仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー リメイク版 作:水野芽生
──2013年6月下旬/鳥取県境港市
1.取り壊された家と、残された書類
建物が一軒取り壊されるまでには、思いのほか多くの人間が関わっている。
所有者が工事を決め、業者が現地を調べ、必要な届出を出す。電気や水道を止め、近隣住民へ知らせ、安全柵を設けてから解体作業を始める。
どれも、ごく普通の手続きだ。
ところが境港市では、その普通の手続きだけでは足りない場合がある。
「……つまり、住人がいたわけですね」
「はい。ただし、人間の住民登録はありません」
「建物の所有者は?」
「以前の所有者は存在を認識していました。新しい所有者は、事情を把握していなかったようです」
「なるほど」
六月下旬。
日本国超常省機動執行委員会、山陰地区現地事務所。
栗原薫は、机の上に広げられた資料を眺めていた。
三十九歳。山陰地区の現場対応を取りまとめる職員で、超常現象に関係する事件や事故、行政機関同士の連絡調整などを担当している。
向かいには、若い男性職員が座っていた。
島田である。勤続三年目で、先日美保湾で発生した白い怪異の確保作戦にも参加した。
「猫又が三人、雨垂れを好む小妖怪が一体、それから付喪神が一体。確認されている居住者は以上です」
「猫又の年齢は?」
「父親が十八歳、母親が十六歳、子供が一歳です」
「ふむ。子供はまだ小さいですね」
「はい。日本語を話すそうです」
「それは助かります」
「ただ……」
島田が、少し困った顔をした。
「普通の猫と話したがっているらしくて」
栗原は顔を上げた。
「……はい?」
「本人は日本語しか話せないそうなんです」
数秒間の沈黙。
それから、栗原は口元を押さえた。
「……なるほど」
「はい」
「猫又なのに」
「猫語は話せないそうです」
「……そういうこともあるんですね」
栗原は小さく笑った。
超常省に勤めていると、奇妙な報告書には慣れる。
海の上に人影が立っていた。誰もいない部屋から声がする。古い橋の下に、百年以上住んでいる何かがいる。
そうした案件なら、珍しくもない。
しかし、猫又の幼児が普通の猫と会話できずに困っている、という報告は初めてだった。
「それで、引っ越しは?」
「無事に完了しています。地域の協力者が新しい住居を手配しました」
「よかった」
資料をめくると、引っ越し先を調整した人物の名前が記載されていた。
松浦源三。登録上は市内在住の男性。実際には化け狸。
それから、骨董店『界』の店主、小鳥遊ホシノ。
「……また、このお二人ですか」
「はい。地域の妖怪社会では、かなり顔が広いようですね」
「ええ。特に松浦さんは、昔からこの街にいる方ですから」
栗原は、少しだけ考えた。
建物の取り壊しそのものに問題はなかった。工事業者も所有者も、必要な手続きを進めていた。妖怪たちも、別に悪さをしていたわけではない。
ただ、双方の事情を知る者が少なかった。
その結果、妖怪たちは住む場所を失いかけたのである。
「……島田君。今回は、結果的にうまくいきました」
「そうですね」
「でも、次もうまくいくとは限りません」
栗原は資料を閉じた。
「地域の妖怪社会と、行政、それから関係する超常組織との連絡体制を、一度整理しましょう」
「合同会議ですか?」
「ええ。事件が起きてから集まるのではなく、事件が起きる前に集まるんです」
島田は少し考えた。
「……なるほど」
「今回は住まいの問題でしたけど、次は工事現場の安全かもしれない。病気や事故かもしれない。妖怪同士の揉め事かもしれません」
栗原は、机の上の別の書類へ目を向けた。美保湾の白い怪異に関する報告書だった。
「この前みたいな案件もありますしね」
島田は、少しだけ表情を引き締めた。
「……あれは、怖かったです」
「私もですよ」
栗原は、あっさり答えた。
「ただ、全部の問題を、あのときと同じやり方で解決する必要はありません」
彼女は電話を手に取った。
「むしろ、そうしないために段取りを組むんです」
