烏は恩を忘れない   作:なかにし

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同情の代償

翌朝、私は約束の時間より少し早く、昨日の建物を訪れていた。

 

入り口に立っていた構成員に名前を告げると、しばらく待たされた後、建物の中へ通された。

 

案内されたのは、小さな更衣室だった。机の上には、白いシャツと黒いズボン、それに上着が一式置かれている。

 

「まずはそれに着替えろ。そんな格好じゃ、仕事に連れていけねえからな」

 

「……分かりました」

 

昨日まで着ていた服と違い、どれもきちんと手入れされていた。袖は少し長く、着てみると不思議と背筋が伸びるような気がした。

 

鏡の前に立つ。

 

そこには、黒い服に身を包んだカラスの獣人が映っていた。

 

(……少しは、それらしく見えるだろうか)

 

だが、鏡に映る細い腕も、小柄な身体も変わっていない。背中から伸びる翼も、相変わらず一枚だけだった。

 

私は上着の袖を整えると、更衣室を出た。

 

玄関前には黒い車が停まっており、昨日見かけた構成員の一人が待っていた。

 

人間の男で、年齢は三十代ほどだろうか。短く刈り込んだ髪と、感情の乏しい目が印象的だった。

 

「お前がクロウか」

 

「……はい」

 

「俺は今日の取り立てを担当する。お前は余計なことをせず、俺の指示に従え」

 

「分かりました」

 

「それと、勘違いするな。今日はお前の試験だが、こっちにとっちゃ普段の仕事だ。お前のために失敗するつもりはねえ」

 

男はそう言うと、車の後部座席を顎で示した。

 

私は黙って乗り込んだ。

 

車が動き出すと、窓の外の景色がゆっくりと流れていく。整った商店街を抜け、住宅街を通り、やがて古びた建物の並ぶ地区へ入った。

 

「今日の相手は、借りた金を返してねえ獣人だ」

 

運転席の男が口を開いた。

 

「何度か催促してるが、金がないの一点張りでな。お前には、そいつが本当に金を持ってねえのか見てもらう」

 

「……相手が嘘をついていたら、どうするんですか?」

 

「それを決めるのは俺だ。お前は見たことと、そう考えた理由を報告しろ」

 

「……はい」

 

私は膝の上で手を握った。

 

今日の仕事に失敗すれば、組織へ入る道は閉ざされる。

 

(……必ず、役に立ってみせる)

 

そう自分に言い聞かせた。

 

***

 

車が停まったのは、古い集合住宅の前だった。

 

壁にはひびが入り、階段の手すりには赤茶色の錆が浮いている。周囲には洗濯物が干されていたが、人の姿はほとんど見えなかった。

 

男に続いて階段を上り、二階の一室の前で足を止める。

 

男が扉を叩いた。

 

「おい。いるんだろ。開けろ」

 

しばらくして、扉がわずかに開いた。

 

隙間から顔を覗かせたのは、茶色い毛並みをした犬の獣人だった。女性で、年齢は三十代ほどだろうか。頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。

 

「……また、あなたたちですか」

 

「約束の日は過ぎてる。金の話をしに来た」

 

「だから、今は本当に……」

 

「中で話そうか」

 

男が扉を押すと、女性は抵抗することなく道を開けた。

 

部屋の中は狭く、家具も少なかった。古びた机と椅子、小さな棚。壁際には薄い布団が敷かれている。

 

その布団の上に、小さな子供が横たわっていた。

 

犬の獣人の子供だった。

 

荒い呼吸を繰り返し、ときおり苦しそうに咳き込んでいる。枕元には薬の袋がいくつも置かれていた。

 

私は思わず足を止めた。

 

「……お子さんですか?」

 

女性が頷いた。

 

「ええ。ずっと体調が悪くて……薬がないと、まともに眠ることもできないんです」

 

「そうですか……」

 

男が机の前に立った。

 

「事情は何度も聞いた。で、金は?」

 

