仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー リメイク版 作:水野芽生
──2013年5月/鳥取県境港市
1.佐藤酒店、土曜日の午前
佐藤酒店の土曜日は、平日よりも少しだけ忙しい。
学校や会社が休みになると、昼間から買い物に来る客が増えるし、週末に家族や知人と集まるため、飲み物をまとめ買いしていく人もいる。近所の飲食店への配達もあれば、空き瓶の回収もある。
町の小さな酒屋というものは、見た目以上に仕事が多いのだ。
「蓮、そっちの箱は持たなくていいぞ」
「大丈夫だよ。そんなに重くないし」
「いや、父さんが持つから。お前は伝票を頼む」
「はーい」
僕は抱えかけていた飲料の箱を床に戻し、カウンターの上に置かれた伝票を手に取った。
五月の土曜日。
今日は学校が休みなので、僕は朝から家の店を手伝っている。
もっとも、手伝うといっても大した仕事ではない。商品の棚を整えたり、値札を確認したり、母さんに頼まれて店の掃除をしたりする程度だ。
父さんは、僕が重いものを持とうとすると大抵止める。
別に僕が特別か弱いわけではない。
単に父さんの身体が丈夫すぎるのである。
ビールケースを軽々と運んでいる姿を見ると、現代の小売業において筋力がどれほど重要な労働資源なのか、身をもって理解できる気がする。
……いや、普通の小学生はそんなことを考えないか。
「蓮、そこにあるお茶の箱、数が合ってるか見てくれる?」
「分かった」
母さんに呼ばれ、僕は商品棚の方へ向かった。
佐藤酒店は、名前のとおり酒類を中心に扱っているけれど、清涼飲料水や菓子、ちょっとした食品も置いている。
近所に大型スーパーはあるものの、わざわざ車を出さずに買い物ができるということで、それなりに利用してもらえているらしい。
特に年配の常連客には、昔からの付き合いを大切にしている人が多い。
父さんも母さんも、そうした客の顔をよく覚えていた。
僕は箱の数を確認し、メモに書き込んだ。
前世でも、こういう作業は何度もやった気がする。
とはいえ、従業員千百七十六人の会社で働いていた頃と比べると、今の方がずっと気楽だった。
少なくとも、納期がどうの、会議資料がどうのという話を聞かずに済む。
その代わり、宿題はある。
人生というものは、どこへ行っても何かしら提出を求められるらしい。
「こんにちはー」
入口の引き戸が開き、聞き慣れた声がした。
「あら、松浦さん。いらっしゃい」
母さんが顔を上げる。
入ってきたのは、六十歳くらいに見える男性だった。
少し丸い顔に、穏やかな目元。背はそれほど高くなく、身なりもごく普通だ。薄い茶色の上着を着ていて、肩から古びた布袋を下げている。
松浦源三さん。
僕が小さい頃から店へ来ている常連客の一人である。
「おはようございます、源三さん」
「おう、蓮坊。今日も手伝いか。感心、感心」
「そんな大したことしてないですよ」
「ほっほっほ。子供が家の仕事を手伝うのは、それだけで立派なもんだ」
源三さんは笑った。
この人は、いつも僕のことを「蓮坊」と呼ぶ。
何だか時代劇に出てくる近所のお爺さんみたいだけれど、嫌な感じはしない。
「松浦さん、今日は何にします?」
父さんが声をかけた。
「うむ。ちょいとまとめて頼みたいんだがな」
「はいはい。何でも言ってください」
源三さんは上着の内側から折り畳んだ紙を取り出し、父さんへ渡した。
父さんはそれを開く。
「ええと……麦茶が二ケース、ミネラルウォーターが一ケース、瓶入りのラムネが二ダース。それから、りんごジュースと炭酸水……」
読み進めるにつれて、父さんの眉が少し上がった。
「結構な量ですね。何か集まりでもあるんですか?」
「まあ、そんなところじゃ。古い知り合いが何人か集まるんでな」
「なるほど。それなら配達しましょうか」
「頼めるかね」
「もちろんですよ。場所はいつものところで?」
「うむ。よろしく頼む」
僕は伝票を覗き込んだ。
ずいぶん変わった組み合わせだ。
酒屋なのに、注文された商品のほとんどが酒ではない。
いや、別に不思議なことではないのだけれど、源三さんは普段、瓶入りの日本酒を一本か二本買っていくことが多いので、少し意外だった。
「今日はお酒、買わないんですね」
僕が尋ねると、源三さんは目を細めた。
「酒を飲まん連中も来るんでな」
「そうなんですか」
「それに、最近の若いのは、酒より甘い飲み物の方が好きでのう」
「へえ」
「わしらの若い頃とは、えらい違いじゃ」