◇
2.三つの組織
会議が開かれたのは、それから四日後だった。
場所は、境港市内の公共施設にある小さな会議室。表向きの名目は、地域の特殊災害対策に関する連絡協議会である。
もちろん、一般の災害対策会議とは少し違う。出席者の所属を並べれば、それだけで十分に分かることだった。
日本国超常省機動執行委員会。
SCP財団。
世界オカルト連合、通称GOC。
そして、地元の妖怪社会からの協力者。
もっとも、会議室自体はごく普通だった。長机。折り畳み椅子。ホワイトボード。紙コップ。そして、少し古い空調設備。
「……もう少し広い部屋でもよかったんじゃありません?」
資料を整理していた島田が呟いた。
「今日はこれで十分でしょう。立派な部屋で会議をしたからといって、いい結論が出るわけではありません」
「それはそうですけど」
「それに、予算には限りがあります」
島田は黙って頷いた。
この種の会議では、予算という言葉に妙な説得力がある。世界的な超常組織が三つも集まっていても、会議室の使用料が無料になるわけではないのだ。
「おはようございます」
扉が開き、三十代半ばの女性が入ってきた。
落ち着いた色のスーツに、肩までの黒髪。大きな鞄を提げている。
SCP財団の研究員、水瀬沙耶である。
「水瀬さん、お疲れさまです」
「栗原さんも。今日はよろしくお願いします」
水瀬は席に着き、資料を取り出した。
認識災害や知覚異常の研究を専門とする彼女は、先日の美保湾の事件でも超常省と協力し、怪異の暫定確保に成功していた。
もっとも、確保したからといって、すべてが解明されたわけではない。現在も財団の管理施設で調査が続けられている。
「例の物体、その後は?」
栗原が尋ねた。
「封じ込め状態は維持されています。ただ、性質についてはまだ分からないことが多いですね」
「危険性は?」
「現状では、直接観察を避ける運用を続けています。安全だと断定する材料も、追加の危険を示す確かな材料も、まだ不足しています」
「なるほど」
曖昧な答えではある。
しかし、超常現象を扱う仕事では、分からないことを分からないと言える方がよほど大切だった。
「失礼します。世界オカルト連合の御子柴です」
再び扉が開き、三十代前半の女性が入ってきた。
短く整えた髪に、活動的な雰囲気のある顔立ち。濃紺のジャケットを着て、薄型の書類鞄を持っている。
「御子柴明日香です。今回は極東地域の連絡調整担当として参加します」
「栗原です。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
御子柴は栗原と握手し、続いて水瀬とも挨拶を交わした。
「お久しぶりです、水瀬さん」
「三か月ぶりですね」
「今回は、前のような事件でなくてよかったです」
「本当に」
二人は小さく笑った。
島田は、その様子を少し意外そうに眺めていた。
SCP財団とGOC。超常社会では、方針の違いから対立することもある組織だと聞いていた。
けれど、目の前の二人は普通に顔見知りらしい。意見が一致するとは限らなくても、必要な場面では協力する。そういう関係だった。
◇
3.「破壊、破壊、破壊」ではない
「それでは、始めましょうか」
栗原の声で会議が始まった。
まずは今回の建物解体に関する経緯の確認。次に、地域で発生している小規模な超常事案についての報告。最後に、今後の連絡体制の整備。
議題そのものは、実に地味だった。
「……最初に、一つ確認しておきたいことがあります」
御子柴が発言した。
「GOCの立場についてです。今回の会議には妖怪社会の協力者も参加すると伺っています。誤解があると困りますので、先に説明させてください」
彼女は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「我々、世界オカルト連合の基本理念は、確保、研究、無害化です。危険性のある超常事象を確認した場合、まず状況に応じて確保や保護、封じ込めを検討する。その性質を研究し、危険を理解する。そして、必要な方法で無害化する」
