仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー リメイク版 作:水野芽生
──2013年5月/鳥取県境港市・美保湾
1.海を知っている者
人間が海を怖がる理由と、妖怪が海を怖がる理由は、必ずしも同じではない。
人間は波を恐れ、風を恐れ、暗い水の底を恐れる。船が沈むことや、帰る場所を失うことを恐れる。
しかし、海に長く暮らしている妖怪の中には、それとは別のものを恐れる者がいた。
潮丸も、そういう妖怪の一人だった。
彼は地元で波小僧と呼ばれる妖怪の一種で、境港の海辺に長く住み着いている。人間の子供ほどの背丈に、潮に濡れたような黒い髪、小柄な身体。遠目には奇妙な海鳥か、漂流物に見えなくもない。
もっとも、潮丸は自分が何歳なのか、正確には覚えていなかった。
境港に鉄道が通るよりも前からいたことは確かだし、港に蒸気船が出入りするようになった頃のことも知っている。それ以前については、記憶が少々曖昧だった。
長生きしているからといって、何もかも覚えていられるわけではない。
人間だって、三日前の夕食を忘れることがあるのだから。
「……またか」
五月の早朝。
境港の沖合に浮かぶ古い係留施設の陰から、潮丸は海を眺めていた。
空は曇っている。
海面には細かな波が立ち、漁船が港へ戻っていくところだった。
いつもと変わらない景色。
ただし、一か所だけ違っていた。
海の上に、白いものがいる。
それは、遠くから見ると人間に似ていた。
頭があり、胴体があり、二本の腕のようなものがある。ただし、足元は海面に溶け込んでいて、どこまでが身体なのか分からない。
そいつは波に揺られていない。
風を受けても動かない。
なのに、視線を外してもう一度見るたびに、少しずつ位置が変わっている。
潮丸は舌打ちした。
「あれは、よくねえな」
海には、昔から妙なものがいる。
人間がまだ船を造ることを覚える前から存在していたものもあれば、つい昨日生まれたばかりの怪異もある。
海坊主や船幽霊のように、名前のついた連中ならまだいい。付き合い方を知っている者もいるし、少なくとも何を嫌がるのか、ある程度は分かる。
だが、あの白いものは違った。
名前がない。
潮の匂いがしない。
海面にいるくせに、海のものという感じがしない。
そして何より、見ていると、こちらが見られている気がする。
「……人間の子供が、昨日あれを見たって話だったな」
潮丸は昨日の出来事を思い出した。
夢みなとタワーの展望室。
そこにいた小学生の一人が、突然具合を悪くしたらしい。
別に潮丸が現場を見ていたわけではない。彼には彼の情報網があって、その中には人間の学校の事情に妙に詳しい妖怪もいるのだ。
話を聞いたときは、ただの乗り物酔いか高所恐怖症だと思っていた。
しかし、その直後に海上で白いものを見たという報告が重なった。
それも、複数。
漁師の一人が、沖に変な人影を見た。
海鳥が、ある海面だけを避けて飛んでいた。
別の妖怪が、そこを横切ろうとして、どういうわけか自分の巣へ戻ってきてしまった。
どうにも嫌な話だった。
潮丸は長年の経験から、一つの結論を出した。
これは、自分たちだけで何とかしようとするべきものではない。
「……しょうがねえ」
彼は海へ潜り、港の方へ泳ぎ始めた。
行き先は、一般の人間が利用することのない、小さな連絡所だった。
昔なら、神社の宮司や地元の有力な妖怪へ話を持っていくところだ。
今は違う。
世の中には、こういうものを専門に扱う連中がいる。
人間の役所というのは、普段はやたらと面倒くさい。
だが、面倒くさい仕事を引き受けてくれるという意味では、なかなか便利な存在でもあった。
潮丸は連絡所の受話器を取った。
呼び出し音が三回鳴る。
『はい。日本国超常省、山陰地域連絡窓口です』
「潮丸だ。境港の海で、妙なものが出た」
『いつもご協力ありがとうございます。場所と状況をお願いします』
「夢みなとタワーの沖合だ。白くて、人間みてえな形をしてる」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
『……少々お待ちください』
数秒の沈黙。
それから、先ほどとは少し違う声が聞こえた。
『潮丸さん。確認ですが、その対象は、海面に立っているように見えましたか?』
「そうだ」
『視線を外したあと、位置が変わっていることは?』
「ある」
『直接見続けると、距離感がおかしくなるような感覚はありませんでしたか?』
潮丸は眉をひそめた。
「……あんたら、もう知ってるのか」
『現在、情報を照合しています。対象を再度確認しようとはしないでください』
「ああ、分かってる」
『ありがとうございます。こちらで対応しますので、安全な場所まで離れてください』
「それで済むならいいがな」
潮丸は、沖合の方角を振り返った。
建物が邪魔をして、海は見えない。
それでも、あの白いものがまだそこにいるような気がした。
「……早く来た方がいいぜ」
受話器を握り直し、彼は低い声で言った。
「あいつ、昨日より岸に近い」
◇
