「たしか昨日、座席表配ってたよ」
「あーっ! そうだった!」
頭を抱える中島を見ながら、僕は少し笑った。
中島大輔は、四年生になって同じクラスになった友達だ。野球とゲームが好きで、授業中にじっとしているのはあまり得意ではないけれど、誰とでもすぐに仲良くなれる。
僕のような人間には、少々眩しいタイプである。
「まあ、行きも帰りもずっと窓の外見てるわけじゃないし」
「佐藤って、たまにすげえ大人みたいなこと言うよな」
「そうかな」
「そうだよ。うちの父ちゃんみたい」
僕は返事に困った。
その感想は、ある意味で正確すぎる。
教室に着くと、すでに半分以上の児童が集まっていた。
田村悠斗が持ってきた双眼鏡について何やら説明していて、それを松本健太が興味深そうに覗き込んでいる。窓際では山根彩花が小さなスケッチ帳を開き、高橋美咲と森川千尋が、今日のお弁当について話していた。
その輪の中に、ひときわ目立つ少女がいる。
銀色の髪。
ただし、真っ白というわけではない。柔らかな光沢のある髪は、毛先へ向かうにつれて淡い桜色へ変わっている。
身長は僕よりかなり高く、同級生の女子の中でも目立つ方だろう。
小鳥遊六花。
今年の四月に同じクラスになった女の子である。
「おはよう、佐藤君」
こちらに気づいた彼女が、明るい声をかけてきた。
「おはよう、小鳥遊さん」
「今日はちょっと寒いね。佐藤君、上着持ってきた?」
「一応。海の近くだし」
「お、準備いいじゃん」
彼女は笑い、また高橋さんたちとの会話に戻った。
僕は自分の席へ向かいながら、四月の始業式を思い出した。
新しいクラスで初めて小鳥遊さんを見たとき、真っ先に頭へ浮かんだのは、実に率直な感想だった。
──何このアニメみたいな髪の美幼女?
口に出さなかったのは、我ながら賢明な判断だったと思う。
ただ、この世界では銀髪や桃色の髪が必ずしも珍しいわけではない。僕が前世で暮らしていた日本と比べれば、もっとずっと幅広い容姿の人間が普通に生活している。
小鳥遊さんも、見た目以外はいたって普通の女の子だった。
明るくて、よく笑って、頭もよく、運動もできる。女子からの人気が高く、男子とも気さくに話す。
ただし、普通という言葉をどこまで信用していいのかは、少し疑問だった。
授業中、先生が質問すると、小鳥遊さんはときどき、妙に大人びた回答をすることがある。
社会科で港の仕事を調べたときなど、輸送費や物流の効率について、僕でも感心するような発言をしていた。
先生は「よく調べているね」と褒めていたけれど、僕には少々気になることがあった。
あれは、小学生が調べ学習で覚えた言葉というより、実際に仕事で使ったことのある人間の言葉に近かったからだ。
もっとも、それだけで何かを決めつけるわけにはいかない。
世の中には、頭のいい子供というものが普通に存在する。
僕自身が、まさにそう見られているのだろうし。
「はい、四年二組! そろそろ集合してください!」
大西真紀先生の声が教室に響いた。
先生は三十二歳の女性で、明るく面倒見がよい。普段は穏やかだけれど、児童が危ないことをしたときには、しっかり叱るタイプだ。
「今日は港と地域の産業について勉強します。遠足だからといって、遊びに行くだけじゃありませんよ」
「えーっ!」
中島が早速、不満の声を上げる。
「中島君、そんなに勉強が嫌なら、今日の感想文を二枚にしましょうか」
「すみませんでした!」
教室に笑い声が広がった。
先生は満足そうに頷くと、出欠を確認し、見学中の注意事項を説明し始めた。
バスに乗ること。
班で行動すること。
勝手に走らないこと。
展望室では、周りの人の迷惑にならないようにすること。
そして、何か困ったことがあれば、必ず先生に知らせること。
至極まっとうな話である。
僕も、できれば今日一日、その規則を守って穏便に過ごしたかった。
