仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー リメイク版   作:水野芽生

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その7:放物線のいたずら

 

 ──2013年5月/鳥取県境港市・境港第二小学校

 

 1.元社会人にも、体育はある

 

 前世の記憶があると、小学校の勉強は比較的楽になる。

 

 国語の文章題で困ることは少ないし、算数も今のところ問題なく解けている。社会科など、前世と今世の歴史が食い違っていることを除けば、むしろ授業を楽しんでいるくらいだ。

 

 ただし、前世で成人していたからといって、すべての能力が引き継がれるわけではない。

 

 特に、身体能力。

 

 こればかりはどうにもならない。

 

 僕は現在、身長百三十五センチほどの小学四年生男子である。

 

 前世では女性として生活していたが、今は男の子だ。身体の使い方も少しずつ覚えてきたものの、だからといって突然スポーツ万能になるわけではない。

 

 走れば普通に息が切れる。

 

 重いものを持てば腕が疲れる。

 

 鉄棒では、自分の身体が妙に重く感じられる。

 

 そして今日は、体育の授業がある。

 

「よっしゃあああ!」

 

 隣で中島大輔が叫んだ。

 

「今日もドッジボールだってよ!」

 

「……うん。聞いてた」

 

「楽しみだな!」

 

「そうだね」

 

「何だよ、もっと喜べよ!」

 

 中島は、実に不満そうだった。

 

 僕だって、ドッジボールが嫌いというわけではない。

 

 ただ、前世の記憶を持っている身としては、どうしても少し妙な感覚になる。

 

 会社員時代、昼休みに同僚とボールを投げ合ったりはしなかった。少なくとも、仕事の途中で突然、同僚全員を二つの陣営に分けてボールをぶつけ合うような行事はなかった。

 

 ……あったら、それはそれで困る。

 

「今日は男子対女子だって!」

 

 中島が言った。

 

「へえ」

 

「松本と話してたんだけどさ、絶対勝とうぜ!」

 

「頑張ってね」

 

「お前もやるんだよ!」

 

 ごもっともだった。

 

 そこへ、聞き慣れた声が割り込んできた。

 

「おやおや、男子諸君。ずいぶん自信満々ですなぁ」

 

 小鳥遊六花だった。

 

 髪を揺らしてこちらへ歩いてくる。その隣には、高橋美咲と山根彩花がいた。

 

「当たり前だろ!」

 

 中島は胸を張った。

 

「今日は勝つからな!」

 

「ほほう。それは楽しみだねぇ」

 

「小鳥遊も覚悟しとけよ!」

 

「うん。頑張る」

 

 そう言って、六花はにこっと笑った。

 

 ……。

 

 …………。

 

 ちょっと待て。

 

 何だ、その笑顔。

 

 僕はつい先日、この少女の両親が五条悟と小鳥遊ホシノだと知ってしまった。しかも本人は、呪術と神秘を使えるらしい。

 

 とはいえ、今日は普通の体育の授業だ。

 

 まさか、小学生のドッジボールで超常能力を使うわけがない。

 

 ……ないよね?

 

「……六花」

 

「何、蓮?」

 

「ほどほどにね」

 

「何が?」

 

「いや、何となく」

 

「ふふっ。大丈夫だよ。普通にやるから」

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、その言葉を信じることにした。

 

 信じることにしたのだが。

 

 このとき、もう少し念を押しておくべきだったのかもしれない。

 

 ◇

 

 2.男女対抗、開戦

 

 体育館には、四年二組の児童二十八人が集まっていた。

 

 今日は男子十四人と女子十四人に分かれてのドッジボールである。

 

 中央に白線が引かれ、両側にそれぞれの陣地が設けられている。

 

 ルールは基本的に普通のドッジボールだった。ボールに当たったら外野へ移動。キャッチできればセーフ。顔を狙うのは禁止で、危険な投げ方もしない。制限時間が来たら、内野に残っている人数で勝敗を決める。

 

「はい、みんな聞いてください!」

 

 大西真紀先生が手を叩いた。

 

「今日は楽しむことが一番です。勝ち負けも大切ですが、相手に怪我をさせないこと。特に、顔を狙って投げないようにしてくださいね」

 

「はーい!」

 

「それから、ボールを持ったまま走り回らないこと。ルールを守って、楽しくやりましょう」

 