そう言って、源三さんは笑った。
僕も笑い返したけれど、少しだけ疑問に思った。
この人の若い頃って、何年前なんだろう。
まあ、普通に考えれば四十年か五十年前くらいだろう。
それほど気にすることでもない。
「じゃあ、松浦さん。午後に届けますね」
「助かるよ。いつもすまんな」
「いえいえ、毎度ありがとうございます」
源三さんは代金と配達時間を確認し、いつものように母さんと少し世間話をしてから帰っていった。
店の引き戸が閉まる。
「……結構な注文だね」
僕が言うと、父さんは伝票を見ながら頷いた。
「そうだな。まあ、たまにはこういうこともあるさ」
「源三さんって、何してる人なの?」
「昔からこの辺に住んでる人だよ。今は仕事を引退してるらしいけど、町内の付き合いが広いんだ」
「ふうん」
「お前が生まれる前から、よくうちに来てくれてるんだぞ」
父さんはそう言いながら、商品の在庫を確認し始めた。
僕もそれを手伝うことにする。
町の酒屋にとって、常連客の注文はありがたい。
それ以上の事情を、いちいち詮索する必要もないだろう。
そう考えていたときだった。
「こんにちはー!」
店の入口から、明るい声が響いた。
振り向く。
そこには、銀色から桜色へ変わる髪をした女の子が立っていた。
その隣には、もう一人。
見慣れたクラスメイトがいる。
「……小鳥遊さん?」
「やっほー、佐藤君!」
小鳥遊六花は、いつもの人懐っこい笑顔で手を振った。
隣では、高橋美咲さんが小さく会釈している。
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃい。二人とも、お買い物?」
母さんが嬉しそうに声をかけた。
「はい! お菓子とジュースを買いに来ました!」
「まあ、ありがとう。ゆっくり見ていってね」
小鳥遊さんは元気よく返事をすると、早速、菓子棚の前へ向かった。
僕は伝票を置いた。
どうやら、今日の店番は少し賑やかになりそうだった。
2.四年二組の買い物客
「佐藤君、今日もお店の手伝い?」
「うん。まあ、ちょっとだけ」
「偉いねぇ」
「そんなことないよ。ほとんど掃除とかだから」
「それでも偉いと思うけどなあ」
高橋さんがそう言って笑った。
彼女は四年二組の中でも特に社交的な女の子で、小鳥遊さんとは新学期が始まってからすぐに仲良くなったらしい。
今日は二人で商店街の方まで遊びに来たそうだ。
目的はお菓子と飲み物。
実に健全な土曜日の過ごし方である。
「ねえ、六花。これどう?」
高橋さんが小さな菓子の袋を持ち上げた。
「お、いいね。私それ好き」
「じゃあ二つ買おうかな」
「私はこっちにしよっと」
小鳥遊さんは棚を覗き込み、しばらく真剣に悩んでいた。
あの夢みなとタワーでの一件から、まだ数日しか経っていない。
それでも学校では何も変わらなかった。
中島は相変わらず元気だし、田村は理科の話ばかりしているし、大西先生は宿題を忘れた児童にきちんと注意している。
小鳥遊さんも、いつもどおりだった。
ただ、僕と彼女の間では、以前より少しだけ会話が増えた気がする。
気のせいかもしれないけれど。
「そういえば佐藤君、社会科見学の感想文、もう書いた?」
高橋さんが尋ねた。
「うん。昨日終わったよ」
「早っ!」
「そんなに長くないし」
「えー、私まだ半分だよ。港の仕事について何を書けばいいか分かんなくて」
僕は少し考えた。
「船で運んでくるものとか、港で働く人の仕事とかでいいんじゃない?」
「でも、先生が『自分で気づいたことを書きましょう』って」
「じゃあ、港があるおかげで、どういうものが店に並ぶのか考えるとか」
「……なるほど」
高橋さんは感心したように頷いた。
すると、小鳥遊さんがこちらを見た。
「佐藤君って、そういう話好きだよね」
「そう?」
「うん。前も物流の話してたし」
「まあ、興味はあるかな」
「ふーん」
彼女は少しだけ目を細めた。
何だろう。
妙に観察されているような気がする。
「小鳥遊さんも、港の仕事に詳しかったじゃない」
「え?」
「社会科の授業で、輸送費がどうとか言ってたでしょ」
「ああ、あれね」
小鳥遊さんは笑った。
「なんか、気になっちゃって」
「気になっただけで、ああいうこと分かるんだ」
「うーん。まあ、いろいろ?」
ずいぶん曖昧な返事だった。
僕も人のことは言えないので、それ以上は聞かなかった。
すると、高橋さんが二人を見比べながら言った。
「何かさ、佐藤君と六花って、たまに話が難しいよね」
「そうかな?」