2.日本国超常省機動執行委員会
午前七時四十分。
境港市内の、とある行政施設。
表向きは海洋環境に関する調査・連絡業務を行う建物だが、地下には一般公開されていない会議室が存在した。
その一室で、栗原薫は三杯目のコーヒーを飲んでいた。
三十九歳。
日本国超常省機動執行委員会、山陰方面の現場指揮官。
職業柄、早朝の呼び出しには慣れている。
ただし、慣れていることと、好きであることは別問題だった。
「……昨日も帰ったの、十一時だったんだけどな」
栗原は小さく呟いた。
「主任、聞こえてますよ」
向かいに座る若い職員が、端末を操作しながら言う。
「聞こえるように言ったの」
「じゃあ、聞こえなかったことにします」
「優秀な部下ね」
栗原はコーヒーを飲み干し、壁面の大型モニターへ目を向けた。
画面には美保湾周辺の海図が表示されている。
その一角に、赤い円が描かれていた。
夢みなとタワーから数キロ沖合。
一般の船舶が普通に航行する海域だ。
「通報は?」
「現時点で五件です。うち三件が超常社会側からの報告、二件が一般住民によるものです」
「一般住民の二件は?」
「漁業関係者です。一人は白い漂流物、もう一人は海面上の人影を見たと証言しています。ただし、いずれも短時間の目撃で、健康状態に異常は確認されていません」
「昨日のタワーは?」
「学校の社会科見学中に児童一名が体調不良を訴えています。引率教員が休憩させ、その後は回復。ほかの児童に異常はありません」
「それだけ?」
「現時点では」
栗原は顎に手を当てた。
いくつかの事実が、嫌な形でつながり始めている。
海上の人影。
距離感の異常。
目撃者の体調不良。
そして、地元妖怪からの通報。
普通の警察なら、目撃情報の信憑性から調べ始めるところだろう。
しかし、彼女の所属する組織では違う。
五件のうち一件でも本物なら、十分に動く理由になる。
「波小僧の潮丸だったわね。今回の通報者」
「はい。身元登録はありませんが、過去の協力実績は良好です。少なくとも百年以上、この海域に住んでいると推定されています」
「長いわね」
「本人は『鉄道ができる前からいた』と言っています」
「そういうの、結構正確なのよね。人間の年齢は覚えないくせに」
栗原は苦笑した。
境港では、こうした通報が珍しくない。
人間の人口は五万八千人ほどだが、実際には市の統計に含まれない住民も大勢いる。
妖怪。
土地の神秘と結び付いた存在。
古い建物に住み着くもの。
海や山の中で、人間とは異なる生活を送っている者たち。
彼らの大多数は住民登録をしていない。
そのため、普通の行政統計だけを見ていても、境港という街の実態は分からない。
もっとも、彼らをすべて国の管理下へ置くことも現実的ではなかった。
第一、そんなことをすれば、役所の仕事が何倍に増えるか分かったものではない。
「主任、SCP財団から連絡です」
「来た?」
「はい。先方の担当研究員が、こちらへ向かっています」
「早いわね」
「昨夜から独自に調査していたようです」
「相変わらず抜け目がない」
栗原は立ち上がり、空になった紙コップをゴミ箱へ放り込んだ。
SCP財団。
正式名称にもSCPを冠する、国際的な超常現象の研究・収容組織である。
日本国超常省とは別系統の組織だが、両者はしばしば協力する。
特に、超常現象が一般社会へ影響する危険がある場合、独力で解決しようとするよりも、互いの専門性を利用した方が効率的だった。
もちろん、何でも仲良く共同研究というわけではない。
権限の問題もあれば、情報管理の問題もある。
研究上の関心と行政上の責任が一致しないことだってある。
だが、今回のような事案で必要なのは、組織間の縄張り争いではなかった。
「さて」
栗原は机の上の資料を手に取った。
表紙には、暫定的な事案名が書かれている。
《境港沖白色人影事案》
「……もうちょっと気の利いた名前、なかったのかしら」
その呟きに答える者はいなかった。
◇
3.SCP財団の研究員
「悪くない名前だと思いますけどね」
会議室へ入ってきた女性は、開口一番そう言った。
水瀬沙耶。
三十四歳。
SCP財団日本支部に所属する、認識災害および知覚異常の専門研究員だった。
肩まで伸びた黒髪を後ろでまとめ、薄いグレーのスーツを着ている。左手には小型端末、右手には紙の資料を持っていた。
栗原は片眉を上げた。
「聞こえてた?」
「扉が開いてましたので」
「じゃあ、もう少し洒落た名前を考えてくれる?」
「では『美保湾沿岸部における未特定視覚認識干渉型異常事象』で」
「長い」
「正式名称ですから」
「却下」
「残念です」
水瀬は少しだけ笑い、空いている席に腰を下ろした。
栗原とは、これまでに何度か共同任務を経験している。
最初の頃は、財団の研究員らしい慎重な態度と、現場の危険を先に処理したがる栗原の判断が衝突することもあった。
しかし現在では、互いに仕事のやり方を理解している。
「それで、財団の見解は?」
「現時点では、認識災害を伴う未分類異常存在の可能性が高いと考えています」
水瀬は端末を操作し、モニターへデータを表示させた。
