仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー リメイク版 作:水野芽生
――2013年5月/鳥取県境港市
1.あの家族を見てしまった翌日
人間は、予想外の出来事に遭遇すると、案外まともな反応ができないものである。
前世で会社勤めをしていた頃、僕はそれを何度か経験した。
突然の仕様変更。
予定外の会議。
月曜日の朝に発覚する、金曜日の夕方には存在していなかったはずの仕事。
そういうものに直面すると、最初の数秒間は頭が真っ白になる。
だが、いくら何でも限度というものがある。
昨日、僕はその限度を知った。
五条悟。
小鳥遊ホシノ。
その二人が夫婦として暮らし、娘を育てている。
しかも、その娘が僕のクラスメイトである。
……いや、何度考えてもおかしいだろう。
「蓮、ご飯冷めるわよ」
「あ、うん」
母さんに呼ばれて、僕は慌てて箸を動かした。
五月の水曜日。
今日も佐藤酒店の朝は平和だった。
父さんは新聞を読みながら朝食を食べ、母さんは今日の配達予定について何か話している。
僕は、その会話へ適当に相槌を打ちながら、頭の中で昨日の光景を繰り返していた。
白髪の長身男性。
黒いサングラス。
やたらと明るい声。
娘をからかって楽しそうに笑う五条悟。
そして、ピンク色の髪に、どこか眠たげな表情。
自分のことを「おじさん」と呼ぶ、小柄な女性。
小鳥遊ホシノ。
……うん。
どう考えても、あの二人だった。
僕が前世で知っていた、漫画とゲームの登場人物。
しかも、ただ容姿が似ているだけではない。
名前も、話し方も、性格も一致している。
これを偶然で片付けようとするのは、少々無理があるのではなかろうか。
「蓮、昨日は五条さんのところでお菓子をご馳走になったんだって?」
父さんが尋ねた。
「……うん」
「よかったな」
「うん」
「悟さん、甘いもの好きだからなあ」
「……うん」
父さんは満足そうに頷いた。
僕は、思わず顔を上げる。
五条悟が甘いもの好きだということを、近所の酒屋の店主が普通に知っている。
冷静に考えると、それだけの話だ。
しかし、僕の頭の中では、昨日から何かが盛大に衝突していた。
前世で知っていた物語。
今の世界で実際に生活している人間。
その二つが、どうにも噛み合わない。
「……父さん」
「ん?」
「五条さんって、何の仕事してるの?」
「さあなあ。教育関係の仕事とか、いろいろやってるらしいぞ」
「……それだけ?」
「ん?」
「いや、何でもない」
僕は味噌汁を飲んだ。
父さんは不思議そうな顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。
昨日も同じような会話をした気がする。
結局、僕は何も分かっていない。
ただ一つ、確かなことがあった。
今日、学校へ行けば、小鳥遊六花がいる。
あの五条悟と小鳥遊ホシノの娘。
そして、夢みなとタワーで僕を助けてくれた女の子。
……。
…………。
聞いてみたい。
いや、聞くべきではない。
でも、やっぱり気になる。
前世で会社員だった僕には、ひとつだけ自慢できる能力があった。
それは、聞かなくてもよいことを、聞かずに済ませる能力である。
職場で余計な質問をすると、余計な仕事が増える。
その経験則は、なかなか役に立った。
しかし。
どうやら、今日ばかりは無理そうだった。
◇
2.四年二組の、少し変わった二人
「おはよう、佐藤君!」
教室に入った途端、小鳥遊六花が手を振ってきた。
銀色から桜色へ変わる髪。
明るい笑顔。
少し大人びた雰囲気。
そして、その父親は五条悟である。
……駄目だ。
昨日までとは、見え方が違いすぎる。
「お、おはよう」
「……ん?」
小鳥遊さんが首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「昨日もそんなこと言ってたよね」
「気のせいだよ」
「絶対、気のせいじゃないと思うけど」
彼女は笑った。
僕は、その顔を正面から見られなかった。
別に怖いわけではない。
少なくとも、今までの小鳥遊さんは普通に親切な女の子だった。
夢みなとタワーでは助けてもらったし、学校でもよく話す。
けれど、親の正体を知ったあとでは、どうしても考えてしまう。
五条悟と小鳥遊ホシノの娘。
……それ、いったいどんな能力を持っているんだ?