「そうだよ。二人とも先生みたいなこと言うし」
僕と小鳥遊さんは、思わず顔を見合わせた。
それから、ほとんど同時に笑った。
「先生ほどじゃないよ」
「そうそう。私たち、ただの小学生だもん」
小鳥遊さんが胸を張って言った。
それについては、少々異論がある。
少なくとも僕は、前世では社会人だった。
そして小鳥遊さんも、普通の小学生にしては妙に大人びている。
……いや、だからといって彼女に何か秘密があると決めつけるのもよくない。
そう思いながら、僕はレジの方へ向かった。
「買うもの決まった?」
「うん!」
小鳥遊さんが菓子の袋を二つ、カウンターに置く。
高橋さんもジュースと菓子を持ってきた。
母さんが会計をする間、僕は袋詰めを手伝った。
「あら、六花ちゃん。今日はお父さんとお母さんは?」
「お父さんはお仕事で、お母さんはお店です」
「そうなの。ホシノさん、元気?」
「はい! 昨日もお昼寝してました!」
「あはは、それは元気そうね」
母さんは楽しそうに笑った。
骨董店『界』の店主である小鳥遊ホシノさんは、母さんとも顔見知りらしい。
小柄で、年齢が分かりにくい、少し変わった雰囲気の女性だと聞いている。
僕はまだ、きちんと話したことがない。
「そういえば、さっき松浦さんが来てたわよ」
母さんが何気なく言った。
すると、小鳥遊さんの手が一瞬止まった。
「松浦さん?」
「ええ。源三さん。知ってる?」
「ああ、源三さん」
小鳥遊さんは、納得したように頷いた。
「知ってますよ。お母さんのお店にも、たまに来ます」
「そうなのね」
「うん。すごく物知りなお爺さんですよね」
「そうそう。昔のこと、何でも知ってるのよ」
母さんは笑いながら、買い物袋を渡した。
小鳥遊さんはそれを受け取り、少しだけ考えるような顔をした。
しかし、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「じゃあ、ありがとうございました!」
「また来てね」
「はーい!」
高橋さんも頭を下げ、二人は店を出ていった。
入口の向こうで、しばらく賑やかな声が聞こえていた。
僕はその背中を見送った。
小鳥遊さんは、源三さんのことを知っているらしい。
まあ、同じ町に住んでいるのだから、別に不思議な話ではない。
それでも、ほんの一瞬だけ見せた表情が、少し気になった。
……本当に、あの子はよく分からない。
ただ、分からないからといって、嫌な気分にはならなかった。
むしろ。
もう少し話してみたいと思った。
◇
3.松浦源三という男
松浦源三は、化け狸である。
本人は、この説明をあまり好まない。
化け狸と一口に言っても、その性質は地方によってずいぶん異なるし、同じ土地に住む仲間でも、生まれや能力には大きな違いがあるからだ。
しかし、人間の書類へ自分の種族を記載する必要があるときには、そう書くのが一番手っ取り早い。
少なくとも「狸系変化能力保有妖怪」と書くよりは、ずっと分かりやすい。
「……最近の人間は、何でも細かく分けたがる」
源三は、そんなことをよくぼやいていた。
もっとも、彼自身は人間社会への適応が進んでいる方だった。
人間の姿へ化けることができ、普通の言葉を話し、買い物もできる。
市内には正式な住所があり、住民登録もしている。
税金を納めた経験もあれば、役所で書類を発行してもらったこともある。
そうした生活を、源三は長く続けてきた。
ただし、彼のような妖怪は、境港では少数派だった。
この街には非常に多くの妖怪が暮らしているが、その大多数は人間の住民登録などしていない。
山に住む者。
水辺に暮らす者。
古い建物や樹木に結び付いている者。
人間の姿を取れない者。
あるいは、人間の生活にほとんど興味を持たない者。
彼らには彼らの暮らしがあり、人間の行政制度とは別の仕組みで生活している。
もちろん、それで不便がないわけではない。
人間の町で売っているものが欲しくなることもある。
昔なら山や海で手に入ったものが、今では手に入りにくくなっている場合もある。
そういうとき、源三のような者が買い物を引き受けることがあった。
別に大した仕事ではない。
頼まれたものを買い、代金を受け取り、必要な場所へ届ける。
それだけだ。
ただし、今回のように飲み物を何ケースも注文されると、さすがに自分で運ぶのは面倒だった。
「……便利な時代になったもんじゃ」
源三は、自宅の縁側で茶を飲みながら呟いた。
昔なら、これだけの量を集めるのに何日かかったか分からない。