 使うのは、学校体育用の柔らかいドッジボールだった。普通に投げる分にはそれほど危険ではないが、勢いよく当たればそれなりに痛い。特に、変な方向から飛んでくるボールは避けにくい。

 

「よっしゃ、男子! 作戦会議!」

 

 松本健太が声を上げ、スポーツ好きの男子たちが集まった。中島も当然、その輪の中心にいる。

 

「最初は俺が投げるからな!」

 

「いや、俺だろ!」

 

「中島、さっきも投げてたじゃん!」

 

「さっきは練習だろ!」

 

 非常に元気である。

 

 僕は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。

 

 前世では、こうした男子同士のやり取りを外側から見ることが多かった。今は自分も男子の一員として、普通に参加している。それはそれで、なかなか面白い。

 

 ただし、彼らのテンションについていけるかどうかは別問題だった。

 

「佐藤!」

 

 松本がこちらを向いた。

 

「お前、後ろの方守ってくれ! キャッチできそうなら頼む!」

 

「できそうならね」

 

「弱気だなあ!」

 

 松本は笑い、僕も苦笑した。

 

 できないことをできると言うほど、僕は無謀ではない。

 

 一方、女子チームも作戦会議をしていた。

 

「六花、どうする?」

 

 高橋さんが尋ねる。

 

「んー、まずは普通にやろっか」

 

「普通に?」

 

「うん。ボール来たら取って、投げる」

 

「それ作戦になってなくない?」

 

 山根さんが突っ込んだ。

 

 六花は笑った。

 

「大丈夫大丈夫。みんなで頑張ろう!」

 

「おー!」

 

 女子たちが元気よく声を合わせた。

 

 楽しそうな作戦会議だった。

 

 ……楽しそうなのだが。

 

 何だろう、この嫌な予感は。

 

「はい、それじゃあ始めますよ!」

 

 大西先生の声が響いた。

 

 男子と女子が、それぞれの陣地へ入る。中央にボールが置かれた。

 

 そして。

 

「始め!」

 

 笛が鳴った。

 

 ◇

 

 3.男子チーム、優勢

 

 試合開始直後は、男子チームが優勢だった。

 

「いっけえええ!」

 

 松本が勢いよくボールを投げる。女子の一人が慌てて避けたが、その後ろにいた別の児童に当たった。

 

「アウト!」

 

「よっしゃ!」

 

 男子たちから歓声が上がる。

 

 続いて、中島がボールを受け取った。

 

「今度は俺だ!」

 

 大きく振りかぶり、勢いよく投げる。

 

「きゃあっ!」

 

 高橋さんが悲鳴を上げた。ボールは彼女の足元へ飛び、床に当たって跳ね上がる。

 

 間一髪、セーフ。

 

「危なかったぁ!」

 

「くそー、惜しい!」

 

 松本と中島を中心に、男子チームは次々と攻撃を仕掛けていく。女子チームも頑張っていたが、最初の数分間で何人かが外野へ移動した。

 

「よし、このままいくぞ!」

 

「おう!」

 

 僕は後方でボールの動きを追いながら、少し安心していた。

 

 何だ。

 

 普通のドッジボールじゃないか。

 

 六花も、今のところ特別なことはしていない。ボールを避けたり、仲間にパスしたりしているだけだ。

 

 ……うん。

 

 どうやら僕の心配は杞憂だったらしい。

 

 そのとき。

 

「六花! お願い!」

 

 高橋さんが叫び、女子チームの外野からボールが投げ込まれた。

 

 それを受け取ったのは、小鳥遊六花だった。

 

 彼女は両手でボールを持ち、少しだけ首を傾げる。

 

「……さて」

 

 今。

 

 何か、とても嫌な予感がした。

 

 ◇

 

 4.最初の犠牲者

 

「おーい、小鳥遊!」

 

 松本が声を上げた。

 

「かかってこいよ!」

 

 六花は、にこっと笑った。

 

「いいの?」

 

「当たり前だろ!」

 

「じゃあ、いくよー」

 

 彼女はボールを右手に持ち替えた。

 

 足を軽く開く。身体を横へ向け、肩を引く。

 

 そして、何気ない動作で腕を振った。

 

 ボールが飛んだ。

 

 ……速い。

 

 いや、ものすごい剛速球というほどではない。

 

 けれど、投げた瞬間から回転が強い。ボールの表面が、やけにきれいに回っている。

 

「よっしゃ、取った!」

 

 松本が両手を構えた。

 

