仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー リメイク版 作:水野芽生
──2013年6月上旬/鳥取県境港市
1.返ってきたラムネ瓶
六月最初の土曜日、佐藤酒店に少し変わったお客さんが来た。
いや、その言い方は正確ではない。
お客さん自体は、少しも変わっていなかった。昔から店に通っている常連で、父さんとも母さんとも仲がよく、僕が小さい頃から何度も顔を合わせている。
松浦源三さん。
六十歳前後に見える、穏やかな顔立ちのお爺さんだ。
ただし、今日の源三さんは、大きな布袋を抱えていた。
「おはようさん。瓶、返しに来たぞ」
「ああ、松浦さん。いつもありがとうございます!」
父さんは慣れた様子で袋を受け取り、カウンターの横へ置いた。
中に入っていたのは、空になったラムネ瓶だった。それも十本以上ある。
「先日の集まり、盛り上がったみたいですね」
「うむ。若い連中が喜んでのう」
「それはよかった。また必要なら言ってください」
「頼りにしとるよ」
源三さんは笑った。
商品棚を整理しながら、僕はその会話を聞いていた。
先日の集まり。
ああ、あれか。
父さんと配達へ行った、水木しげるロードから少し外れたところにある古い木造家屋。源三さんが管理しているという、あの家だ。
そして、廊下の奥から聞こえてきた、小さな声。
──ラムネ、来た?
今でも、妙にはっきり覚えている。
あれは本当に人間の声だったのだろうか。
少し気になっていたけれど、父さんも母さんも特に気にしていないようだったので、それ以上は調べていなかった。
ところが。
「おや、蓮坊」
源三さんがこちらを向いた。
「おはようございます」
「今日は店番か」
「はい。ちょっとだけ」
「感心じゃのう」
源三さんは目を細め、それから何かを思い出したように言った。
「そういえば、前に配達へ来たとき、うちの奥から声が聞こえんかったか?」
僕は、手を止めた。
「……あ、はい。何か、ラムネが来たかって」
源三さんは、しばらく僕を見ていた。
そして、ふっと笑った。
「そうか、聞こえとったか」
「小さい子がいたんですか?」
「まあ、そんなところじゃな」
ずいぶん曖昧な答えだった。
源三さんは何かを考えているようだったが、やがて父さんへ声をかけた。
「佐藤さん。今日は蓮坊、忙しいかね?」
「いや、午前中の仕事はだいたい終わりましたけど」
「そうか。午後にちょっと面白い催しがあってのう。よかったら蓮坊も見に来んかと思ってな」
「催し?」
「商店会の広場で、慈善活動の屋台が出るんじゃよ」
父さんが顔を上げた。
「ああ、あれですか。教会の方がやってるっていう」
「そうそう。全国を回っておる神父さんが来とってな。しばらく境港に滞在するそうじゃ」
「へえ。面白そうですね」
父さんは笑った。
「蓮、行きたいなら行ってきてもいいぞ。今日はもう大丈夫だから。ただし、あんまり遅くなるなよ」
「うん」
どうやら、普通の地域イベントらしい。教会の慈善活動ということなら、特に怪しいものでもないだろう。
……たぶん。
「そうじゃ、蓮坊」
源三さんが付け加えた。
「六花ちゃんも来る予定じゃぞ。母親のホシノさんが手伝うと言っとった」
なるほど。それなら、なおさら行きやすい。
前世の記憶を持つ転生者同士だと分かってから、六花とは前にも増してよく話すようになった。
……我ながら、改めて考えると奇妙な友人関係である。
「じゃあ、行ってみようかな」
「よしよし。では、昼過ぎに広場へ来るといい」
「分かりました」
「それと、蓮坊」
源三さんは、少しだけ声を落とした。
「前にうちで声を聞いたこと、覚えとるじゃろ。今日は、その声の主にも会えるかもしれんぞ」
僕は目を瞬かせた。
「……本当ですか?」
「うむ。まあ、驚くかもしれんがのう」
源三さんは、実に楽しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、少し嫌な予感がした。
この世界へ生まれて十年近く。最近になってようやく理解したことがある。
この街で年配の人が「驚くかもしれない」と言う場合、本当に驚くことが起きる可能性がある。
できれば、もう少し具体的に説明してほしい。
そう思ったけれど、源三さんはそれ以上何も言わなかった。
◇
2.慈善事業と、赤い屋台
午後一時過ぎ。
僕は水木しげるロード近くの広場へ来ていた。
観光客が行き交う通りから少し入った場所で、地域の商店会が小規模な催しを開いている。