それが今では、電話一本、あるいは店に顔を出して頼むだけで済む。
しかも、配達までしてくれる。
人間というのは、なかなか大したものだ。
昔は恐ろしい武器を作ることばかりに感心していたが、最近では物流の発達の方がよほど便利だと思う。
もっとも、その便利さを享受している妖怪の中には、そもそも金銭というものをよく理解していない者もいる。
源三は茶をすすりながら、少し笑った。
「さて、そろそろ準備するかのう」
今日は、近所の妖怪たちが何人か集まる予定だった。
大げさな会合ではない。
何か重大な議題があるわけでもない。
ただ、暖かくなってきたので、顔を合わせて近況を話そうという程度の集まりだ。
人間で言うなら、町内会の茶飲み話に近い。
ただし、参加する者の年齢は、少々ばらつきが大きかった。
十年ほどしか生きていない者もいれば、二百年以上生きている者もいる。
妖怪の寿命というものは、実にさまざまだ。
源三自身も、いつかは死ぬ。
長く生きているからといって、不死身というわけではない。
怪我をすれば痛いし、病に倒れることもある。老いて身体が弱る者もいる。
妖怪の多くは人間より長寿だが、それは永遠に生きるという意味ではなかった。
それどころか、人間より短い寿命しか持たない妖怪もいる。
源三は、そうした者たちとも長く付き合ってきた。
自分より後に生まれ、自分より先に死んでいった仲間は、一人や二人ではない。
だからといって、悲しみが薄れるわけでもない。
ただ、長い年月の中で、別れというものに少しずつ慣れていく。
それだけのことだった。
「……まあ、今日は楽しくやるとするか」
源三は湯呑みを置き、立ち上がった。
庭の向こうでは、小さな影が何かを運んでいる。
人間の目には、風で落ち葉が動いているようにしか見えないだろう。
源三はその影へ声をかけた。
「おーい、そっちの準備はどうじゃ?」
『できたー!』
甲高い声が返ってきた。
『でも、ラムネはまだ?』
「午後に来る」
『ほんと?』
「ほんとじゃ」
『やったー!』
小さな影が跳ねた。
源三は笑った。
まったく、最近の若い妖怪は、甘い飲み物が好きで困る。
もっとも、そういうところは人間の子供と大して変わらないのかもしれなかった。
4.配達先は古い家
午後一時半。
父さんの軽ワゴン車が、佐藤酒店の前に停まっていた。
荷台には、源三さんから注文された飲み物が積まれている。
僕は助手席に座り、シートベルトを締めた。
「よし、行くぞ」
「うん」
父さんがエンジンをかける。
車はゆっくりと店の前を離れ、住宅街の道路へ出た。
今日の配達先は、水木しげるロードから少し外れた場所にある古い家だという。
源三さんが昔から管理している建物らしい。
「蓮、あの伝票取ってくれるか」
「はい」
僕はダッシュボードの上に置かれた伝票を手渡した。
「松浦さんのところ、久しぶりだな」
「前にも行ったことあるの?」
「ああ。何度かな。古い家だけど、きちんと手入れされてるんだ」
「ふうん」
「昔は、あの辺りにも小さな店がいくつかあったんだけどな。今はずいぶん減ったよ」
父さんは道路を見ながら話した。
境港市は、人口五万八千人ほどの地方都市だ。
港湾産業や観光業、研究施設などのおかげで、比較的仕事の多い街ではある。
けれど、古い商店街がすべて繁盛しているわけではない。
大型店舗へ客が流れることもあるし、店主の高齢化で閉店する店もある。
僕の前世でも、そういう話は珍しくなかった。
地方都市というのは、どこへ行っても似たような悩みを抱えているものらしい。
「この辺りだな」
父さんが車を減速させた。
道路の脇に、古い木造家屋が並んでいる。
観光客の多い通りから少し離れただけなのに、周囲はずいぶん静かだった。
目的の家は、その一角にあった。
築年数は相当古そうだが、屋根瓦はきれいで、庭木も手入れされている。
玄関の脇には、少し変わった形の石灯籠が置かれていた。
「こんにちはー! 佐藤酒店です!」
父さんが声をかける。
しばらくすると、引き戸が開いた。
「おお、来たか。待っとったぞ」
源三さんだった。
「お待たせしました。ご注文の品です」
「うむ、助かる」
父さんは荷台から箱を下ろし、僕は軽いものを運ぶ。
源三さんが案内したのは、玄関の奥にある広い土間だった。
そこには、すでに木箱や折り畳み式の机が用意されている。
「この辺りに置けばいいですか?」
「ああ、そこへ頼む」
父さんは次々と箱を運び込んだ。
僕も小さな飲料の箱を一つ持ち、土間へ入る。
家の中は、少し変わった匂いがした。