3.港町を走るバス
学校を出たバスは、中央地区の住宅街を抜け、港の方へ向かった。
車窓には、僕が普段見慣れている境港の街並みが流れていく。
昔からの商店と新しい住宅。
道路沿いのコンビニエンスストア。
遠くに見える工場の煙突。
観光客向けの看板と、魚を積んだ冷蔵トラック。
境港市は、人口五万八千人ほどの地方都市だ。
漁業や港湾物流が盛んな街として知られているけれど、ほかにも研究施設やエネルギー関連産業があり、地方都市としては比較的立派な道路や公共施設が整っている。
前世で知っていた境港市とは、いろいろな部分が違う。
それを実感したのは、ずっと昔のことだった。
いや、今の僕にとっては、まだ生まれてから九年しか経っていないのだけれど。
「佐藤君、何見てるの?」
通路を挟んだ向こう側から、小鳥遊さんが顔を覗かせた。
バスの座席は先生が決めていて、僕の隣は中島、通路の向こうには小鳥遊さんと高橋さんが座っている。
「街」
「街?」
「うん。普段、歩いてるとあんまり気づかないけど、こうしてバスから見ると、意外と広いなって」
「分かる。道も多いしね」
小鳥遊さんは窓の外へ目を向けた。
「でも、海が近いのはいいよね。私、海のある街って好き」
「そうなんだ」
「うん。なんか落ち着く」
僕は少しだけ首を傾げた。
海が落ち着く、という感覚は理解できなくもない。
ただ、今朝の日本海はあまり穏やかな顔をしていなかった。
鉛色の雲の下で、海面には細かな白波が立っている。遠くの水平線は霞んでいて、空と海の境目が少し曖昧に見えた。
「佐藤、あれ見ろよ!」
隣の中島が、突然窓を指さした。
「何?」
「あの船! でっけえ!」
見ると、港の沖合を大きな貨物船が進んでいた。
船体の色は灰色で、上部には白い構造物が載っている。遠くからでもかなりの大きさに見えた。
「コンテナ船かな」
「え、あれコンテナ船なの?」
「たぶん違うと思う。船の上にコンテナが見えないし」
「じゃあ何だよ!」
「知らないよ」
僕が答えると、中島は笑った。
向こう側では田村がさっそく船種について説明を始めていて、高橋さんが「また始まった」と言いながらも、ちゃんと話を聞いている。
小鳥遊さんも楽しそうだった。
その光景を見ていると、何だか少し安心する。
この世界は、前世で知っていたものとは違う。
けれど、子供たちが遠足の日にはしゃぐところまで違うわけではない。
そういう当たり前のことが、僕には案外ありがたかった。
やがてバスは港湾地区へ入り、周囲の建物が少しずつ大きくなっていった。
倉庫、工場、広い駐車場。
その向こうに、ガラスと鋼材でできた塔が姿を現す。
「あっ、見えた!」
小鳥遊さんが声を上げた。
「夢みなとタワー!」
窓の外では、曇り空を背景にして、特徴的な形をした塔が静かに立っていた。
4.地上四十三メートル
夢みなとタワーは、地上四十三メートルの展望塔である。
高層ビルの多い大都市なら、特別な高さとは言えないだろう。
けれど、周囲に低い建物が多い境港では、十分に目立つ存在だった。
塔を支えているのは、鋼材とワイヤーを組み合わせた独特の構造で、建築技術に興味のある人間にはなかなか面白い施設らしい。
僕自身、前世では建築の専門家ではなかったから詳しいことは分からないけれど、こうした特徴のある建物を見るのは嫌いではない。
「みんな、こっちですよー!」
大西先生に引率され、僕たちは建物の中へ入った。
館内には観光客が何人かいて、地元の子供たちがぞろぞろ入ってきたのを微笑ましそうに眺めている。
説明を受けたあと、班ごとに順番を守って展望室へ上がった。
「うわあ!」
最初に声を上げたのは、中島だった。
展望室はガラスに囲まれていて、街と海をぐるりと見渡せる。
港の岸壁。
整然と並んだ倉庫。
遠くを進む船。
曇り空の下に広がる美保湾と、その向こうの島根半島。