テントがいくつか並び、飲み物や軽食を販売していた。地元の福祉団体の案内もあれば、寄付を募る小さなブースもある。
そして、その一角に、妙に人が集まっている屋台があった。
赤い看板。湯気の立ち上る大鍋。鼻を刺激する、香辛料の匂い。
「……麻婆豆腐?」
僕は少し離れたところで足を止めた。
屋台には、大きな文字で料理名が書かれていた。
麻婆豆腐。
麻婆茄子。
麻婆ラーメン。
……。
…………。
何だこれ。
麻婆しかない。
いや、別に悪いことではない。麻婆豆腐は美味しいし、麻婆茄子も好きだ。麻婆ラーメンだって、料理として成立している。
ただ、三種類すべて麻婆というのは、なかなか思い切った品揃えだと思う。
「いらっしゃい! 辛さは調整できる。初めてなら、まずは控えめなものを勧めよう」
屋台の向こうから、低くよく通る声が聞こえた。
そこに立っていたのは、背の高い男性だった。
黒髪。鋭い目つき。がっしりした体格。
顔立ちは整っているけれど、表情は少し厳しい。年齢は四十代前半くらいだろうか。
黒いシャツにエプロンを着け、額に薄く汗を浮かべて、大きな中華鍋を握っている。
何となく、見覚えのある顔だと思った。
……いや。
待て。
これは。
もしかして。
「おや、蓮君」
横から声がした。
振り向くと、ホシノさんが立っていた。
「こんにちは、ホシノさん」
「うへへ。よく来たねぇ」
「今日はお手伝いですか?」
「うん。ちょっとだけねぇ。受付のお手伝いを頼まれてさ。ほら、あそこの麻婆の屋台。結構人気なんだよぉ」
でしょうね。
あの匂いなら、通りがかった人も気になるだろう。
ただ、僕が気にしているのは料理だけではない。
屋台の男性。あの顔。あの雰囲気。
……嫌な予感がする。
「あ、蓮! こっちこっち!」
テントの向こうから六花が手を振った。
僕はホシノさんへ一礼し、そちらへ歩いた。
「やっほー! 来てくれたんだ!」
「源三さんに教えてもらって」
「そっか」
六花は嬉しそうに笑い、それから、僕が屋台の男性を気にしていることに気づいたらしい。
「……蓮。もしかして、あの人も知ってる?」
僕は、ゆっくりと彼女を見た。
「……六花。あの人、まさか」
六花は、にやっと笑った。
「うん。言峰綺礼さん」
……。
…………。
僕は、静かに目を閉じた。
ああ。
やっぱり。
『Fate』シリーズに登場する、あの言峰綺礼である。
五条悟と小鳥遊ホシノの次は、言峰綺礼か。
しかも、今度は麻婆料理の屋台をやっている。
……いや。
麻婆好きという点については、むしろ原典どおりなのかもしれない。
けれど。
教会の慈善活動で全国巡業?
何だ、その愉快な設定は。
「……蓮、顔がすごいよ」
六花が笑った。
「……うん」
「またびっくりした?」
「……ちょっとね」
ちょっとどころではない。
僕の前世の知識が、再び盛大に揺さぶられていた。
◇
3.麻婆神父、四十三歳
「君たち、六花さんの友人かな?」
屋台の男性が声をかけてきた。
間近で見ると、さらに迫力がある。黒髪をきちんと整え、背筋を伸ばして立っている。落ち着いた低い声。真面目そうな顔。
そして、手には中華鍋。
……本当に、何なんだろう、この組み合わせ。
「はい! 同じクラスの佐藤蓮君です!」
六花が紹介してくれた。
「ほう。佐藤君か」
男性は、軽く頷いた。
「私は言峰綺礼。四十三歳だ。カトリックの司祭をしている」
「……は、初めまして。佐藤蓮です」
「よろしく」
穏やかに答えてから、彼は僕の視線が鍋へ向いていることに気づいたらしい。
「麻婆料理は好きかね?」
「……はい。結構好きです」
「それはよかった」
言峰神父は、わずかに表情を緩めた。
「今日は三種類用意している。麻婆豆腐、麻婆茄子、麻婆ラーメンだ」
「……全部麻婆なんですね」
「うむ」
当然のように頷く。
「麻婆料理には、それぞれ違った魅力がある。豆腐には豆腐の、茄子には茄子のよさがある。麺と組み合わせれば、また違う楽しみ方ができる」
……なるほど。
この人、かなり本気だ。
「ただし、辛さについては注意してほしい。私は辛いものが好きだが、誰もが同じものを好むわけではない。子供向けには辛さを抑えたものを用意している」
「……助かります」
前世でも、辛い料理はそれなりに好きだった。ただ、極端な激辛料理を好んで食べるほどではない。まして今の身体は小学四年生である。無理をするつもりはなかった。
「神父さん、大学は上智だったんですよね?」
六花が尋ねた。
「そうだ。上智大学の神学部を卒業し、その後、司祭としての道を歩んだ。今は教会の活動の一環として、各地で慈善事業にも携わっている」
