休日とは、何をしてもいい日のことである。
したがって、朝から魔石炉の出力調整に取り組んでいた私に、何ら責められるべき点はない。たとえ傭兵宿舎の部屋に予備の刻印盤を三枚広げ、茶器を置くべき机の半分を工具が占領していたとしてもだ。
幸い、今日は誰にも邪魔されない。
北方艦隊の母港に帰ってきてから三日。戦後処理は相変わらず面倒だが、私の契約書には艦隊司令部の帳簿を手伝うとは書いていない。こちらの本業は魔導鎧を動かし、壊れたら修理費を払うこと。後者については、最近どうも本業の比率が高くなっている気がする。
机の上で小さな青い光が弾けた。
「おっ」
成功である。試作の刻印盤から走る光は、ほんの一瞬だけ既定の順序を飛ばして回路を渡った。これが安定すれば、予備魔石の投入時に生じるあの忌々しい制御の遅れを、少しは詰められるかもしれない。
私は喜び勇んで記録用紙を探した。
見つからなかった。
昨日、茶菓子の包み紙にしたような気がする。
実に順調な研究生活だった。
扉が叩かれたのは、そのときである。
「エルザ。起きていますか?」
「寝てるよ」
「では、起こして差し上げます」
「乱暴な司令官だなあ」
返事を待たずに扉が開いた。鍵はかけていない。別に不用心というわけではなく、ここ三日、整備班が勝手に部品を届けて勝手に持ち去るので、いちいち応対するのが面倒になったのだ。
現れた女を見て、私は刻印盤から手を離した。
「……おや」
「何です、その顔は」
イリス・ヴァルデンが立っていた。
銀髪をいつものようにきつく束ねていない。耳の後ろで緩くまとめ、細い紺色のリボンで留めている。白い軍服でも、あの仰々しい司令官の肩章でもない。淡い灰青色の上着に、膝丈の濃い色のスカート。手袋を持った左手には、小さな外出鞄まで提げていた。
軍務中の彼女しか知らない士官なら、見覚えのある美人が通ったと思っても、本人だと気づかないだろう。
いや、これは大変なことになった。
「イリス」
「はい」
「どこのお嬢さん?」
「……帰ります」
「待った待った。似合ってるって。すごく」
「最初からそう言えませんか」
口では叱りながら、彼女は鞄の持ち手を握り直した。嬉しいときに視線が少し泳ぐ癖は、何年付き合っても直らない。私の方も、それを見て笑う癖が直る気配はなかった。
「で、今日は何のご用? 北方艦隊に私服の着用義務でもできた?」
「今日は休暇です。あなたもでしょう」
「そうだけど」
「では、街へ出ます」
「私も?」
「他に誰を誘いに来たと思っているんですか」
イリスはそこで一度言葉を切り、私の机を見た。
工具。配線。飲みかけの茶。端からはみ出した図面。そして、さっき実験したばかりでまだ温かい刻印盤。
「……あなた、また部屋で実験していたんですか」
「部屋じゃないと落ち着かなくて」
「工廠の試験台を借りなさい。何度言わせるんです」
「爆発するような構成じゃないよ。せいぜい焦げるくらい」
「焦げるのも駄目です」
彼女は近づいて刻印盤を覗き込んだ。すぐに回路の一部を指さす。
「ここ、帰還電流が重なっています。冷却を挟まなければ、連続起動の三回目で不安定になるでしょう」
「おっ、見ただけで分かる?」
「あなたの配線は癖が強いんです。特に急いでいるとき」
言われて確認すると、確かにその通りだった。私は思わず工具を取り直す。
「なるほどなあ。じゃあ、こっちを……」
工具が私の指から抜き取られた。
「エルザ」
「はい」
「お出かけです」
「了解、司令官殿」
「それから、髪を梳いてきなさい」
私は頭を触った。右側だけ妙に跳ねている。
「このままじゃ駄目?」
「駄目です」
「厳しいねえ」
私が櫛を探しているあいだ、イリスは机の端にあった紙束をきれいに揃え、むき出しの魔石を布で覆っていた。ついでに転がっていたボルトも小皿にまとめてくれた。相変わらず人の部屋では手際がよい。自分の部屋では書類を山にして眠ることもあるくせに、不公平である。
私が支度を済ませると、イリスはさりげなく時計を確かめた。
「間に合いましたね」
「何に?」
「……いえ。行きましょう」
妙な返答だった。
しかし今日の私は機嫌がいい。天気もいい。研究も進んだ。おまけに親友がわざわざ私を迎えに来たのだ。
考えてみれば、これ以上の休日はそうそうない。
*
母港の商業地区は朝から賑わっていた。
軍港に近い大通りには、艦隊へ食料や資材を納める商人の店が並び、その一本裏にはパン屋や仕立屋、魚屋、古本屋が軒を連ねる。魔石灯は日中でも店の看板の下で淡く光り、焼き立てのパンの匂いが通りを歩く者を片端から誘惑していた。
「あ、あそこの店、部品も扱ってるんだ」
「見ませんよ」
「まだ何も言ってない」
「言おうとした顔でした」
イリスは私の袖をつまんで、無慈悲にも店先を通り過ぎる。
目の前には、真鍮の留め金や細工用の小さな魔石が山積みになっていた。別に今すぐ必要な品ではない。ただ、必要のない部品を必要になるかもしれないという理由で買うのが、機械好きの正しいあり方ではなかろうか。