陸の方へ目を向ければ、住宅地や工場、幹線道路が見えた。
普段は見慣れている街なのに、少し高いところから眺めるだけで、まるで別の場所のように感じられる。
「先生! あそこ、うちの近所です!」
「本当? じゃあ、学校はどの辺りにあるか分かるかな?」
「えーっと……あっち!」
「中島君、それだと海の中に学校があることになりますよ」
「えっ!?」
また笑い声が上がった。
森川さんは静かにメモを取っているし、山根さんはスケッチ帳を取り出して港の風景を描き始めている。
高橋さんと小鳥遊さんは、窓際で何かを指さしながら楽しそうに話していた。
僕も先生から渡された見学用のプリントを開き、港の施設について書き込んでいく。
それから、ふと内陸側へ目を向けた。
住宅地の向こうに、濃い緑色の丘陵が見える。
黒山。
境港市の南西部にある、少し変わった山だ。
本来、弓ヶ浜半島は平坦な土地が多い。だから、あの山は地形としてかなり目立っている。
しかも、名前のとおり、周囲の緑とは色合いが違うように見える。
もっとも、僕がそう感じるのは、前世で知っていた地理と比較しているからかもしれない。
「黒山、見えるね」
すぐ近くで声がした。
振り向くと、小鳥遊さんが立っていた。
「うん。あそこだけ山なんだよね」
「だねぇ。なんか不思議」
「行ったことある?」
「ないよ。危ないから近づいちゃ駄目って言われてるし」
「そっか」
「佐藤君は?」
「僕もない。別に行きたいとも思わないけど」
「あはは。慎重だね」
「普通だと思う」
小鳥遊さんは、少し楽しそうに笑った。
「でも、分かるよ。危ないところには、わざわざ行かない方がいいもんね」
その言い方が、妙に実感のこもったものに聞こえた。
僕は一瞬だけ彼女の顔を見たけれど、そこにはいつもの明るい笑顔があるだけだった。
「小鳥遊さん、こっち来てー!」
「はーい!」
高橋さんに呼ばれて、彼女は小走りに戻っていく。
僕はまた窓の外へ目を向けた。
黒山は、相変わらず遠くに見えていた。
何ということのない、ただの山のように。
少なくとも、このときはそう思った。
5.曇った海の、白いもの
異変に気づいたのは、それから少し経ってからだった。
僕は展望室の海側に移動し、見学用のプリントに船の数を書き込もうとしていた。
海上にはいくつかの船影があった。
大きな貨物船。
港へ向かう小型船。
少し遠くに、白い航跡を残して進む船もいる。
曇り空のせいで全体的に色彩は乏しかったけれど、それでも普通の港の風景だった。
最初は。
「……ん?」
鉛色の海に、白いものが見えた。
遠い沖合。
船の航跡でも、波頭でもない。
ごく小さな、白い点のようなものだ。
僕は一度目を瞬かせた。
白い点は、まだそこにあった。
視線を外してからもう一度見ると、少し位置が変わっている。
船なのだろうか。
けれど、船体らしい輪郭はない。
海面に立った細い白波が、偶然、人の形に見えているのかもしれなかった。
そう考えて、僕はプリントに視線を戻した。
ところが、どうにも気になる。
もう一度、海を見る。
白いものは、さっきよりもはっきり見えた。
いや。
見える、という表現が正しいのかどうか分からない。
距離は相変わらず遠いはずなのに、その部分だけ、目の前にあるものを見ているような奇妙な感じがする。
海面の細かな波が、そこだけ妙に動いていなかった。
風は吹いている。
周囲の波も動いている。
なのに、白いものの周りだけが、写真の一部分を切り抜いたように止まっているのだ。
僕は、ぞっとした。
前世の記憶には、役に立つものもあれば、できれば忘れていたかったものもある。
インターネットに掲載されていた怪談や、都市伝説などがそうだ。
海。
遠くの白い人影。
見てはいけないもの。
そんな連想が、勝手に頭の中を駆け巡った。