「全国を回ってるんですよね」
「うむ。地域の教会や福祉団体と協力しながらな」
彼が指さした案内板には、今回の催しについての説明が書かれていた。
地域の子供たちへの食料支援。生活に困っている家庭への援助。各地の福祉活動を支えるための寄付募集。
屋台の売上から必要経費を除いた分は、そうした活動へ充てられるらしい。食材の一部は地元の飲食店や協力者から提供されていて、会計についても後日報告する予定だという。
前世でも、こうしたチャリティー活動は見聞きしたことがある。
ただ、神父が自ら中華鍋を振るって全国を回るという話は、あまり聞いたことがなかった。
「……どうして麻婆料理なんですか?」
思わず尋ねると、言峰神父は少しだけ考えるような顔をした。
「好きだからだ」
実に簡潔な答えだった。
……。
…………。
僕は、何とも言えない顔になった。
六花が吹き出す。
「あはは! それで全国巡業してるんですか?」
「もちろん、それだけではない。食材を工夫すれば多くの人へ温かい食事を提供できるし、地域ごとの食文化とも組み合わせやすい」
言峰神父は真面目な顔で続けた。
「それに、料理を通じて人が集まることには意味がある。普段は支援の情報に触れない人も、屋台へ立ち寄ることならあるだろう」
……なるほど。
意外と、ちゃんとした理由がある。
いや、意外というのは失礼かもしれない。この人は本当に神父で、本当に慈善事業をしているのだ。
前世で知っていた物語の人物像を、そのまま当てはめてはいけない。つい先日、六花とそう話したばかりだった。
「……境港には、どのくらい滞在するんですか?」
「しばらくは滞在する予定だ。地域の教会や商店会と、いくつかの活動を計画している。また見かけたら、気軽に声をかけてくれたまえ」
言峰神父は、そう言って微笑んだ。
……。
…………。
ああ。
どうしよう。
この人、普通にいい人じゃないか。
しかも、麻婆料理が好きというところまで含めて、かなり個性的な善人である。
僕は、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
4.松浦源三からの紹介
「おお、蓮坊。来とったか」
背後から声がした。
源三さんが、薄い茶色の上着に、いつもの布袋を下げて歩いてくる。
「こんにちは、源三さん」
「うむ。楽しんどるか?」
「はい。言峰神父さんにも会いました」
「ほっほっほ。あの人の麻婆は美味いぞ。ちょいと辛かったがのう」
そのとき、六花がこちらへ顔を近づけた。
「蓮、今日のもう一つの目的、覚えてる? ほら。源三さんのお家のこと」
前に配達へ行ったとき、奥から聞こえた小さな声。ラムネを楽しみにしていた、あの声だ。
「……ああ」
僕が頷くと、源三さんは目を細めた。
「そうじゃ。それを話そうと思っとった」
広場には観光客や地元の人々がいる。誰もこちらの会話を気にしている様子はなかったが、源三さんは少し声を落とした。
「蓮坊。お前さん、妖怪というものを信じるかね?」
……。
…………。
僕は、ゆっくりと口を開いた。
「……いますよね?」
源三さんが目を瞬かせた。
「ほう?」
「いや、その……最近、いろいろありまして」
夢みなとタワーの怪異。五条悟と小鳥遊ホシノ。そして、六花の呪術と神秘。
そこまで知っている今の僕にとって、妖怪の存在を否定する方が難しい。
源三さんは少し驚いたようだったが、すぐに笑った。
「なるほどのう。なら、話が早い。実は、わしも妖怪なんじゃよ」
……。
…………。
僕は、源三さんを見た。
丸い顔。穏やかな目元。少し古風な話し方。
普通の年配男性にしか見えない。
「……え?」
「化け狸じゃ」
源三さんは、実にあっさりと言った。
……。
…………。
なるほど。
そういうことだったのか。
いや、待て。そんなに簡単に納得していいのだろうか。
「……源三さん、狸なんですか?」
「うむ」
「……本当に?」
「本当に」
源三さんは笑い、周囲から見えにくい物陰へ少し移動すると、上着の裾を軽く持ち上げた。
その下から、ふさふさした茶色の尻尾が現れた。
……。
…………。
どう見ても、狸の尻尾である。しかも、普通に動いている。
「……うわ」
思わず声が漏れた。
源三さんは、少し得意そうだった。
「どうじゃ?」
「……すごいですね」
「ほっほっほ」
尻尾はすぐに隠された。
六花が横で笑っている。
「蓮、びっくりした?」
「……うん」
「ふふっ」
……この子、最近、僕が驚くところを見るのが趣味になっていないだろうか。
