賭博場を後にしてからも、私は先ほどの光景を忘れられずにいた。
三人の獣人を、たった一人で倒した構成員。
あの圧倒的な力を思い出すたびに、自分の細い腕がひどく頼りなく感じられた。
(……私は、どうすればいいんだろう)
腕力では、あの人たちに敵わない。
かといって、自分の目と頭をどう仕事に生かせばいいのかも、まだ分からなかった。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
そんなことを考えているうちに、私たちは次の目的地へ到着していた。
そこは、街の大通りに面した小さな飲食店だった。
店先には手書きの看板が置かれ、窓越しには食事を楽しむ客たちの姿が見える。先ほどの賭博場とは違い、ごく普通の店にしか見えなかった。
「ここも、うちの縄張りだ」
先頭を歩いていた人間の男が言った。
「組織の許可を得て商売してる店の一つだ。今日は、みかじめ料の回収に来た」
「……分かりました」
私は頷いた。
すると男は、ほかの構成員たちへ顔を向けた。
「お前らはここで待ってろ。俺が行く」
「了解」
獣人たちは短く答え、店の外で足を止めた。
私は思わず首を傾げた。
「……あの、どうして一人だけなんですか?」
男は振り返った。
「ん? ああ、そういうことか」
男は店の中へ視線を向けた。
「考えてみろ。飯を食いに来た店に、俺たちみてえなのが大勢押しかけてきたら、客はどう思う?」
私は窓越しに店内を見た。
食事を楽しむ家族連れ。談笑している男女。
その中に、強面の男たちが何人も入っていく光景を想像する。
「……怖がると思います」
「だろうな」
男は頷いた。
「こんな表通りの店じゃ、余計な威圧感を与えるだけで客が逃げちまう。客が減れば売上も落ちる。そうなりゃ、俺たちの取り分まで減るだろ?」
「……確かに」
「だが、覚えとけ。これは表通りの話だ」
男は人差し指を立てた。
「路地裏みてえな危ねえ場所じゃ、逆に大勢で行った方がいい場合もある」
「……どうしてですか?」
「お前はどう思う?」
突然問い返され、私は言葉に詰まった。
(……路地裏)
私は、かつて自分が暮らしていた場所を思い出した。
人目の届かない暗い道。
弱い者を見つければ、平気で襲いかかってくる者たち。
誰かに助けを求めても、聞こえないふりをされる場所。
(……そうか)
私は顔を上げた。
「危険な場所だから、でしょうか」
「ほう?」
「一人で歩いていたら、襲われるかもしれません。でも、大勢でいれば……それだけで、狙われにくくなると思います」
男は口元を緩めた。
「正解だ」
「……!」
「危ねえ場所には、それ相応の人数で行く。逆に、目立っちゃまずい場所には少人数で行く」
男は店の看板を軽く指さした。
「要するに、場所に合わせてやり方を変えるってことだ」
私はその言葉を、頭の中で繰り返した。
(……場所に合わせて、やり方を変える)
賭博場では、あの獣人が圧倒的な力を見せつけた。
けれど、同じことをこの店で行えば、客は恐れて離れてしまう。
強い力を持っているからといって、いつでもそれを振るえばいいわけではない。
(……威圧するだけじゃ、逆効果になることもあるんだ)
「ほら、行くぞ」
「は、はい!」
男に促され、私は店の中へ足を踏み入れた。
***
扉を開けると、温かな料理の香りが鼻をくすぐった。
店内には木製のテーブルがいくつか並び、壁には料理の名前と値段が書かれた札が掛けられている。奥の厨房からは、鍋の煮える音が聞こえてきた。
客たちは食事を楽しみながら、思い思いに会話を交わしている。
先ほどの賭博場とは違う、穏やかな空気が流れていた。
「いらっしゃいませ!」
厨房の方から声がした。
顔を出したのは、四十代ほどの人間の男性だった。
だが、私たちの姿を認めた途端、その表情が強張った。
「あ……」
男はすぐに客席へ視線を向けると、慌ててこちらへ近づいてきた。
「こ、こちらへどうぞ」
小声でそう告げ、私たちを店の奥へ案内する。
通されたのは、客席から離れた小さな応接室だった。
古びた机と椅子が置かれた、飾り気のない部屋。
男が椅子に腰を下ろすと、店主は落ち着かない様子で向かい側に座った。
「さて、今月の分を受け取りに来た」
「……は、はい」
店主は俯いた。
その手は、膝の上で固く握られている。
しばらくの沈黙の後、店主が震える声を絞り出した。
「あ、あの……大変申し上げにくいのですが……」
「なんだ?」
「今月の支払いを……もう少し、減らしていただくことはできないでしょうか」
(……あっ)