もしかして、あの海の怪異を見ても平気だったのは、そのせいなのだろうか。
「佐藤!」
後ろから肩を叩かれた。
中島大輔だった。
「今日の体育、ドッジボールだって!」
「へえ」
「へえ、じゃねえよ! 楽しみだろ!」
「まあ、それなりに」
「何だよ、テンション低いなあ」
中島は少し不満そうだった。
すると、小鳥遊さんが笑いながら口を挟んだ。
「大輔君、佐藤君はまだ朝だから眠いんじゃない?」
「そうなのか?」
「たぶん」
……勝手に決めないでほしい。
もっとも、寝不足なのは事実だった。
昨夜はあれこれ考えて、なかなか眠れなかったのである。
「じゃあ体育までに起きとけよ!」
中島はそう言って、自分の席へ戻っていった。
小鳥遊さんは、その背中を見送ってから、僕へ少し近づいた。
「ねえ、佐藤君」
「何?」
「昨日、うちで何か変なことあった?」
僕は固まった。
直球だった。
実に見事な直球である。
「……別に」
「ふーん」
彼女は少しだけ目を細めた。
「パパのこと、ずいぶん気にしてたみたいだけど」
「……背が高かったから」
「まだそれ言うの?」
「本当だよ」
「ふふっ」
明らかに信じていない顔だった。
……うん。
この子、たぶん結構鋭い。
今さらながら、そう思った。
そのとき、高橋美咲さんがやって来た。
「六花ー、ちょっといい?」
「何?」
「この髪、変じゃない?」
高橋さんは、後ろでまとめた髪を気にしているようだった。
結び目が少し緩んでいて、毛先が片側へ寄っている。
「うーん、ちょっとだけ曲がってるかな」
「やっぱり?」
「一回ほどいた方がいいかも」
高橋さんは困った顔をした。
「えー、でも結び直すの面倒なんだよね」
僕は、つい口を挟んだ。
「ゴムを外す前に、引っかかってる髪を少しずつ緩めた方がいいよ」
「え?」
「そのまま引っ張ると痛いし、髪が絡まるから」
言ってから、しまったと思った。
高橋さんが、こちらを見ている。
小鳥遊さんも、こちらを見ている。
「……佐藤君、詳しいね」
高橋さんが言った。
「……母さんが、そういうこと言ってたから」
「ああ、なるほど」
高橋さんは素直に納得した。
しかし、小鳥遊さんは少し違った。
「……へえ」
妙に面白そうな顔をしている。
僕は、嫌な予感がした。
「何?」
「いや、別に?」
彼女は笑った。
その笑顔が、どうにも意味深だった。
……何だろう。
この子、僕について何か気づいているのだろうか。
いや、まさか。
そんなはずはない。
僕の秘密は、誰にも話していないのだから。
◇
3.放課後の質問
その日の授業は、いつもどおりだった。
国語。
算数。
社会。
そして体育。
中島はドッジボールで大活躍し、松本健太と妙な対抗意識を燃やしていた。
小鳥遊さんも、なかなかの腕前だった。
ただし、彼女は時々、相手の動きを妙に正確に読んでいるように見える。
……いや、考えすぎだろう。
運動神経のよい子供なんて、いくらでもいる。
五条悟の娘だからといって、何でも超常能力に結び付けるのはよくない。
そう自分に言い聞かせた。
そして、放課後。
「小鳥遊さん」
僕は、とうとう声をかけた。
「ん?」
「ちょっと話せる?」
彼女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、にこっと笑った。
「いいよ」
僕たちは、学校を出て、中央地区の住宅街を歩いた。
ほかの児童たちも、それぞれの家へ帰っていく。
中島は野球の練習があるらしく、途中で別れた。
高橋さんも家の方向が違うので、校門の近くで手を振って帰っていった。
やがて、僕たちは小さな公園の前へ来た。
住宅街の中にある、ごく普通の公園だ。
ベンチが二つ。
滑り台が一つ。
それから、小さな砂場。
平日の午後なので、今は誰もいなかった。
「ここでいい?」
小鳥遊さんが尋ねた。
「うん」
僕たちはベンチに座った。
しばらく、沈黙が続いた。
小鳥遊さんは、僕が話し始めるのを待っているようだった。
……さて。
どう切り出そう。
何と言えば自然だろう。
昨日、君の父親を見て、前世で読んでいた漫画の最強キャラクターと瓜二つだったので驚きました。
……駄目だ。
どう考えても怪しい。
それなら、もっと遠回しに尋ねるべきだろう。
例えば、仕事の内容とか。
特殊な技能とか。
そういうところから少しずつ。
「……ねえ、小鳥遊さん」
「うん?」
彼女がこちらを向いた。
僕は、一度だけ深呼吸した。
そして。
「ねえ小鳥遊さん、お父さんて実は霊能者だったり、超能力者だったりしない?」
……。
…………。
言ってしまった。
よりにもよって、真正面から。
遠回しに尋ねるという当初の計画は、どこへ行ったのだろう。
自分でも分からない。
小鳥遊さんは、目を丸くしていた。
さっきまでの明るい笑顔が、ぴたりと止まっている。
それから、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……えっと」
「……うん」
「どうして、そう思ったの?」
声は穏やかだった。
けれど、先ほどまでとは少し違う。
冗談を言っているときの彼女ではない。
何かを確かめようとしている声だった。
「……何となく」
僕は答えた。
すると、小鳥遊さんはじっとこちらを見た。
「佐藤君」
「はい」
「それ、昨日からずっと考えてた?」
「……うん」
「そっか」
彼女は少しだけ空を見上げた。
五月の空は、今日は晴れていた。
白い雲がゆっくりと流れている。
「……霊能者とか超能力者っていうのは、ちょっと違うかな」
小鳥遊さんが言った。
僕は息を止めた。
「でも、普通の人じゃないよ」
「……そうなんだ」
「うん」
彼女は、僕の顔を見た。
「お父さんは、呪術師なの」
……。
…………。
僕は、ゆっくりと頷いた。
予想していた答えだった。
予想していた。
はずだった。
しかし。
実際に聞くと、やっぱり衝撃が大きい。
「……呪術師」
「うん」
「……五条悟さんが」
「そう」
小鳥遊さんは頷いた。
「それから、西洋の魔術も勉強してるよ。だから、霊能者とか超能力者っていう言い方だと、ちょっと違うんだよね」
……。
…………。
魔術まで?