「……ありません」

 

「本当に?」

 

「はい。生活するだけで精一杯なんです。薬代だって、まだ払えていなくて……」

 

女性の声が震えた。

 

私はその様子を注意深く観察した。伏せられた目、握り締められた手、震える声。

 

けれど、それらが嘘によるものなのか、単に追い詰められているからなのか、私には判断できなかった。

 

ふと、女性と目が合った。

 

その視線が、私の身体をゆっくりと移動する。細い腕、小柄な体格、そして背中の片翼。

 

女性の表情が、わずかに変わった。

 

「……あなたも、大変だったんじゃないですか?」

 

「……え?」

 

「その身体で、ここまで生きてくるのは……きっと、楽じゃなかったでしょう」

 

私は言葉に詰まった。

 

女性は悲しそうに微笑んだ。

 

「私たちみたいな者の気持ち、あなたなら分かってくれるんじゃないかと思って……」

 

その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。

 

これまで、私の姿を見た者の多くは、嘲笑うか、気味悪がるか、見て見ぬふりをしてきた。

 

けれど、目の前の女性は違った。私の苦しみを、理解しようとしてくれているように見えた。

 

「……本当に、お金はないんですか?」

 

私は尋ねた。

 

女性は頷いた。

 

「ええ。もしあったら、こんな思いを子供にさせていません」

 

布団の上で、子供が小さく咳き込んだ。

 

女性は慌てて駆け寄り、その背中を優しく撫でる。

 

「大丈夫よ。お母さんがいるからね」

 

その姿を見て、私は視線を落とした。

 

(……この人も、守りたいものがあるんだ)

 

私にも、守りたい人がいる。

 

あの人が傷つくところを見たくない。笑っていてほしい。そのためなら、どんなことでもするつもりだった。

 

目の前の女性も、きっと同じなのだろう。

 

私は男へ向き直った。

 

「……この人は、本当にお金を持っていないと思います」

 

男は私を見た。

 

「理由は?」

 

「……話している様子に、不自然なところがありません。それに、子供の状態も……」

 

「そうか」

 

男は短く答えた。

 

そして、女性へ視線を戻す。

 

「じゃあ、部屋を確認させてもらうぞ」

 

「……え?」

 

女性の肩が跳ねた。

 

「ま、待ってください! 本当に何もありません!」

 

「だったら困らねえだろ」

 

男は女性の制止を無視して、部屋の奥へ歩いていった。

 

私はその背中を見つめた。

 

(……私の判断を、信じてくれないのか)

 

だが、次の瞬間。

 

「……おい」

 

男の声が響いた。

 

振り返ると、男は棚の下から小さな金庫を引き出していた。

 

女性の顔から血の気が引いた。

 

「……それは」

 

「鍵を出せ」

 

「ち、違うんです。それは……!」

 

「出せと言ってる」

 

男の低い声に、女性は震える手で鍵を差し出した。

 

金庫が開かれる。

 

中には、紙幣の束がいくつも収められていた。

 

私は息を呑んだ。

 

「……お金が、ある……?」

 

女性は何も答えなかった。ただ俯いたまま、子供を抱き寄せていた。

 

(……嘘、だったの?)

 

私は女性を見つめた。

 

お金はない。薬代も払えない。子供を守りたい。

 

そのすべてが嘘だったとは思わない。けれど、少なくとも金を持っていないという言葉は嘘だった。

 

そして私は、それを見抜けなかった。

 

***

 

「……どうして、私に嘘をついたんですか?」

 

私は女性へ尋ねた。

 

女性はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で答えた。

 

「……子供の薬代が、必要だったんです」

 

「……それは、聞きました」

 

「本当なんです。あの子は病気で……お金がなければ、治療を続けられないんです」

 

女性は顔を上げた。

 

「それに……あなたなら、分かってくれると思ったから」

 

「……私なら?」

 

「ええ。あなたも、私たちと同じでしょう?」

 