「無害化というのは、破壊も含みますか?」
島田が尋ねた。
「含みます」
御子柴は、はっきり答えた。
「ただし、それだけではありません。危険な能力を封じること。周囲との接触を制限すること。環境を調整すること。適切な保護下で生活してもらうこと。それらも、状況によっては無害化の方法になります」
「……なるほど」
「もちろん、差し迫った危険がある場合には、確保や研究の順番を待たずに緊急対処することもあります。人命に重大な危険が迫っていて、ほかに方法がないなら、破壊を選択する場合もあるでしょう」
御子柴は、少しだけ表情を引き締めた。
「しかし、我々は超常的な存在であるという理由だけで、何でも破壊する組織ではありません」
「そこは、財団としても理解しています」
水瀬が頷いた。
「ありがとうございます」
御子柴はわずかに笑い、栗原へ目を向けた。
「今回の猫又の一家についても、GOCとして危険な存在と見なす理由はありません。必要なのは収容施設ではなく、普通に暮らせる住居でしょう」
「同感です」
「ただし、もし危険な事象が確認された場合には、我々にも連絡していただきたい」
「もちろん。そのための会議です」
水瀬が口を開いた。
「財団としては、性質の分からないものを安易に破壊すると、かえって危険が増える場合があることも強調しておきたいですね」
「ええ。そこは重要です。だからこそ、研究が必要になります」
二人のやり取りを聞きながら、島田は考えていた。
SCP財団もGOCも、超常現象を扱う国際的な組織だが、目的や判断基準は少し違う。
けれど、どちらも無闇に危険を増やしたいわけではない。結局のところ、必要なのは相手の目的を理解することなのだろう。
「……何だか、思っていたより普通ですね」
島田が小さく呟くと、栗原が横目で見た。
「何がです?」
「いえ、その……もっと険悪な会議になるのかと」
水瀬が笑った。
「険悪になっても、仕事が増えるだけですよ」
「経費もかさみますしね」
御子柴も頷く。
栗原は、静かに笑った。
「皆さん、そのあたりはよく分かっていらっしゃる」
どうやら、世界的な超常組織にも共通する悩みはあるらしい。
◇
4.国連大学の卒業生
休憩時間。
島田は、御子柴へ少し気になっていたことを尋ねた。
「御子柴さんって、最初からGOCを目指していたんですか?」
「ええ。大学に入る頃には、だいたい進路を決めていました。国連大学です」
「……ああ、あそこですか。名前は知っていますけど、どんな勉強をするのか詳しくは知らなくて」
「私が出たのは、国際超常安全学部です」
この世界の国連大学には、通常の国際政策や研究分野に加えて、超常社会に関わる専門教育課程が設けられている。その一つが、GOC職員を志望する学生のための教育を担う学部だった。
もちろん、卒業すれば必ずGOCへ就職できるわけではない。適性審査もあれば、各種試験もある。学んだからといって、現場で何でもできるようになるわけでもない。
「……何を勉強するんですか?」
「いろいろですよ。超常事象の分類と評価、国際法、危機管理、収容技術、異種族との交渉、文化人類学、宗教研究、それから実習も」
「……結構、幅広いんですね」
「幅広くないと困るんです」
御子柴は、紙コップのお茶を一口飲んだ。
「超常現象と一口に言っても、仕組みが同じとは限りませんから。呪術で説明できるものもあれば、西洋魔術の理論で扱うものもある。妖怪の生態に関係するものもあれば、そのどれにも当てはまらない現象もあります」
彼女は、少しだけ肩をすくめた。
「最初から全部を一つの理論で説明しようとすると、現場で痛い目を見るんですよ」
島田は、深く頷いた。
美保湾の白い怪異を思い出したからだ。あのときも、最初から正体が分かっていたわけではない。むしろ、分からないことばかりだった。
「……現場経験は長いんですか?」
「それなりに。でも、まだ知らないことだらけです」
御子柴は、少し笑った。
「大学で教わったことの一つに、こういう言葉がありました。『相手が何であるかを知る前に、何をすべきか決めないこと』」