そこに映し出されたのは映像ではない。
複数の測定値を並べたグラフだった。
「昨日から今朝にかけて、海域を監視していた観測機器の記録を確認しました。光学映像については、まだ人間による直接確認を行っていません」
「理由は?」
「映像を見ただけで影響を受ける可能性が排除できないからです」
「なるほど」
栗原は頷いた。
「直接見るのも、画面越しに見るのも、どっちも危ないかもしれないわけね」
「ええ。ただし、それが事実かどうかも分かりません。今は危険側に見積もっています」
水瀬はグラフの一部を拡大した。
「こちらは対象海域の波高と流速の測定値です。興味深いのは、ある範囲で波の動きが不自然に均一化していることです」
「凪になってる?」
「単純な凪ではありません。周囲の風や潮流に対応する変化が、その範囲だけ欠落しています」
「……水面の一部が、動いていない?」
「そう表現するのが近いですね。ただし、完全に静止しているわけでもない。測定方法によって結果が異なります」
栗原はモニターを見つめた。
こうした現象には、過去にも遭遇したことがある。
物理的な異常があるように見えるのに、測定器を変えると結果が変わる。
空間が歪んでいるのか。
測定器が誤作動しているのか。
あるいは、測定という行為そのものに何かが干渉しているのか。
それを確かめるために、研究員たちは現場へ出る。
「現段階で、相手に意思があると思う?」
栗原が尋ねた。
「分かりません」
水瀬は即答した。
「視線に反応するように見えるという報告はありますが、それが意思に基づく行動なのか、単なる性質なのかは判断できません」
「なら、人間の形に見えることにも意味はないかもしれない」
「そのとおりです」
水瀬は、そこで少し声を低くした。
「ただし、一つ確認したいことがあります」
「何?」
「昨日、夢みなとタワーで体調不良を訴えた児童についてです」
栗原の表情が変わった。
「……続けて」
「対象を目撃した可能性があります。そして、記録によれば、同じクラスの別の児童が付き添っています」
「それは学校からの報告?」
「引率教員への聞き取りと、施設側の記録を照合した結果です。いずれも通常の安全確認の範囲です」
「それで?」
「付き添った児童が、対象について何らかの知識を持っていた可能性があります」
栗原は椅子に深く座り直した。
「財団として、その子に接触したい?」
「研究上の関心はあります」
「そう」
栗原は短く答えた。
それから、少しだけ沈黙を置いた。
「でも、今回はまだやめておきましょう」
「理由を聞いても?」
「理由なら二つ。まず、子供たちに健康被害が確認されていない。もう一つは、今回の目的が現場の安全確保だから」
「……妥当ですね」
「それに、境港の小学校にいる『少し変わった子供』なんて、いちいち調べていたらきりがないわ」
「それは同感です」
水瀬は資料を閉じた。
「財団としても、現時点で接触を必要とする根拠はありません。対象児童の情報は、限定共有とするよう提案します」
「ありがとう」
栗原は頷いた。
この街で働いていると、超常現象と子供が接触する機会は、ときどきある。
しかし、それだけで子供を特別な監視対象にしてしまえば、普通の学校生活など成り立たない。
必要なときには守る。
危険があるなら調べる。
ただし、好奇心だけで日常へ踏み込まない。
そうした線引きは、超常省にとっても、SCP財団にとっても重要だった。
「さて、本題に戻りましょうか」
栗原が言う。
「今回の対象、どうやって確保する?」
水瀬は、少しだけ考えるように目を伏せた。
「まずは、見ないことですね」
「……それで捕まえられるの?」
「そこが、今回の難しいところです」
◇
4.見ないための装備
午前十時二十分。
境港の港湾施設から、一隻の小型調査船が出港した。
船体には海洋研究機関の標識が記されている。
表向きの任務は、港湾周辺における海洋環境調査だった。
もちろん、それ自体も嘘ではない。実際に海水や流速の測定は行うし、船に搭載されている観測機器も本物だ。
ただし、今日の主目的は別にある。
船内の作業室には、黒いケースがいくつも積まれていた。
SCP財団が持ち込んだ遮光資材。
超常省が用意した浮体式の作業幕。
特殊な通信装置。
そして、外部から内部を直接視認できない構造の、一時収容用コンテナ。
「……相変わらず荷物が多いわね」
栗原が言うと、水瀬は作業用端末から顔を上げた。
「相手の性質が分からない以上、できるだけ複数の方法を準備したいので」
「全部使うことになる?」
「使わずに済むなら、その方がいいですね」
船内では、財団の技術職員と機動執行委員会の隊員たちが装備の最終確認をしていた。
全員、通常の海上作業用装備に加え、顔面を覆う遮光バイザーを着用している。
バイザーは、必要に応じて外部の光景を完全に遮断できる仕組みだった。
ただし、閉じた状態では当然、周囲が見えない。
そのため、移動や作業には音声誘導、触覚による案内、機械的な位置情報を利用する。
「主任、本当にこの装備で作業するんですか?」