 軌道は胸の高さ。彼なら十分にキャッチできるだろう。

 

 僕もそう思った。

 

 ところが。

 

 ボールが、落ちた。

 

「……えっ?」

 

 胸の高さへ来ると思っていたボールが、手前で急に沈み込んだのだ。

 

 もちろん、物理法則が変わったわけではない。強烈な順回転を与えられたボールが、予想以上の落差を見せただけだ。

 

 ただ、小学四年生のドッジボールでそんな軌道を見せられると、対応するのは難しい。

 

 ボスッ。

 

 柔らかいボールが、松本の腹部に当たった。

 

「……あ」

 

 松本は、呆然と立ち尽くした。

 

 大西先生が笛を吹く。

 

「松本君、アウト!」

 

 ……。

 

 …………。

 

 男子チームが静まり返った。女子チームも、一瞬だけ黙った。

 

 それから。

 

「きゃああああ!」

 

 高橋さんが叫んだ。

 

「六花、すごーい!」

 

「何今の!?」

 

「めっちゃ曲がった!」

 

 女子たちから黄色い声が上がった。

 

 一方、男子チームでは。

 

「は!?」

 

「何だ今の!?」

 

「健太がやられた!?」

 

 悲鳴に近い声が響いていた。

 

 松本本人も、まだ状況を理解できていないらしい。

 

「……いや、待って。今、絶対取れると思ったんだけど!」

 

 六花は、少し照れくさそうに笑った。

 

「えへへ。ごめんね」

 

「いや、すげえ!」

 

 松本は外野へ向かいながら叫んだ。

 

「今の、どうやって投げたんだよ!」

 

「ちょっと回転かけただけだよ」

 

「ちょっと!?」

 

 僕は、頭を抱えた。

 

 ……ちょっとじゃない。

 

 絶対、ちょっとじゃない。

 

『キャプテン翼』のドライブシュートみたいな軌道だったぞ。

 

 前世でも、あんな投球をする小学生は見たことがない。

 

 いや、ドッジボールに強い順回転をかければ、ある程度は沈むだろう。理屈としては分かる。

 

 分かるのだが、それを小学四年生の女の子が何気なく実行してしまうのは、また別の問題である。

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、六花を見た。

 

 彼女はこちらに気づくと、小さく手を振った。

 

 そして、悪戯っぽく笑った。

 

 ……うん。

 

 嫌な予感が的中したらしい。

 

 ◇

 

 5.ドライブシュート、量産される

 

 松本が外野へ移動したことで、男子チームには少し動揺が広がった。

 

 しかし、まだ人数では優勢である。

 

「よし、次は俺が取る!」

 

 中島が叫んだ。

 

 さすがはスポーツ男子。友達がやられたくらいでは怯まない。

 

「小鳥遊! もう一回来い!」

 

「いいの?」

 

「もちろん!」

 

「じゃあ、いくね」

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、思わず中島へ声をかけた。

 

「大輔!」

 

「何だ!」

 

「無理に取らなくてもいいからね!」

 

「大丈夫だって!」

 

 中島は笑った。

 

 ああ。

 

 駄目だ。

 

 完全にやる気だ。

 

 女子チームがボールを回す。高橋さんから森川さんへ。森川さんから六花へ。

 

 六花は、再びボールを構えた。

 

 今度は、先ほどより身体を低くし、腕を大きく引く。

 

「それっ!」

 

 ボールが飛んだ。

 

 先ほどと同じく、強い順回転。ただ、今度は少し高い軌道だった。

 

「よっしゃ!」

 

 中島が両手を上げる。

 

 ボールが近づく。

 

 落ち始める。

 

 中島は、慌てて手の位置を下げた。

 

 だが。

 

「うわっ!?」

 

 ボールは、彼の予想よりさらに下へ沈み込んだ。

 

 ボスッ。

 

 今度は太腿に当たった。

 

「中島君、アウト!」

 

「うそだろおおお!」

 

 男子チームから絶叫が上がった。

 

 女子チームは大盛り上がりである。

 

「六花ーっ!」

 

「すごいすごい!」

 

「もう一回!」

 

 高橋さんなど、両手を振り回して喜んでいた。山根さんも、普段ののんびりした様子が嘘のように興奮している。

 

「六花、かっこいい!」

 

「えへへ」

 

 六花は笑いながら、軽く手を振った。

 

 ……。

 

 …………。

 

 何だこれ。

 