「後で寄ろうよ」
「後で時間があれば」
「絶対ないやつだ」
「普段のあなたなら、五時間は居座るでしょう」
「三時間で済ます」
「却下します」
今日も司令官は強い。
私は素直に従った。イリスは見慣れない私服を着ているうえ、いつもより少し楽しそうなのだ。そんな彼女を部品屋に三時間付き合わせては、さすがに人の道に反する。
そう考えていると、彼女は足を止めて私を振り返った。
「……本当に、よかったんですか」
「何が?」
「お部屋で何か試していたでしょう。今日はそちらを……」
「休みだから別にいいよ。続きは明日やるし」
「そうですか」
「それに、こういうのも楽しいじゃん」
言った途端、イリスはほんの少し口元を綻ばせた。
この女、ひょっとして一緒に出かけるのがそんなに楽しみだったのだろうか。
そう思うと、こちらまで嬉しくなる。
通りの角を曲がると、広いショーウィンドウが現れた。飾られているのは外套や帽子、色とりどりの布地。いかにも立派な仕立屋で、私なら入口の前を素通りする種類の店だった。
イリスは迷わず扉を押した。
「今日はここからです」
「……何を買うの?」
「服を」
「なるほど。服屋だもんね」
「あなたの服です」
おかしいな。
今、私の知らないところで何かが決定したような。
「いや、私なら十分持ってるよ?」
「軍の作業着と、くたびれた上着ばかりでしょう」
「丈夫なんだよ、あれ」
「先週、袖を炉心の点検口に引っかけて破いていましたね」
「よく覚えてんなあ」
「それを繕ったのが私だからです!」
そうだった。
しかも、あまりにきれいに直っていたので、私は修繕したこと自体を忘れていた。
店員が愛想よく出迎えてくれた。イリスはさっそく、私に似合いそうな上着をいくつか見せてほしいと頼む。
私はその横顔を眺めながら、少々感心した。
艦隊司令官というのは、私が思っていたより幅広い仕事をするものらしい。
*
仕立屋で服を買うという行為には、私の知らない作法がずいぶんあるらしい。
袖を通したら腕を上げろと言われ、回れと言われ、歩けと言われる。軍の装備検査と似たようなものだ。違うのは、装甲の継ぎ目ではなく襟の形について議論するところくらいか。
「もう少し肩の落ちるものをお願いします」
イリスが言った。
「こちらでございますか」
「ええ。でも、その色は少し……エルザ、どう思います?」
「いいんじゃない? 目立つし」
「それは褒めているんですか」
「服は見つけやすい方がいいだろ」
店員が口元を押さえた。イリスは深く息をついた。
「あなたには期待していませんでした」
「ひどくない?」
「少しは自分の好みを言いなさい。着るのはあなたなんですから」
そこで私は、鏡の前に立っている自分を改めて見た。
確かに悪くない。だが、首元が窮屈だ。これでは前屈みになったとき襟が顎に当たる。試しにしゃがむと裾が膝にかかり、胸ポケットの位置も妙に高かった。
「こっちより、さっきの濃い緑のやつがいいな。動きやすかった」
イリスが顔を上げた。
「……そちらにしますか?」
「うん。結構気に入った」
「分かりました」
彼女はすぐに店員へ頼み、先ほどの上着を持ってきてもらった。私がもう一度袖を通すと、裾と肩の位置を確かめ、背中の縫い目まで目で追っている。
「こっちはどう?」
「ええ。よく似合います」
「そっか」
彼女はそれ以上何も言わなかったが、鏡越しに目が合うと、なんだか妙に満足そうだった。
私は値札を見た。
「……高っ」
「生地がいいんです」
「布なのに?」
「布だからです」
「うちの《ヴェスペル》の外装材だって、こんな値段しない箇所あるぞ」
「比較対象がおかしいでしょう!」
店員が今度こそ笑ってしまった。
もっとも、私だって金がないわけではない。北方戦役では随分稼いだし、勲章についてきた報奨金もある。大部分は既に工廠の口座へ移動したが、それは将来を見据えた賢明な投資というものである。
私は財布を開いた。
イリスが黙ってこちらを見ている。
「……あれ」
「まさか」
「いや、ある。あるんだけど」
貨幣を数えた。少し足りない。予備魔石の発注書を先に決済したのがいけなかった。
「給料日、来週だったっけ」
「先週です」
「時間って早いなあ」
イリスは目を閉じた。
「今日は私が出します」
「え、いいの?」
「そのために来たんです」
少々驚いた。
「……もしかして、最初から買ってくれるつもりだった?」
「あなたの服があまりにひどいので」
「そりゃ助かるけどさ。悪いな」
「必要な出費です」
「じゃあ、これは今度ちゃんと着て出かけるよ。汚さない日に」
そう言うと、イリスは一瞬きょとんとして、すぐに笑った。
「毎日そうしてほしいところですけどね」
支払いは彼女が済ませてくれた。私は袋を受け取り、畳まれた上着を覗き込む。
「それにしても、随分しっかり選んでくれたね」