女性の視線が、私の片翼へ向けられた。

 

「その見た目で、今までずっと苦労してきたんじゃないですか? 周りから馬鹿にされて、辛い思いをして……」

 

私は黙っていた。

 

「だから、あなたなら同情してくれると思ったんです。私たちの気持ちが分かるでしょう? お願いです。助けてください……!」

 

女性は必死に訴えた。

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。

 

(……そうか)

 

この人は、私の片翼を見て、同情してくれる相手だと判断したのだ。

 

細い腕も、小さな身体も、頼りない態度も。きっと、この人にはすべてが都合よく映ったのだろう。

 

自分たちと同じ弱者だから、同情してくれる。少し頼めば、見逃してくれる。

 

そして、私は実際にそうしてしまった。

 

(……何が、強くなりたい、だ)

 

私はまだ、何も変わっていない。

 

服を変え、マフィアの構成員と一緒に来ただけで、強くなったつもりでいた。

 

けれど、相手は私の姿を見ただけで、付け入る隙があると判断した。

 

その判断は、正しかった。

 

私は同情し、相手の言葉を信じ、自分に与えられた役目を果たせなかった。

 

(……こんなことでは、駄目だ)

 

たとえ組織で偉くなっても、どれほど権力を手に入れても、誰かの言葉に流され、利用されるようでは、結局は弱いままだ。

 

私は女性を見つめた。

 

この人は、自分と子供を守るために私を利用した。

 

弱い者は、ただ助けを待っているわけではない。自分を守るためなら、他人の弱さだって利用する。

 

(……なら、私も考え方を変えなければ)

 

私は布団の上の子供を見た。

 

苦しそうな呼吸を繰り返す、小さな身体。あの子が病気なのは、紛れもない事実なのだろう。

 

胸の奥が、わずかに痛んだ。

 

(……同情してはいけない)

 

いや、違う。

 

同情すること自体が悪いわけではない。

 

ただ、その感情に判断を委ねてはいけないのだ。

 

私はあの人を守るために、ここへ来た。

 

そのためには、誰かの言葉を信じたいという気持ちだけで動いてはいけない。

 

私はゆっくりと息を吐き、女性から視線を外した。

 

(……まずは、考えよう)

 

そのとき、昨日の狼の言葉が頭をよぎった。

 

『まず黙ってろ。相手が何を隠しているのか、確かめるまではな』

 

私は開かれた金庫へ目を向けた。

 

紙幣の束。その数は、私が想像していたよりもずっと多かった。

 

子供の薬代が高いというのは本当なのだろう。部屋の様子を見ても、裕福な暮らしをしているとは思えない。

 

それなのに、なぜこれほどの現金が残っているのだろうか。

 

もちろん、誰かから借りた金かもしれない。以前から貯めていたものかもしれない。

 

だが、別の可能性もある。

 

(……他にも収入がある?)

 

私は女性に気づかれないよう、部屋を見回した。

 

すると、棚の上に置かれた小さなメモ帳が目に入った。

 

最初に部屋へ入ったときにも見かけたものだ。

 

そのときは気に留めなかったが、今になって違和感を覚えた。

 

メモ帳の開かれたページには、いくつかの日付と数字が並んでいる。

 

そのうちの一つに、見覚えがあった。

 

(……車のナンバー?)

 

今朝、私が乗ってきた黒い車。

 

その番号の一部と、よく似ていた。

 

偶然かもしれない。

 

だが、女性は私たちが到着したとき、男の顔を見てもそれほど驚いていなかった。

 

何度も取り立てに来ている相手なのだから、当然とも言える。

 

しかし、もしこの女性が組織の車の動きを記録していたとしたら。

 

(……何のために?)