若い隊員が尋ねた。
名前は島田。
機動執行委員会に配属されて三年目の職員だ。
「何か問題?」
「いえ、その……海の上なのに、ほとんど何も見えないのが、ちょっと」
「怖い?」
「正直に言うと、怖いです」
「いいことね」
栗原は即答した。
島田が目を瞬かせる。
「え?」
「怖いと思えるなら、無茶はしないでしょ」
栗原は自分のバイザーを指で叩いた。
「今日の仕事で一番大切なのは、勇気じゃない。指示された手順を守ることよ。見たくなっても見ない。確認したくなっても確認しない。分からないことがあったら、勝手に判断せず報告する」
「……はい」
「あと、海へ落ちないこと」
「それはもちろんです」
「なら大丈夫」
島田は少し安心したようだった。
水瀬はそのやり取りを聞きながら、作業計画を確認していた。
今日の任務は、対象の性質に応じて三段階に分かれている。
最初は海域の安全確保。
次に、非視覚的な方法による位置と状態の確認。
そして最後に、収容可能であれば確保し、困難であれば影響を遮断して周辺海域を封鎖する。
無理に捕まえることが目的ではない。
被害を拡大させないことが最優先だった。
「……ああ、そうだ」
栗原が思い出したように言った。
「今日の通報者、来てる?」
「はい。後部甲板に」
「乗ってるの?」
「ええ。先方から、海域の案内を申し出てくれました」
「……本当に?」
栗原は少し驚いた。
今回の通報者は、百年以上この海域に住んでいるという妖怪だ。
人間社会へ協力的な妖怪も多いが、自分から現場へ同行を申し出る者は、そう多くない。
「会ってくるわ」
栗原は作業室を出た。
後部甲板には、小柄な人影が一つあった。
濡れたような黒髪。
灰色がかった肌。
人間の子供よりも少し小さな身体。
潮丸だった。
「お前さんが、役所の偉い人か」
「偉いってほどじゃないわ。栗原薫。今回の現場責任者よ」
「そうか。よろしく頼む」
潮丸は頭を下げた。
栗原も軽く会釈した。
「今回は通報してくれてありがとう」
「別に礼はいらねえよ。あれが港へ来たら、俺だって困る」
「それでも、助かるわ」
潮丸は、少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
栗原はその隣へ立ち、海の方を見た。
対象のいる方角は、まだ直接視認できない。
周囲には普通の漁船がいる。
遠くでは海鳥が飛んでいた。
「潮丸さん」
「何だ」
「あなたは、あれをどう思う?」
潮丸はすぐには答えなかった。
波の音を聞きながら、少し考えているようだった。
「……海のものじゃねえな」
「やっぱり?」
「ああ」
彼は低い声で続けた。
「海のものなら、海の癖がある。潮に逆らう奴もいるし、波を嫌がる奴もいる。だが、どんな奴でも、海にいるなら海との付き合い方がある」
「それが、あれにはない?」
「ねえ」
潮丸は沖合へ目を細めた。
「あいつは海にいるんじゃない。海を借りてるんだ」
栗原は、その言葉を静かに聞いた。
科学的な説明ではない。
だが、こうした現場では、長年その土地に住んでいる妖怪の感覚が役に立つこともある。
「……参考にするわ」
「そうしてくれ」
潮丸は頷いた。
そのとき、船内放送が鳴った。
『まもなく対象海域へ進入します。全員、視覚遮断手順に移行してください』
栗原はバイザーを下ろした。
視界が暗くなる。
海も空も、何も見えなくなった。
それでも船は進んでいく。
見えないものへ、近づいていく。
◇
5.空白の海面
午前十一時三分。
調査船は、対象海域の外縁に到着した。
周辺では、通常の海上安全措置として航行区域の一部が制限されている。
漁業関係者や港湾管理者には必要な連絡が済んでおり、近くを航行していた船舶も別の航路へ誘導されていた。
一般の人々に説明されている理由は、海上調査に伴う安全確保だった。
それ以上の事情を知る必要はない。
船内の作業室では、水瀬が観測データを確認していた。
「対象海域、距離約三百メートル」
技術職員が報告する。
「流速測定に異常。中心部で波高の変化が極端に小さくなっています」
「音響測定は?」
「反射特性に不整合があります。物理的な物体が存在するというより、測定結果の一部が欠落しているように見えます」
「了解」
水瀬は腕を組んだ。
予想していたとおりだった。
通常の観測機器では、対象の輪郭を明瞭に捉えられない。
ただし、周囲の水面との違いは確かに存在する。
それなら、対象を直接見る必要はない。
「栗原さん。最初の段階は予定どおり進められそうです」
『了解。こちらも配置完了』
無線越しに栗原の声が聞こえた。
『ただし、潮丸さんが妙なことを言ってる』
「妙なこと?」
『さっきから、海の音がおかしいそうよ』
水瀬は少し考えた。
「……音響測定班に伝えます」
それから数十秒後。
船内に小さな警報音が響いた。
『対象中心部、移動を確認』
「方向は?」
『南西。こちらへ接近中』
水瀬はモニターに表示された数値を確認した。
対象の中心と推定される位置が、ゆっくりと変化している。
秒速にすれば、人間の歩行速度よりも遅い。