 男子チームの主力二人が、立て続けに沈められた。

 

 しかも、どちらも無理な投球ではない。危険なほど速いわけでもない。ただ、回転のかけ方と軌道の読みが、異常に上手い。

 

 ボールを取ろうとした瞬間に、予想より大きく沈む。それだけで、スポーツが得意な男子たちが次々とアウトになる。

 

 能力を使っているわけではないのだろう。もっとも、呪術や神秘の気配なんて、僕に分かるはずもないのだけれど。

 

 見ている限りでは、彼女は普通にボールを投げているだけだった。

 

 それなのに。

 

「……第三の犠牲者、出たぞ」

 

 田村が呟いた。

 

 見ると、男子の一人が外野へ移動しているところだった。六花の投球を避けようとして、足元を狙われたらしい。

 

「……マジかよ」

 

 別の男子が呟く。

 

「小鳥遊、何者だよ……」

 

 僕は、何も言わなかった。

 

 ……うん。

 

 その質問については、僕もいろいろ知っている。

 

 知っているのだが。

 

 説明するのは、たぶん無理だ。

 

 ◇

 

 6.四年二組、戦況逆転

 

 試合開始から、まだ十分も経っていなかった。

 

 しかし、男子チームの内野は、すでに半分ほどになっていた。

 

 一方、女子チームは勢いを取り戻していた。

 

「六花! こっち!」

 

 今度は高橋さんがボールを受け取り、自分で投げた。

 

「えいっ!」

 

 狙われた男子は慌てて避けようとしたが、直前に足を滑らせた。

 

 ボスッ。

 

「アウト!」

 

「やったー!」

 

 高橋さんが飛び跳ね、六花も嬉しそうに拍手している。

 

「美咲、ナイス!」

 

「えへへ!」

 

 ……なるほど。

 

 六花が目立っているけれど、女子チーム全体の動きもよくなっている。彼女が男子の注意を集めることで、ほかの女子たちも投げやすくなっているらしい。

 

 単なる個人技ではない。チーム全体の流れを変えている。

 

 僕は少し感心した。

 

 ……いや。

 

 感心している場合ではない。

 

 僕は男子チームの一員で、男子チームは明らかに劣勢だった。

 

「佐藤!」

 

 外野の中島が叫んだ。

 

「お前、何とかしろ!」

 

「無茶言わないでよ!」

 

「お前、頭いいだろ!」

 

「頭のよさとドッジボールは別だよ!」

 

 中島は納得していないようだった。

 

 ……いや、本当に別だから。

 

 前世で会社員だったからといって、ボールを投げたり取ったりする能力が高いわけではない。むしろ、前世では運動不足を気にしていたくらいだ。

 

 それなのに。

 

「……あ」

 

 また一人、男子がアウトになった。

 

 六花の投球である。今度は、腕の横を抜けるような軌道だった。取れると思って手を伸ばした男子の、肘の下に当たる。

 

「アウト!」

 

「うわあああ!」

 

 男子たちの悲鳴が響き、女子たちは大歓声だった。

 

「六花ー!」

 

「すごーい!」

 

「もう、男子全員倒しちゃえ!」

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、少しだけ空を見上げた。

 

 いや。

 

 体育館なので、見えるのは天井だった。

 

 それでも、見上げずにはいられなかった。

 

 普通のドッジボールだったはずなのに、いつの間にか、小鳥遊六花による男子チーム壊滅作戦みたいになっている。

 

 しかも、本人は楽しそうだ。

 

「蓮ー!」

 

 向こう側から、六花の声がした。

 

「まだ残ってるね! すごいじゃん!」

 

「……ありがとう」

 

 僕は、何とも言えない顔で返事をした。

 

 褒められているのだろうか。

 

 それとも、次の標的として認識されたのだろうか。

 

 ……後者のような気がする。

 

 ◇

 

 7.最後の男子

 

 それから数分後。

 

 男子チームの内野に残っていたのは、僕一人になっていた。

 

 ……。

 

 …………。

 

 なぜだ。

 

 どうしてこうなった。

 

 理由は、いくつかある。

 

 最初から後方にいたこと。無理にボールをキャッチしようとしなかったこと。そして、女子チームがスポーツ男子たちを優先的に狙っていたこと。

 

 その結果、運動がさほど得意でもない僕だけが取り残されたのである。

 

「佐藤おおお!」

 

 外野の松本が叫んだ。

 

「お前だけだぞ! 絶対取れよ!」

 

「無茶言わないで!」

 

「佐藤! 頼んだ!」

 

 中島まで声を上げる。

 

 ……頼まれても困る。

 

 僕は、身長百三十五センチの小学四年生だ。女子チームのエースである六花は、僕より十センチ以上背が高い。運動神経も、明らかに向こうが上だ。

 

 どう考えても、不利である。

 

 一方、女子チームの内野には、高橋さん、森川さん、山根さん、そして六花と、まだ何人も残っていた。

 

「……佐藤君、頑張れー!」

 

 高橋さんが声をかけてきた。

 

 ……え?