 

私は考えた。

 

借金を返せない者が、取り立てに来る車の情報を記録する理由。

 

逃げるためかもしれない。

 

あるいは、誰かに知らせるためかもしれない。

 

まだ、何も分からない。

 

だからこそ、今は黙っておくべきだった。

 

「……分かりました」

 

私は女性へ小さく答えた。

 

女性の表情が明るくなる。

 

「じゃあ……!」

 

「少し、考えさせてください」

 

私はそれ以上、何も言わなかった。

 

***

 

しばらくして、私は女性へ声をかけた。

 

「……一つ、聞いてもいいですか?」

 

「な、何でしょう?」

 

「金庫の中のお金は、どうやって用意したんですか?」

 

女性の身体が、わずかに強張った。

 

「……亡くなった夫の遺産なんです」

 

「そうですか」

 

私は頷いた。

 

それ以上、追及しなかった。

 

女性は安心したように息を吐く。

 

(……今は、まだ)

 

私は何気ない調子で、棚の上のメモ帳へ視線を向けた。

 

「……そういえば、あのメモは何ですか?」

 

「え?」

 

女性が振り返る。

 

「……ああ、あれは家計の記録です」

 

「家計簿、ですか」

 

「ええ。お金の出入りを忘れないように……」

 

私は頷いた。

 

「……なるほど」

 

そして、少しだけ首を傾げた。

 

「でも、車の番号まで書くんですね」

 

女性の表情が固まった。

 

「……何のこと?」

 

「いえ。数字の並びが、今朝乗ってきた車の番号に似ていたので」

 

私は穏やかに答えた。

 

「……見間違いかもしれませんね」

 

女性は何も言わなかった。

 

その視線が、メモ帳へ向けられる。

 

私はその動きを見逃さなかった。

 

(……やっぱり、何かある)

 

だが、ここで問い詰めてはいけない。

 

私は女性へ微笑んだ。

 

「……すみません。変なことを聞いてしまって」

 

「い、いえ……」

 

女性はぎこちなく笑った。

 

私は視線を落とし、少し考え込むふりをした。

 

「……実は、私も困っているんです」

 

「……え?」

 

「今日の仕事で何もできなければ、もうここにはいられないかもしれません」

 

女性は戸惑ったように私を見た。

 

「……そうなの?」

 

「はい。だから、少しでも役に立つ情報が欲しいんです」

 

私は顔を上げた。

 

「例えば、私たちの組織について、何か知っていることはありませんか?」

 

「……どうして、そんなことを?」

 

「あなたを助けるためにも、事情を知っておきたいんです」

 

私は言葉を選びながら続けた。

 

「もし、あなたが何か問題を抱えているなら、今のうちに話しておいた方がいいと思います」

 

女性の顔色が変わった。

 

「……問題って?」

 

「さあ。私にはまだ分かりません」

 

私は小さく首を振った。

 

「でも、隠し事が後から見つかるより、自分から事情を説明した方が、話を聞いてもらえるかもしれません」

 

女性は黙り込んだ。

 

私はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 

沈黙が続く。

 

その間、女性は何度も私と取り立て担当の男を見比べていた。

 

(……迷っている)

 

私は女性の表情を観察した。

 

恐怖だけではない。

 

何かを打ち明けたいという気持ちと、それを知られることへの恐れ。

 

その二つが、せめぎ合っているように見えた。

 

やがて、女性が小さく口を開いた。

 

「……もし、何か知っていたら……助けてもらえるの?」

 

私はすぐには答えなかった。

 

ここで安易に約束すれば、後で自分の立場が悪くなる。

 

それに、私にはこの女性を助ける権限などない。

 

「……私から、事情を伝えることはできます」

 

「……それだけ?」

 

「はい。どう判断するかは、あの人たち次第です」

 

女性は唇を噛んだ。

 

私は静かに続けた。

 

「でも、何も話さなければ、事情を考慮してもらう機会すらないかもしれません」

 

女性の視線が、布団の上の子供へ向けられた。

 

私はその横顔を見つめていた。

 

(……この人は、子供を守りたい)

 

それは本当なのだろう。

 

だからこそ、助かる可能性があるなら縋りたくなる。

 