もちろん、だからといって目の前の現象が、その怪談と同じものだとは限らない。
むしろ、たまたま似ているだけの可能性の方が高い。
……高いはずだ。
僕は冷静にそう考えようとした。
けれど、視線がなかなか外せない。
白いものを見ていると、周囲の景色が少しずつ遠ざかっていくような感覚がある。
展望室にいるはずなのに、足元が頼りなくなってきた。
ガラスの向こうの海が、妙に近い。
これは、よくない。
非常によくない。
「佐藤君?」
すぐ隣で声がした。
小鳥遊さんだった。
「どうしたの? 顔色悪いよ」
「……いや、ちょっと」
「酔った?」
「たぶん、違う」
僕は答えながら、窓から一歩離れようとした。
けれど、思ったより足が動かない。
小鳥遊さんが、僕の視線を追った。
海の方へ。
白いもののある方へ。
その瞬間、彼女の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
笑顔が消え、何かを確かめるような、静かな顔になる。
「……ああ」
小鳥遊さんが、小さく呟いた。
その声には、驚きよりも納得に近い響きがあった。
「佐藤君、こっち見て」
「え?」
「私の方。海じゃなくて」
普段の彼女とは少し違う、はっきりした口調だった。
僕は言われたとおり、顔を動かそうとした。
今度は、動いた。
視界から海が外れる。
それだけのことなのに、胸の奥に張り付いていた冷たい感覚が少し薄れた。
「大丈夫?」
「……うん」
「じゃあ、もうちょっとこっち来ようか」
小鳥遊さんは、僕の腕を軽く引いた。
強引ではない。
けれど、僕が足を動かすタイミングを、妙に正確に知っているような引き方だった。
二歩、三歩。
窓から離れるにつれて、さっきまでの奇妙な感覚が弱まっていく。
「どうしたの、六花?」
少し離れたところから高橋さんが声をかけた。
「佐藤君、気分悪そうなの?」
「うん、ちょっとね。でも大丈夫そう」
「先生呼ぼうか?」
「少し休んだら平気だと思う。ね?」
最後の言葉は、僕に向けられたものだった。
僕は頷いた。
「うん。ありがとう」
実際、気分はもうかなり落ち着いていた。
高橋さんは少し心配そうだったけれど、僕たちが普通に会話しているのを見て安心したらしい。
「無理しちゃ駄目だよー」
そう言って、森川さんの方へ戻っていった。
小鳥遊さんは、その背中を見送ってから、僕にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「……さっきの、いつから見えてた?」
僕は息を止めた。
質問の意味は明らかだった。
彼女も、見えていたのだ。
「ちょっと前から」
「そっか」
「小鳥遊さんも?」
「うん」
あっさりした返事だった。
僕は思わず、彼女の顔を見つめた。
「……あれ、何?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「分かんないものは分かんないよ」
それはそうだ。
あまりにも正論だった。
けれど、小鳥遊さんは何かを考えているようだった。
視線は海の方を向いていない。
代わりに、周囲のクラスメイトや先生の位置を確かめるように、ゆっくりと展望室を見回している。
それから、僕の顔へ視線を戻した。
「蓮くん」
「……え?」
「先生のところ行こう。まだ気持ち悪かったら、休ませてもらった方がいいし」
僕は一瞬、返事を忘れた。
彼女が、初めて名前で呼んだからだ。
いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「うん、そうする」
僕は彼女と一緒に先生の方へ歩き始めた。
その途中で、一度だけ海を振り返ろうとしてしまった。
すると、小鳥遊さんが僕の袖をつまんだ。
「見ない方がいいよ」
小さな声だった。
「気になるのは分かるけど、今はね」