まあ、いい。
それよりも。
「……じゃあ、源三さんの家にいたのも」
「うむ。妖怪じゃ。わしの知り合いでのう。人間の姿になれん連中もおるから、買い物を引き受けたりしとる」
大量のラムネ。麦茶。りんごジュース。それを楽しみにしていた、小さな声。
あれは、人間の子供ではなかったのだ。
「……会ってみたいかね?」
源三さんが尋ねた。
普通なら、ここで怖がるべきなのかもしれない。
しかし、源三さんは昔から佐藤酒店へ来ている常連客で、父さんも母さんも彼を信頼している。そして、彼の家にいる妖怪たちは、ラムネを楽しみにしているような連中らしい。
……それなら。
「……はい」
源三さんは嬉しそうに頷いた。
「よし。では、少し案内しよう」
「私も行く!」
「もちろんじゃ」
こうして僕たちは、源三さんの家へ向かうことになった。
ただし、その前に。
「……あ、蓮。麻婆、食べてからにしない?」
……。
…………。
なるほど。
それは、とても重要な問題だった。
◇
5.麻婆豆腐と、午後の約束
僕たちは、言峰神父の屋台へ戻った。
六花は麻婆豆腐、僕は麻婆茄子。辛さは、どちらも控えめにしてもらう。
「子供向けの味付けだが、香りは楽しめるはずだ」
皿から立ち上る湯気。赤みを帯びた餡。香辛料の香り。
一口食べた。
……。
…………。
美味しい。
普通に美味しい。
いや、想像以上だった。茄子は柔らかく、餡にはしっかり旨味がある。辛さは抑えられているけれど、香りは十分に立っていた。
「……美味しいですね」
「それは何よりだ」
言峰神父は満足そうに頷いた。
「神父さん、これ美味しい!」
「ありがとう。料理は、食べる人に喜んでもらえてこそ意味がある」
……何だか、まともなことを言っている。
いや、神父なのだから当然なのかもしれない。
「……神父さん。どうして全国を回ってるんですか?」
ふと思いついて尋ねると、言峰神父は少し考えた。
「一つの場所で活動することにも意味はある。しかし、地域ごとに異なる事情を知ることにも意味があると思っている。食事に困る人もいれば、孤立している人もいる。必要な支援は、それぞれ違う」
彼は続けた。
「私一人でできることなど限られている。だから、各地の教会や地域の人々と協力しているのだ」
僕は、少しだけ感心した。
前世で会社勤めをしていた頃、地域社会への支援や企業の社会的責任が仕事の中で話題になることがあった。銀行でサステナビリティやESGに関わっていた六花なら、もっと詳しいだろう。
けれど、実際に全国を回り、料理を作って人々へ提供するというのは、なかなかできることではない。
「……すごいですね」
「特別なことではない。できることをしているだけだ」
言峰神父は、少しだけ笑った。
「それに、私は料理を作ることが好きなのでな」
……。
…………。
ああ。
結局、そこへ戻るのか。
僕は、思わず笑ってしまった。六花も笑っている。
「神父さん、本当に麻婆好きですね」
「うむ。麻婆料理は素晴らしい」
実に真面目な顔だった。
……。
…………。
僕は、この人のことを少し好きになった。
◇
6.ラムネ瓶の向こう側
午後三時過ぎ。
僕たちは源三さんの家を訪れた。
配達で来たときと同じ、古い木造家屋である。今日は父さんと一緒ではないけれど、源三さんと六花がいるので、特に不安はなかった。
広場を出る前に、ホシノさんの電話を借りて、母さんへ連絡もしてある。源三さんの家に少し寄ってから帰る、と。
母さんは「遅くならないようにね」と言っていた。
……まあ、普通の小学生のお出かけである。
「さあ、入るといい」
源三さんが引き戸を開け、僕たちは靴を脱いで家の奥へ進んだ。
廊下の先には、前に見たすりガラスの引き戸がある。そこから、小さな声が聞こえてきた。
『……源三?』
「おう、帰ったぞ」
『ラムネ買ってきた?』
「今日は別のものじゃ」
『えーっ!』
僕は、思わず笑った。
どうやら、あの声の主は今日もラムネを期待していたらしい。
源三さんが引き戸を開ける。
その向こうには、畳敷きの広い部屋があった。
そして、座布団の上に、小さな生き物が座っていた。
大きさは、猫より少し大きいくらいだろうか。頭から背中にかけて、淡い緑色の毛のようなものが生えている。丸い顔に、大きな目。細い手足。
人間の子供を小さくしたようにも見えるけれど、明らかに人間ではない。
その生き物は僕を見て、首を傾げた。
『……誰?』
少しだけ緊張した。
源三さんが笑う。
「灯吉。前にラムネを届けてくれた店の子じゃ」
『……ラムネの?』