先ほどの私が、女性の言葉を信じたように。

 

(……今度は、私が利用する番だ)

 

胸の奥に、わずかな痛みが走った。

 

それでも、私は表情を変えなかった。

 

「……どうしますか?」

 

私は静かに尋ねた。

 

「私に話してくれますか?」

 

長い沈黙の後、女性は小さく頷いた。

 

***

 

女性は棚の奥から、一冊の古びた手帳を取り出した。

 

「……ここに、やり取りを記録しています」

 

私は手帳を受け取った。

 

中には日付と金額、それにいくつかの名前が書かれていた。ところどころに、受け渡した情報の内容らしき短い記述もある。

 

「……これは?」

 

「別の組織の人間に、あなたたちの車の出入りや、誰がどこへ向かったかを……」

 

女性の声が小さくなった。

 

「最初は、一度だけのつもりだったんです。でも、お金を渡されて……それから、何度も……」

 

私は手帳のページをめくった。

 

そこには、昨日見かけた黒い車の特徴と、移動した時間まで記されていた。

 

(……本当に、売っていたんだ)

 

私は一瞬、自分でも驚いた。

 

最初は、ただの違和感だった。

 

金庫の現金。棚の上のメモ帳。そして、女性の不自然な反応。

 

それらを一つずつ確かめていった結果、思いもしなかった事実に辿り着いた。

 

(……これなら、組織の役に立てる)

 

私は手帳を閉じた。

 

「……これで、助けてもらえるんですよね?」

 

女性が不安そうに尋ねた。

 

私は顔を上げた。

 

「……事情は、きちんと伝えます」

 

そう答えると、自然に笑みが浮かんだ。

 

初めて、自分の力で役に立つものを手に入れた。

 

それが嬉しかった。

 

女性も、私の笑顔を見て少しだけ安心したようだった。

 

私は手帳を持ち、男のもとへ向かった。

 

「……少し、よろしいですか?」

 

「何だ?」

 

私は声を落とした。

 

「……組織の情報が、外へ漏れている可能性があります」

 

男の目が細くなる。

 

私は手帳を差し出した。

 

「この女性が、別の組織に情報を渡していたそうです。日付や相手の名前も、ここに記録されています」

 

男は手帳を開き、数ページを確認した。

 

その表情が変わった。

 

「……おいおい」

 

低い声が漏れる。

 

「こりゃ、ただの取り立てじゃ済まねえな」

 

男は私を見た。

 

「どうやって見つけた?」

 

「……本人に、話してもらいました」

 

「ほう?」

 

「最初は私も騙されました。でも、金庫を見つけた後、部屋の中をもう一度確認したんです」

 

私は女性に気づかれないよう、声を落として説明した。

 

男は黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。

 

「……なるほどな。少しは頭を使えたみてえだな」

 

私は何も答えなかった。

 

男は手帳を閉じ、女性へ視線を向けた。

 

「おい。ちょっと来てもらおうか」

 

女性の表情が強張った。

 

「……え?」

 

「詳しい話を聞かせてもらう。こいつに書いてあることも含めてな」

 

男が手帳を軽く掲げる。

 

女性の顔から血の気が引いた。

 

「ま、待ってください! 私は……!」

 

「話は後だ」

 

男が近づくと、女性は慌てて子供を抱き寄せた。

 

「お願いです! この子だけは……!」

 

男は子供へ視線を向けた。

 

「ガキに用はねえ。お前に話があるだけだ」

 

「でも、この子は一人じゃ……!」

 

「親戚でも知り合いでも呼べ。連絡がつくまで待ってやる。だが、逃げようなんて考えるなよ」

 

女性は震えながら頷いた。

 

私はその様子を、少し離れた場所から見つめていた。

 

子供が苦しそうに咳き込む。

 

胸の奥が、また少しだけ痛んだ。

 

(……これで、よかったんだ)

 

私は自分に言い聞かせた。

 