だが、海面を漂流しているような移動ではない。
風向きとも潮流とも一致していなかった。
「……こちらを認識した?」
技術職員が呟いた。
「分かりません」
水瀬は答えた。
意図的な移動かどうかを判断するには、まだ情報が足りない。
そのとき、栗原から通信が入った。
『水瀬さん、聞こえる?』
「はい」
『対象の位置、こちらでも確認した。少し不自然ね』
「ええ。通常の漂流とは異なります」
『……潮丸さんが言うには、あれは「人がいる方へ寄ってくる」そうよ』
水瀬は黙った。
海に存在する異常な白い人影。
目撃者の距離感を狂わせる可能性。
そして、人間のいる方向へ近づいてくるような動き。
それらが同じ性質によるものだとすれば、厄介だった。
「栗原さん、こちらから提案があります」
『何?』
「対象を無理に追うのはやめましょう」
『同感』
「ただし、移動を放置することもできません」
『……つまり?』
水瀬は一度、深く息を吸った。
「先に、対象の周囲へ遮光幕を展開します」
◇
6.海の上に幕を張る
作業は、想像していた以上に難しかった。
対象は海上に存在する。
当然、地面はない。
通常の収容室のように壁を設置することはできず、周囲には風と波がある。
財団と超常省が準備したのは、複数の浮体を連結して設置する、海上用の遮光設備だった。
外側から対象を直接視認できないように幕を展開し、その内部へ接近するための作業区画を設ける。
ただし、それが対象の移動を物理的に止められる保証はない。
今日の目的は、まず視線を通した干渉を遮断し、安全な作業環境を確保することだった。
「第一浮体、位置固定!」
「第二浮体、予定位置まで十五メートル!」
「幕の張力、正常!」
船内に報告が続く。
水瀬は数値を追いながら、慎重に指示を出していた。
対象が近づけば、配置を変える。
風が強まれば、作業を中止する。
すべての判断に、余裕を持たせる必要がある。
作業開始から十五分。
外側の浮体が、対象海域を囲み始めた。
そのときだった。
『……主任』
島田の声が無線に入った。
『ちょっと、変なことが起きています』
栗原がすぐに応じた。
『何?』
『作業船の右側です。何か……』
島田は言いよどんだ。
『……人の声が、聞こえるんです』
栗原は表情を変えた。
『誰の声?』
『分かりません。ただ、呼ばれているような』
『バイザーは?』
『下ろしています』
『そのまま。絶対に上げないで』
短い沈黙。
それから、島田が小さく息を呑む音がした。
『……はい』
水瀬は通信を聞きながら、急いで観測データを確認した。
対象中心部の位置が変わっている。
今度は、島田のいる作業区画へ近づいていた。
「栗原さん。対象が島田隊員の方へ移動しています」
『了解。島田、作業中断。誘導員の指示に従って後退』
『はい!』
島田の返事には、少し緊張が混じっていた。
水瀬は通信回線を切り替えた。
「聴覚干渉の可能性があります。全員、外部音声の遮断を開始。作業指示は専用回線だけに限定してください」
各班から了承の返事が届く。
その直後。
観測データの一部が、急に乱れた。
「……あれ?」
技術職員が首を傾げる。
「どうしたの?」
「対象位置の推定値が、二つに分かれています」
「二つ?」
「はい。中心は一つのはずなのに、別の場所にも同じ反応が……」
水瀬は画面を見た。
確かに、対象の中心と推定される位置が二つになっていた。
単純な測定誤差ならよい。
しかし、そうではなかった場合。
水瀬は一つの可能性に思い至った。
──観測の仕方そのものが、対象の位置を変えている?
もちろん、仮説にすぎない。
だが、今までの報告と矛盾しない。
「栗原さん」
『聞こえてる』
「一度、作業を止めます。対象の位置が安定しません」
『了解。全員、現位置で待機』
水瀬は額に手を当てた。
このまま収容を続けるべきか。
それとも、対象の周囲だけを封鎖して撤退すべきか。
判断に必要な情報が、まだ足りない。
すると、無線から別の声が入った。
『……おい、人間』
潮丸だった。
『聞こえるか』
栗原が応じた。
『聞こえてるわ。どうしたの?』
『あいつ、海の上を歩いてるんじゃねえ』
『……何?』
『お前らが見ようとするたびに、そこへ来るんだ』
水瀬は、思わず顔を上げた。
船内の誰も、直接対象を見ていない。
だが、観測は続けている。
位置を測り、反応を確認し、その場所を特定しようとしている。
もし、潮丸の言葉が正しいのなら。
「……なるほど」
水瀬は静かに呟いた。
栗原が尋ねる。
『何か分かった?』
「まだ仮説ですが、一つ考えがあります」
『聞かせて』
「対象は、人間の視線だけに反応しているのではないかもしれません」
水瀬は、二つに分かれた推定位置を見つめた。
「私たちが対象を認識しようとする、その行為に反応している可能性があります」
◇
7.見ないという選択
午前十一時四十七分。
水瀬は、作業計画の変更を提案した。
これまでの作業では、対象の位置を確認しながら遮光幕を設置していた。
しかし、位置を確認するたびに対象が移動するのなら、その方法ではいつまで経っても収容できない。