「そうじゃ」
小さな生き物は、ぱっと顔を輝かせた。
『あっ! ラムネ屋さん!』
勢いよく立ち上がる。
……。
…………。
僕は、思わず笑った。
「……こんにちは」
『こんにちは!』
元気のよい返事だった。
「こいつは灯吉。浜灯という妖怪じゃ。海辺や古い建物の近くに暮らす、小さな妖怪の一種じゃよ」
灯吉は、こちらをじっと見ていた。
『名前は?』
「佐藤蓮。蓮でいいよ」
『れん!』
嬉しそうに繰り返してから、灯吉は六花の方を見た。
『六花も来た!』
「やっほー、灯吉」
『やっほー!』
どうやら、以前から顔見知りらしい。
この子、いったいどれくらい妖怪の知り合いがいるんだろう。
「……灯吉、僕のこと怖くないの?」
『何で?』
「いや、人間だから」
『人間?』
灯吉は少し考えてから、あっさり答えた。
『ラムネ持ってきてくれた人でしょ?』
「……うん」
『じゃあ、いい人!』
……。
…………。
何とも簡単な判断基準である。
しかし、嫌いではない。
「……ありがとう」
『うん!』
灯吉は満足そうに頷き、部屋の隅へ走っていった。小さな木箱を開き、中から何かを取り出す。
『見て見て!』
差し出されたのは、空になったラムネ瓶だった。中には、青いビー玉が入っている。
『きれいでしょ!』
「うん。きれいだね」
素直に答えた。
窓から入る午後の日差しを受けて、青いビー玉が小さく輝いていた。
何ということのない、ただのガラス玉。けれど、灯吉にとっては大切な宝物らしい。
『これ、ずっと取っておくんだ!』
「いいね」
『うん!』
……。
…………。
少しだけ、不思議な気分になった。
人の姿をしていない妖怪と、こうしてきちんと会話している。
前世では、漫画や昔話の中でしか知らなかったもの。それが今、目の前でラムネ瓶を抱えて笑っている。
……思っていたより、ずっと普通だった。
◇
7.二十年分の春と夏
「……そういえば、灯吉って何歳なの?」
灯吉は、胸を張った。
『十三歳!』
「……十三歳?」
『うん!』
僕より年上である。けれど、見た目も話し方も、ずいぶん幼い。
……まあ、妖怪なのだから、人間と同じように成長するとは限らないか。
「……じゃあ、僕より年上なんだね」
『れん、何歳?』
「九歳」
『じゃあ、ぼくの方がお兄さん!』
「そうだね」
『えへへ!』
六花も、横で笑っていた。
「灯吉、嬉しそう」
『だって、お兄さんだもん!』
何とも微笑ましい。
すると、源三さんが口を開いた。
「蓮坊。浜灯は、人間とはちょいと寿命が違うんじゃよ。だいたい二十年ほど生きれば長寿と言われる種族じゃ」
……。
…………。
僕は、灯吉を見た。
十三歳。そして、二十年ほどで長寿。
人間よりずっと短い寿命を持っている。
「……そうなんですか」
「妖怪といっても、みんなが長生きするわけではない。わしや潮丸のように百年以上生きる者もおるが、人間より短命な連中もおる。それに、不死身というわけでもない。病気になることもあるし、怪我をすれば命を落とすこともある」
前世で知っていた妖怪の物語には、何百年も生き続ける存在がよく登場していた。死なない存在。年を取らない存在。人間とは違う時間を生きる存在。
けれど、現実の妖怪は、もっと多様らしい。
長生きする者もいれば、短命な者もいる。病気にも、事故にも遭う。
彼らもまた、生き物なのだ。
「……灯吉は、自分の寿命のこと、知ってるの?」
少し迷いながら尋ねると、灯吉はきょとんとした顔をした。
『知ってるよ? 浜灯は、みんなそんな感じだもん』
実にあっさりした答えだった。
灯吉は、ラムネ瓶を抱え直した。
『でも、まだまだやりたいこといっぱいあるよ!』
「……例えば?」
『ラムネ、もっと飲みたい!』
……。
…………。
僕は、思わず笑ってしまった。六花も笑っている。
『それから、海の向こうも見たいし、山の方にも行ってみたい! でも、危ないところは駄目って言われてる』
「そうじゃ。行っていい場所と、駄目な場所がある」
『分かってるよ!』
灯吉は少しだけ頬を膨らませ、それから僕へ向き直った。
『れんは、何したい?』
「……僕?」
『うん!』
少し考えた。
前世では、会社員だった。仕事をして、生活をして、休みの日には趣味を楽しんでいた。
今は小学四年生。人間として普通に生きるなら、あと何十年もある。
……でも、何がしたいのかと聞かれると、意外と答えに困る。
「……そうだなあ。今は、友達と遊んだり、いろんな場所へ行ったりしたいかな」
『いいね! ぼくも!』
……。
…………。
