「はぁ……はぁ……」
薄暗い路地裏に、荒い呼吸音が響く。
私は冷たい壁に背中を預け、傷ついた身体を休めていた。
身体のあちこちが痛む。
腕には擦り傷ができ、口の端からは血が滲んでいた。背中の黒い翼も、何枚か羽が抜け落ちている。
「……くそっ」
思わず悪態が漏れた。
頭の中は、先ほどまで私を痛めつけていた連中への憎しみでいっぱいだった。
カラスだから。
不吉だから。
気味が悪いから。
そんなくだらない理由で、奴らは私を虐めてくる。
人間と獣人が共存するこの世界では、種族の違いなど珍しくもない。
それでも、場所によっては私のような獣人を忌み嫌う者がいる。
「……何が不吉だ。馬鹿馬鹿しい」
私は拳を握りしめた。
なぜ、私ばかりがこんな目に遭わなければならない?
私が何をした?
ただ生まれついた種族が違うだけではないか。
それだけの理由で、なぜ奴らに踏みにじられなければならない?
「……覚えていろ」
奴らの顔は覚えている。
名前も、声も、住んでいる場所も。
いつか必ず、この借りは返す。
そう心の中で誓ったときだった。
――コツ、コツ。
遠くから足音が聞こえてきた。
「っ……!」
私は反射的に顔を上げた。
まさか、奴らが追ってきたのか?
逃げようと身体を動かす。
しかし、全身に鋭い痛みが走り、思うように動けなかった。
(……まずい)
私は息を殺し、路地の入り口を睨みつけた。
やがて、足音の主が姿を現す。
「……あれ?」
そこにいたのは、私より二つほど年上に見える人間の男の子だった。
どこにでもいそうな、優しそうな顔をした少年。
少年は私を見るなり、驚いたように目を見開いた。
「大丈夫か?」
「……は?」
突然の問いかけに、思わず間の抜けた声が出た。
少年は心配そうにこちらを見ている。
「すごい怪我してるけど……」
「大丈夫に決まってるだろ!! あっちに行け!」
私は声を荒らげた。
弱みなど見せたくなかった。
ましてや、人間になど。
どうせこいつも同じだ。
弱っている私を見て、面白がっているに違いない。
そう思っていた。
しかし、少年は何も言わなかった。
ただ黙って私に近づいてくる。
「おい、聞いているのか! 近づくな!」
少年は私の言葉を無視して、その場にしゃがみ込んだ。
そして、ポケットから一枚のハンカチを取り出す。
「ちょっと我慢してな」
「……何を」
言い終わる前に、少年は私の頬についた血をハンカチで拭い始めた。
「なっ!? おい、やめろ!」
私はその手を振り払おうとした。
だが、腕を動かした瞬間、激痛が走る。
「っ……!」
「ほら、無理するなって」
「うるさい……! 勝手なことを……!」
「ごめん。でも、そのままじゃ痛いだろ?」
少年は困ったように笑いながら、傷口についた汚れを丁寧に拭き取っていく。
私は何度も文句を言った。
しかし、身体が思うように動かず、結局されるがままになっていた。
(……何なんだ、こいつは)
意味が分からなかった。
私を助けたところで、何の得にもならない。
それどころか、面倒事に巻き込まれる可能性だってある。
なのに、なぜ?
「……お前、馬鹿なのか?」
「え?」
「見ず知らずの相手に、何をしているんだ」
「何って……怪我してるから」
「……それだけか?」
「うん」
少年は当たり前のように答えた。
私は呆れてしまった。
(……本当に馬鹿だ)
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
---
「よし。こんなもんかな」
しばらくして、少年は手を止めた。
ハンカチは私の血で汚れてしまっていた。
「……汚れたぞ」
「ん?」
「そのハンカチだ。もう使えないだろ」
「ああ、これ? 洗えば大丈夫だよ」
少年は何でもないことのように笑った。
私は黙り込んだ。
すると少年は、ふと思い出したように手に持っていた袋を差し出してきた。
「そうだ。これ、よかったら食べなよ」
「……何?」
袋の中には食べ物が入っていた。
私は怪訝そうに少年を睨む。
「いらない」
「まあまあ、そう言わずに」
「いらないと言っているだろう」
「実はさ、俺もうお腹いっぱいなんだよね」
少年は笑いながら続けた。
「買いすぎちゃって、どうしようかと思ってたんだ。だから、食べてくれると助かるんだけど」
そう言って、半ば押しつけるように袋を渡してきた。
「……」
私は少年の顔をじっと見つめた。
(……嘘だな)
すぐに分かった。
私は昔から、他人の顔色を窺って生きてきた。
相手が何を考えているのか。
怒っているのか。
嘘をついているのか。
それを見誤れば、酷い目に遭う。
だから自然と、人の表情や仕草から嘘を見抜けるようになっていた。
そして、目の前の少年も嘘をついている。
そもそも、よく見れば分かることだった。
服の隙間から覗く、いくつもの痣。
年齢の割に細い腕。
少し痩せた頬。
決して裕福な暮らしをしているようには見えない。
それどころか、まともに食事を取れているのかすら怪しかった。
(……お腹いっぱい、だと?)