「……確かに」
「もっとも、緊急時には判断を急がなければならないこともありますけどね。だから、平時のうちに調べて、話し合って、連絡先を決めておくんです」
島田は、思わず苦笑した。
「……今日みたいに」
「そうです」
御子柴も笑った。
◇
5.妖怪にも、言い分がある
午後の会議には、二人の地元協力者が加わった。
松浦源三と、波小僧の潮丸である。
源三は、いつもの年配男性の姿で現れた。茶色の上着に布袋。どこから見ても、近所に住んでいる普通のお爺さんだ。
潮丸は、人間の子供より少し小さな背丈に、黒く濡れたような髪をしていた。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
栗原が立ち上がって迎えた。
「いやいや、こちらこそ。こういう話をする機会があるのは、ありがたいことじゃ」
「海のことなら、俺にも分かることがあるからな」
水瀬が声をかける。
「潮丸さん。先日はありがとうございました」
「おう。あの白いやつか」
「はい。通報がなければ、もっと対応が遅れていたかもしれません」
潮丸は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「別に、大したことはしてねえよ。海で変なもん見つけたから知らせただけだ」
「その『知らせただけ』が重要だったんです」
水瀬が真面目な顔で答えると、潮丸は少しだけ口元を緩めた。
栗原が資料を配る。
「今日は、今後の連絡方法について相談したいと思っています。今回の引っ越しのような問題が起きたとき、誰へ連絡すればいいかを明確にしたいんです」
「なるほどのう」
源三は頷いた。
「ただ、一つ言っておきたいことがある。わしらは、妖怪全員の代表ではないぞ」
「ええ。承知しています」
「わしは、町で暮らす連中のことならある程度分かる。しかし、山に住む者も、海に住む者もおる。人間と付き合いたくない者もおるし、そもそも人間の言葉を話さん者もおる。だから、わしが一人で決めたことを、妖怪全員の決まりにされても困る」
「そのつもりはありません。今回は、あくまで連絡協力者としてお願いしたいんです」
「それならよい」
潮丸も口を開いた。
「俺も、海の連中全部を知ってるわけじゃねえ。潮の流れが違えば、付き合いのないやつもいる」
「分かりました」
栗原はメモを取った。
妖怪社会という言葉は便利だ。
しかし実際には、非常に多様な存在の集まりである。人間と同じように暮らす妖怪もいれば、まったく異なる生活を送る妖怪もいる。すべてを一つの共同体として扱うのは、無理がある。
「それと、もう一つ。住む場所についての情報は、慎重に扱ってもらいたい」
源三が言った。
「……理由を聞いても?」
「知られたくない者もおるからじゃ」
源三は、少しだけ真面目な表情になった。
「人間に悪さをするつもりはない。ただ、静かに暮らしておりたい。そういう連中もおる。何かあったときに助けてもらえるのはありがたい。しかし、そのために全員の住みかを人間の役所へ登録せねばならんとなると、話は別じゃ」
栗原は頷いた。御子柴も、資料に目を落としている。
水瀬は、しばらく考えたあとで口を開いた。
「財団としては、必要な情報を必要な範囲で共有する方式がよいと思います。例えば、ある建物で工事を予定している場合、その建物に配慮すべき存在がいるかどうかを確認する。ただし、住人の名前や詳しい性質まで、工事業者へ知らせる必要はありません。安全確保に必要な情報だけを、適切な担当者へ伝えるんです」
「ほう」
「GOCとしても賛成です。居住者を把握することと、居住者の情報を広く公開することは別ですから」
御子柴も頷いた。
「どうやら、その点は一致しそうですね」
栗原が少し笑うと、源三も満足そうに頷いた。
「うむ。それなら話がしやすい」
◇
6.小鳥遊ホシノの仕事
午後三時過ぎ。
「うへぇ……遅くなっちゃった」
会議室の扉が開き、小鳥遊ホシノが入ってきた。