何とも言えない気分になった。
灯吉の寿命は、僕よりずっと短い。けれど本人は、それを特別な悲劇だとは思っていないらしい。
彼には彼の時間があり、その中で毎日を楽しんでいる。ラムネを飲んで、友達と遊んで、海を眺めて。そして、いつかは年を取る。
それは、人間と同じことなのだろう。
「……妖怪って、みんな寿命が違うんですね」
少しだけ声を落とすと、源三さんは頷いた。
「種類によって、ずいぶん違う。人間より長生きするものが多いが、例外もいくらでもある。それに、長生きするから幸せとは限らんし、短命だから不幸とも限らん」
源三さんは、少しだけ目を細めた。
「大切なのは、どれだけ長く生きるかだけではないんじゃよ」
……。
…………。
前世では、人生の長さについて深く考える機会があまりなかった。仕事や生活に追われて毎日を過ごし、気がつけば転生していた。
今の僕には、もう一度人生を送る機会がある。でも、それが当たり前だとは思っていない。
そして、灯吉には灯吉の人生がある。その長さを、人間の感覚だけで判断してはいけない。
そう思った。
「……灯吉。そのラムネ瓶、大事にしてね」
『うん! ずっと大事にする!』
僕も笑った。
窓から入る午後の光が、青いビー玉を照らしていた。
◇
8.神父と妖怪の、午後のお茶会
しばらくして、玄関の方から声がした。
「失礼する」
低く、よく通る声だった。
「おお、神父さん。来たか」
言峰綺礼だった。屋台の仕事を一段落させ、地域の協力者へ挨拶に回っているらしい。手には大きな紙袋を提げている。
「源三殿。約束していた品を持ってきた」
「おお、助かるよ」
僕は少し驚いた。
「……神父さん、ここにも来るんですか?」
「うむ。源三殿とは、今回の活動について少し相談していてな」
言峰神父は普通に答え、部屋の中を見回した。
灯吉。六花。僕。そして、源三さん。
……。
…………。
言峰神父は、まったく驚かなかった。
「ほう。今日は賑やかだな」
それだけだった。
「……神父さん、灯吉のこと知ってるんですか?」
「うむ。以前、源三殿から紹介された」
……。
…………。
なるほど。この人、妖怪のことも知っているのか。
全国を回っている神父なのだから、さまざまな人々と関わる機会があるのだろう。この世界には超常社会が存在する。宗教者の中にも、そうした事情を知っている人はいるはずだ。
「灯吉君、元気にしていたかね」
『うん! ラムネ飲んだ!』
「そうか。それはよかった」
言峰神父は、わずかに微笑んだ。
前世で知っていた言峰綺礼と同じ顔の人物が、小さな妖怪へ普通に声をかけている。しかも、妙に自然だ。
「……神父さん。妖怪のこと、怖くないんですか?」
思わず尋ねると、言峰神父は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「怖いかどうかは、相手によるだろう。人間にも善良な者と危険な者がいる。妖怪も同じではないかね」
……。
…………。
確かに、そのとおりだった。
妖怪だからといって、全員が危険な存在というわけではない。源三さんは普通に商売をしているし、灯吉はラムネが好きな小さな妖怪だ。一方、人間にだって危険な者はいる。
種族だけで善悪を判断するのはおかしい。
「もちろん、すべての存在を無条件に信用するわけではない。しかし、困っている者がいれば、まず話を聞くことはできる」
言峰神父は、紙袋を源三さんへ渡した。
「こちらは、今日の催しで用意した食品の一部だ。辛味を抑えたものも入れてある。ただし、食べられるかどうかは、そちらで確認してほしい」
「うむ。分かっとる」
妖怪の中には、人間と同じ食べ物を食べられない者もいるのだろう。味覚や消化の仕組みが違う場合もあるはずだ。そのあたりも、きちんと考えられているらしい。
「……神父さん。灯吉って、まだ十三歳なんですよ。でも、浜灯は二十年くらいで長寿なんですって」
六花が言った。
「なるほど」
言峰神父は静かに頷き、灯吉の方を見た。
「灯吉君。今、楽しいことは何かね?」
灯吉は少し考えて、即答した。
『ラムネ!』
……。
…………。
僕は思わず吹き出した。六花も笑い、源三さんまで肩を揺らしている。
言峰神父は、少しだけ目を細めた。
「そうか。それはよいことだ」
そして、静かに続けた。
「人の一生にも、妖怪の一生にも、長短がある。だが、喜びを感じる時間が大切であることに変わりはないだろう」
特別なことを言ったわけではない。
けれど、その言葉は妙に印象に残った。