あの人を守れるだけの力を手に入れるために、私はここへ来た。

 

そして今、ようやく最初の成果を手に入れたのだ。

 

それなのに、なぜだろう。

 

先ほどまでの喜びは、もう胸の中になかった。

 

***

 

私は、若いカラスの獣人を見つめていた。

 

あの子に手帳を渡して、本当によかったのだろうか。

 

不安はあった。けれど、最後に見せてくれた笑顔には、嘘がないように思えた。

 

きっと、助けてくれる。

 

そう信じたかった。

 

あの子は私たちと同じように、辛い思いをしてきたはずだ。

 

だから、分かってくれると思った。

 

(……よかった)

 

私は胸を撫で下ろした。

 

あの子が、まだ甘い子で助かった。

 

子供の寝顔へ目を向ける。

 

もう少しだけ辛抱すれば、きっと何とかなる。

 

そう思った、そのときだった。

 

「……組織の情報が、外へ漏れている可能性があります」

 

カラスの獣人の声が聞こえた。

 

私は顔を上げた。

 

あの子は、同行していた男に手帳を差し出していた。

 

「この女性が、別の組織に情報を渡していたそうです」

 

(……え?)

 

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

あの子は、私を助けてくれるはずではなかったのか。

 

手帳を渡せば、事情を伝えてくれると言ったではないか。

 

なのに、どうして。

 

(……騙された?)

 

私はようやく理解した。

 

あの子は、最初から私たちを助けるつもりなどなかったのだ。

 

あの笑顔に嘘はなかった。

 

ただ、私を助けられることが嬉しかったのではない。

 

手柄を手に入れたことが、嬉しかったのだ。

 

「おい。ちょっと来てもらおうか」

 

男がこちらへ歩いてくる。

 

私は咄嗟に子供を抱き寄せた。

 

「……嫌です」

 

「何?」

 

「来ないで!」

 

私は男の脇をすり抜け、扉へ向かおうとした。

 

だが、すぐに腕を掴まれた。

 

「離して! この子だけは……!」

 

必死にもがいたが、男の力には敵わなかった。

 

子供を抱えたまま、私は床に膝をついた。

 

「お願いです! この子は何も知らないんです!」

 

「ガキに用はねえ。お前に話があるだけだ」

 

男はそう答えたが、私にはその言葉を信じられなかった。

 

私はカラスの獣人を見た。

 

あの子は、少し離れた場所からこちらを見つめていた。

 

「……よくも騙したな!」

 

思わず叫んだ。

 

「助けてくれると思ったのに! だから、私は……!」

 

カラスの少女は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 

その目には、先ほどまでの温かさがなかった。

 

いや、違う。

 

最初から、あの子は私をそんな目で見ていなかったのかもしれない。

 

「……最初に私を騙したのは、あなたですよね」

 

静かな声だった。

 

「それは……!」

 

「私は、事情を伝えると言いました。助けられるなんて、一言も約束していません」

 

少女は、わずかに口元を吊り上げた。

 

「……あなたが私の言葉をどう受け取ったのかまでは、知りません」

 

私は言葉を失った。

 

この子は、自分が何をしたのか分かっているのだろうか。

 

私が何を信じ、何を差し出したのか。

 

いや、きっと分かっている。

 

分かったうえで、利用したのだ。

 

私は腕の中の子供を抱き締めた。

 

(……違う)

 

私は、この子を自分たちと同じだと思っていた。

 

弱くて、傷ついて、誰かに助けてもらわなければ生きていけない。

 

そんな存在だと。

 

けれど、違った。

 

このカラスは、私たちとは根本的に違う。

 

少なくとも、今の私にはそう見えた。

 

少女はもう、こちらを見ていなかった。

 

手帳を持った男の後ろに立ち、静かに指示を待っている。

 

その姿は、最初に部屋へ入ってきたときよりも、ずっと大きく見えた。

 

私は初めて、あの片翼のカラスを恐ろしいと思った。

 

 

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