 

 敵チームなのに?

 

「美咲、どっち応援してるの?」

 

 六花が笑いながら尋ねた。

 

「だって、佐藤君一人になっちゃったし!」

 

「まあ、そうだけど」

 

 女子たちが笑い、僕も思わず苦笑した。

 

 何というか、負けることが確定しているような雰囲気である。

 

 ……いや、実際かなり厳しいのだが。

 

「蓮」

 

 六花が声をかけた。

 

「そろそろ、ちゃんと勝負しようか」

 

 六花は、ボールを両手で持っていた。

 

 いつもの明るい笑顔。

 

 けれど、その目には、少しだけ真剣な光があった。

 

 ……なるほど。

 

 どうやら、最後に僕と勝負したいらしい。

 

 僕は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……分かった」

 

 外野では中島たちが騒いでいる。女子たちも、何が始まるのかと楽しそうに見ている。大西先生は、少し離れた場所から見守っていた。

 

 僕は両手を軽く構えた。

 

 足を開き、重心を下げる。

 

 無理にキャッチしようとは思わない。まずは、避ける。取れそうなら取る。

 

 それだけだ。

 

「……いつでもどうぞ」

 

「じゃあ、いくよ」

 

 ◇

 

 8.放物線は、途中で嘘をつく

 

 六花が、ボールを構えた。

 

 今までと同じ、強い順回転をかける投球姿勢。

 

 ただし、少し違う。

 

 さっきまでより、腕の引き方が小さい。足の位置も、わずかに変わっている。

 

 ……何か、仕掛けてくる。

 

 僕に野球選手のような洞察力があるわけではない。

 

 ただ、前世では人の動きや表情を観察する機会が多かった。仕事で人と話していると、相手が何を考えているのか、少しでも読み取ろうとすることがある。

 

 その経験が、ここで役に立つとは思えない。

 

 けれど、何も考えずに立っているよりは、ましだろう。

 

「それっ!」

 

 六花が投げた。

 

 ボールが飛ぶ。先ほどまでと同じく、強烈な順回転がかかっている。

 

 だが。

 

 ……あれ?

 

 軌道が、低い。

 

 胸の高さではなく、最初から腰のあたりを狙っている。

 

 僕は反射的に手を下げた。

 

 その瞬間。

 

 ボールが、さらに沈み始めた。

 

 ……来る!

 

 僕は、一歩前へ踏み出した。

 

 自分でも、なぜそうしたのか分からない。ただ、待っていたら間に合わないと思った。

 

 ボールが落ち切る前に、こちらから近づく。

 

 身体を低くする。

 

 両手を伸ばす。

 

 目の前に、回転するボールが迫った。

 

 ……取れるか?

 

 分からない。

 

 でも、ここで手を引いたら、確実に当たる。

 

 なら。

 

 ──取るしかない!

 

 僕は、両腕を前へ出した。

 

 ボールが手に触れる。

 

 重い。

 

 いや、普通のドッジボールだ。重さなんて、たかが知れている。

 

 それなのに、妙に強い衝撃があった。

 

 手の中でボールが滑る。指先から抜けそうになる。

 

 僕は慌てて肘を曲げ、ボールを胸へ引き寄せた。

 

 勢いを殺す。

 

 身体が少し後ろへ傾き、足が床を擦った。

 

 そして。

 

 ボフッ。

 

 ボールが、僕の胸の前で止まった。

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、目を瞬かせた。

 

 両腕の中に、ボールがある。落としていない。床にも触れていない。

 

 ……取れた?