馬鹿馬鹿しい。
そんなはずがない。
この食べ物だって、きっと自分のために買ったものだろう。
腹を空かせているのは、むしろこいつの方ではないか。
なのに。
「ほら、遠慮しないで」
少年は笑っていた。
私が受け取りやすいように。
私が惨めな思いをしないように。
わざわざ、嘘をついてまで。
「…………」
私は何も言えなくなった。
今まで、数え切れないほどの嘘を聞いてきた。
「お前のためだ」
「誰もお前なんか嫌っていない」
「もう何もしない」
どれもこれも、私を傷つけるための嘘だった。
人間の嘘など、他人を騙し、利用し、踏みにじるためのもの。
そう思っていた。
だが、目の前の少年は違った。
自分が損をしてまで、私のために嘘をついている。
(……こんな嘘も、あるのか)
胸の奥に、何か奇妙な感覚が広がった。
私はゆっくりと袋を受け取った。
「……もらっておく」
「うん!」
少年は嬉しそうに笑った。
まるで、自分が食べ物をもらったかのように。
その笑顔が、妙に眩しかった。
「じゃあ、俺はそろそろ行くね」
少年は立ち上がった。
「……もう行くのか?」
思わず、そんな言葉が出た。
少年は少し不思議そうに私を見る。
「うん。用事があるから」
「……そうか」
「怪我、早く治るといいな」
そう言って、少年は手を振った。
「じゃあ、またね」
それだけだった。
名前も聞かず。
見返りも求めず。
ただ私の傷を手当てし、自分の食べ物を渡して。
少年は路地裏を去っていった。
---
私はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。
「……何なんだ、あいつは」
本当に、理解できない人間だった。
あんなに痩せているくせに。
自分の身体にだって痣があるくせに。
どうして、見ず知らずの私なんかを助けた?
「……馬鹿な奴」
私は袋の中の食べ物を見つめた。
そして、一口食べる。
「…………」
美味しかった。
腹が減っていたからだろうか。
それとも、別の理由だろうか。
自分でも分からなかった。
ただ、不思議と胸の奥が温かくなった。
(……あんなお人好しでは、いつか酷い目に遭うぞ)
私は少年の姿を思い出した。
優しそうな顔。
細い腕。
服の隙間から見えた痣。
そして、あの笑顔。
(……いや)
すでに酷い目に遭っているのかもしれない。
それでも、あいつは他人に優しくしていた。
きっと、これからもそうなのだろう。
自分がどれだけ傷つこうと。
自分がどれだけ損をしようと。
困っている誰かを見れば、手を差し伸べてしまう。
そんな人間なのだ。
「…………」
私は無意識に拳を握りしめていた。
想像してしまった。
あの少年が、悪意を持った誰かに利用される姿を。
騙され、奪われ、傷つけられる姿を。
そして、最後にはあの笑顔すら失ってしまう姿を。
「……ふざけるな」
低い声が漏れた。
なぜだろう。
自分が傷つけられたときよりも、遥かに強い怒りが湧き上がっていた。
あいつは私を助けた。
何の見返りも求めずに。
自分だって苦しいはずなのに、私のために優しい嘘までついた。
そんな人間が。
そんなお人好しが。
悪意ある連中に食い物にされるなど。
「……許せるものか」
私はゆっくりと立ち上がった。
傷ついた身体が悲鳴を上げる。
だが、そんなことはどうでもよかった。
今の私には力がない。
自分一人すら守れない。
だからこそ、今日もこうして傷つけられた。
だが、いつまでもこのままでいるつもりはない。
「……力だ」
誰にも踏みにじられない力。
誰にも奪われない力。
そして、あの少年をあらゆる脅威から守れるだけの力。
それが必要だった。
「恩には恩を。仇には仇を……」
私は昔から、この言葉を信条としてきた。
受けた仇は必ず返す。
そして、受けた恩もまた、必ず返す。
ならば、やるべきことは決まっている。
「……待っていろ」
私は少年が去っていった路地の先を見つめた。
「いつか必ず、私が守ってやる」
たとえ、どれほどの力が必要になろうとも。
たとえ、どれほどの時間がかかろうとも。
あの優しいお人好しが、二度と誰かに傷つけられないように。
私がすべての脅威を取り除いてやる。
「……お前は、ただ笑っていればいい」
その笑顔を守るためなら、私は何だってしてやろう。
このときの私は、まだ知らなかった。
この小さな誓いが、やがて私を裏社会の頂点へと押し上げることになるなど。
そして。
あの少年を守りたいという純粋な願いが、いつしか彼を誰にも渡したくないという執着へ変わっていくことも。
すべては、あの日。
一枚の汚れたハンカチと、一つの優しい嘘から始まったのだった。