「あなたは放っておくと、何でもいいと言うでしょう」
「ありがと。大事に着る」
「……はい」
照れた顔をしたので、もう一度礼を言おうかと思ったが、やめておいた。これ以上やると彼女が怒る。そういうところもよく知っている。
さて、買い物は終わった。
と思ったが、もちろんそんなわけはなかった。
「今度はそっちの番ね」
「何の番です?」
「服」
「私はもう着ています」
「見れば分かるよ」
私はイリスの肩を押し、店内の奥へ誘導した。さっき通ったときに見かけた一着が気になっていたのだ。
薄い藍色のワンピースだった。袖には細い刺繍が入っていて、腰の辺りで柔らかく絞られている。飾り気が強すぎず、それでいて彼女が普段着るものよりずっと華やかだ。
「これ、試してみて」
「……私がですか」
「他に誰がいるの」
「今日はあなたの服を選びに来たのであって」
「お前の服を選んじゃいけない法律がある?」
「そういう話では……」
イリスは生地をつまみ、しばらく考えた。
そして、試着室へ入った。
このあたり、実に素直な女である。
しばらくして、仕切りの向こうから声がした。
「エルザ」
「なに?」
「……少し、見ていただけますか」
「もちろん」
姿を見せたイリスは、先ほどまでの外出着とはまた違って見えた。銀髪との色の相性がいいのだろう。肩から落ちる布がきれいで、いつも軍服を着ているときの凛とした雰囲気を残しながら、柔らかさがある。
私は率直に感心した。
「うわ。いいじゃん」
「……そうでしょうか」
「いいよ。すごく似合う」
「さっきからそればかりですね」
「だって似合うんだもん」
イリスは鏡を見た。正面から、少し横を向いて、袖をそっと引く。店員に丈のことを尋ね、腰回りの縫製を確かめているあいだも、口元が緩んでいた。
ああ、この女、欲しくなってきてるな。
「買えば?」
「でも、着ていく機会が」
「今度また一緒に出かければいい」
「……今度」
「うん。今日だけで街中の店を回り切れるわけないし」
イリスはもう一度、鏡の中の自分を見た。
「では……そうしましょうか」
決断すると早かった。店員を呼んで縫い直しの箇所を確認し、仕上がりの日程まで聞いてしまう。
服を選ぶのにあれだけ迷っていた女が、買うと決めた途端に艦隊の契約交渉並みの手際を発揮する。つくづく面白いやつだ。
支払いを済ませると、イリスは伝票を鞄へ入れた。そのとき折り畳んだ紙が一枚、床に滑り落ちた。
「おっと」
私が拾うより早く、イリスがしゃがみ込む。
紙には細かな字が並んでいた。店の名前、時刻、移動時間。それから、見覚えのある私の名前。
「……なにそれ」
「何でもありません」
「えー、教えてよ」
「今日の予定を少し書き出しただけです」
「予定表?」
「……そうです」
「へえ!」
私は大いに感心した。
艦隊司令官が本気で休日を運用すると、こうなるのか。私なら出かける十五分前に目的地を決めれば上出来である。
「見せて」
「嫌です」
「何でさ」
「あなたは絶対、余計なことを言いますから」
その予測はかなり正しい。
イリスは紙を鞄の奥へしまい、すました顔で立ち上がった。
「さあ。次は昼食です」
どうやら、本日の司令官はまだまだ忙しいらしかった。
*
予定表に書いてあったらしい店は、休んでいた。
正確には、店は開いているのだが、調理場の火入れ設備が故障して昼の営業を見合わせるという。入口には店主の謝罪が書かれた紙が貼ってあり、店内では職人が袖を捲って大きな炉の裏側を覗き込んでいた。
私は思わずそちらへ目を向けた。
「……あの炉、見に行ってもいい?」
「駄目です」
「やっぱり?」
イリスは店先でしばらく立っていた。
「今朝、確認の使いを出したときは、確かに営業すると」
「壊れたんなら仕方ないよ」
「予約までしていたのに……」
予約。
そこまでやっていたのか。
ようやく私は、彼女の鞄から覗いた予定表の意味を理解した。今日のために、あれこれ考えてくれていたのだろう。私がどんな服を好むかも、何を食べたがるかも、いつ帰れば疲れないかも。
普段の仕事だって山ほどあるくせに。
「イリス」
「はい」
「腹減った」
「……ええ」
「ここじゃ食べられないみたいだし、他行こうよ」
「近くに別の店はありますが、席が空いているかどうか」
「あそこ、うまそうじゃん」
私が指したのは向かいの路地である。赤い天幕の下で、大鍋をかき混ぜている男がいた。昼時のせいか客も多い。煮込んだ肉と野菜の匂いが、店の前まで届いている。
「……あちらですか?」
「駄目?」
「いいえ。ただ、もっと落ち着いた店の方がいいのではと」
「腹減ってるときの私ほど落ち着きのない生き物もないよ。行こ行こ」
私はイリスの手を取った。
彼女はほんの一拍だけ驚いたように手元を見たが、そのままついてきた。
路地の食堂は、正面から見るより奥行きがあった。粗末な長椅子に分厚い木の卓、壁には港で使われる古い航路図が貼られている。店主の夫婦が二人で切り盛りしているらしく、客の大半は荷役の仕事を終えた人々だった。