古い木材。
畳。
湿った土。
それから、どこか懐かしい、草のような匂い。
別に嫌な匂いではない。
むしろ、昔の日本家屋らしい落ち着いた空気だった。
ただ、何となく不思議だった。
家の中が、外から見た印象より広いような気がする。
……気のせいだろうか。
僕は周囲を見回した。
廊下の奥には、すりガラスの入った引き戸がある。
その向こうから、かすかに物音が聞こえた。
何人か、人がいるらしい。
源三さんが言っていた集まりの参加者だろう。
「蓮坊、そっちは重くないか?」
「大丈夫です」
「ほっほ、頼もしいのう」
「いや、軽い箱ですから」
僕がそう答えると、源三さんは楽しそうに笑った。
そのときだった。
廊下の奥から、小さな声が聞こえた。
『……ラムネ?』
僕は顔を上げた。
すりガラスの向こうに、何かが動いたような気がした。
小さな影だった。
人間の子供よりも、ずっと小さい。
いや、姿勢を低くしていただけかもしれない。
『ラムネ、来た?』
また声がした。
少し甲高い、子供のような声だ。
僕は首を傾げた。
小さな子供がいるのだろうか。
けれど、さっきの影は、どうにも人間らしくなかった。
「蓮」
父さんに呼ばれた。
「そろそろ戻るぞ」
「あ、うん」
僕は慌てて振り返った。
父さんは荷物を運び終え、源三さんと伝票を確認しているところだった。
「松浦さん、これで全部ですね」
「うむ。確かに受け取った」
「いつもありがとうございます」
「こちらこそ。佐藤さんには世話になっとるよ」
源三さんは、心から嬉しそうに言った。
「昔と比べると、こういう買い物もずいぶん楽になったもんじゃ」
「そうですね。今は電話一本で注文できますし」
「いやあ、人間の商売というのは大したもんじゃ」
源三さんはそう言って、また笑った。
僕はその言葉を、少し不思議に思った。
人間の商売。
普通、人間同士の会話で、そんな言い方をするだろうか。
……まあ、言う人もいるのかもしれない。
古風な表現というだけだろう。
「じゃあ、失礼します」
「うむ。また頼むよ」
「はい。毎度ありがとうございます」
父さんが頭を下げ、僕もそれに続いた。
玄関を出る。
五月の午後の日差しが、少しだけ庭へ差し込んでいた。
車へ戻る途中、僕は一度だけ家の方を振り返った。
廊下の奥に、まだ小さな影が見えたような気がした。
けれど、今度は何も聞こえなかった。
5.大人は何でも知っているわけではない
帰りの車の中で、僕は父さんに尋ねた。
「ねえ、父さん」
「ん?」
「源三さんって、結構いろんな人と付き合いがあるの?」
「そうみたいだな」
「さっき、家の奥に子供がいたみたいだけど」
「ああ、誰か来てたのかもな」
「……そうなんだ」
父さんは、別に気にした様子もなかった。
僕は少し考えた。
もちろん、客の家にほかの人がいることなど、珍しくも何ともない。
しかし、あの小さな影は、どうにも気になる。
前世の記憶を持っているせいか、僕は少々、物事を深読みしすぎるところがある。
それを自覚しているだけに、こういうときは判断が難しい。
「……変わった家だったね」
僕が言うと、父さんは頷いた。
「古い家だからな。あの辺りには、昔からの建物が結構残ってる」
「そういう意味じゃなくて」
「ん?」
「いや、何でもない」
僕は口を閉じた。
父さんは少しだけ僕を見たが、それ以上は追及しなかった。
しばらく車を走らせたあと、父さんが言った。
「まあ、いろんな家があるからな」
「うん」
「商売してると、変わった注文を受けることもあるし、知らない場所へ配達することもある。でも、お客さんがちゃんと代金を払って、普通に買い物してくれるなら、それで十分なことも多いんだ」
「……なるほど」
「もちろん、危ないことやおかしなことがあれば話は別だけどな」
父さんは笑った。
「それに、人の家の奥を勝手に覗くのはよくないぞ」
「分かってるよ」
「ならいい」
僕は窓の外へ目を向けた。
車は住宅街を抜け、見慣れた道路へ戻っていく。
父さんは、源三さんについて特別な疑問を持っていないらしい。
それが正しいのかどうか、僕には分からない。
ただ、少なくとも父さんは、あの人を信頼している。
長年付き合ってきた客として。
そして、たぶん、それで十分なのだろう。
何もかも知っていることだけが、人付き合いではない。
そんなことを、少しだけ考えた。
◇
6.ラムネを待っていた者たち
佐藤酒店の車が見えなくなった頃、松浦源三は家の奥へ戻った。
すりガラスの引き戸を開く。
