雇用期間中、私は支部が管理する借家で寝泊まりすることになった。
表向きは住む場所のない私への配慮ということだったが、本当の理由は違う。私が逃げ出さないようにするためだ。
幹部の指示で、借家には定期的に構成員が様子を見に来ることになっていた。
それでも、私にとっては十分すぎるほどの待遇だった。
小さな部屋に、古びた机と椅子。それから、一人で眠るには十分な大きさのベッド。
豪華なものなど何一つない。けれど、雨風をしのげる屋根があり、鍵のかかる扉があり、誰にも邪魔されずに眠れる場所がある。
それだけで、私には贅沢だった。
(……初めてだ)
私はベッドに横たわり、そっと背中の翼を広げた。
生まれつき一枚しかない、黒い翼。
これまで私は、人前でこの翼を広げることを避けてきた。奇異の目で見られることも、笑われることも、もう十分すぎるほど経験していたからだ。
けれど、今は違う。
この部屋には、私を見る者など誰もいない。
私はゆっくりと翼を伸ばし、柔らかな寝具に身体を預けた。
(……失いたくない)
ようやく手に入れた、自分の居場所。
たとえ、それが期限付きのものであっても。
私は、この場所を失うわけにはいかなかった。
そう思いながら目を閉じると、いつの間にか眠りに落ちていた。
***
翌朝。
目を覚ました私は、借家の洗面台で顔を洗い、身なりを整えた。
白いシャツに黒いズボン。昨日と同じ服装だったが、できる限り皺を伸ばし、髪も丁寧に整える。
鏡の中には、相変わらず細く頼りない身体のカラスが映っていた。
それでも、初めてこの支部を訪れたときとは、何かが違う気がした。
(……行こう)
私は小さく呟き、借家を後にした。
支部の前に着くと、見覚えのある大柄な獣人が立っていた。
片方の耳を失い、顔にいくつもの古傷を刻んだ灰色の狼。
この支部を取り仕切る幹部だった。
「……来たか」
「おはようございます」
私が頭を下げると、狼はしばらく私の顔を眺めた。
「ふん。初めてここに来たときよりは、マシな面構えになったな」
「……ありがとうございます」
「褒めてるわけじゃねえよ」
狼は鼻を鳴らした。
「昨日も話したが、お前はまだ正式な構成員じゃねえ。一か月の間に成果を持ってこい。それができなきゃ、どうなるかは分かってるな?」
「……はい」
私は静かに頷いた。
成果を上げられなければ、殺される。
昨日告げられた言葉は、今も耳に残っている。
「それで、今日からの仕事についてだが……」
狼は腕を組んだ。
「まずは一週間、うちの連中について回れ。仕事のやり方を覚えるところからだ」
「……一週間、ですか?」
思わず聞き返してしまった。
私はてっきり、今日から何かしらの成果を求められるものだと思っていた。
そんな私の反応を見て、狼は片眉を上げる。
「あ? 何か不満でもあるのか?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
私は慌てて首を横に振った。
けれど、考えてみれば当然のことだった。
私は、この組織がどのような仕事をしているのかさえ、ほとんど知らない。何をすれば成果になるのか、どこで自分の力を使えばいいのか。それすら分からないままでは、役に立つことなどできるはずがなかった。
「うちの仕事は色々ある。縄張りの店からのみかじめ料の徴収、貸した金の回収、賭博場の管理や用心棒。それから、荷物の受け渡しなんかもな」
狼は指を折りながら説明した。
「だが、仕事ってのは何も腕っぷしだけでやるもんじゃねえ」
「……腕っぷしだけでは、ない?」
「ああ。金を払わねえ連中をどう動かすか。揉め事をどう収めるか。どこに利益があるのか。それを考えるのも仕事だ」
私は小さく頷いた。
「お前は、自分の目と頭が役に立つと言ったな?」
「はい」
「だったら、それを証明してみせろ」
狼の声が、わずかに低くなった。
「ただ言われたとおりに金を運んだり、荷物を届けたりするだけなら、誰にだってできる」
私は息を呑んだ。
「役に立つと宣言した以上は、誰でもできる仕事に、お前にしか出せねえ成果を上乗せしてこい」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
「返事だけは立派だな」
狼はそう言って、支部の入口へ視線を向けた。