ピンク色の髪に、小柄な身体。少し眠たげな表情。いつもの、のんびりした雰囲気である。
「ホシノさん。お忙しいところ、ありがとうございます」
「いやいや。こちらこそ、ごめんねぇ。お店でちょっとお客さんが長引いちゃってさ。遠方から来た方だったから、せっかくだしゆっくり見てもらってたんだよねぇ」
「相変わらず繁盛しとるようじゃのう」
「うへへ。おかげさまでねぇ」
骨董店『界』は、水木しげるロード近くにある小さな店である。外観は古風で、店内もそれほど広くない。
しかし、商売は意外なほど順調だった。
観光客が小さな品物を買っていくこともあれば、専門の収集家が遠方から訪れることもある。古い陶器や家具、工芸品について、ホシノは確かな知識と独自の仕入れ経路を持っていた。
扱う品物の数は多くないが、価値のあるものを適切に評価し、必要とする客へ届ける。地方の骨董店としては、かなり収益がよい方だった。
店の品物がすべて超常的なものというわけではない。むしろ、大半はごく普通の骨董品だ。
ただ、時には特殊な由来を持つ品物について相談を受けることもある。そうした場合、ホシノは必要に応じて関係する専門家へ連絡していた。
「それで、今日は何を決めるんだっけ?」
栗原は、ここまでの議論を簡単に説明した。
地域の妖怪社会との連絡方法。工事や開発に伴う居住者への配慮。危険な超常事象が発生した場合の、各組織の役割分担。
ホシノは何度か頷きながら聞き、それから少しだけ考えた。
「……なるほどねぇ。だったら、まず相談窓口を一つ決めた方がいいんじゃないかな」
「窓口を?」
「うん。妖怪の側から見たら、超常省とSCP財団とGOCの違いなんて、よく分からない場合もあるでしょ」
……。
…………。
島田は、思わず頷いた。
人間でも、役所のどの部署へ連絡すればいいのか分からず困ることがある。妖怪なら、なおさらだろう。
「だから、最初に連絡する場所を決めておいて、そこから必要な組織へ回すんだよぉ。住まいの相談なら地域の協力者。危険なものが出たら超常省。研究や収容が必要ならSCP財団。広域的な危機や国際的な対応が必要ならGOC、って感じで」
「合理的ですね」
御子柴が頷いた。
「でしょ? それに、何でもかんでも大きな組織へ持ち込む必要はないんだよねぇ」
「例えば、今回の引っ越しのような案件ですね」
「そうそう。家がなくなって困ってる猫又の一家に必要なのは、新しい家でしょ。特殊部隊じゃないんだよぉ」
「その通りです」
水瀬が、小さく笑った。
「我々も、引っ越しのたびに出動するわけにはいきませんしね」
御子柴の一言に、会議室に少しだけ笑いが広がった。
ホシノの提案は、実に現実的だった。
問題の種類によって、対応する組織を選ぶ。必要以上に大きな組織を動かさない。地域で解決できる問題は、地域で解決する。
それは、超常現象を扱う場合でも変わらない原則だった。
◇
7.もう一人の専門家
「……あれ、もう始まってた?」
午後四時前。
またしても会議室の扉が開いた。
白髪の長身男性。黒いサングラス。明るい声。妙に余裕のある笑顔。
五条悟である。
「悟くん、遅いよぉ」
ホシノが、少し呆れたように言った。
「ごめんごめん。ちょっと仕事が長引いちゃって」
「今日は早く終わるって言ってたじゃん」
「そのつもりだったんだけどねえ」
悟は、妻の隣へ座った。
「五条さん。お忙しいところ、ありがとうございます」
「いやいや。今日は正式な任務じゃなくて、ちょっと顔を出しただけですから。で、どういう話になってるの?」
栗原が会議の内容を説明すると、悟はときどき頷きながら聞いていた。普段の軽い態度とは違い、内容についてはかなり真面目に確認している。
「……なるほどね。いいんじゃない? そういう仕組みは必要だと思うよ」
「呪術関係の案件については、どのような連携が望ましいとお考えですか?」
御子柴が尋ねた。
「まず、全部を呪術で説明しようとしないことかな」
悟は、あっさり答えた。
島田が、少し驚いた顔をする。
「……呪術師の方なのに?」
「呪術師だからだよ。呪術で扱えることと、扱えないことくらい、ちゃんと区別しないと」