あの五条悟が?
何だその追加設定。
いや、確かに、この世界ならあり得るのかもしれない。
そもそも、僕の知っている作品とは歴史が違うのだから。
……待て。
今は、そこではない。
「……小鳥遊さん」
「何?」
「呪術って、例えば……空間とかに関係するもの?」
彼女の表情が、また変わった。
「……佐藤君」
「うん」
「何で、そこまで知ってるの?」
僕は、答えられなかった。
そして小鳥遊さんも、しばらく黙っていた。
公園には、風の音だけが聞こえている。
僕たちは互いを見つめた。
どうやら、いよいよ逃げ道がなくなってきたらしい。
◇
4.存在しないはずの漫画
「……一つ、聞いてもいい?」
小鳥遊さんが言った。
「うん」
「佐藤君、『呪術廻戦』って知ってる?」
僕は、全身が固まった。
……。
…………。
………………。
え?
今。
何て言った?
「……小鳥遊さん」
「うん」
「……それ、どこで知ったの?」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
彼女は、僕の顔をじっと見ていた。
そして、何かを確信したように、小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
「……やっぱり?」
「うん。昨日の佐藤君、絶対おかしかったもん」
小鳥遊さんは、少し困ったように笑った。
「お父さんを見た瞬間、何か知ってる顔してたし。お母さんを見たときも、同じだった」
僕は黙っていた。
彼女は続ける。
「だから、もしかしてって思ってたんだ」
「……何を?」
小鳥遊さんは、一度だけ周囲を見回した。
公園には、僕たち以外誰もいない。
彼女は声を落とした。
「……佐藤君も、前の人生の記憶があるんじゃないかなって」
……。
…………。
僕は、息を呑んだ。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……小鳥遊さんも?」
「……うん」
彼女は頷いた。
「あるよ」
その返事を聞いた瞬間、僕の頭の中で、何かがすとんと落ちた。
四月の始業式。
授業中の妙に大人びた発言。
港の物流に関する知識。
会社の先輩という、不自然な例え。
そして、昨日の反応。
……ああ。
そういうことだったのか。
「……マジか」
僕は、思わず呟いた。
小鳥遊さんが笑った。
「マジだよ」
「……本当に?」
「本当に」
「……前世の記憶?」
「うん」
僕は頭を抱えた。
何ということだろう。
まさか。
まさか、こんなに身近なところに。
「……僕以外にもいたんだ」
小さく呟く。
小鳥遊さんは、その言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「……私も、そう思った」
僕たちは、しばらく顔を見合わせていた。
それから。
どちらからともなく、笑い始めた。
「……あはは」
「ふふっ」
最初は小さな笑いだった。
けれど、だんだん止まらなくなってきた。
「あははは! ちょっと待って、マジで!?」
「こっちの台詞だよ!」
「だって、佐藤君、全然そんなふうに見えなかったし!」
「小鳥遊さんだって!」
僕たちは、ベンチに座ったまま笑い続けた。
近所の人が見たら、何がそんなに面白いのか分からなかっただろう。
けれど、僕たちにとっては、とんでもない出来事だった。
前世の記憶。
それを持っている人間が、自分以外にもいる。
しかも、同じクラスの友達として。
……何だか。
少しだけ、肩の荷が下りたような気がした。
◇
5.二つの前世、二つの職場
「……じゃあ、ちょっと確認しようか」
笑いが落ち着いた頃、小鳥遊さんが言った。
「確認?」
「うん。お互い、どこまで同じ世界の記憶を持ってるのか分かんないし」
「……なるほど」
確かに、そのとおりだった。
前世の記憶があるといっても、同じ世界から来たとは限らない。
そもそも、今の世界が前世と同じ歴史を持っていないことは、すでに明らかだ。
五条悟と小鳥遊ホシノが結婚している時点で、僕の知っている世界とは何もかも違う。
「じゃあ、まず……」
僕は少し考えた。
「前世は、日本人だった?」
「うん」
「住んでたのは?」
「鳥取県。仕事は山陰合同銀行」
……。
銀行?