ならば。
対象を追いかけるのをやめる。
代わりに、海域全体を対象とした固定的な作業手順へ変更する。
対象の現在位置を確認するのではなく、最初に確認された異常海域と、その周囲をまとめて囲い込む。
観測対象を一点へ絞らず、海域全体の状態だけを監視する。
それが水瀬の考えだった。
「……つまり、場所を特定するのを諦める?」
栗原が確認した。
「正確には、位置を追跡する行為を一時的に停止します」
「それで、収容できると?」
「確証はありません。ただし、今の方法を続けるよりは安全です」
栗原は少し考えた。
現場指揮官として、危険性を評価しなければならない。
対象の性質は不明。
だが、少なくとも今のところ、作業員に重大な健康被害は出ていない。
そして、対象は通常の人間が利用する海域に存在している。
放置するわけにもいかなかった。
「……分かった」
栗原は答えた。
「手順を変更する。全班、対象位置の直接確認を停止。予定した海域全体を囲い込む」
『了解!』
作業が再開された。
浮体がゆっくりと移動し、遮光幕が海面へ展開されていく。
作業員たちは、対象を見ようとしない。
確認もしない。
ただ、あらかじめ決められた位置へ装備を運び、固定していく。
その間、水瀬は対象に関する観測データの表示を停止した。
位置情報も、形状の推定も、一切確認しない。
代わりに、作業海域全体の波高、流速、風向などの数値だけを表示する。
しばらくすると、奇妙な変化が起きた。
海面の異常が、少しずつ弱まっていったのだ。
「……水瀬さん」
技術職員が声をかける。
「波高の不整合が減っています」
「確認しました」
「対象は、消えたんでしょうか」
「まだ判断できません」
水瀬は慎重に答えた。
異常が弱まったことと、対象が消滅したことは同じではない。
それを混同すると、取り返しのつかない事故につながる。
数分後、作業海域を囲む遮光幕が閉じられた。
外側から内部を直接見ることはできない。
船内では、誰も対象の姿を確認していなかった。
「第一段階、完了」
栗原の声が無線に響いた。
『これで、どうなる?』
「次は、内部の異常を確認します。ただし、視覚情報は使いません」
水瀬は端末を操作した。
遮光幕の内側には、事前に配置していた小型の音響・流速センサーがある。
そこから得られる数値を確認する。
すると、ある一点にだけ、異常な反応が残っていた。
対象は、まだそこにいる。
だが、先ほどまでのように位置が変わり続けることはなかった。
「……固定された?」
技術職員が呟いた。
「その可能性があります」
水瀬は頷いた。
続いて、遠隔操作の作業装置を投入した。
遮光幕の内側へ、細長い機械がゆっくりと進んでいく。
通常の海洋調査でも使われる、水中作業用の装置を改造したものだった。
その先端には、物体をつかむためのアームが付いている。
数分後。
アームが、何かに触れた。
「……接触確認」
技術職員が報告する。
「対象物、存在します」
水瀬は息を止めた。
「材質は?」
「不明です。水中の物体としては、反射特性が不自然です」
「形状は?」
「細長い円筒状の反応があります。ただし、測定値にばらつきがあります」
「了解。無理に引き上げないでください」
水瀬は栗原へ通信を入れた。
「対象の中心部に、物理的な物体らしいものを確認しました」
『捕まえられそう?』
「試みます。ただし、現時点では、あの白い人影と同一のものかどうか分かりません」
『それでいい。安全を優先して』
「了解です」
作業装置のアームが、慎重に対象物をつかんだ。
抵抗は、ほとんどなかった。
まるで軽い木片を拾い上げるような感触だったという。
しかし、引き上げようとした瞬間。
装置の重量計に、奇妙な数値が表示された。
「……マイナス?」
技術職員が声を上げた。
水瀬は画面を見た。
測定値は、確かに負の値を示していた。
ただし、それが対象物そのものの性質なのか、測定系への干渉なのかは不明だった。
「計器の故障の可能性もあります。無理に解釈しないで」
「はい」
装置は対象物をつかんだまま、ゆっくりと移動を始めた。
その先には、一時収容用コンテナが設置されている。
内部を外部から視認できない、完全遮光構造の容器だ。
アームが開口部へ入る。
対象物が、容器の中へ移された。
そして。
遮光扉が閉じた。
金属製のロックが作動し、封止状態を示す表示灯が点灯する。
「……収容完了」
誰かが、静かに言った。
水瀬は、すぐには答えなかった。
観測データを確認する。
遮光幕の内側。
先ほどまで異常が存在していた海域。
そこでは、波が普通に動いていた。
流速も、風向きに応じた変化を示している。
異常な反応は、確認できない。
「……少なくとも、海面上の異常は消失しました」
水瀬は、ゆっくりと口を開いた。
「ただし、対象の完全な収容を確認するには、追加の検査が必要です」
無線の向こうで、栗原が息を吐いた。
『了解。現場としては、いったん確保成功とする』
それから、少し間を置いて続けた。
『……全員、よくやったわ』
◇