私たちが座ると、女将が大きな水差しを置いた。
「今日は羊肉の煮込みがあるよ。パンは焼きたて。魚の揚げ物もできるけど、ちょっと時間がかかるね」
「じゃあ煮込み二つ。あとパン、多めに」
「私はまだ注文していませんが」
「食べるだろ?」
「……いただきます」
「ほらね」
女将が笑って奥へ戻っていった。
イリスは外出鞄を膝へ置き、店内を見回した。目線が入口、厨房、窓際へと移動する。どうやら無意識に出入口を確かめているらしい。職業病というのは厄介だ。
「司令官殿、今日は誰も襲ってこないよ」
「分かっています。座席の配置が気になっただけです」
「うんうん。分かる分かる」
「絶対に分かっていませんね」
運ばれてきた煮込みは、大変な代物だった。
肉が柔らかい。根菜には出汁がしみていて、黒パンをちぎって浸すと、これがまたよく合う。私は一口食べたところで、思わず天を仰いだ。
「うまっ」
「……おいしいですね」
イリスも目を丸くしている。
「ほらあ。大当たり」
「ええ、認めます。ここのお料理はおいしいです」
「今度、うちの整備班も連れてこよ」
「そうすると、昼には食材がなくなってしまうでしょうね」
「確かに」
私はパンを追加した。イリスは最初こそ行儀よく小さくちぎって食べていたが、気づけばお代わりの籠へ手を伸ばしている。
「……今日、朝飯食べた?」
「食べました」
「何を?」
「お茶を」
「食べ物じゃないじゃん」
「少し忙しかったんです」
「何をそんなに」
「休暇のために、仕事を前倒ししていました」
彼女は言い終えてから、しまったという顔をした。
私はパンを持ったまま笑った。
「そこまでしてくれたんだ?」
「……たまには、外に出たかっただけです」
「そっか。誘ってくれてありがとね」
イリスは返事をせず、煮込みを口に運んだ。少し大きく切られた肉が熱かったらしく、慌てて水を飲む。
私は腹を抱えて笑いそうになったが、どうにか我慢した。今からかえば、彼女は意地になって昼食を早く切り上げるかもしれない。せっかくうまいものを食べているのだから、それはもったいない。
「店、閉まっててよかったな」
「よくはありません。ご迷惑をかけましたし」
「私はこっちの方が好きかも」
「……本当ですか」
「うん。今度はあの魚も頼もう。揚げたて、絶対うまいよ」
イリスは窓の向こうへ視線をやってから、私の顔を見た。
「それなら、次は最初からこちらを予定に入れます」
「また予定表作るの?」
「もちろんです」
おかしいな。
休日というものの定義について、我々はどこかで認識を違えているらしい。
しかし、彼女が楽しそうなので、まあいいか。
*
昼食を終えると、今度は私がイリスを引っ張って歩くことにした。
予定表の次の行が何だったかは知らない。だが、路地の先から聞こえてきた音楽が気になったのだ。太鼓に笛、それから大勢の笑い声。大通りへ出ると、広場に小さな市が立っていた。
北方の商人が持ち込んだらしい木彫りの飾り物や、錫製の食器、布袋に詰めた香辛料。広場の中央には輪投げの屋台まである。休日の港町というものは、どこを向いても人を誘惑してくる。
「ちょっと見ていこうよ」
「お菓子のお店に行く時間が……」
「まだ昼過ぎだろ? 大丈夫大丈夫」
「あなたの大丈夫は信用できません」
「五分だけ」
イリスは不承不承頷いた。
五分後。
「……あの、イリス?」
「待ってください。今度こそ入ります」
輪投げの屋台で、我が親友は四回目の挑戦に臨んでいた。
景品は小さな木彫りの鳥である。くちばしが短く、丸い身体をしていて、どことなくイリスに似ていた。どこが似ているのかと訊かれると説明に困るが、私は見た瞬間に笑ってしまった。
それがいけなかったらしい。
「そんなに似ていると言うなら、取ってみせます」
彼女は硬貨を払い、輪を受け取った。
一回目は手前の瓶に当たって跳ねた。二回目は惜しいところまで飛んだものの、瓶の首で弾かれた。三回目に至っては、勢い余って隣の景品を倒した。
屋台のおやじは笑いをこらえ、私は笑うのをやめた。イリスが本気になったからである。
帝国最大の英雄が、輪投げに本気になっている。
「少し手首を柔らかくした方がいいんじゃない?」
「力の問題ではありません。輪が瓶へ触れる角度です」
「そうかなあ」
「あと三本いただけますか」
「お嬢さん、熱心だねえ」
「ええ。少しだけ、納得がいかないので」
少しだけ、という顔ではない。
私は横から一本借りて投げてみた。輪は鳥の置かれた瓶を越え、隣の瓶に見事にはまった。
「おっ、入った」
「そちらではありません!」
「いやでも、入ったよ?」
「私が狙っているのはその鳥です」
「この隣の犬も可愛いじゃん」
「要りません」
断固たる口調だった。
仕方ないので、二人で瓶の位置を確認した。手前はわずかに高く、その奥に目当ての鳥がある。真上から落とそうとすれば前の瓶に引っかかるし、水平に投げれば勢いが強すぎて弾かれる。