その向こうには、普通の人間が想像するのとは少し違った光景が広がっていた。
「……おいおい、まだ開けるなと言ったじゃろう」
『だって、ラムネ来たんでしょ!』
小さな影が跳ねた。
その姿は、人間の子供よりもずっと小さい。
頭から背中にかけて、淡い緑色の毛のようなものが生えている。顔は丸く、目は大きく、手足は細い。
浜灯と呼ばれる、小型の妖怪だった。
名前は灯吉。
人間で言えば、まだ子供のような性格をしている。
しかし、実際には生まれてから十三年ほど経っていた。
浜灯という種は、あまり長生きしない。
個体差はあるものの、二十年ほど生きれば長寿と呼ばれることもある。
妖怪という存在の中では、かなり短命な部類だった。
源三は灯吉の頭を軽く撫でた。
「ほれ、慌てるな。ちゃんと買ってきたわい」
『やった!』
「瓶を割らんようにするんじゃぞ」
『分かってる!』
灯吉は嬉しそうに跳ねた。
その隣では、別の妖怪が呆れたように見ている。
古い土蔵に住み着いている、小柄な付喪神だった。
「……まったく、毎回同じ騒ぎだな」
『だってラムネだよ!』
「分かった分かった」
その向こうには、水辺からやって来た妖怪が何人か座っていた。
体表が湿っている者もいれば、全身が枯れ草のようなもので覆われている者もいる。
人間の子供ほどの大きさの者。
猫ほどの大きさの者。
座布団の上にちょこんと座れる程度の者。
姿も大きさも、ばらばらだった。
ただし、ここにいる妖怪たちが全員、同じ仲間というわけではない。
境港には、それぞれ異なる生まれや性質を持つ妖怪が大勢暮らしている。
今日集まっているのは、その中でも比較的人間の文化に親しみがあり、互いに顔見知りの者たちだった。
「ほれ、飲み物じゃ」
源三が箱を開けると、歓声が上がった。
瓶入りラムネ。
麦茶。
りんごジュース。
炭酸水。
人間から見れば、何ということのない飲み物である。
しかし、ここにいる妖怪たちの中には、普通の商店へ買い物に行けない者も多い。
人間の姿へ化けられない者もいれば、そもそも人間社会へ出ていくことを好まない者もいる。
そんな彼らにとって、源三が買ってくる品物は、ちょっとした楽しみだった。
「……ところで、潮丸はまだか?」
源三が尋ねた。
「そろそろ来るはずだが」
すると、部屋の隅から声がした。
『来とるぞ』
見ると、いつの間にか潮丸が座っていた。
波小僧の一種で、境港の海辺に長く住み着いている妖怪だ。
濡れたような黒髪に、小柄な身体。
先日、美保湾に現れた白い怪異を通報したのも彼だった。
「おお、潮丸。いつ来た?」
「さっきだ。裏から入った」
「相変わらず気配がないのう」
「海の者だからな」
潮丸は、そう言って笑った。
源三は麦茶の入った器を差し出した。
「ほれ」
「おう、すまん」
潮丸はそれを受け取り、一口飲んだ。
それから、部屋の中を見回した。
「……しかし、今日はえらく賑やかだな」
「灯吉がラムネを楽しみにしとったからのう」
『そうだよ!』
灯吉が元気よく答えた。
潮丸は小さく笑った。
「そうか。じゃあ、ゆっくり飲め」
『うん!』
源三はその様子を眺めながら、少しだけ目を細めた。
妖怪の寿命は、実にさまざまだ。
潮丸のように百年以上生きている者もいる。
源三自身も、長い年月を過ごしてきた。
一方、灯吉のように、人間よりずっと短い寿命を持つ者もいる。
だからといって、短命な妖怪が不幸というわけではない。
彼らには彼らの時間があり、その中で生まれ、育ち、働き、遊び、老いていく。
人間と同じように、病気になることもあれば、事故で命を落とすこともある。
妖怪だからといって、死と無縁ではなかった。
源三は、昔の仲間を何人か思い出した。
もう会えない者たちだ。
長生きした末に亡くなった者もいれば、思いがけない事故で命を落とした者もいる。
中には、人間の一生よりも短い年月しか生きられなかった者もいた。
それでも、彼らが生きていたことに変わりはない。
「……源三?」
潮丸が声をかけた。
「何じゃ」
「どうした。ぼうっとして」
「いや、何でもない」
源三は笑った。
「ちょいと昔のことを思い出してのう」
「……そうか」
潮丸は、それ以上聞かなかった。
長く生きている者同士、そういうことは珍しくない。
代わりに、彼はラムネを飲んでいる灯吉の方へ目を向けた。
灯吉は瓶の中のビー玉を不思議そうに眺めている。
『ねえ、これどうやって入れたの?』
「工場で入れるんじゃろ」
『どうやって?』
「……知らん」
『えーっ!』