8.収容されたもの
午後二時十五分。
調査船は、境港へ帰港した。
対象物を収めたコンテナは、SCP財団の管理下で厳重に封止されている。
超常省の職員が立ち会い、搬送記録と封印状態を確認したあと、財団の専門施設へ移送される予定だった。
ただし、それで事件が完全に終わったわけではない。
今回確認されたのは、あくまでも海面上の異常が消失したこと。
収容したものが何であるか、なぜ白い人影として認識されたのか、どうして目撃者の距離感に影響したのか。
分からないことは、山ほど残っている。
「……研究員って、大変な仕事ね」
港湾施設の休憩室で、栗原が言った。
水瀬は紙コップのコーヒーを受け取り、少し笑った。
「そちらも大変でしょう」
「まあね」
「でも、今回は運がよかったと思います」
「そう?」
「ええ。通報が早かったですし、現場の協力も得られました。それに、対象の性質が比較的限定的だった可能性もあります」
「……そうね」
栗原は窓の外を見た。
港では、いつもどおり荷役作業が続いている。
トラックが行き交い、作業員が声をかけ合い、遠くでは船の汽笛が鳴っていた。
普通の港の風景だった。
「それにしても」
水瀬が言った。
「今回の通報者、興味深いですね」
「潮丸さん?」
「はい。あの方の観察は、私たちの測定結果とは違う形で、対象の性質を捉えていました」
「長年海に住んでるからね」
「ええ。科学的な測定とは別の経験則が、十分に役立つことを改めて感じました」
「そういうものよ」
栗原は頷いた。
「この街じゃ、人間だけで全部やろうとすると、かえって仕事が増えるの」
水瀬は少し考えた。
「……財団でも、似たようなことを言う人がいます」
「へえ」
「未知のものを調べるときには、まず、それをよく知っている人の話を聞くべきだと」
「いい考えね」
「ただし、その『人』が、必ずしも人間とは限りません」
栗原は笑った。
「境港らしいわね」
二人はしばらく、黙ってコーヒーを飲んでいた。
その後、水瀬が端末を取り出す。
「それと、昨日の小学校の件ですが」
「何か分かった?」
「いいえ。児童の健康状態に問題はなく、学校生活も通常どおり続いているそうです」
「なら、よかった」
「今回の収容報告には、児童の氏名を記載しないことにしました」
栗原は水瀬を見た。
「……財団として、それでいいの?」
「今のところ、事件への関与を示す証拠はありません。必要のない個人情報を収集する理由もありませんから」
「そう」
栗原は、小さく頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
水瀬はコーヒーを一口飲み、少し顔をしかめた。
「……このコーヒー、苦いですね」
「砂糖いる?」
「二つほど」
「研究員さん、甘党なのね」
「頭を使いましたから」
「なるほど」
栗原は笑いながら、砂糖の入った小袋を二つ渡した。
◇
9.登録されていない住民
夕方。
潮丸は港の外れで、海を眺めていた。
空は相変わらず曇っている。
ただし、朝とは少し違っていた。
海面の動きが、いつもの海に戻っている。
風が吹けば波が立ち、船が通れば航跡が残る。
当たり前のことだった。
しかし、潮丸には、それがありがたかった。
「……終わったか」
彼は小さく呟いた。
その背後から、足音が近づいてくる。
「潮丸さん」
栗原だった。
「おう。役所の人間か」
「今日はありがとう。助かったわ」
「礼はもう聞いた」
「じゃあ、もう一回聞いて」
「……変な奴だな」
潮丸は鼻を鳴らした。
栗原はその隣へ立ち、海を眺めた。
「今回の対象、いったん確保できたわ」
「そうか」
「ただ、まだ分からないことが多い。しばらく周辺海域の監視は続けるつもり」
「そうしてくれ」
潮丸は頷いた。
しばらく沈黙が続いた。
遠くで、漁船が一隻、港へ戻っていく。
「……なあ」
潮丸が言った。
「何?」
「俺みてえなのが通報しても、ちゃんと聞いてくれるんだな」
栗原は少し驚いたように目を瞬かせた。
「何を今さら」
「いや、昔はそうでもなかったからよ」
潮丸は海を見つめたまま続けた。
「人間に話をしても、まともに取り合わねえ奴が多かった。俺たちの言うことなんざ、昔話か迷信だと思われてたしな」
「……そうね」
「今は、電話一本で船まで出してくれる」
潮丸は、少し可笑しそうに笑った。
「便利な時代になったもんだ」
栗原も笑った。
「電話一本って言っても、書類は結構あるのよ」
「そうなのか」
「あるの。しかも、あなた住民登録してないから、通報者の欄がちょっと面倒でね」
「……登録しなきゃ駄目か?」
「いいえ」
栗原は首を振った。
「登録してないからって、困ってる人の話を聞かないわけにはいかないでしょう」
潮丸は黙った。
「人間か妖怪か、住民票があるかないか。そういう違いは、場合によって大切だけど」
栗原は続けた。
「危ないものが出たときに、知らせてくれる人がいるのはありがたいことよ」
「……そうか」
「ええ」
潮丸は、しばらく海を眺めていた。
そして、小さく頷いた。
「なら、また何かあったら知らせる」