「……銀行員だったの?」
「そう。サステナビリティとか、ESGとか、そういう関係の仕事をしてた」
僕は思わず頷いた。
「……なるほど。だから物流とか経済の話に詳しかったんだ」
「まあ、仕事でいろいろ資料を読んでたからね」
小鳥遊さんは笑った。
「佐藤君は?」
「僕は広島県の会社員だったよ」
「へえ。何の会社?」
「そこは、また今度でいい?」
「いいよ」
僕は少し安心した。
前世の仕事については、まだ整理しきれていない記憶もある。
ただ、勤めていた会社の規模だけは、妙にはっきり覚えていた。
「従業員は、千百七十六人だった」
「……何でそこだけそんな正確なの?」
「僕にも分かんない」
小鳥遊さんが吹き出した。
「何それ!」
「いや、本当に。会社概要の数字が頭に残ってて」
「あはは! 変なところ覚えてるね!」
「僕もそう思う」
僕たちは、また少し笑った。
それから、彼女は真面目な顔になった。
「……じゃあ、やっぱり同じような時代なのかな」
「たぶん。『呪術廻戦』も『ブルーアーカイブ』も知ってるなら、少なくとも二〇二〇年代の日本文化は共通してると思う」
「……うん」
小鳥遊さんは頷いた。
そして、少しだけ複雑そうな顔をした。
「……やっぱり、お母さんのことも知ってたんだね」
僕は、すぐに答えられなかった。
目の前にいる彼女にとって、小鳥遊ホシノは母親だ。
前世で知っていたゲームのキャラクターとは違う。
いや、名前や姿は同じでも、彼女にとっては実際に自分を育ててくれた人間なのだ。
「……うん。知ってた」
僕は答えた。
「でも、昨日会って分かったよ。僕が知ってたのは、あくまで前世の作品の中の話なんだって」
小鳥遊さんは、少し驚いたように僕を見た。
「……そう思う?」
「うん」
僕は頷いた。
「だって、昨日のホシノさん、普通に小鳥遊さんのお母さんだったし。五条さんも、普通にお父さんだった」
「……うん」
「僕が前に知ってた設定とは、いろいろ違うんだろうね」
小鳥遊さんは、少しだけ目を伏せた。
それから、ふっと笑った。
「……そうだよ」
その声は、少し嬉しそうだった。
「お父さんもお母さんも、この世界で生まれて、ここで暮らしてる人だもん」
「うん」
「私にとっては、ゲームとか漫画のキャラクターじゃなくて、本物の家族だよ」
僕は頷いた。
「……そうだね」
少しだけ、胸の奥が温かくなった。
昨日は、あまりにも驚きすぎた。
けれど、考えてみれば当たり前のことだ。
この世界の五条悟は、この世界の五条悟である。
小鳥遊ホシノも、同じだ。
前世の物語と違うからといって、偽物ということにはならない。
むしろ、今ここで生きている彼らこそが、この世界では本物なのだ。
「……昨日、変な顔してごめん」
僕が言うと、小鳥遊さんは首を振った。
「いいよ。私だって最初はびっくりしたし」
「……最初?」
「うん。赤ちゃんの頃」
……。
…………。
僕は、ゆっくりと彼女を見た。
「……赤ちゃんの頃から?」
「そう」
「……五条悟と小鳥遊ホシノが、両親だって?」
「うん」
小鳥遊さんは、少し困ったように笑った。
「そりゃあもう、びっくりしたよ」
……。
…………。
それは、そうだろう。
僕が昨日受けた衝撃を、生まれてすぐに経験したようなものだ。
しかも、その後ずっと、あの二人に育てられてきたわけである。
……何という人生だ。
「……大変だったね」
僕が言うと、小鳥遊さんは少し考えた。
「うーん。最初はね」
それから、にこっと笑う。
「でも、今は結構楽しいよ」
僕は、その笑顔を見た。
ああ。
この子は、ちゃんと今の人生を生きているのだ。
そう思った。
◇
6.ところで、前世の性別は?
「……そういえば」
小鳥遊さんが、ふと思い出したように言った。
「佐藤君、前世って男の人だった?」
僕は、固まった。
……あ。
そこか。
そこへ来るのか。
「……えっと」
「ん?」
彼女は首を傾げた。
僕は少し迷った。
別に、隠す必要はない。
ただ、今まで誰にも話してこなかったので、どう説明すればいいのか分からなかった。
前世の僕は、女性だった。
会社へ勤めていた、ごく普通の成人女性。
ただし、私生活では一人称が「僕」だった。
職場では普通に「私」を使っていたけれど、親しい友人や家族の前では「僕」と言っていた。
その習慣が、今の人生にもそのまま残っている。
だから、現在の僕が男の子として「僕」と言っていても、別に違和感はない。
むしろ、以前と同じなので気楽だった。
「……女だったよ」
僕は答えた。
小鳥遊さんが目を瞬かせる。
「……え?」
「前世。女性だった」
……。
…………。
彼女は、しばらく僕を見つめた。
それから。
「……ええええっ!?」
大声を上げた。
僕は慌てて周囲を見回した。
「ちょ、声大きい!」
「あ、ごめん!」
小鳥遊さんは口を押さえた。
しかし、驚きは収まらないらしい。
「……え、ちょっと待って」
「うん」
「佐藤君、前世、女の人だったの?」
「そう」
「……マジで?」
「マジで」
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、何かを思い出したように呟く。
「……だからかぁ」
「何が?」
「今日、美咲ちゃんの髪の話してたでしょ」
「ああ……」
「男の子なのに、妙に詳しいなって思ってたんだ」
僕は、思わず苦笑した。