僕は黙って頷いた。
それ以上、彼女は何も言わなかった。
先生に事情を説明すると、大西先生は僕を近くの椅子に座らせ、顔色を確かめてくれた。
水分を取って少し休むように言われ、無理をしないことも約束させられた。
僕は素直に従った。
その間、小鳥遊さんは高橋さんたちのところへ戻り、何事もなかったように会話を始めていた。
……普通だ。
本当に、普通の女の子に見える。
さっき海を見ていたときの彼女の表情が、まるで嘘だったみたいに。
やがて、先生が見学終了の時間を告げた。
クラスメイトたちは名残惜しそうに窓の外を眺め、それから賑やかに集合場所へ移動していく。
僕も列の最後尾に加わった。
展望室を出る直前、海の方から吹いてきた風が、建物の外壁を軽く鳴らしたような気がした。
振り返らなかった。
振り返らない方がいいと思ったからだ。
6.帰り道の小さな秘密
午後になると、雲の切れ間から少しだけ日差しが覗いた。
お弁当を食べたあと、施設の見学や班ごとの活動を終え、僕たちは帰りのバスに乗り込んだ。
子供というのは不思議なもので、朝はあれほど元気だったのに、帰り道になると途端に静かになる。
中島など、座席に座った途端、眠そうに欠伸をしていた。
「佐藤、楽しかったな」
「うん」
「俺、あんなでっかい船、初めて見た」
「結局、何の船だったんだろうね」
「田村に聞いたら、三種類くらい名前出してきて、分かんなくなった」
「……あいつ、詳しいからね」
「なあ、今度また行こうぜ」
「いいよ」
中島は満足そうに笑った。
それから五分もしないうちに、僕の肩へ頭を預けて眠り始めた。
重い。
非常に重い。
僕は何とか体勢を変え、窓の外を眺めた。
バスは港湾地区を抜けて、いつもの街へ戻っていく。
先ほどの出来事は、夢だったのだろうか。
そう考えてしまうほど、周囲は平穏だった。
誰も騒いでいない。
誰も異変を話題にしていない。
先生も、僕が少し具合を悪くしたこと以外は、何も気にしていないようだった。
だからこそ、余計に気になる。
あの白いものは、一体何だったのだろう。
「佐藤君」
通路の向こうから声がした。
小鳥遊さんだった。
高橋さんはすでに眠っていて、彼女だけが起きている。
「もう気分、大丈夫?」
「うん。平気」
「よかった」
彼女は安心したように笑った。
「お弁当もちゃんと食べてたし、大丈夫そうだね」
「小鳥遊さんも、ずいぶん元気そうだったけど」
「えへへ。私、こういうの好きなんだよね」
「遠足?」
「遠足も、知らないものを見るのも」
その言い方に、僕は少し引っかかった。
知らないものを見る。
普通なら、展望台から見る港の景色や、博物館の展示物を指す言葉だ。
けれど、今の僕には別の意味にも聞こえた。
「……今日、変なの見たよね」
声を落として尋ねる。
小鳥遊さんは、すぐには答えなかった。
窓の外を一度見て、それから僕へ向き直る。
「うん。見たね」
「あれ、やっぱり普通じゃないよね」
「普通の海には、あんなのいないと思う」
ずいぶんあっさり認めるものだ。
僕は思わず笑いそうになった。
「小鳥遊さん、あんまり怖くなさそうだね」
「怖くないわけじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。知らないものって、危ないこともあるし」
彼女はそう答えてから、少し考えるように首を傾げた。
「でも、今日はみんな無事だったから、それでよし、かな」
僕はその顔を見た。
いつもの、明るく人懐っこい笑顔。
けれど、そこには少しだけ、僕と同じ年齢とは思えない落ち着きがあった。
──ああ。
やっぱり、この子は少し変わっている。
もちろん、他人のことを言えた義理ではない。
「佐藤君は?」
「え?」
「怖かった?」
僕は少し迷った。
前世では、それなりに長く社会人をやっていた。