二度目の人生を生きている僕と六花。十三歳の浜灯。百年以上を生きる化け狸。全国を巡る神父。
それぞれ、まったく違う人生だ。
それでも、今、同じ部屋で話している。
何とも不思議なことだった。
◇
9.青いビー玉と、赤い麻婆
夕方。
僕と六花は、源三さんの家を出た。言峰神父は、まだ源三さんと何か相談しているらしい。
灯吉は玄関まで見送りに来てくれた。
『れん! また来る?』
「うん。源三さんがいいって言ってくれたらね」
『やった!』
灯吉は嬉しそうに跳ね、それから思い出したように言った。
『今度、ラムネ持ってきて!』
僕は笑った。
「分かった。お店で買ってくるよ」
『ほんと!? 約束!』
灯吉が、小さな手を差し出した。
少し迷ってから、その手へ自分の指を伸ばした。
灯吉の手は、思っていたより温かかった。柔らかい毛のようなものが生えていて、触れると少しくすぐったい。
けれど、ちゃんと生き物の手だった。
「……約束」
『うん!』
「またね、灯吉」
『またね!』
六花も手を振り、僕たちは源三さんの家を後にした。
外には、夕方の風が吹いていた。
六月になったばかりの境港は、まだ本格的な夏には遠い。けれど、日中の暑さには、少しずつ夏の気配が混じり始めている。
「……ねえ、蓮。灯吉、可愛かったでしょ」
「うん。思ってたより、ずっと普通だった」
「普通?」
「妖怪っていうから、もっと不思議な感じなのかと思ってた」
「まあ、不思議ではあるけどね」
「そうだね」
人間ではない。寿命も、身体の作りも、生活の仕方も違う。
けれど、ラムネが好きで、友達と遊ぶのが好きで、きれいなビー玉を大切にしている。そういうところは、人間の子供と大して変わらなかった。
「……それにしても、二十年かぁ。人間だと、二十歳ってまだ若いじゃない」
「……うん。でも、それって人間の二十歳と同じ意味じゃないんだよね」
「……ああ」
浜灯には浜灯の成長の仕方がある。十三歳という年齢も、人間の十三歳とは違う。単純に比較することはできないのだろう。
六花が、少し真面目な顔になった。
「でも、ああいう子たちも、普通に暮らしてるんだよね。人間の住民票とか持ってなくても、ちゃんとこの街にいる」
「……うん」
源三さんは正式に住民登録をしている妖怪だから、人間の姿で普通に店へ来ることができる。
一方、灯吉は住民登録をしていないし、人間の姿へ化けることもできない。
けれど、だからといって、存在しないわけではない。源三さんの家で暮らし、ラムネを飲み、友達と遊んでいる。
「……何かさ。境港って、思ってたよりずっといろんな人がいるね」
「でしょ? でも、まだまだ知らないこといっぱいあるよ」
……そうだろうね。
五条悟と小鳥遊ホシノ。松浦源三。灯吉。言峰綺礼。
この短い間に、ずいぶん多くの人物と出会った。しかも、その大半が、普通の人間とは少し違う事情を持っている。
……何という街だ。
でも、悪くない。
僕は、そう思った。
◇
10.麻婆神父、境港に滞在する
その夜。
水木しげるロード近くの広場では、言峰綺礼が屋台の片付けをしていた。
昼間は賑やかだった広場も、今は静かになっている。商店会の人々がテントを畳み、机や椅子を運んでいた。
「神父さん、今日はありがとうございました」
地元の協力者が声をかけた。
「こちらこそ、世話になった。おかげで、多くの方に来ていただけた」
「麻婆ラーメン、評判よかったですよ」
「それは何よりだ。明日も出す予定だ。ただし、麻婆茄子も勧めたい」
協力者は、少し笑った。
「神父さん、本当に麻婆がお好きなんですね」
「うむ。よい料理だからな」
言峰神父は、調理器具を一つずつ片付け、今日の寄付金と売上の記録を確認した。
材料費。必要経費。寄付金。支援先。すべて、きちんと整理されている。
慈善事業は、善意だけでは続かない。資金も協力者も必要だし、何より、支援を必要としている人々へ実際に届かなければ意味がない。
言峰綺礼は、そのことをよく理解していた。
司祭となってから、さまざまな場所で人々の相談に乗ってきた。宗教的な悩みもあれば、生活上の問題もあった。貧困。孤独。家族の問題。病気。
そして、時には、人間以外の存在に関する相談もあった。
この世界には、人間だけでなく、妖怪も、神秘に関わる者も暮らしている。それぞれの価値観や生活は、必ずしも一致しない。
しかし、困っている者がいれば、話を聞くことはできる。できる範囲で助けることもできる。
言峰綺礼は、そう考えていた。
「……さて」
最後の鍋を片付ける。
明日も屋台を開く予定だ。境港にはしばらく滞在することになっていて、地域の教会や商店会との協力も順調に進んでいた。