悟は続けた。
「呪力が関係している現象なら、僕らにも分かることがある。でも、別の仕組みで動いているものまで、同じ理屈で説明できるとは限らない」
「財団でも、似た問題はありますね」
「でしょ? だから、分からないものが出てきたときに、最初から決めつけない方がいい。必要なら専門家を呼ぶ。それだけだよ」
「同感です」
御子柴も頷いた。
「まあ、僕が必要なら呼んでくれてもいいけどね」
悟がにこっと笑うと、ホシノが横から口を挟んだ。
「悟くん。何でも引き受けないの」
「えー?」
「えー、じゃないよぉ。最近また仕事増えてるでしょ。休日の予定まで埋めちゃ駄目だからねぇ」
「分かってるって」
悟は、少しだけ口を尖らせた。
……。
…………。
栗原は、そっと資料へ目を落とした。
目の前にいるのは、呪術界でも屈指の実力を持つ特級呪術師である。西洋魔術にも通じ、複数の教育機関や研究組織と関係を持つ人物だった。
その五条悟が、妻から休日の仕事について注意されている。
何とも平和な光景だった。
島田が思わず小さく笑うと、それに気づいた悟がこちらを見た。
「ん? 何か面白かった?」
「い、いえ! 何でもありません!」
島田は慌てて首を振った。
悟は首を傾げ、ホシノはのんびりとお茶を飲んでいた。
◇
8.三千万円は、年収ではない
会議が終わる頃には、夕方になっていた。
出席者たちがそれぞれ帰り支度を始める中、悟も椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
「いやあ、今日は結構いい話ができたんじゃない?」
「そうだねぇ。でも、悟くん。明日はちゃんと早く帰ってきてね」
「分かってるよ」
「ほんとかなぁ。だって、仕事増やしすぎなんだもん」
その指摘は、間違っていなかった。
五条悟は、この世界でも非常に高い能力を持つ特級呪術師である。その地位に伴う基本給与は、年間およそ三千万円。
これは、あくまで特級呪術師としての給与であって、彼の総年収ではない。危険任務や特殊任務に伴う各種手当は別に支給されるし、教育関係の仕事、研究機関での助言、魔術関係の活動などから得られる収入もある。
もちろん、それだけの収入があるのには理由があった。
特級呪術師という立場には、非常に大きな責任が伴う。危険な現場へ出向くこともあれば、一般の術師では対応できない案件を任されることもある。
能力が高いからといって、仕事が楽になるとは限らない。むしろ、対応できる人物が限られているからこそ、依頼が集中する場合もあった。
加えて、ホシノの骨董店の収入もあり、五条家の家計は十分に安定している。
つまり、五条夫妻が忙しいのは、生活費を稼ぐためだけではない。仕事そのものに責任があり、頼まれれば応じたいという気持ちもある。
ただし、それで家族との時間がなくなってしまっては、本末転倒だった。
「……悟くん」
ホシノが、少しだけ声を落とした。
「六花も、最近お父さんと遊びたがってるよぉ。学校でドッジボールやった話とか、もっと聞いてほしいんだと思う」
悟は、少しだけ表情を変えた。
「……そう?」
「うん」
悟は少し考えてから、ふっと笑った。
「……分かった。今度の休みは、ちゃんと空けとくよ」
「うへへ。約束だよぉ」
「約束」
そのやり取りを、少し離れたところから栗原が見ていた。
超常社会には、非常に強い力を持つ人物がいる。しかし、強い力を持っているからといって、何でも引き受けなければならないわけではない。
必要なときに必要な力を使えるよう、普段から負担を分散しておく。それもまた、組織運営の大切な仕事だった。
◇
9.一枚の連絡表
翌週。
超常省の山陰地区現地事務所では、新しい連絡体制の試案が完成していた。
大げさな制度改革ではない。まずは、関係者が必要なときに適切な相手へ連絡できるようにする。そのための、小さな仕組みだった。
栗原が机の上に置いた資料の表題は、次のようになっていた。
──境港地区・超常事象及び非人間居住者に関する連絡協力要領(試行版)。