「ま、せいぜい目を開いて見てこい。うちの連中が何をして、どうやって金を稼いでるのかをな」
私は狼の視線を追った。
その扉の向こうには、私の知らない世界が広がっている。
力のある者が、力のない者を従わせる世界。
そう思っていた。
けれど、昨日の仕事で知ったことがある。
相手を動かす方法は、暴力だけではない。言葉一つで、人の心を揺さぶることもできるのだ。
(……もっと、知らなければ)
仕事のことも、人のことも。そして、自分に何ができるのかも。
生き残るために。
いつか、あの人を守れるほど強くなるために。
私は支部の扉へと足を踏み出した。
***
支部の中で待っていたのは、人間と獣人が入り交じった数人の構成員たちだった。
「お前が例の見習いか?」
先頭に立っていた人間の男が、私を見下ろしながら尋ねた。
「はい。クロウといいます。よろしくお願いします」
「話は聞いてる。今日は俺たちについてこい。余計なことはするなよ」
「……分かりました」
男が歩き出すと、ほかの構成員たちもそれに続いた。
私は慌てて、その後を追いかけた。
最初に向かったのは、組織が最近傘下に収めたという賭博場だった。
建物の前に着いた私は、思わず足を止めた。
大きな建物の入口には華やかな照明が灯り、着飾った人々が次々と中へ入っていく。
その光景は、私がこれまで暮らしてきた街の裏路地とは、まるで別世界のようだった。
(……こんな場所があるんだ)
私はしばらく、その建物を見上げていた。
だが、構成員たちは特に気にした様子もなく、入口へ向かって歩いていく。
「あっ……!」
私は慌てて後を追った。
(……駄目だ。こんなことで驚いていたら)
これから、もっといろいろな場所へ連れていかれるのだ。
そのたびに足を止めていては、仕事など覚えられない。
私は小さく息を吐き、気を引き締め直した。
入口には、黒い服を着た大柄な警備員が二人立っていた。
客たちに鋭い視線を向け、何か問題を起こさないかと目を光らせている。
ところが、私たちの姿を認めた途端、その態度が変わった。
「あっ……こ、これは」
警備員の一人が慌てて姿勢を正した。
「遠いところを、わざわざありがとうございます。支配人は中でお待ちしております」
その声には、わずかな震えがあった。
先ほどまで客を威圧していた男が、今度は自分の方が怯えている。
(……この人たちも、私たちの組織が怖いんだ)
そう思うと、不思議な気分になった。
私自身は、何一つ変わっていない。
それなのに、誰と一緒にいるかというだけで、相手の態度がここまで変わる。
「案内しろ」
先頭の男が短く告げると、警備員はすぐに扉を開けた。
中へ足を踏み入れた瞬間、私は再び圧倒された。
眩しいほどの照明。天井から吊るされた豪華な飾り。磨き上げられた床には光が反射し、広い室内には大勢の人々が集まっていた。
いくつものテーブルを囲んで、客たちが札やチップを賭けている。
カードを配る従業員の手元を、食い入るように見つめる男。
勝利に歓声を上げる者。
反対に、頭を抱えてうなだれる者。
笑い声と怒号、硬貨の触れ合う音が入り交じり、室内は異様な熱気に包まれていた。
(……すごい)
一晩で、いったいどれほどのお金が動いているのだろう。
私には想像もつかなかった。
「おい、見習い。置いてくぞ」
「す、すみません!」
私は慌てて歩き出した。
従業員に案内され、賑やかな客席を抜けて奥へ進んでいく。
やがて、厚い扉の前で足が止まった。
「こちらでございます」
扉が開かれる。
中には、大きな机を挟んで、一人の人間の男性が待っていた。
年齢は四十代から五十代ほどだろうか。整えられた髪に上等そうなスーツ。身なりだけを見れば、立派な商人のようだった。
だが、その顔には緊張が浮かんでいた。
「お、お待ちしておりました」
男性は私たちを見るなり、椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。
「挨拶はいい。今月の売上を回収しに来た」
先頭の男がそう告げると、支配人は慌てて机の下から鞄を取り出した。
「こ、こちらになります」
男は鞄を受け取ると、中身を確認した。
札束がいくつも詰められている。
私は思わず、その金額の多さに目を見張った。
だが、男の表情は険しくなった。
「……おい」
「は、はい」
「なんで先月より売上が少ねえんだ?」
その瞬間。
――バキッ!