灯吉が不満そうに声を上げた。
潮丸は笑った。
源三も笑った。
部屋の中には、しばらく賑やかな声が響いていた。
◇
7.誰が、どこに住んでいるのか
日が傾き始めた頃、集まりは少し落ち着いてきた。
飲み物の瓶が何本か空になり、机の上には菓子の包みが並んでいる。
灯吉はすっかり満足したらしく、座布団の上で丸くなっていた。
その隣では、別の小妖怪が器用に菓子の袋を畳んでいる。
「……なあ、源三」
潮丸が言った。
「何じゃ」
「お前さん、さっきの店で何も言われなかったか?」
「何をじゃ」
「こんなに飲み物を買って、どうするんだって」
「ああ。集まりがあると言ったら、それで納得してくれたわい」
「……そうか」
潮丸は少し考えた。
「人間ってのは、不思議なもんだな」
「何がじゃ」
「俺たちのことなんざ、ほとんど知らねえくせに、こうして物を売ってくれる」
源三は湯呑みを置いた。
「そりゃあ、商売じゃからのう」
「そういうもんなのか」
「そういうもんじゃ」
源三は笑った。
「人間の商売というのは、案外よくできておる。金を払えば、相手が何者だろうと、普通に品物を渡してくれることがある」
「……まあ、そうだな」
「もちろん、何でもそう簡単にいくわけではないがのう」
源三は少しだけ真面目な顔になった。
妖怪と人間の関係は、昔から複雑だった。
友好的な付き合いもあれば、争いもあった。
人間を襲う妖怪もいたし、妖怪を退治する人間もいた。
互いのことを理解できないまま、何百年も同じ土地で暮らしてきた例だってある。
ただ、近年は少しずつ状況が変わっている。
人間の超常組織が整備され、危険なものとそうでないものを区別しようとする動きが広がった。
妖怪の中にも、人間社会へ積極的に関わる者が増えている。
それでも、すべての妖怪が人間として暮らす必要はない。
住民登録をしていないからといって、この土地に住んでいないことにはならない。
「俺は、ああいう店に入れねえからな」
潮丸が言った。
「人間の姿になれんわけじゃないが、長く保たねえし、身体が乾いてくる」
「お前さんは海の方が落ち着くじゃろ」
「ああ」
潮丸は頷いた。
「それに、住民票だの何だの、面倒くせえ」
「ほっほっほ。それは分かる」
「お前さんは、よくやるよ」
「慣れれば便利なもんじゃぞ」
源三は笑った。
「病院にも行けるし、銀行も使える。買い物にも困らん。何より、住所があるというのは便利じゃ」
「俺には海がある」
「それも一つの暮らし方じゃな」
潮丸は満足そうに頷いた。
源三は、しばらくその横顔を眺めていた。
海で暮らす妖怪。
山で暮らす妖怪。
人間の町で暮らす妖怪。
古い家屋に住み着く妖怪。
その暮らし方は、まったく違う。
しかし、同じ街に住んでいることには変わりない。
人間の行政地図には、それぞれの生活圏を示す境界線など書かれていない。
市役所の人口統計にも、大多数の妖怪は含まれていない。
それでも、この街には確かに彼らがいる。
「……そういえば」
潮丸が思い出したように言った。
「この前の海の白いやつ、もういねえみたいだな」
「ほう。片付いたか」
「ああ。役所の連中と、財団の連中が船を出して、何やらやってた」
「SCP財団か」
「そうだ」
源三は頷いた。
「最近は、ああいう連中も仕事が早いのう」
「まあな。俺が若い頃なら、どうなってたか分からねえ」
「昔は、何かあっても近所の連中だけで何とかするしかなかったからのう」
潮丸は麦茶を飲んだ。
「……便利な時代になったもんだ」
「お前さんもそう思うか」
「ああ」
源三は笑った。
どうやら、自分と同じことを考えていたらしい。
部屋の奥では、灯吉が寝返りを打っていた。
短い寿命を持つ小さな妖怪。
その傍らには、百年以上生きている波小僧。
そして、もっと長くこの街で暮らしている化け狸。
彼らは、同じ部屋で、同じ飲み物を分け合っていた。
それが特別なことなのかどうか、源三にはよく分からなかった。
ただ、こういう時間があるのは悪くない。
そう思った。
8.帳簿に書かれた名前
夕方。
佐藤酒店では、父さんが今日の売上を確認していた。
僕は隣で、空になった段ボールを片付けている。
「今日は結構売れたね」
「そうだな。松浦さんの注文が大きかったからな」
「確かに」
父さんは伝票を一枚取り出した。
そこには、今日配達した商品の名前と数量、代金が記載されている。
注文者の欄には、こう書かれていた。
──松浦源三。
僕はその名前を眺めた。
「源三さん、いつも何人くらい集めてるんだろうね」