「まあ、前は自分で髪をまとめたりしてたからね」
「……なるほど」
「あと、仕事で身だしなみに気を使うこともあったし」
「……そっかぁ」
小鳥遊さんは、妙に納得した顔をしていた。
それから、少し考えるような表情になる。
「……じゃあ、佐藤君って、今は男の子だけど、女の人としての経験もあるんだ」
「うん」
「……へえ」
その声には、好奇心が混じっていた。
僕は、少しだけ肩をすくめた。
「まあ、だからって女の子のことを何でも分かるわけじゃないけどね」
「そうなの?」
「当たり前でしょ。人によって違うし」
「……確かに」
小鳥遊さんは頷いた。
僕は、彼女の顔を見た。
そして、ふと気づいた。
……待て。
さっきから、この子の反応が妙に自然だ。
驚いてはいる。
驚いてはいるのだが、何というか。
僕の話を、ずいぶんすんなり受け入れている。
「……小鳥遊さん」
「何?」
「前世、女の人だった?」
彼女は、ぴたりと動きを止めた。
……。
…………。
しばらくの沈黙。
それから、彼女はゆっくりと首を横へ振った。
「……違う」
僕は目を瞬かせた。
「……え?」
小鳥遊さんは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「私、前世は男だったんだよね」
……。
…………。
今度は、僕の番だった。
「……ええええっ!?」
「声大きい!」
「あ、ごめん!」
僕たちは、ほとんど同じやり取りを繰り返した。
小鳥遊さんは肩を震わせて笑い始めた。
僕も、笑うしかなかった。
何だそれ。
何なんだ、その偶然。
現在の僕は男の子。
前世は女性。
現在の小鳥遊さんは女の子。
前世は男性。
……。
…………。
見事に逆じゃないか。
「あははは! 何これ!」
小鳥遊さんが笑った。
「こっちが聞きたいよ!」
「まさか佐藤君も逆だったなんて!」
「僕だって思わなかったよ!」
二人で笑い続けた。
もう駄目だ。
今日はいろいろありすぎる。
五条悟の正体を確認するつもりで話しかけたら、前世の記憶を持つ同級生が見つかった。
それだけでも十分なのに。
その同級生は、前世では僕と逆の性別だったのである。
しかも、二人とも会社勤めの経験がある。
……何という巡り合わせだろう。
「……あー、笑った」
しばらくして、小鳥遊さんが目元を拭った。
「本当にびっくりした」
「僕も」
「……じゃあ、佐藤君って、前世では一人称どうしてたの?」
「仕事では『私』。プライベートでは『僕』だったよ」
「へえ!」
彼女は目を輝かせた。
「ボクっ娘だったんだ!」
「……そういう言い方もできるけど」
「ふふっ」
「別に、特別な理由があったわけじゃないんだよ。昔からそう呼んでたら、そのまま定着しただけ」
「なるほどねぇ」
小鳥遊さんは頷いた。
「私は逆に、前世では普段『俺』って言ってたかな。仕事では『私』だったけど」
「銀行員だもんね」
「そうそう」
彼女は笑った。
「今は普通に『私』って言ってるけどね」
「慣れた?」
「うん。もう十年近く女の子やってるし」
「……それは僕も同じだ」
僕たちは顔を見合わせた。
少しだけ、不思議な気分になった。
前世と今では、身体も、名前も、家族も違う。
けれど、そのどちらも自分自身なのだ。
前世が女性だったからといって、今の僕が男の子であることが嘘になるわけではない。
小鳥遊さんも同じだろう。
前世では男性だった。
今は女の子として生まれ、育ってきた。
どちらか一方が本物で、もう一方が偽物という話ではない。
ただ、二つの人生を覚えている。
それだけのことだった。
……もっとも、それだけというには、ずいぶん大きな話だけれど。
◇
7.異性の事情に詳しい小学生たち
「……そう考えるとさ」
小鳥遊さんが言った。
「いろいろ納得できることあるよね」
「例えば?」
「佐藤君、女の子の困りごとに妙に詳しいし」
「……まあ、前世の経験があるから」
「私は逆に、男子の行動が何となく分かるんだよね」
「ああ」
僕は頷いた。
そういえば、小鳥遊さんは男子の友達とも自然に話す。
中島や松本がゲームのことで盛り上がっていても、話についていけることが多い。
しかも、時々、彼らより詳しい。
「大輔君たちがゲームの話してると、懐かしくなることあるし」
「……前世でもゲームしてたんだ」
「そりゃあね。仕事ばっかりしてたわけじゃないし」
小鳥遊さんは笑った。
「それに、男の人同士の付き合い方って、何となく覚えてるから。今の男子の様子を見てると、ああ、こういう感じだったなって」
「分かる気がする」
僕も笑った。
前世では、女性として生活していた。
その頃の経験は、今でもかなり役に立っている。
例えば、女の子が髪や服装について気にしているとき、どういうことが嫌なのか、ある程度想像できる。
人間関係の悩みについても、前世で経験したものと似ている場合がある。
もちろん、僕自身が女性だったからといって、すべての女性の気持ちが分かるわけではない。
人間には個人差がある。
それは、前世でも今でも同じだった。
ただ、両方の立場を経験しているというのは、少し不思議な感覚だった。
「……でもさ」
僕は言った。
「今の男子の生活って、前世で想像してたのと違うことも多いんだよね」
「へえ」
「例えば、男の子同士の友達付き合いとか。外から見てたときと、実際に中に入ってみたときで、結構違う」