鈍い音が響いた。
男が拳を振り下ろした机に、大きな亀裂が走っていた。
「ひっ……!」
支配人が悲鳴を上げ、後ずさる。
私も思わず肩を震わせた。
「こっちは店を任せてやってんだぞ。客が減ったのか? それとも、てめえが金を抜いてんのか?」
「ち、違います! 決してそのようなことは!」
支配人は必死に首を振った。
「じ、実は……最近、この店に厄介な連中が現れるようになりまして……」
「厄介な連中?」
「は、はい。獣人の男たちです。客に絡んでは金を奪い、止めに入った警備員にも暴力を振るうんです」
支配人は震える声で続けた。
「こちらでも対処しようとしたのですが、どうにも手に負えず……そのせいで、客足も遠のいてしまって……」
「……そんな話、聞いてねえぞ」
男が低く唸った。
「も、申し訳ございません!」
「そいつら、うちの店だと知っててやってんのか?」
「い、いえ……この店が傘下に入ったことは、まだ知らないようで……」
「……なるほどな」
男は舌打ちした。
「だからって、黙って好き放題させてたのか?」
「す、すみません……!」
支配人が深々と頭を下げた、そのときだった。
「きゃあああっ!」
突然、扉の向こうから甲高い悲鳴が響いた。
続いて、何かが倒れる音と、男たちの怒鳴り声。
「……あ?」
構成員の男が顔を上げた。
私たちは急いで部屋を出て、客席へ向かった。
そこには、先ほどまでとはまるで違う光景が広がっていた。
客たちが悲鳴を上げながら逃げ惑い、テーブルの上にはカードやチップが散乱している。
その中心にいたのは、三人の獣人の男たちだった。
いずれも大柄で、手には鋭いナイフを握っている。
「おら! 金を出せ!」
「さっさと財布を寄越しやがれ!」
男の一人が客の胸ぐらを掴み、もう一人が怯える女性から鞄を奪い取っていた。
少し離れた場所では、警備員の一人が床に倒れていた。もう一人は腕を押さえ、三人から距離を取っている。
(……あの人たちが、さっき話していた……)
私がそう考えた瞬間だった。
「……どけ」
低い声が響いた。
私たちと一緒に来ていた獣人の構成員が、前へ出たのだ。
ほかの者たちよりも一回り大きな身体。分厚い胸板に、太い腕。
その男は三人を見据えると、大きく息を吸い込んだ。
「グオオオオオッ!」
凄まじい雄叫びが、賭博場全体に響き渡った。
空気が震えたように感じた。
逃げ惑っていた客たちでさえ、一瞬動きを止めるほどだった。
「……ああ?」
三人の男たちが振り返る。
「なんだ、てめえ!」
「邪魔すんじゃねえ!」
一人がナイフを構え、獣人の構成員へ飛びかかった。
(危ない……!)