「横からの方がよくない?」
「そうですね。少し回転をかければ……」
イリスは一度、手の中で輪を転がした。
それから、今度は力を抜いて投げる。
輪が小さく弧を描き、手前の瓶の上を抜けた。木彫りの鳥がくっついた瓶に触れ、ぐらりと傾いて――すとん、と首へ収まった。
「入った!」
歓声を上げたのは私だった。
イリスは一瞬、目を見開いたまま固まり、次いで、得意げに顎を上げた。
「ほら、ご覧なさい」
「いやあ、お見事」
「あなたの助言も、少しは役に立ちました」
「少しかあ」
おやじから受け取った小鳥を、彼女はしばらく掌で眺めていた。粗い木彫りで、色も簡単に塗られているだけ。高価な品ではない。それでもイリスは、見つけたばかりの珍しい魔石でも扱うように、丁寧に鞄へしまった。
「これ、私に似てる?」
「似てる似てる」
「どこがですか」
「そのへんの顔つきが」
「鳥の顔ですよ」
「だから似てるって」
イリスは私の腕を軽く叩いた。
だが、その後しばらくはずっと機嫌がよかった。
広場を出るころ、先ほどまで予定に遅れることを心配していた彼女は、もう時計を見なくなっていた。代わりに、珍しい布細工や小さな箱を見つけては、こちらを呼ぶようになった。
「エルザ、これを見てください」
「なになに」
「この箱、蓋の留め具が面白いんです。二重になっているでしょう」
「ほんとだ。どうやって開けるんだろ」
二人であれこれひねっているうちに店主が現れ、見事な手つきで蓋を開けてみせた。中からは別の小箱が出てきた。
イリスが声を立てて笑った。
いやあ。
いい休日だ。
*
「ここです」
イリスが立ち止まったのは、広場から二筋ほど離れた菓子店の前だった。
小さな店だが、入口の硝子戸には花の模様が描かれ、窓の内側には焼き菓子が段々に並べられている。甘いバターの匂いが外まで漂っていた。
「おお……!」
「気に入りましたか?」
「まだ入ってないけど、だいぶ好き」
「それはよかった」
イリスは誇らしげに扉を開けた。
店内には白い皿と菓子の入った籠がずらりと並ぶ。小さなタルト、果実を包んだ焼きパイ、砂糖をまぶした丸いビスケット。奥には数卓だけ喫茶席もあった。
私の視線は自然とタルトに吸い寄せられる。
「……これは危ない」
「何がです?」
「財布が」
「今日は私が誘ったんですから、気にしないでください」
「いや、でもさっきの服も買ってもらったし」
「お菓子くらい、私にも買わせてください」
イリスは当然のように言い、店員へ注文を始めた。
小さな焼きタルトを二つ。果実のパイを一つ。茶は香りの弱いものを二杯。そして、私がじっと眺めていた砂糖菓子を、何も訊かずに一皿追加する。
「……私、何も言ってないよ?」
「顔に書いてあります」
「どんな顔?」
「買わずに帰ったら一週間は後悔しそうな顔です」
完璧な分析だった。
私たちは窓際へ座った。硝子越しに通りを眺めながら茶を飲む。隣の卓では老婦人二人が、家族の話をしながらパイを取り分けていた。
運ばれてきた焼きタルトは表面に薄く砂糖がまぶされ、焼き色も申し分ない。私は一口かじった。
「……うっま」
「よかった」
イリスはそう言ってから、自分の皿へ手を伸ばした。小さなフォークを入れ、端を少し切り取り、口へ運ぶ。
次の瞬間、彼女の目がぱっと明るくなった。
「おいしい!」
声が思ったより大きかったらしく、本人も驚いて口元を押さえた。
私はたちまち笑ってしまった。
「そんなに?」
「……ええ。とても」
「よかったね」
イリスは照れたように微笑み、もう一口食べた。
彼女は甘いものが嫌いなわけではない。むしろ相当好きだ。けれど普段、司令部の人間と食事をするときは、いつも控えめに済ませる。本人に言わせれば仕事中だから当然とのことだが、目の前で菓子を並べられても平然としているのは、なかなかの忍耐力だと思う。
今日はその必要がない。
イリスは楽しそうに菓子を食べ、パイの中身を確かめ、私の皿にある砂糖菓子にも興味を示し始めた。
「一個食べる?」
「……よろしいんですか」
「うん。どれがいい?」
彼女は真剣に選んだ。
長考の末、小さな丸い菓子を指す。
「それを」
「了解」
私は自分のフォークで取って渡そうとしたが、イリスはなぜか手を伸ばさず、こちらをじっと見ていた。
「……なに?」
「それ、私の皿に置いてください」
「あ、そっか」
「あなたの手からそのままいただくわけにはいかないでしょう」
「別にいいじゃん」
「よくありません」
「今さらお上品だなあ」
「あなたこそ、もう少しお行儀よくしてください」
そう言いながら、イリスは受け取った菓子を嬉しそうに食べた。
私は自分の皿へ目を落とした。甘いものを分け合っているだけなのに、随分と楽しい。昔はこの女と同じ席で食事をするのもひと騒動だった。今ではお互いの皿から当たり前のように菓子を取るのだから、付き合いとは面白いものだ。