「……分かる!」
小鳥遊さんが、勢いよく頷いた。
「私もそう! 女の子同士の付き合いって、前世で思ってたよりずっといろいろあるんだよね」
「そうなんだ」
「うん。楽しいことも多いけど、結構気を使うこともあるし」
「……まあ、そうだろうね」
小鳥遊さんは、少し考えるような顔をした。
「でも、今の生活は好きだよ」
「……僕も」
僕は頷いた。
今の自分が男の子であることに、大きな不満はない。
佐藤家の両親は優しいし、学校にも友達がいる。
身体が小さくて不便なことはあるけれど、それは年齢の問題だろう。
小鳥遊さんも、今の自分を気に入っているようだった。
「……ただ」
彼女が、ふと笑った。
「前世の感覚で考えちゃって、時々変なこと言いそうになるんだよね」
「……あるある」
僕は即答した。
「例えば?」
「学校で将来の仕事の話になったとき、『社会人って意外と大変だよ』って言いそうになった」
「……それは分かる」
「あと、銀行の仕事について説明しようとして、ちょっと喋りすぎたこともある」
「……ああ、あれか」
僕は思わず笑った。
四月の社会科の授業。
港の物流と地域経済について、小鳥遊さんが妙に詳しい話をしていた。
あれは、前世の仕事の記憶だったのだ。
「僕もさ、学校のプリントを見ると、つい業務資料みたいに確認しちゃうんだよね」
「あはは!」
「あと、先生が『締め切りは来週です』って言うと、妙に身構える」
「分かるー!」
小鳥遊さんは、とうとうお腹を抱えて笑い始めた。
「それ、すっごい分かる!」
「だよね」
「提出期限って聞くだけで、ちょっと嫌な気分になるんだよね!」
「うん」
二人で笑った。
何というか。
転生者同士の会話というより、元会社員同士の愚痴である。
ただ、今の僕たちは小学四年生だ。
周囲から見れば、何をそんなに盛り上がっているのか分からないだろう。
それでも、妙に楽しかった。
前世のことを、こんなふうに話せる相手がいるとは思っていなかったからだ。
◇
8.あの海と、呪術師の娘
「……ところで」
しばらくして、僕は思い出した。
そもそも、今日ここで話している理由は、五条悟について尋ねるためだったはずだ。
前世の話があまりにも衝撃的だったので、すっかり忘れていた。
「小鳥遊さん」
「ん?」
「もう一つ、聞いてもいい?」
「いいよ」
「……夢みなとタワーのとき」
彼女の表情が、少しだけ真面目になった。
「……うん」
「あの白いもの、見えてたんだよね」
「うん」
「……それで、僕を助けてくれた?」
小鳥遊さんは、少し考えた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
僕は息を吐いた。
やっぱり。
あのときの感覚は、気のせいではなかった。
「……何をしたの?」
僕が尋ねると、彼女は少し困ったような顔をした。
「うーん。説明するの、難しいな」
「……そうなんだ」
「私、まだ何でもできるわけじゃないし」
小鳥遊さんは、そう言って笑った。
「お父さんから呪術を教わってるけど、まだ勉強中なんだよね」
「……呪術」
「うん」
僕は、少し考えた。
前世で知っていた『呪術廻戦』。
そこには、呪力や術式、呪霊といった概念が登場していた。
しかし、今の世界に同じ仕組みが存在するとは限らない。
実際、五条悟が西洋魔術まで学んでいるという話は、僕の知識にはなかった。
ならば、作品の設定をそのまま当てはめるのは危険だろう。
「……小鳥遊さんも、無下限呪術を使えるの?」
僕は、慎重に尋ねた。
彼女は、少しだけ目を丸くした。
それから、苦笑した。
「……ほんと、いろいろ知ってるね」
「……ごめん」
「いいよ。知ってることは仕方ないし」
彼女は少し考えた。
「うん。使えるよ。でも、お父さんみたいに何でもできるわけじゃないから」
「……そうなんだ」
「それに、私が使う力って、呪術だけじゃないし」
僕は顔を上げた。
「……え?」
「えっとね……」
小鳥遊さんは、少し言葉を探すように考えた。
「神秘、っていう力も使えるんだ」
……神秘。
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭に別の作品が浮かんだ。
『ブルーアーカイブ』。
小鳥遊ホシノ。
そして、その世界で扱われていた神秘という概念。
……なるほど。
なるほど、ね。
つまり。
五条悟と小鳥遊ホシノの娘は。
両方の系統の力を持っている、と。
……。
…………。
僕は、ゆっくりと空を見上げた。
「……小鳥遊さん」
「何?」
「……すごいね」
心の底から出た言葉だった。
小鳥遊さんは、少し照れくさそうに笑った。
「そうかな」
「うん」
「でも、まだ全然だよ」
「……そうなの?」
「そう。お父さんもお母さんも、もっとすごいし」
……。
…………。
それは、そうだろう。
何という家族だ。
僕は、心の中で頭を抱えた。
しかし、昨日とは少し違う。
今の僕は、小鳥遊さんのことを、少しだけ理解できている。
前世は男性。
山陰合同銀行に勤めていた元会社員。
今は小学四年生の女の子。
そして、五条悟と小鳥遊ホシノの娘。
呪術と神秘を使える、少しばかり……いや、かなり特別な子供。
けれど。
僕にとっては、同じクラスの友達でもある。
その事実は、何も変わらなかった。
「……ありがとう」
僕は言った。
小鳥遊さんが首を傾げる。