私は思わず目を見開いた。
だが、次の瞬間。
男の身体が宙を舞っていた。
「がっ……!」
構成員はナイフを紙一重でかわし、相手の腹へ拳を叩き込んでいた。
たった一撃。
それだけで、男は床に崩れ落ち、動かなくなった。
「なっ……!」
残った二人が同時に襲いかかる。
しかし、結果は変わらなかった。
一人の腕を掴んで捻り上げ、そのまま床へ叩きつける。
もう一人のナイフをかわすと、顔面に拳を打ち込んだ。
鈍い音が響き、最後の男も倒れ伏した。
ほんの数秒。
それだけで、三人の獣人が床に転がっていた。
(……すごい)
私は言葉を失っていた。
あれほど暴れていた男たちが、まるで子供のように扱われている。
獣人の構成員は倒れた三人を見下ろすと、襟首を掴んだ。
「……こいつら、どうします?」
「裏へ運べ。客の目につかねえところで話をつける」
人間の構成員が短く答えた。
「……了解」
獣人の男は三人を引きずるようにして、従業員用の通路へ消えていった。
誰も止めなかった。
客も、警備員も、支配人でさえ。
ただ、その背中を見送ることしかできなかった。
しばらくして。
獣人の男が、何事もなかったかのように戻ってきた。
その手には、もう誰も連れていなかった。
「……片づいたぞ」
「ご苦労さん」
人間の構成員は、それだけ答えた。
まるで、邪魔な荷物でも片づけてきたかのようなやり取りだった。
私は、三人がどうなったのか尋ねることができなかった。
すると、獣人の男がこちらへ顔を向けた。
「おい、見習い」
「……は、はい」
「一つ覚えとけ」
男は低い声で言った。
「この業界はな、舐められたら終わりなんだよ」
私は息を呑んだ。
「一度でも弱いと思われりゃ、次から次へとつけ込まれる。だから、舐めた真似をする連中には、それ相応の始末をつける」
その言葉には、少しの迷いもなかった。
私は何も答えられなかった。
男が先ほどまで人を殴っていた拳を、何気なく開いたり閉じたりしている。
その手を見ているだけで、背筋が冷たくなった。
(……怖い)
あれほど簡単に人を倒せる力。
私には、決して手に入らないものかもしれない。
けれど、もし私にもあれほどの力があったなら。
あの日、私を笑った者たちは、同じように笑えただろうか。
そう考えてしまった自分に、私は少しだけ驚いた。
「お、お許しください……!」
背後から声がした。
振り返ると、支配人が床にへたり込んでいた。
顔は青ざめ、身体が小刻みに震えている。
人間の構成員が、その前にしゃがみ込んだ。
「おい、支配人」
「は、はいっ!」
「こういうことがあったんなら、最初から俺たちに言え」
男は落ち着いた声で続けた。
「この店は、もううちの傘下だ。客に手を出す馬鹿がいるなら、こっちで対応してやる」
「は、はい……ありがとうございます……!」
「ただし」
男の声が、少しだけ低くなった。
「売上をごまかしたり、勝手に金を抜いたりしてみろ」
支配人の顔が強張る。
「次に同じ目に遭うのは、お前だ」
「ひっ……!」
支配人は何度も首を縦に振った。
「わ、分かりました! 絶対に、そのようなことはいたしません!」
「ならいい」
男は立ち上がると、何事もなかったかのように鞄を持ち直した。
「行くぞ」
「……はい」
私は小さく返事をして、後に続いた。
***
賭博場を出ると、外の空気が妙に冷たく感じられた。
先ほどまでの華やかな照明も、客たちの歓声も、今は遠いもののように思えた。
私はそっと、自分の腕に目を落とした。
細く、頼りない腕。
力を込めても、あの獣人のような太さにはならない。
(……私には、できない)
三人の男を一瞬で倒した、あの圧倒的な力。
あれは、私にはないものだった。
同じ獣人でも、私と彼とでは何もかもが違う。
もし私があの場に一人で立っていたなら、きっと何もできなかっただろう。
(……じゃあ、私はどうすればいい?)
狼の言葉が、頭をよぎった。
『仕事ってのは何も腕っぷしだけでやるもんじゃねえ』
私は顔を上げた。
先を歩く人間の構成員たちは、何事もなかったかのように次の仕事の話をしている。
彼らは、あの獣人のように自分の拳で相手を倒したわけではない。
けれど、支配人から金を受け取り、店の問題を片づけ、これからも組織に利益が入るようにしていた。
(……力だけじゃない)
誰かを従わせる力。
相手を恐れさせる力。
そして、人を動かす力。
同じ力でも、その形は一つではないのだ。
私はもう一度、自分の腕を見た。
この細い腕で、あの獣人のように戦うことはできない。
けれど、私には私なりの方法があるはずだ。
まだ、何が正解なのかは分からない。
それでも、見つけなければならない。
ここで生き残るために。
いつか、あの人を守れるほど強くなるために。
私は小さく拳を握り、先を歩く構成員たちの背中を追いかけた。