それに、今日は少し面白い少年と少女に会った。
佐藤蓮。小鳥遊六花。
どちらも普通の小学四年生に見えたが、話していると、時々妙に大人びたところがある。
特に、蓮という少年は、初めて顔を合わせたとき、なぜかひどく驚いていた。
まるで、以前から自分を知っているかのように。
……まあ、子供というものは、ときどき不思議な反応をする。今すぐ深く考える必要はないだろう。
言峰神父は、小さく笑った。
「……また来るかもしれんな」
そう呟き、屋台の灯りを消した。
六月の夜風が、静かに吹いていた。
◇
11.二十年と、百年と、二つ目の人生
その頃。
佐藤酒店の二階で、僕は今日のことを思い出していた。
化け狸の松浦源三さん。浜灯の灯吉。麻婆料理が大好きで、全国を巡りながら慈善活動をしている言峰神父。
……やっぱり、情報量が多い。
最近の僕の人生は、どうにも刺激が強すぎる。
ただ、今日の出来事は、今までとは少し違っていた。
夢みなとタワーでは、正体不明の怪異を見た。
五条家では、前世で知っていた漫画やゲームの登場人物に出会った。
そして今日は、人の姿をしていない妖怪と、初めて普通に会話した。
しかも、その妖怪はラムネが大好きだった。
……妙に印象に残っている。
灯吉の寿命は、二十年ほど。今は十三歳。
時間そのものは、僕たちと同じように流れているのだろう。ただ、その中で生きる長さが違う。
僕と六花は、二度目の人生を生きている。けれど、それが普通ではないことは分かっている。
灯吉には灯吉の一生がある。源三さんにも、言峰神父にも、それぞれの人生がある。
そして、僕にも、今の僕自身の人生がある。
「……そうだね」
小さく呟いた。
前世のことばかり考えていても仕方がない。今の世界で、何をするか。どんな人と出会うか。どんな時間を過ごすか。
そちらの方が、ずっと大切なのだろう。
机の上の小さなメモ帳を開くと、今日の出来事を簡単に書いてあった。
──松浦源三。化け狸。
──灯吉。浜灯。十三歳。
──言峰綺礼。四十三歳。神父。麻婆好き。
最後の一行を見て、少し笑った。
麻婆好き。
それだけで十分に人物像が伝わる気がする。実際には、もっといろいろな面があるのだろうけれど。
「……さて」
メモ帳を閉じた。
明日も休みだ。たぶん店を手伝うことになるし、六花と遊ぶ約束もある。
源三さんの家にも、また行ってみたい。灯吉との約束もある。ラムネを持っていかなければならない。
……うん。
何だか、少し楽しみだ。
部屋の電気を消し、布団へ入った。
窓の外では、境港の夜風が静かに吹いている。海の方から、かすかに船の音が聞こえた。
今日も、何でもない一日が終わる。
ただし、この街の「何でもない」という言葉には、人間以外の暮らしも含まれている。
それを、僕は今日初めて、ちゃんと知った気がした。
◇
同じ夜。
松浦源三の家では、灯吉がラムネ瓶を抱えて窓の近くにいた。
外には、六月の夜空が広がっている。
『……れん、また来るかな』
部屋の奥から、源三の声がした。
「来るじゃろう。約束しとったしのう」
『うん! 今度は、いっしょに飲むんだ!』
「そうかそうか」
源三は笑った。
灯吉は十三歳。浜灯という種の中では、もう決して幼い年齢ではない。
それでも、まだまだ知らないことがたくさんある。行ってみたい場所も、食べてみたいものも、会ってみたい相手もいる。
そのすべてを叶えられるかどうかは、分からない。
けれど今日、初めて人間の友達ができた。
それは、灯吉にとって、とても嬉しい出来事だった。
『……源三』
「何じゃ?」
『人間って、面白いね』
源三は、少しだけ目を細めた。
「そうじゃな」
『うん!』
青いビー玉が、月明かりを受けて小さく輝いている。
二十年ほどの寿命を持つ、小さな妖怪。その一生の中に、今日、新しい思い出が一つ増えた。
ラムネ瓶。麻婆の匂い。人間の少年。銀色の髪の少女。そして、六月の午後。
何十年も生きる人間にとっては、何でもない一日かもしれない。
けれど、灯吉にとっては、きっと忘れがたい一日になるだろう。
源三は、そんな小さな妖怪の背中を眺めていた。
長く生きていると、いろいろな出会いがある。別れもある。
それでも、こうして誰かが嬉しそうに笑っている時間は、何度見ても悪くない。
「……さて、そろそろ寝るぞ」
『はーい!』
灯吉は元気よく返事をして、ラムネ瓶を大切そうに木箱へ戻した。
明日も、きっと楽しいことがある。
少なくとも、彼はそう信じていた。
それで十分だった。