「エルザ」
「ん?」
「こちらも、半分どうぞ」
差し出されたのは、イリスの果実のパイだった。
「いいの?」
「ええ。これもおいしいので」
「じゃあ遠慮なく」
焼いた果実の酸味が甘い生地に合う。うむ。悪くない。むしろ大変よい。
私たちは互いの皿を交換したり戻したりしながら、結局、注文した菓子をきれいに平らげた。
「……お腹いっぱい」
「そうですね」
「晩飯、入るかなあ」
「あなたはきっと、時間になれば食べますよ」
「否定できない」
イリスがくすくす笑った。
店を出る前、私は持ち帰り用の菓子をいくつか選んだ。焼きタルトが六個、パイが四個、それから小さな袋詰めの砂糖菓子。
「そんなに買うんですか?」
「うん。明日も食べたいし、整備班にも分けたい」
「では、私が」
「いや、これは私が買うよ」
私は財布を出した。残金に多少の不安はあったが、菓子なら何とかなる。機体の装備と違って、来月までの分割払いを頼むほどではない。
支払いを済ませ、二つの紙袋を受け取る。片方をイリスに差し出すと、彼女は首を傾げた。
「……これは?」
「お前の分。部屋で食べなよ」
「私の?」
「朝から色々してもらったからね。せめて菓子くらい」
イリスは紙袋の中を覗き込んだ。
焼きタルトと、先ほど彼女が気に入っていた砂糖菓子を、少し多めに入れてある。
「……ありがとうございます」
「礼なら店の人に言いなよ。私が焼いたわけじゃないし」
「エルザ」
「はい」
「今は、あなたに言っているんです」
「……そっか」
私は少しだけ照れた。
イリスが嬉しそうに笑うので、どうにか誤魔化そうと彼女の手元を指さした。
「それにしても、もう一袋くらい買ってもよかったかも」
「駄目です。あなた、また残金を考えずに買うつもりでしょう」
「バレたか」
「バレます!」
私たちは笑いながら店を出た。
硝子戸が閉まる直前、店の主人が「またお二人でどうぞ」と声をかけてくれた。
私は手を振り、イリスは丁寧にお辞儀した。
もちろん、また来よう。
*
港へ向かう道は、午後の陽射しを受けて明るかった。
軒先には洗濯物が揺れ、荷車を引く馬が石畳の上で蹄を鳴らしている。通りに面した家の窓から夕食の支度をする匂いが漂い、店仕舞いを始めた魚屋が、売れ残った鰊を安くすると声を張り上げていた。
私は紙袋を両手に提げ、たいへん満足していた。
菓子はうまかった。飯もうまかった。服まで買ってもらった。しかも、帰れば例の刻印盤の続きができる。人の幸福には色々な形があるだろうが、今のところ私はこれで十分だった。
隣を歩くイリスは、先ほどから手提げ鞄をときどき覗いている。
「まだ見てるの?」
「何をですか」
「鳥」
「……別に」
「気に入ったんだ」
「自分で取ったものですから」
そう言って、彼女は鞄の口を閉じた。肩から覗く銀髪が風で揺れたので、リボンを結び直そうとしている。
「ちょっと待って」
私が紙袋を片手にまとめると、イリスは振り返った。
「何です?」
「髪、ほどけかけてる。直していい?」
「……お願いします」
彼女はおとなしく後ろを向いた。
リボンを外すと、銀髪が肩へこぼれた。軍服姿のときはひとつに固くまとめているので、こんなふうに柔らかく広がるのを見る機会は意外に少ない。
「髪、長くなった?」
「少し。近いうちに切ろうかと思っていたんです」
「もったいない。似合ってるのに」
「またそれですか」
「今日は褒め放題の日だから」
「誰が決めたんです?」
「私」
「勝手ですね」
そう言う声は、少しも怒っていなかった。
私は髪を緩く集め、リボンを結び直した。こういう細かい作業なら手先には自信がある。毎日、もっと面倒な回路を相手にしているのだ。
ところが仕上がりを見せると、イリスは指先で結び目を確かめ、吹き出した。
「……これ、左右が違います」
「え?」
「片方だけ長いですよ」
「おかしいな。左右対称にしたつもりだった」
「あなたの機体も、同じように組んでいるんですか?」
「ひどい風評被害だ!」
イリスは笑いながらリボンを結び直した。鏡も使わず、指先で二度折り返して、あっという間にきれいな蝶結びを作る。
「ほら」
「……上手いなあ」
「練習しましたから」
「へえ。誰に見せるため?」
「自分のためです!」
そうだろうとも。私は満足して頷いた。
通りを抜けると、海が見えた。
石造りの岸壁に小型の商船が何隻も並び、さらに向こうには軍港の高いマストが突き出している。潮の匂いが強くなり、海面に反射した光が建物の壁をちらちらと照らしていた。
防波堤へ続く遊歩道は、休日の散歩客で賑わっている。子供たちが石段を駆け上がり、釣り竿を持った老人が文句を言いながらその後を避けた。若い恋人らしい二人連れが手すりにもたれ、魚を狙う海鳥を眺めている。
「ちょっと、こっち行っていい?」
私が言うと、イリスは頷いた。
「ええ。今日はもう急ぎませんから」
「そうなの?」
「副司令官に、夕刻までは戻らないと伝えてあります」