「……結構長い名前ですね」
島田が、横から覗き込んだ。
「行政文書ですから」
「もう少し短くできないんですか?」
「できるかもしれませんね。でも、名前より中身が大切です」
資料には、今回決まった内容がまとめられていた。
第一に、地域で発生する小規模な問題については、可能な限り地元の協力者を通じて事情を確認すること。
第二に、危険性がある場合には、超常省が初動の調整を担当し、必要に応じてSCP財団やGOCへ連絡すること。
第三に、妖怪などの非人間居住者については、本人や関係者の意思を尊重し、必要以上に生活情報を公開しないこと。
第四に、住居の移転、工事、生活上の問題など、危険性の低い案件については、地域の関係者と協力して解決すること。
そして第五に、対応後の記録を残し、同じ問題が繰り返されないようにすること。
どれも、特別に難しい話ではない。しかし、実際に運用するとなると、いろいろな調整が必要になる。
「……これで、次からは少し楽になりますかね」
「楽になるかどうかは分かりません。でも、無駄な混乱は減らせると思います」
栗原は資料を一枚めくった。
そこには、今回の猫又一家の引っ越しの経緯が記載されていた。
家族三人。父親、母親、幼児。旧住居の取り壊しに伴い、地域協力者が新しい住居を手配。所有者との調整は完了。移転後の生活も、おおむね良好。
……。
…………。
栗原は、少しだけ笑った。
こういう報告書が増えるのは、悪いことではない。
危険な怪異を確保した。重大な事故を防いだ。そういう報告も、もちろん重要だ。
けれど、誰かが無事に引っ越しを終えた。困っていた家族が、新しい家で暮らし始めた。そういう出来事も、きちんと記録されるべきだろう。
「……島田君。猫又の子供、名前は何でしたっけ」
「こま、です」
「そうでしたね。新しい家には慣れたそうですか?」
「はい。庭に来る普通の猫と、仲良くなろうとしているらしいです」
栗原は、少しだけ目を細めた。
「……まだ日本語で話しかけてるんですか?」
「そうみたいです」
……。
…………。
栗原は、とうとう笑ってしまった。
「それは、なかなか大変ですね」
島田も笑った。
超常省の仕事は、危険な怪異への対処だけではない。時には、こういう話もある。
そして、そんな話を笑って聞ける日があることは、きっと悪いことではなかった。
◇
10.世界を守る仕事、町を守る仕事
同じ日の夕方。
境港市内の小さな喫茶店で、水瀬沙耶と御子柴明日香が向かい合っていた。
SCP財団の研究員と、世界オカルト連合の職員。所属だけを聞けば何とも物々しい組み合わせだが、今の二人は普通にコーヒーを飲んでいた。
「……今回の会議、どう思いました?」
水瀬が尋ねた。
「よかったと思います。少なくとも、何か起きるたびに責任の押し付け合いをするよりは、ずっと健全です」
「それはそうですね。ただ、運用は大変そうです」
「ええ。地域ごとに事情が違いますから」
御子柴は、窓の外へ目を向けた。
夕方の境港。通りには、買い物帰りの人々が歩いている。自転車に乗った中学生。犬を散歩させる老人。仕事帰りの会社員。
その中には、人間ではない存在も混じっているのかもしれない。
「……GOCって、名前の印象でかなり誤解されますよね」
「ええ。世界オカルト連合という名前から、もっと攻撃的な組織だと思われることがあります」
「実際、危険な対象を破壊することもあるでしょう?」
「もちろん。でも、それは目的ではなく手段です」
御子柴は、少しだけ真面目な顔になった。
「私たちが守りたいのは、人々が安全に暮らせる社会です。危険な存在を無害化するのも、そのためです。危険ではない存在を危険扱いして、普通の生活を壊してしまったら、それは本末転倒でしょう」
水瀬は頷いた。
SCP財団にも、似たような課題がある。収容すること。研究すること。保護すること。そして、時には危険な現象を封じ込めるために、厳しい判断を下すこと。
どれも簡単ではない。
しかし、目的を忘れてしまえば、手段だけが残ってしまう。