 

 ゆっくりと顔を上げると、向こう側で六花が目を丸くしていた。

 

 女子たちも固まっている。男子たちも、口を開いたまま動かない。

 

 大西先生まで、一瞬だけ笛を吹くのを忘れたようだった。

 

 体育館が、静まり返っている。

 

 それから。

 

「……キャッチ!」

 

 先生の声が響いた。

 

 その瞬間。

 

「うおおおおおおおおお!」

 

 男子チームが爆発した。

 

「佐藤おおおお!」

 

「取ったあああ!」

 

「マジかよ!?」

 

「すげえええ!」

 

 中島が飛び跳ね、松本が両手を突き上げた。田村は、信じられないものを見たような顔をしている。

 

 女子チームからも、悲鳴のような声が上がっていた。

 

「えええええ!?」

 

「嘘でしょ!?」

 

「六花のボール取った!?」

 

 高橋さんは両手を口に当て、山根さんはしばらく呆然としていた。森川さんも、珍しく大きく目を見開いている。

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、腕の中のボールを見下ろした。

 

 ……いや。

 

 ちょっと待って。

 

 僕自身が、一番驚いているのだが。

 

「……取れちゃった」

 

 小さく呟くと、向こう側から声がした。

 

「……蓮」

 

 六花は、まだ少し驚いた顔をしていた。

 

 けれど次の瞬間、ぱっと笑った。

 

「すごい! すごいよ、蓮! 今の取れると思わなかった!」

 

 心底楽しそうな声だった。

 

 僕は、思わず苦笑した。

 

「……僕もだよ!」

 

 体育館に笑い声が響いた。

 

 ◇

 

 9.勝負の行方

 

 とはいえ、ボールをキャッチしたからといって、試合に勝てるわけではない。

 

 男子チームの内野に残っているのは僕一人。女子チームは、まだ何人も残っている。人数差は歴然としていた。

 

 それでも、僕が六花のボールをキャッチしたことで、男子チームに攻撃の機会が生まれた。

 

「佐藤! 投げろ!」

 

「いけえええ!」

 

 中島と松本が叫ぶ。

 

 僕は、ボールを持ち直した。

 

 正直、腕が少し痛い。さっきのキャッチで、かなり無理をした。

 

 でも、ここで何もしないわけにはいかないだろう。

 

 向こう側では、六花がにこにこしながら構えている。

 

「蓮、来ていいよ!」

 

 ……いや。

 

 その笑顔、怖いから。

 

 六花のようなドライブシュートは投げられない。速球も得意ではない。

 

 ならば、普通に投げよう。それだけだ。

 

「……いくよ!」

 

 僕は腕を振った。

 

 ボールが飛んだ。

 

 ……。

 

 …………。

 

 普通だった。

 

 実に普通の軌道だった。

 

 六花は、一歩横へ動いて避けた。

 

「おっと」

 

 ボールは、その後ろの床で跳ねた。

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、静かに頷いた。

 

 うん。

 

 知ってた。

 

 僕の運動能力なんて、こんなものである。

 

「佐藤おおお! 惜しい!」

 

「いや、全然惜しくなかったと思う!」

 

 僕が返すと、みんなが笑った。六花も笑っている。

 

 彼女はボールを拾い上げた。

 

「もう一回いく?」

 

 僕は、一瞬だけ考えた。

 

「……できれば、普通のボールでお願いします」

 

 正直に言うと、六花はとうとう吹き出した。

 

「あははは! 分かった!」

 

 今度は、本当に普通の投球だった。

 

 僕は何とか避けた。

 

 その直後、大西先生の笛が鳴った。

 

「はい、そこまで!」

 

 試合終了。

 

 内野に残っている人数は、女子チームの方が圧倒的に多かった。

 

「女子チームの勝ち!」

 

「やったあああ!」

 

 高橋さんと山根さんが抱き合って喜び、森川さんも笑っていた。六花も両手を上げる。

 

「やったー!」

 

 男子チームでは、中島が悔しそうに頭を抱えていた。

 

「くっそー!」

 

「次は絶対勝つ!」

 

 松本も唇を尖らせている。

 

 しかし、二人ともすぐに僕のところへやって来た。

 

「佐藤! お前、すげえな!」

 

 中島が肩を叩いた。

 

「よくあれ取れたな!」

 

「……本当に、たまたまだよ」

 

「たまたまでもすげえよ!」

 

「あれ、俺だったら無理だった!」

 

 松本も頷いた。

 

「……うん。さっき当たってたもんね」

 

「そこ言うなよ!」

 

 みんなが笑い、僕も笑った。

 

 何だか、少しだけ嬉しかった。

 