「なら余裕だ」
「……それに」
「ん?」
「私も、もう少し歩きたいです」
なんて素直な申し出だろう。
私は嬉しくなって、思わず笑った。
「いいね。歩こう歩こう」
イリスは私の袖に触れ、それから少し迷うように手を動かした。
「……エルザ」
「なに?」
「そちら、荷物が重そうですから」
「そうでもないけど」
「片方、持ちます」
「いや、お前も鞄あるし」
言い終える前に、彼女は私の腕を取った。
おや。
そういうことか。
私は大人しく歩き出した。イリスは何事もなかったように前を見ているが、腕は離さない。並んで歩くには少々窮屈な道幅だったので、私たちは足並みを合わせて、人を避けながらゆっくり進んだ。
「……何か言いたそうですね」
「別に?」
「絶対に何か考えています」
「今日は可愛いなあと思って」
「もう!」
腕を叩かれた。
けれど、やっぱり離されなかった。
*
防波堤の先は風が強かった。
海の上では何羽もの鳥が旋回し、港へ入る船の煙突から細い煙が伸びている。少し離れたところで漁師らしい男が一人、縄を繕いながら低い声で歌っていた。
どこかで聞いたことのある旋律だった。
イリスが小さく鼻歌を重ねる。
「知ってる歌?」
「ええ。子供のころ、港の祭りでよく聞きました」
「へえ。歌姫の原点は漁師の歌かあ」
「そんな立派な話ではありません。皆が歌っていたので、自然に覚えただけです」
彼女はそう言い、また口ずさんだ。
今日は通信装置も刻印盤もない。ただ、彼女の声が風に乗って、波音の上を流れていく。ゆったりした旋律で、ところどころ音が長く伸びる。歌詞の一部を思い出せなかったらしく、イリスは笑ってその箇所だけ鼻歌に変えた。
「いい歌だね」
「……そう思います?」
「うん。もっと聞きたい」
イリスは少し考えてから、手すりに肘を置いた。
「では、もう一度。今度は最初から」
私は頷き、菓子の袋を石の台へ置いた。
歌声はすぐに始まった。風で聞き取りにくいところもあったが、彼女は気にせず歌った。途中から私も、覚えたばかりの節を適当に真似してみる。
「……エルザ、そこは違います」
「え、どこ?」
「二節目です。もう少し音を下げて」
「こう?」
「そうです。もう一度」
歌姫の歌唱指導は思ったより厳しかった。
こちらとしては気分よく鼻歌を歌いたいだけなのだが、イリスは音程が合うまで許してくれない。私は二度間違え、三度目にはとうとう笑ってしまった。
「無理無理。お前と一緒に歌うの、難しすぎるって!」
「そんなことありません。さっきのは合っていました」
「いや、もう一回やったら外す自信あるよ」
「では、私の方を合わせます」
あっさりそう言って、イリスは私の出しやすい高さまで音を下げた。
今度は何とか一緒に歌えた。最後の節で二人の声が重なると、彼女は嬉しそうに笑い、こちらを見た。
「ほら。できたでしょう?」
「先生が上手だからね」
「生徒も、なかなかでしたよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
イリスはふふっと笑った。
その笑い声を聞いていると、私までまた歌いたくなる。さっきまで覚えられなかった節を、今度は最初から口ずさんでみた。イリスが隣で正しい音を足してくれる。
そうして何度か歌ったあと、私たちは手すりにもたれ、海を眺めた。
夕方の光は、昼間より少し赤くなっていた。
「そういえばさ」
「はい」
「今日、何が一番楽しかった?」
イリスはすぐには答えなかった。木彫りの鳥のことか、服のことか、菓子のことか。私が思い当たるだけでも色々ある。
「……決められませんね」
「そっか。私も」
「それは、何だか嬉しいです」
「じゃあ次も色々やろうよ。まだ行ってない店もあるし」
「ええ」
「次は私が予定立てる?」
イリスは私の顔を見た。
「あなたが?」
「何よ、その疑わしそうな目は」
「五分で考えた計画書を持ってこられそうです」
「失礼な。ちゃんと十分かけるよ」
「それはどうでしょう」
彼女は声を上げて笑った。
私も笑った。
そろそろ戻ろうか、という話になっても、どちらもすぐには立ち上がらなかった。買った服をどこへ着ていくか、あの食堂の魚の揚げ物はどんな味だろうか、次の休みには郊外まで足を延ばしてもいいかもしれない、なんて具合に話が続いた。
やがてイリスが時計を見て、ほんの少し眉を上げた。
「……さすがに、戻らないと」
「だねえ」
私は紙袋を拾い上げ、先に歩き出した。イリスが隣へ並ぶ。
帰り道も、彼女は時々思い出したように例の鼻歌を歌っていた。
*
艦隊司令部へ続く門の前で、私たちは別れた。
イリスは門をくぐる前に立ち止まり、今日受け取った紙袋を大事そうに持ち直した。
「エルザ。今日は、ありがとうございました」
「こっちの台詞だよ。服まで買ってもらっちゃったし」
「ちゃんと着てくださいね」
「もちろん。次の休みには着ていく」