「何が?」
「タワーのとき、助けてくれて」
彼女は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、ふっと笑った。
「……どういたしまして」
その笑顔は、いつもの小鳥遊さんだった。
◇
9.同じ秘密を持つ友達
公園の時計は、午後四時半を回っていた。
そろそろ帰らなければならない。
僕も小鳥遊さんも、家では両親が待っている。
僕たちはベンチから立ち上がった。
「……ねえ、佐藤君」
小鳥遊さんが言った。
「何?」
「今日の話、どうする?」
「……どうするって?」
「前世のこと」
僕は、少し考えた。
確かに、大きな秘密だ。
僕はこれまで、前世の記憶について誰にも話してこなかった。
両親にも、学校の先生にも、友達にも。
別に隠しておかなければならないと決まっているわけではない。
ただ、説明が難しいし、信じてもらえる保証もない。
それに、今の生活を変えたくなかった。
「……とりあえず、他の人には言わない方がいいと思う」
僕は答えた。
小鳥遊さんは頷いた。
「うん。私もそう思う」
「お互いのことも、勝手に話さないようにしよう」
「了解」
彼女は笑った。
それから、少しだけ考えるような顔になる。
「でもさ」
「うん?」
「佐藤君とは、これからも前世の話していい?」
僕は、少し驚いた。
彼女は、少し照れくさそうに続けた。
「だって、今までそういう話できる人、いなかったし」
「……ああ」
僕は頷いた。
それは、僕も同じだった。
前世のことを覚えている。
けれど、その記憶を共有できる相手がいない。
それは別に、毎日寂しいというほどのことではなかった。
今の僕には家族も友達もいる。
学校生活も楽しい。
しかし、ときどき、前世のことを話したくなる瞬間はあった。
会社で働いていた頃の話。
昔好きだった作品の話。
今の世界には存在しないものについての記憶。
そういうものを、誰かと共有できるのは、きっと楽しい。
「……うん。いいよ」
僕は答えた。
小鳥遊さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「うん」
「やった!」
彼女は嬉しそうに笑った。
それから、ふと思い出したように言った。
「……そうだ」
「何?」
「佐藤君、前世の年齢って、どのくらいだった?」
「……えっと」
僕は少し考えた。
正確な年齢については、まだ自分の中でも整理しきれていないところがある。
ただ、成人して会社勤めをしていたことは確かだ。
「まあ、普通に社会人だったよ」
「そっか」
「小鳥遊さんは?」
「私も」
彼女は笑った。
「……じゃあ、お互い元社会人ってことだね」
「そうなるね」
僕たちは顔を見合わせた。
小学四年生の男女。
しかし、その中身には、二人分の社会人経験がある。
……いや、待て。
その言い方だと、何だか妙だ。
二人とも、今の人生でちゃんと成長しているのだから。
前世の記憶があるからといって、今の自分が単なる入れ物というわけではない。
そんなことを考えていると、小鳥遊さんが笑った。
「……何か、面白いね」
「何が?」
「だってさ」
彼女は、僕を指さした。
「佐藤君、前世は女の人だったんでしょ?」
「うん」
それから、自分を指さす。
「私、前世は男の人だったし」
「……うん」
「それで、今は逆になって、同じクラスにいるんだよ?」
……。
…………。
確かに。
考えれば考えるほど、奇妙な話だ。
「……すごい偶然だね」
僕が言うと、小鳥遊さんは笑った。
「ほんとにね」
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「……でも、よかった」
「何が?」
「佐藤君がいて」
僕は、少し驚いた。
彼女は続けた。
「だって、前世の話できる友達ができたんだもん」
……。
…………。
僕は、思わず笑った。
「……僕も」
そう答えると、小鳥遊さんは嬉しそうに頷いた。
そして、いつもの明るい声で言った。
「じゃあ、これからよろしくね、蓮君!」
僕は、一瞬だけ目を瞬かせた。
名前で呼ばれた。
いや、夢みなとタワーでも一度呼ばれたことがあったけれど、今度は何となく意味が違う気がする。
……まあ、いいか。
「うん。よろしく、六花さん」
そう答えると、彼女は少しだけ頬を膨らませた。
「……さん?」
「え?」
「同じクラスなんだから、六花でいいよ」
「……いいの?」
「いいよ!」
僕は少し考えた。
それから、頷いた。
「……じゃあ、六花」
「うん!」
彼女は満足そうに笑った。
それから、僕たちは公園を出た。
帰り道は、途中まで同じ方向だった。
五月の夕方。
住宅街には、夕食の準備をする匂いが漂い始めていた。
遠くでは、港へ向かうトラックの音が聞こえている。
何でもない、普通の街の風景だった。
けれど、僕にとっては、少しだけ違って見えた。
この世界には、前世で知っていた架空の人物たちが実際に暮らしている。
呪術も、神秘も、どうやら本当に存在する。
そして、僕と同じように前世の記憶を持つ人間が、すぐ隣にいた。
……何という世界だろう。
普通に考えれば、驚くことばかりである。
しかし。
今日一日で、少しだけ分かったこともあった。
どれほど不思議な世界でも、そこで暮らしている人間にとっては、それが日常なのだ。
五条悟は、六花の父親。