私は思わず、隣の男へ視線を向けた。
先ほどの賭博場が頭をよぎる。
売上が少ないと知った構成員は、机を叩き、支配人を激しく問い詰めていた。
今回も、同じことが起こるのだろうか。
私は身構えた。
しかし、男の反応は予想と違っていた。
「……何かあったのか?」
声を荒らげることも、机を叩くこともない。
ただ、静かに理由を尋ねた。
「そ、それが……」
店主は唇を震わせた。
「妻が、病気で倒れてしまいまして……」
「……奥さんが?」
「はい。今までは夫婦二人で店を切り盛りしていたんです。でも、妻が働けなくなってからは、私一人ではどうにも手が回らなくて……」
店主は俯いたまま続けた。
「人を雇う余裕もありません。店を開けていられる時間も短くなって、売上が随分と落ちてしまったんです」
声が次第に震え始める。
「妻の治療費も必要で……それでも、店を畳むわけにはいかなくて……」
ぽたり、と。
店主の膝に涙が落ちた。
「申し訳ありません……。お支払いするつもりはあるんです。ただ、今月だけでも、どうか……」
私は黙って、その様子を見つめていた。
(……この人も、苦しんでいるんだ)
病気の家族。
払えないお金。
必死に頭を下げる姿。
昨日の、あの犬の獣人の女性が頭に浮かんだ。
私は小さく唇を噛んだ。
(……でも)
あのとき、私は同情して判断を誤った。
だからこそ、今は簡単に信じてはいけない。
そう思い、店主の表情を注意深く観察した。
しかし、男は私とは違うところを見ていた。
「……奥さんが倒れたのは、いつからだ?」
「……二週間ほど前です」
「なるほど。確かに最近、店に出てる姿を見ねえと思ってた」
男は机の上に置かれた帳簿へ視線を向けた。
「売上の記録を見せろ。営業時間を減らした分と、数字が合ってるか確認する」
「は、はい……!」
店主が差し出した帳簿を、男は黙って確認した。
私も横から、そっと覗き込んだ。
そこには、日付ごとの売上と仕入れの金額が細かく書き込まれていた。
男は何ページかをめくり、指で数字を追っていく。
「……なるほどな。確かに客数も減ってる」
男は帳簿を閉じた。
「今は、何時から何時まで店を開けてる?」
「え……? あ、朝から夜までですが……妻が倒れてからは、途中で店を閉めることも増えて……」
「なら、無理に一日中開ける必要はねえだろ」
「……え?」
「客の少ない時間帯は閉めろ。営業時間を絞って、仕入れや光熱費を減らせ。身体を壊すまで働いても意味がねえ」
店主は驚いたように顔を上げた。
「そ、それは……」
「支払いも、今月は半分だけでいい。残りは来月以降に分けて回収する」
「……よろしいんですか?」
「ああ。ただし、免除じゃねえ。払うものは払ってもらう」
男は落ち着いた声で続けた。
「俺たちは金が回収できりゃ、それでいい。お前が店を潰しちまったら、こっちだって困るからな」
「……っ!」
店主の目から、再び涙がこぼれた。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
男は立ち上がった。
「礼はいい。奥さんのこともあるんだろ。お前自身も身体を大事にしろよ」
「は、はい……!」
店主は何度も頭を下げた。
その姿は、私たちが部屋を出るまで変わらなかった。
***
店を出ると、外で待っていた構成員たちがこちらへ顔を向けた。
「終わったか?」
「ああ。今月は半分だけ回収した。残りは来月以降に分けて払わせる。後で予定を伝える」
「了解」
短いやり取りを交わし、私たちは再び歩き始めた。
私は隣を歩く男を見上げた。
どうしても、聞いておきたいことがあった。
「……あの」
「ん?」
「どうして、あの人を脅さなかったんですか?」
男は不思議そうに眉を上げた。
「あ? 脅す必要がなかったからだ」
「でも、支払いを減らしてほしいと言っていましたよね?」
「ああ。だが、払いたくねえのと、払えねえのは違う」
「……違う?」
男は小さく笑った。
「払えるのに払わねえ奴には、それなりの対応が必要だ。だが、本当に払えねえ奴を殴ったところで、金が湧いて出てくるわけじゃねえだろ」
「……確かに」
「それに、あの店主の話が本当かどうかも、ある程度は確かめた」
「……帳簿、ですか?」
「そうだ。奥さんが最近店に出てねえことも知ってたし、売上の数字も話と大きく食い違ってなかった」
男は私をちらりと見た。
「お前、昨日の取り立てで一度騙されたんだろ?」
「……はい」
私は思わず視線を落とした。
「だったら覚えとけ。相手が泣いてるからって、話が本当とは限らねえ。逆に、泣いてるから嘘だと決めつけるのも間違いだ」