「……今回の猫又の一家、新しい家で普通に暮らせているそうです」
「よかったですね」
「本当に」
二人は、しばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
窓の外では、夕暮れの街がゆっくりと夜へ変わり始めている。
この街には、まだ知られていない超常現象がある。危険なものもあるだろう。理解できないものもあるだろう。そして、ただ静かに暮らしているだけの存在もいる。
それらを、すべて同じ方法で扱うことはできない。
だからこそ、研究者も、行政の担当者も、地元の事情を知る住人たちも必要になる。
「……そういえば。五条さん、やっぱり忙しそうでしたね」
御子柴が、ふと思い出したように言った。
「そうですね。でも、奥さんには頭が上がらないみたいでした」
「……ふふっ。まあ、家庭ではそういうものなのかもしれませんね」
世界的な超常組織に所属する二人の女性が、最強クラスの呪術師の家庭事情について笑い合っている。
それもまた、この世界の一つの日常だった。
◇
11.誰も出動しなかった日
七月の初め。
境港市では、梅雨の雨が降り続いていた。
水木しげるロードでは、観光客が傘を差して歩いている。
佐藤酒店では、蓮が父親の手伝いをしていた。骨董店『界』では、ホシノが古い陶器の鑑定をしている。五条悟は、今日は珍しく早く帰宅する予定だった。
松浦源三の家では、灯吉がラムネ瓶を眺めていた。
新しい家へ引っ越した猫又の一家も、元気に暮らしている。こまは相変わらず、庭へ来る普通の猫に日本語で話しかけているらしい。
もちろん、返事は「ニャー」である。
それでも、本人は楽しそうだった。
◇
超常省の山陰地区現地事務所では、栗原薫が今日の業務日誌を確認していた。
重大な怪異の発生なし。
大規模な超常災害なし。
SCP財団への緊急協力要請なし。
GOCへの出動要請なし。
地域の妖怪社会からの生活相談、一件。
内容は、雨で住まいの一部が傷んだというものだった。対応は、地元の協力者へ引き継ぎ済み。
……。
…………。
栗原は、少しだけ笑った。
今日は、誰も危険な怪異と戦っていない。特殊部隊も出動していない。収容作戦も行われていない。
必要な連絡をして、必要な人へ相談をつないだだけだった。
それでも、仕事は仕事である。むしろ、こういう日が多い方がいい。
「……島田君。今日の業務、そろそろ終わりにしましょうか」
「いいんですか?」
「ええ。緊急案件もありませんし」
「……ありがとうございます」
島田は、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「明日も仕事ですからね」
「はい」
島田が机の上を片付け始め、栗原も最後の書類を確認した。
先日作成した連絡協力要領の、試行結果の記録だった。
大きな問題は、今のところ起きていない。連絡先の整理も必要だし、地域によって事情も違う。何より、すべての妖怪が行政との協力を望んでいるわけではない。まだ改善すべき点はある。
それでも、何もしないよりは、少しだけ前へ進んだ。
栗原は、書類を閉じた。
窓の外では、雨が降っている。
境港の街は、今日も普通に動いていた。港では船が行き来し、商店では買い物客が品物を選び、学校では子供たちが勉強している。
そのすぐ隣で、人間ではない住人たちも生活している。
彼らのすべてが、行政の記録に載っているわけではない。
しかし、困っているときには相談できる。危険なものが現れたら、適切な組織が対応する。そのための仕組みが、少しずつ整えられていた。
世界を揺るがすような大事件ではない。新聞の一面に載るような話でもない。
大人たちが集まって話し合い、書類を作り、連絡先を交換した。
それだけのことだった。
けれど、誰かが安心して普通の一日を過ごすためには、そういう地味な段取りが必要なのだ。
栗原は、事務所の電気を消した。
廊下の向こうでは、島田が帰り支度をしている。雨音が、静かに聞こえていた。
今日も境港市では、大きな事件は起きなかった。
それは、きっと悪くない一日だった。