 チームとしては完敗だった。それでも、最後に一つだけ、みんなが驚くようなことができた。

 

 ……まあ。

 

 もう一度やれと言われても、絶対に無理だと思うけれど。

 

 ◇

 

 10.授業のあとの反省会

 

 体育の授業が終わったあと、教室はドッジボールの話題で持ちきりだった。

 

「六花、ほんとすごかった! 何あの投げ方!」

 

 高橋さんが言った。

 

「ちょっと回転かけただけだよ」

 

「ちょっとじゃないって!」

 

 山根さんが突っ込み、森川さんも頷いている。

 

「途中で落ちるみたいだった」

 

「でしょ!」

 

 中島が割り込んできた。

 

「俺、絶対取れると思ったんだよ!」

 

「私も! でも、すっごい落ちたよね!」

 

 高橋さんが応じる。

 

「そうなんだよ!」

 

 中島は、妙に熱心に説明し始めた。

 

 負けた側の男子まで、六花の投球に興奮しているらしい。

 

 強い相手に負けると悔しい。けれど、すごい技を見ると、やっぱり楽しい。スポーツ好きというのは、案外そういうものなのかもしれない。

 

 その様子を少し離れたところから眺めていると、六花が近づいてきた。

 

「蓮。さっきのキャッチ、本当にすごかったね」

 

「……たまたまだって」

 

「でも、取ったじゃん」

 

「まあ、そうだけど。正直、手が滑りそうだったよ」

 

「うん。見てた」

 

「……見てたんだ」

 

「そりゃあ、私が投げたんだもん」

 

 六花は笑い、それから少しだけ真面目な顔になった。

 

「でも、蓮って、運動あんまり得意じゃないんでしょ? なのに、ああいうときは思い切りがいいんだね」

 

 思い切り。

 

 そう言われると、少し違う気もする。

 

 取れると思ったわけではない。避けるのが難しいと思ったから、仕方なく手を出した。その結果、たまたまうまくいった。それだけだ。

 

「……考えてる暇がなかっただけだよ」

 

「そっか」

 

 六花は笑い、少し声を落とした。

 

「……ねえ、蓮。今日の、どうだった?」

 

「……ドッジボール?」

 

「うん」

 

 男子チームは負けた。中島や松本も、次々とアウトになった。僕自身も、最後まで残っただけで、ほとんど何もできていない。

 

 けれど。

 

「……楽しかったよ」

 

「よかった!」

 

「六花は?」

 

「もちろん! すっごい楽しかった!」

 

 僕は、少しだけ彼女を見つめた。

 

 呪術と神秘を扱える、五条悟と小鳥遊ホシノの娘。中身は元銀行員。

 

 その人物が、今はドッジボールで男子たちを次々と倒し、女子から大歓声を浴びている。

 

 ……何という人生だろう。

 

 でも、本人が楽しそうなら、それでいいのかもしれない。

 

「……六花」

 

「何?」

 

「今度から、もう少し手加減してね」

 

 彼女は目を瞬かせ、それから悪戯っぽく笑った。

 

「えー?」

 

「えー、じゃないよ」

 

「でも、普通に投げただけだよ?」

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、ゆっくりと彼女を見た。

 

「……あれが普通?」

 

「うん」

 

 にこっ。

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、天井を見上げた。

 

 どうやら、この子の普通と僕の普通には、かなり大きな隔たりがあるらしい。

 

 もっとも、今さら驚くことでもないか。

 

「……分かった。次から、ちゃんと避ける練習するよ」

 

「ふふっ。頑張って!」

 

 六花は楽しそうに笑い、僕も、つられて笑ってしまった。

 

 ◇

 

 11.今日の話題、家族に届く

 

 その夜。

 

 佐藤酒店の食卓では、今日の体育の話が話題になっていた。

 

「へえ、蓮がドッジボールで活躍したのか」

 

 父さんが嬉しそうに言った。

 

「いや、活躍ってほどじゃないよ」

 

「でも、ボール取ったんだろ?」

 

「一回だけ」

 

「立派じゃないか!」

 

 父さんは満足そうに頷き、母さんも笑っている。

 

「蓮、あんまり運動が得意じゃないのに、頑張ったのね。怪我はしなかった?」

 

「大丈夫。ちょっと腕が疲れただけ」

 

「ならよかった」

 

 僕は味噌汁を飲みながら、今日のことを思い出した。

 

 六花の投球。男子たちの悲鳴。女子たちの歓声。そして、最後のキャッチ。

 