小鳥遊ホシノは、六花の母親。
そして六花は、僕の友達。
その順番で考えれば、案外、難しいことではないのかもしれない。
「蓮君?」
隣から声がした。
「何?」
「明日、学校でこの話の続きしようね」
「うん。でも、ほかの人に聞かれないようにね」
「分かってるって」
六花は笑った。
「私だって、元社会人だもん」
僕は、思わず笑ってしまった。
「……それ、今の姿で言うと、すごく変だよ」
「蓮君だって同じでしょ!」
「……確かに」
二人で笑った。
その笑い声は、五月の夕暮れの中へ消えていった。
◇
10.ふたりの、帰宅後
その夜。
佐藤酒店の二階。
僕は、自分の部屋で机に向かっていた。
宿題は終わっている。
明日の準備も済ませた。
あとは寝るだけだった。
しかし、今日はなかなか眠れそうになかった。
……まあ、当然だろう。
小鳥遊六花。
いや、六花。
彼女もまた、前世の記憶を持つ転生者だった。
しかも、前世は男性。
銀行員。
そして今は、五条悟と小鳥遊ホシノの娘。
……。
…………。
やっぱり、情報量が多い。
僕は、机に置いたノートを開いた。
そこには、今日の宿題の計算問題が並んでいる。
何ということのない、小学四年生の算数だ。
その数字を見ていると、少しだけ安心した。
少なくとも、九九は僕の知っている世界と同じらしい。
……いや、さすがにそこまで違っていたら困る。
僕は小さく笑った。
それから、ふと思った。
前世では、僕は女性だった。
今は男の子だ。
そのことについて、これまで誰かに話したことはなかった。
別に大きな秘密として抱え込んでいたわけではない。
ただ、説明する相手がいなかっただけだ。
それが今日、初めて人に話せた。
しかも、相手は逆の経験を持っていた。
……何だか、不思議な気分だ。
でも。
悪くない。
むしろ、少し楽しかった。
「……明日も学校か」
僕は呟いた。
前世では、会社へ行くのが億劫な朝もあった。
今の人生でも、学校が面倒だと思う日はある。
けれど。
明日は、少し楽しみだった。
六花と、また話せるからだ。
僕はノートを閉じ、部屋の電気を消した。
窓の外では、境港の夜風が静かに吹いている。
何でもない、普通の夜だった。
ただし、今日から僕には、もう一人、前世の話ができる友達がいる。
それだけで、世界が少し広くなったような気がした。
◇
同じ頃。
骨董店『界』の二階。
六花は、ベッドの上でクッションを抱えていた。
今日のことを思い出す。
佐藤蓮。
同じ四年二組の男の子。
前世は女性。
広島県の会社員。
私生活では一人称が「僕」だったらしい。
……何だか、面白い。
六花は小さく笑った。
自分は前世では男性だった。
今は女の子として生まれ、育ってきた。
最初は戸惑うこともあったけれど、今の生活は気に入っている。
お父さんも、お母さんも、大好きだ。
学校には友達がいて、毎日いろいろなことが起きる。
そして今日、前世の記憶を持つ友達ができた。
それも、思いがけない形で。
「……蓮君、かぁ」
六花は、小さく呟いた。
前世では、銀行員だった。
仕事は忙しかったし、覚えなければならないことも多かった。
大人として生活していた頃には、いろいろな経験をした。
それが今では、小学四年生。
毎朝、ランドセルを背負って学校へ行き、友達と遊び、宿題をする。
時々、妙に懐かしくなることもある。
けれど、今の人生も悪くない。
むしろ、楽しい。
そして。
前世の話を、誰かと普通にできる日が来るとは思っていなかった。
六花は、少しだけ嬉しくなった。
「……明日、何話そうかな」
仕事の話。
昔のゲームの話。
前世で好きだった食べ物の話。
それから、今の世界で気づいた違いについて。
話したいことは、山ほどある。
ただし、学校であまり大きな声を出すわけにはいかない。
そこは気をつけなければならないだろう。
「……ふふっ」
六花は、クッションに顔を埋めた。
そのとき、部屋の扉が軽くノックされた。
「六花ー、まだ起きてる?」
お父さんの声だった。
「起きてるよー」
「そろそろ寝なよー。明日も学校でしょ」
「分かってるー」
扉の向こうで、五条悟が笑った。
「何か楽しそうだね」
「……そう?」
「うん。いいことあった?」
六花は、少し考えた。
そして、笑った。
「……うん」
「へえ。何があったの?」
「内緒!」
「えー!」
父親の不満そうな声が聞こえた。
六花は、思わず吹き出した。
「お父さん、おやすみ!」
「はいはい、おやすみ。いい夢見なよ」
足音が遠ざかっていく。
六花は、ベッドに横になった。
窓の外には、五月の夜空が広がっている。
遠くでは、港の灯りが小さく輝いていた。
この世界には、いろいろな不思議がある。
呪術。
神秘。
妖怪。
魔術。
そして、まだ知らない何か。
けれど、今日見つけたものは、そういう力とは少し違う。
同じように二つの人生を覚えている、友達。
しかも、前世と今とで、性別がちょうど逆になっている。
……本当に、変な偶然だ。
でも。
だからこそ、面白い。
六花は目を閉じた。
明日も学校がある。
きっと、いつもどおりの一日になる。
授業があって、休み時間があって、友達と話して、家へ帰る。
そして、その中に。
今日からは、少しだけ新しい楽しみが増えた。
前世の記憶を、誰かと分け合えること。
それは、思っていたよりもずっと、嬉しいことだった。