「では、その日までに私も新しい服を受け取っておきます」
「あ、そうだ。それ楽しみだなあ」
イリスは満足げに頷いた。あのワンピースを着た姿を思い浮かべているのか、ほんの少し頬が緩んでいる。
「じゃ、また明日」
「ええ。また明日」
私は手を振り、宿舎への道を歩き始めた。
振り返ると、イリスはまだ門のところにいた。こちらに気づくと片手を上げ、さっさと帰りなさいとでも言いたげに手を振り返してくる。
私は笑い、今度こそ角を曲がった。
部屋へ帰ると、机の上は朝のままだった。
未完成の刻印盤。揃えられた図面。小皿にまとめられたボルト。イリスがかぶせていった布の下で、魔石が静かに光っている。
私は買ってもらった上着を袋から出し、椅子の背へ掛けた。
なかなか格好いい。
今度はこれを着て、あの女と街を歩くのか。
想像したら、なんだかおかしくなってきた。イリスの方は例のワンピースを着るつもりだろう。二人とも普段と見違えて、きっと司令部の連中が驚くに違いない。
ああ、楽しみだ。
机に向かって、刻印盤の配線を一本直す。イリスが指摘した帰還電流の重なりを避けるように、細い導線を引き直した。起動試験は明日に回そう。今日はもう、散々いい思いをしたのだ。夜くらいのんびり過ごしたい。
私は茶を淹れ、菓子の袋を開いた。
タルトを一つ。
やっぱり、うまい。
次はイリスに何を食べさせようかな。あいつ、今日の菓子が相当気に入っていたみたいだし。なら、今度は私が評判の店を探してやろう。何だかんだ、あいつの好きそうなものなら結構分かる気がする。
私は紙の端に、覚えておきたい店の名前をいくつか書いた。
ついでに、食堂の魚の揚げ物にも丸をつける。
お腹が空くことを考えたら、次も昼飯から始めた方がいいかもしれない。
いや、朝飯からでもいいな。
いっそ二人で、朝から晩まで食べ歩くのも楽しそうだ。
素晴らしい。
次の休暇が早くも待ち遠しくなってきた。
*
そのころ、イリス・ヴァルデンは旗艦《グラン・セレーネ》の私室で、鞄の中身を机へ並べていた。
伝票。ハンカチ。小さな紙袋。そして、木彫りの鳥。
鳥を掌に載せると、つい口元が緩んだ。確かに、少し間の抜けた顔をしている。エルザはこれを自分に似ていると言ったのだ。
「……失礼な人」
独り言が思いのほか嬉しそうな響きになり、イリスは誰もいない室内を見回した。
今日は、本当に楽しかった。
誘うのには少し勇気が要った。エルザは休暇になると、機体をいじっているか、気まぐれにどこかへ出かけてしまう。断られるとは思わなかったが、せっかくなら楽しんでもらいたかった。
だから店を調べた。服も見繕った。食事の予約を入れ、菓子店の営業時間を確認し、歩く時間まで計算した。
用意した予定表は、結局半分も役に立たなかった。
イリスは鞄からそれを取り出した。昼食の店には斜線が引かれ、予定になかった広場の市で随分と時間を使っている。よく考えれば、あの輪投げには少し熱中しすぎた。
それでも、帰り道まで笑っていられた。
食堂の煮込みはおいしかった。焼き菓子は期待以上だった。選んでもらったワンピースを着る日が楽しみだ。何より、エルザが何度も何度も、楽しそうに笑っていた。
イリスは予定表を畳み直し、机の引き出しへしまった。
その際、紙の裏側に小さく書き込んであった文字が目に入った。
――エルザへの贈り物。
あの上着を気に入ってくれたことが、やはり嬉しい。着心地を確かめて、動きやすい方を選んだときも、受け取って礼を言ってくれたときも。高価なものを贈りたいわけではなかった。ただ、自分が選んだものをあの人が使ってくれるのは、思いのほか幸せなことだった。
イリスは机の横へ紙袋を置き、焼きタルトを一つ取り出した。
夕食の前に甘いものを食べるのはよくない。
それは承知している。
しかし、今日はよく歩いたし、たまの休暇くらい好きにしてもよいだろう。何しろエルザが、わざわざ自分のために買ってくれたものなのだ。
タルトをかじる。
さくりと音がして、甘い香りが広がった。
「……おいしい」
思わず笑ってしまう。
食べ終えると、イリスは手を拭き、予定を書き込むための手帳を開いた。次に二人の休暇が重なりそうな日を確かめ、そこへ小さく印をつける。
そして、一行だけ書き足した。
――エルザと外出。
少し考えて、その下にも文字を加える。
――行き先は、エルザに任せる。
書いてみると、何だか可笑しかった。あの人に全部任せてしまったら、きっとまた予定が滅茶苦茶になる。気づけば知らない店に入り、知らないものを食べ、知らない道を歩いているに違いない。
それでも、きっと楽しい。
イリスは木彫りの鳥を手帳の横へ置いた。丸い鳥は小さな足で机の上に立ち、こちらを見上げている。
「あなたも、そう思うでしょう?」
もちろん、返事はなかった。
イリスはもう一度笑い、机の上の鳥を指先でそっと撫でた。
窓の外では、港の灯がひとつ、またひとつと点き始めていた。
今夜はよく眠れそうだった。