嫌な仕事もあったし、面倒な人間関係もあった。予想外の出来事に対応しなければならないことだって、何度もあった。
けれど、あんなものを見た経験は一度もない。
だから。
「……うん。結構、怖かった」
正直に答えた。
小鳥遊さんは、少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、ふっと笑った。
「そっか」
「笑うところ?」
「違うよ。ちゃんと言ってくれたから」
彼女はそう言うと、少しだけ声を落とした。
「私も、ちょっと怖かった」
僕は彼女を見返した。
とてもそうは見えなかった。
けれど、本人がそう言うのなら、そうなのだろう。
「……そっか」
「うん」
そこで会話が途切れた。
しかし、不思議と気まずくはなかった。
バスのエンジン音と、周囲の子供たちの寝息が聞こえている。
曇り空の下を、いつもの街並みがゆっくりと流れていく。
それから小鳥遊さんが、何かを思い出したように言った。
「あ、そうだ。佐藤君」
「何?」
「今日のお菓子、残ってる?」
「あるけど」
「じゃあ、学校着いたら交換しない? 私、ちょっと多めに持ってきたんだ」
あまりに普通の提案だったので、僕は一瞬、返事に困った。
さっきまで、海の異常について話していたのではなかったか。
もっとこう、何か。
真剣な話とか。
秘密の共有とか。
そういう流れになるのではないのだろうか。
……いや、小学生の遠足なのだから、お菓子の話になる方が普通だろう。
「いいよ。何持ってきたの?」
「クッキーとチョコレート。それからね──」
小鳥遊さんは楽しそうに話し始めた。
僕も、つられて笑ってしまう。
そのとき、ふと気づいた。
僕は前世の記憶を持っている。
だから、たぶん、同じ年齢の子供たちとは少し違うところがある。
けれど、それで今の人生がつまらなくなるわけではない。
こうして友達と遠足に行き、お菓子の話をして、帰りのバスで眠くなる。
そんなことを、普通に楽しんでもいいのだ。
……まあ、さっき見た白いものについては、できれば二度とお目にかかりたくないけれど。
「佐藤君、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ、今なんて言った?」
「チョコレートがどうとか」
「そこだいぶ前!」
小鳥遊さんが笑った。
つられて僕も笑った。
隣では中島が寝返りを打ち、僕の肩へさらに体重をかけてくる。
やっぱり重い。
どうにかしてくれ。
そんなことを考えているうちに、バスは境港第二小学校へ向かう道へ入っていった。
夢みなとタワーは、もう見えなかった。
海の上にあった白いものも、もちろん見えない。
けれど、あの日の曇った海の色だけは、妙にはっきりと記憶に残っていた。
それから、もう一つ。
あのとき、小鳥遊さんが僕を助けてくれたこと。
彼女が何をしたのか、僕には分からない。
けれど、何かをしたことだけは分かる。
そしてたぶん、彼女も僕について、何かを不思議に思っているのだろう。
今はまだ、それでいい。
何しろ、僕たちは同じクラスになってから、まだ一か月ほどしか経っていないのだから。
友達になるには、それほど急ぐ必要もないだろう。
少なくとも僕は、そう考えていた。
このときは、まだ。
◇
7.小鳥遊六花の、帰宅後
「ただいまー!」
「おかえりぃ。うへぇ、元気だねぇ」
家に帰ると、お母さんが店の奥から顔を出した。
小鳥遊ホシノ。
私のお母さんである。
小柄で、ピンク色の髪をしていて、何というか、いつも眠そうだ。
でも、実際にはとても頼りになる人だということを、私はよく知っている。
「遠足どうだった?」
「楽しかったよ!」
「そっかそっか。おじさんにも後で話しておくれ」
「うん。でも、お母さん、また寝てたでしょ」
「失礼な。ちゃんと店番してたよぉ」