「お願いするわ」
「ただし、今度はもう少し分かりやすい奴にしてくれ」
「私に言われても困るわね」
二人は笑った。
それから潮丸は、岸壁の端へ歩いていった。
海面を覗き込み、一度だけ栗原を振り返る。
「じゃあな、役所の人間」
「またね、潮丸さん」
彼は軽く手を振り、そのまま海へ飛び込んだ。
水しぶきは、ほとんど上がらなかった。
数秒後には、どこにいるのかも分からなくなった。
栗原はその姿を見送り、端末を取り出した。
画面には、今回の事案報告書が表示されている。
通報者の欄。
氏名。
住所。
連絡先。
通常の行政書類なら、そこには人間の情報が記載される。
けれど、潮丸には住民票がない。
住所だって、海の中のどこかとしか言いようがない。
「……まったく」
栗原は小さく笑った。
そして、通報者の欄へ、次のように入力した。
《潮丸/波小僧/境港沿岸在住/住民登録なし》
その下に、さらに一行を付け加える。
《地域協力者。過去の通報実績良好。今後も連絡関係を維持すること》
「……よし」
彼女は保存ボタンを押した。
海の向こうでは、夕方の雲がゆっくりと流れている。
境港には、人間が五万八千人ほど暮らしている。
そのほかにも、数えきれないほどの妖怪や、神秘に関わる存在たちが生活している。
もちろん、そのすべてが仲良く暮らしているわけではない。
揉め事もあるし、危険な存在もいる。
だが、少なくとも。
こうして互いに協力できることもある。
それで十分だと、栗原は思った。
◇
10.記録の余白
同日夜。
SCP財団の収容施設。
黒い一時収容コンテナは、複数の検査を経て、専用の保管室へ移されていた。
内部には、今日、美保湾から回収された物体が存在している。
それが何であるかは、まだ分からない。
ただし、外部へ視覚的な情報が漏れない状態では、周囲への異常な影響が著しく弱まることが確認されていた。
水瀬は端末を操作し、暫定報告書を作成していた。
分類は未確定。
収容方法は暫定。
対象の起源も不明。
分からないことばかりだった。
けれど、それで構わない。
未知のものを調べるというのは、そういう仕事だからだ。
彼女は報告書の最後に、今回の現場対応について記した。
《対象海域における異常現象は、現時点で沈静化している。対象物は暫定収容下にあり、継続調査を要する》
そして、少し考えてから、もう一文を追加した。
《本件の早期発見には、地元妖怪による通報が重要な役割を果たした。今後も地域社会との協力体制を維持することが望ましい》
入力を終えると、水瀬は椅子にもたれかかった。
窓のない研究室は、静かだった。
壁の時計は午後九時を回っている。
そろそろ帰宅したいところだ。
しかし、まだ一つだけ確認しなければならない資料が残っていた。
昨日、夢みなとタワーで記録された、児童の体調不良に関する情報である。
氏名は伏せられている。
そこには、ただこう書かれていた。
《小学四年生男子児童一名。展望室にて一時的な体調不良。同行児童の介助により回復。健康被害なし》
水瀬は、しばらくその文章を眺めていた。
そして、資料を閉じた。
「……それでいいでしょう」
必要な調査は済んでいる。
子供たちは無事だった。
今回の事件に関して、それ以上のことを知る必要はない。
少なくとも、今は。
水瀬は端末を終了させ、机の上の資料を整理した。
外へ出ると、廊下には夜間勤務の職員たちが歩いていた。
誰も、今日の事件について特別に騒いではいない。
SCP財団にとって、未知の異常現象を調査し、危険性を評価し、必要に応じて収容することは、日常業務の一つだった。
もっとも、日常業務だからといって、軽く扱ってよいわけではない。
危険なものは危険だ。
分からないものは分からない。
その二つを混同せず、必要な手順を積み重ねていく。
それが、この仕事の基本だった。
水瀬は廊下を歩きながら、小さく欠伸をした。
「……明日は休めるといいんですけど」
誰に聞かせるでもなく呟く。
しかし、その願いが叶うかどうかは分からなかった。
なにしろ、境港という街には、まだまだ調べなければならないことが山ほどあるのだから。
◇
その夜、佐藤酒店では、店主が翌日の配達予定を確認していた。
骨董店『界』では、小鳥遊ホシノが店じまいを終え、娘に早く寝るよう声をかけていた。
境港第二小学校の四年二組では、今日もらった宿題を終えた子供たちが、それぞれの家で夜を過ごしていた。
佐藤蓮も、小鳥遊六花も。
自分たちが昨日見た白いものについて、今日、大人たちが海へ出ていたことなど知らない。
SCP財団の研究員と、日本国超常省機動執行委員会の職員たちが、どのような仕事をしたのかも知らない。
そして、それでよかった。
大人たちが守ろうとしているものの一つは、そういう何でもない日常だったのだから。
港の灯りが、夜の海を照らしている。
黒山は暗く沈み、遠くの住宅地には、ところどころ温かな窓の明かりが浮かんでいた。
海から吹く風は、今日も少し冷たい。
けれど、少なくとも今夜の美保湾に、白い人影は見えなかった。
それは、十分に良い知らせだった。