 ……いや、本当に何だったんだ、あれ。

 

「それにしても、六花ちゃんって運動神経いいのね」

 

 母さんが言った。

 

「……うん。すごいよ」

 

「ホシノさんも、若い頃は運動が得意だったのかしら」

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、味噌汁を飲む手を止めた。

 

 小鳥遊ホシノ。前世で知っていた『ブルーアーカイブ』では、圧倒的な防御能力と、異常なほどの耐久力を持つ少女だった。

 

 ……若い頃。

 

 今も十分若いと思うのだが。

 

 それはともかく。

 

「……たぶん、得意だったんじゃないかな」

 

 慎重に答えると、父さんが頷いた。

 

「五条さんも背が高いしなあ。運動できそうだよな」

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、心の中で頭を抱えた。

 

 父さん。

 

 その認識は、たぶん間違っていない。

 

 間違っていないのだが。

 

 背が高いから運動ができそう、というレベルの話ではないんだよ。

 

 もちろん、そんなことは言えない。

 

 僕は、黙ってご飯を食べ続けた。

 

 ◇

 

 同じ頃。

 

 骨董店『界』では、六花が両親に今日の出来事を話していた。

 

「それでね、蓮が最後に取ったの!」

 

「へえ!」

 

 五条悟が目を輝かせた。

 

「六花のボールを?」

 

「うん!」

 

「すごいじゃん! いやあ、蓮君、やるねえ」

 

 隣ではホシノが、のんびりとお茶を飲んでいた。

 

「うへへ。六花、ちゃんと手加減した?」

 

「したよ!」

 

「ほんと?」

 

「ほんとほんと! 呪術も神秘も使ってないし、普通に投げたもん!」

 

 悟は笑った。

 

「まあ、普通に投げても、六花は上手いからね」

 

「えへへ」

 

 ホシノは、少しだけ目を細めた。

 

「でも、みんなが楽しめるくらいにしておきなよぉ」

 

「分かってるって!」

 

 六花は笑い、それから思い出したように言った。

 

「……でも、蓮が取ったときは、本当にびっくりした。運動が得意なわけじゃないのに、ちゃんと前に出て、ボールの勢いを逃がしてたんだよね」

 

「へえ。いい判断だね」

 

 悟が、少しだけ興味深そうに頷いた。

 

「でしょ?」

 

 嬉しそうな娘を見ながら、ホシノが笑った。

 

「うへへ。蓮君のこと、よく見てるねぇ」

 

「……え?」

 

「いやいや。何でもないよぉ」

 

「もう、お母さん!」

 

 六花は少しだけ頬を膨らませ、悟も笑い始めた。

 

 いつもの、賑やかな家族の夜だった。

 

 ◇

 

 12.小学生の、勝負というもの

 

 その夜。

 

 僕は、自分の部屋で今日のことを思い返していた。

 

 男子チームは負けた。六花は大活躍だった。僕は最後に一度だけ、彼女のボールをキャッチした。

 

 それだけの話である。

 

 けれど、妙に記憶に残っていた。

 

 前世では、仕事のことばかり考えていた時期もあった。

 

 うまくいった仕事。失敗した仕事。会議で褒められたこと。理不尽な理由で怒られたこと。そういう記憶は、今でも残っている。

 

 けれど、今日みたいに、何も考えずにボールを追いかけて、友達と騒ぐ時間は、案外なかった気がする。

 

 今の人生では、前世と違うことがたくさんある。身体も、家族も、世界そのものも違う。

 

 それでも、こういう時間を楽しめるのは、悪くない。

 

 ……ただし。

 

 六花のドライブシュートについては、今後も警戒する必要があるだろう。

 

 あれは、少なくとも僕の知っている普通の小学生が投げる球ではない。

 

「……次は、絶対避けよう」

 

 小さく呟いてから、ふと思い出した。

 

 ──普通に投げただけだよ?

 

 ……。

 

 …………。

 

 僕は、ゆっくりと布団へ潜り込んだ。

 

 あの子の普通を、信用してはいけない。

 

 これは、今後の人生において、かなり重要な教訓になる気がした。

 

 もっとも、その普通から外れたところも含めて、六花という友達なのだろう。

 

 僕は少しだけ笑って、目を閉じた。

 

 明日も学校がある。

 

 ……できれば、体育はドッジボール以外がいい。

 

 心の底から、そう思った。

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