「さあな。結構、知り合いが多いらしいから」
「そうなんだ」
「昔からこの辺りに住んでる人だからな。顔も広いんだろう」
父さんはそう言って、帳簿を閉じた。
「よし。今日の仕事はこのくらいにするか」
「お疲れさま」
「おう。蓮もありがとうな」
父さんは僕の頭を軽く撫でた。
母さんが奥から顔を出す。
「二人とも、お疲れさま。そろそろご飯にするわよ」
「はーい」
僕は返事をして、店の奥へ向かった。
今日も、普通の土曜日だった。
学校の友達が買い物に来て、常連客の注文を受けて、父さんと配達へ行った。
少し変わったことがあったとすれば、源三さんの家にいた小さな影くらいだ。
けれど、それだって、何かの見間違いかもしれない。
僕はそう考えた。
前世では、それなりに長く社会人をやっていた。
世の中には、知らない方がいいこともあるし、知る必要のないこともある。
だから、何でもかんでも調べようとするのは、あまり賢いことではない。
それでも。
今日のことを思い出すと、少しだけ気になる。
源三さんの家。
あの古い建物。
奥から聞こえた声。
そして、ほんの一瞬だけ見えた、小さな影。
「……まあ、いっか」
僕は小さく呟いた。
今のところ、何か困ったことが起きたわけでもない。
源三さんは、昔からうちの店へ来てくれている常連客だ。
父さんも母さんも、あの人を信頼している。
それなら、それで十分なのだろう。
僕は居間へ入り、夕食の準備を手伝うことにした。
◇
9.境港の、もう一つの日常
同じ頃。
松浦源三の家では、集まりが終わろうとしていた。
妖怪たちはそれぞれの生活圏へ帰っていく。
水辺へ向かう者。
古い家屋へ戻る者。
山の方へ歩いていく者。
人間の姿に化けて、普通の道路を歩いて帰る者もいた。
灯吉は、空になったラムネの瓶を大切そうに抱えていた。
「……それ、どうするんじゃ?」
源三が尋ねる。
『持って帰る!』
「瓶じゃぞ」
『うん! きれいだから!』
灯吉は嬉しそうに笑った。
瓶の中には、青いビー玉が入っている。
夕方の光を受けて、小さく輝いていた。
源三は少しだけ考えた。
空き瓶は、できれば店へ返した方がいい。
けれど、今日くらいは構わないだろう。
「……割らんようにな」
『うん!』
灯吉は元気よく頷いた。
それから、小さな身体で瓶を抱え、庭の方へ駆けていった。
源三は、その背中を見送った。
浜灯の寿命は短い。
灯吉があと何年生きられるか、源三には分からない。
もっとも、それは人間でも同じことだった。
百年生きる者にも、二十年しか生きない者にも、明日が必ず来るという保証はない。
だからこそ。
今日、楽しく過ごせたことには意味がある。
源三は、そう考えていた。
「……さて」
彼は腰を上げた。
部屋には、まだ片付けなければならないものが残っている。
空き瓶。
菓子の包み。
使い終わった器。
それから、畳の上に散らばった小さな足跡。
まったく、若い連中は片付けをしない。
源三は苦笑しながら、箒を手に取った。
人間の町では、そろそろ夕食の時間だろう。
佐藤酒店も、きっと店じまいの準備をしている頃だ。
今日の買い物については、あの店の帳簿にも記録が残るはずだ。
注文者は松浦源三。
それだけ。
飲み物を分け合った妖怪たちの名前は、どこにも書かれていない。
灯吉も、潮丸も、ほかの仲間たちも。
彼らの大多数は、境港市の人口統計には含まれていない。
けれど、だからといって、この街に存在しないわけではない。
暮らしている。
食べている。
働いている。
笑っている。
そして、いつかは死んでいく。
人間とは少し違う形で、それぞれの人生を送っている。
源三は箒を動かしながら、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの境港。
遠くでは、港の灯りが少しずつ点き始めていた。
海から吹く風が、古い家の軒を揺らしている。
人間の住む街。
妖怪の住む街。
その二つは、必ずしも別々の場所にあるわけではない。
むしろ、同じ道を歩き、同じ店で買い物をし、同じ夕暮れを眺めながら、互いのことをよく知らずに暮らしている場合の方が多い。
源三は、そんな境港という街が嫌いではなかった。
「……また来月も、何か頼むかのう」
彼は小さく呟き、箒を動かし続けた。
佐藤酒店の帳簿には、今日も一人の客の名前が記録されている。
しかし、その一行の向こう側には、もっとたくさんの暮らしがあった。
人間が知らないだけで。
妖怪たちは、今日もこの街に生きている。