「ほんと?」
「……半分くらい」
「もう!」
私が笑うと、お母さんも笑った。
骨董店『界』。
ここが我が家であり、お母さんが経営するお店だ。
観光客や地元の人が訪れる、ごく普通の骨董店に見えるけれど、実際には少しばかり変わったお客さんもやって来る。
もちろん、私にとってはそれもいつものことだった。
お父さんは今日は仕事で出かけていて、まだ帰っていないらしい。
どうせ帰ってきたら、また何か甘いものを買ってくるのだろう。
あの人は本当に、甘いものが好きだから。
私は二階の自分の部屋へ上がり、リュックサックを下ろした。
窓からは、曇った空が見える。
遠くの海も、相変わらず灰色だった。
「……ふむ」
私は机の椅子に座り、今日のことを思い返した。
夢みなとタワー。
港の景色。
友達とのお弁当。
そして、海の上にいた、あの白いもの。
何だったのかは、結局分からない。
お父さんかお母さんに聞けば、何か知っているかもしれないけれど、今のところは大きな問題も起きていない。
少なくとも、私が見た範囲では。
それに、気になることはほかにもあった。
「佐藤君、かぁ……」
私は小さく呟いた。
四月に初めて会ったときから、少し変わった男の子だとは思っていた。
何というか、妙に落ち着いている。
話し方が丁寧で、変に大人びていて、授業中も大抵のことを知っている。
最初に顔を見たとき、私の頭に浮かんだのは、こんな感想だった。
──なんか『やれやれ』が似合いそう。
実際の佐藤君は、別に気難しいわけじゃない。
男子の友達と普通に遊ぶし、授業中には先生の冗談で笑うし、今日だってお菓子の話に付き合ってくれた。
でも、ときどき。
ほんのときどき、妙に大人の顔をする。
今日、海の上のあれを見たときもそうだった。
怖がっていた。
それは間違いない。
けれど、ただ怯えているだけではなかった。
何が起きているのかを考えて、なるべく危険を避けようとしていた。
私が声をかけたとき、あの子は混乱しながらも、ちゃんと話を聞いてくれた。
そこが、少し印象に残っている。
「……やっぱり変わってるよね」
私は一人で頷いた。
もっとも、人のことを言えた立場ではない。
私だって、普通の小学四年生とは少々事情が違う。
前の人生では、大人だったのだから。
銀行で働いて、資料を読んで、数字を確かめて、企業のことや環境のことを考えていた。そんな記憶が、今でもかなり鮮明に残っている。
そして今は、小学生だ。
お父さんとお母さんがいて、学校へ通って、友達と遊ぶ。
前世で知っていたものとは違う世界だけれど、だからといって不幸だとは少しも思わない。
むしろ、毎日結構楽しい。
そう。
楽しいのだ。
「……まあ、いっか」
私は椅子から立ち上がった。
佐藤君については、これから少しずつ知っていけばいい。
同じクラスなのだから、話す機会はいくらでもある。
それに、今日のお菓子の交換は、なかなかよかった。
あの子が持ってきたクッキー、おいしかったし。
次は何を持っていこうかな。
そんなことを考えていると、一階からお母さんの声がした。
「六花ー、おやつ食べるー?」
「食べるー!」
私は勢いよく返事をして、部屋を出た。
階段を下りる途中、ふと足を止める。
窓の向こうには、もう海は見えない。
ただ、灰色の空だけが広がっている。
あの白いものが、今も海の上にいるのかどうかは分からなかった。
それでも、今日の私は、少しだけ気分がよかった。
新しいクラスに、ちょっと気になる男の子がいる。
今のところ、それだけのことだ。
そして、たぶん。
それくらいのことが、一番楽しいのかもしれない。
「六花ー?」
「今行くー!」
私は今度こそ階段を駆け下りた。
今日は、五月の曇った一日。
少し奇妙な社会科見学が終わった、何でもない日の午後だった。
少なくとも、私たち二人にとっては。