「……!」
「言葉だけじゃなく、確かめられるものは確かめる。それから判断すりゃいい」
私は黙って頷いた。
昨日の私は、女性の言葉を信じたいと思ってしまった。
けれど、この男は違う。
店主の事情を聞きながら、同時に事実を確認していた。
(……これが、経験の差なんだ)
男は前を向いたまま話を続けた。
「俺たちの仕事は、相手を怖がらせることじゃねえ。組織に利益を持って帰ることだ」
「……利益を」
「そうだ。暴力は、そのための手段の一つにすぎねえ。使わずに済むなら、その方が安上がりだろ?」
男は肩をすくめた。
「それに、ああやって恩を売っとくのも悪くねえ」
「……恩、ですか?」
「ああ」
男は何でもないことのように頷いた。
「困ってるときに助けてやりゃ、相手は感謝する。そうすりゃ、多少苦しくなっても、簡単には逃げなくなるだろ?」
私は目を瞬かせた。
「……逃げなくなる?」
「人間ってのはな、恐怖だけで動くわけじゃねえんだよ」
男は続けた。
「怖い相手からは、隙があれば逃げようとする。だが、恩を感じてる相手なら、裏切ることをためらう奴もいる」
「……!」
「もちろん、全員がそうとは限らねえけどな」
男は口元を緩めた。
「覚えとけ。恩ってのは、人によっちゃ暴力よりも強く相手を縛ることがあるんだ」
私は足を止めそうになった。
(……恩が、人を縛る)
その言葉が、胸の奥に深く残った。
私はこれまで、恩とは返すものだと思っていた。
あの日、私に手を差し伸べてくれた少年。
自分も空腹だったはずなのに、食べ物を分けてくれた人。
私は今でも、あの人への恩を忘れていない。
いつか必ず、返したいと思っている。
けれど、目の前の男は違った。
恩を返すのではなく、恩を与えることで相手を動かそうとしている。
(……そんな使い方も、あるんだ)
「それに、もう一つ利点がある」
男の声に、私は顔を上げた。
「……利点、ですか?」
「ああ。あの店主が潰れりゃ、近くの店も不安になる」
「……不安に?」
「困ったときに相談しても助けてもらえねえ組織だと思われりゃ、黙って逃げる店も出てくる。そうなりゃ、回収できる金が減るだけじゃねえ。何が起きてるのかも分からなくなる」
男は小さく笑った。
「逆に、話を聞いてもらえると分かれば、何かあったときに向こうから相談してくる。こっちも問題を早く把握できるってわけだ」
「……なるほど」
「もちろん、甘い顔を見せすぎりゃ、つけ上がる奴もいる。だから、どこまで譲るかは見極めなきゃならねえ」
男は私へ視線を向けた。
「要するに、相手が何を考えて、どう動くか。それを読んで、こっちに都合のいい結果へ持っていくんだ」
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
(……相手が、どう動くか)
ただ、嘘を見抜くだけではない。
相手が何を恐れ、何を望んでいるのか。
そして、どうすれば自分の望む方向へ動いてくれるのか。
それを考えることも、仕事なのだ。
私はもう一度、男を見上げた。
彼は、あの獣人のように圧倒的な腕力を見せつけたわけではない。
怒鳴ることも、脅すこともなかった。
ただ相手の話を聞き、事情を確かめ、いくつかの提案をしただけ。
それなのに、店主は涙を流して感謝していた。
そして、これからも組織に金を払い続けることを約束した。
(……すごい)
賭博場で感じた驚きとは、まったく違うものだった。
あの獣人の力は、私にはない。
けれど、この人が使ったのは、言葉だった。
相手の事情を知り、何を望んでいるのかを考え、どうすれば自分の望む結果へ導けるのかを判断する。
(……それなら)
私は、自分の細い腕に目を落とした。
生まれつき翼は一枚しかなく、身体も弱い。
力比べをすれば、きっと大抵の獣人に負けてしまうだろう。
でも。
相手を観察することなら。
嘘を見抜くことなら。
そして、相手の事情や状況を利用して、言葉で動かすことなら。
(……私にも、できるかもしれない)
胸の奥に、小さな熱が生まれた。
私は、前を歩く男の背中を見つめた。
(……恩は、返すだけのものじゃない)
相手を助けることで、信頼を得る。
信頼を得ることで、相手を動かす。
そして、相手が自ら動くようになれば、力で従わせる必要すらなくなる。
そのとき初めて、自分の細い腕を恨めしく思わなかった。
私には私の武器がある。
まだ使い方さえ分からない、小さな武器が。
私はそれを磨こうと思った。
いつか、あの人を守れるほど強くなるために。