『ありふれた職業で世界最強 ―空間を越える黄金の精神―』 作:武藤 桜
朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を淡いオレンジ色に染めていた。
南雲ハジメは、ベッドの上で目を覚ました。
「……朝か」
寝起きの気怠さを感じながら上体を起こし、枕元の時計を確認する。いつもと変わらない時間。いつもと変わらない朝。
少なくとも、表面上はそうだった。
制服に着替え、洗面所で顔を洗う。鏡に映った自分の顔を眺めながら、ハジメはふと、窓の外へと視線を向けた。
今日も一日が始まる。
高校に通い、授業を受け、クラスメイトと顔を合わせ、家に帰る。そんな当たり前の日常が、これからも続いていく。
――本当に、そうだろうか。
「……いや、考えすぎか」
小さく息を吐き、ハジメは鞄を手に取った。
自分は昔から、妙なことに縁がある。
いや、正確には、妙なことに巻き込まれる人生を送ってきたのだ。
始まりは、中学二年生の頃だった。
*
杜王町。
海沿いに位置する、どこにでもあるような地方都市。
だが、南雲ハジメにとって、その町は決して普通の場所ではなかった。
人間の精神が具現化したような謎の存在。常識では説明できない能力。そして、それらを巡って繰り広げられる、一般人には知られてはならない戦い。
すべては、あの弓と矢から始まった。
虹村形兆が所持していた弓と矢を、音石明が強奪した事件。
音石によってスタンド能力を発現させられたハジメは、否応なく杜王町の裏側へと足を踏み入れることになった。
自分の身に何が起きたのかも分からない。
目の前に現れた異形の人型。自分の意思に呼応するように動く、もう一人の自分とも呼べる存在。
最初は恐怖しかなかった。
だが、東方仗助や広瀬康一、虹村億泰といった仲間たちとの出会いが、ハジメの運命を変えた。
仗助のまっすぐな正義感。
億泰の単純さの裏にある情の深さ。
康一の、いざというときには誰よりも勇敢になれる強さ。
彼らと共に事件を追い、敵と戦い、時には命の危機に瀕しながら、ハジメは学んでいった。
スタンドとは何か。
力を持つことの意味とは何か。
そして、どれほど理不尽な状況でも、自分の意志を曲げずに立ち向かう人間がいるということを。
杜王町を騒がせた数々の事件。
その果てに待っていた、平穏な日常の裏側に潜む殺意。
忘れられるはずがなかった。
忘れてしまえるほど、軽い経験でもなかった。
それでも、ハジメは前へ進んだ。
あの町で過ごした日々は、恐怖だけでできていたわけではない。
くだらないことで笑い合った時間もあった。仲間たちと過ごした何気ない放課後もあった。
そして何より、自分が一人ではないと知ることができた。
それは、ハジメにとって何物にも代えがたい財産だった。
*
それから二年。
ハジメは広瀬康一と共にイタリアへ渡った。
きっかけは、康一が空条承太郎から依頼された調査だった。
その旅先で二人が出会ったのは、ジョルノ・ジョバァーナという一人の少年だった。
そして、その出会いは新たな戦いの始まりとなった。
ギャング組織パッショーネ。
その内部で繰り広げられる権力争い。仲間を守るために組織へ反旗を翻したブローノ・ブチャラティ。そして、自らの夢を実現するために進み続けるジョルノ。
ハジメは、再び命懸けの戦いに身を投じた。
敵は杜王町で遭遇した者たちとは違う。
能力の性質も、戦いの規模も、覚悟の重さも違っていた。
相手を倒すだけでは終わらない。
一瞬の判断が仲間の生死を分け、ほんのわずかな油断が致命傷につながる。
その中で、ハジメは自分自身のスタンド能力を磨き上げていった。
そして、ボスとの決戦。
運命さえもねじ伏せようとする力を前に、彼らは何度も絶望しかけた。
それでも、ジョルノたちは諦めなかった。
仲間の想いを受け継ぎ、倒れた者たちの覚悟を背負い、最後まで前へ進んだ。
その姿を、ハジメは決して忘れないだろう。
康一は戦いを終え、日本へ帰国した。
だが、ハジメはイタリアに残る道を選んだ。
自分の意思で選んだ道だった。
あの戦いを経て出会った人々。共に死線を越えた仲間たち。彼らと過ごした時間は、ハジメにとってかけがえのないものになっていた。
ジョルノ・ジョバァーナ。
ブローノ・ブチャラティ。
レオーネ・アバッキオ。
グイード・ミスタ。
ナランチャ・ギルガ。
パンナコッタ・フーゴ。
そして、戦いの中で出会い、別れた数え切れない人々。
彼らとの日々があったからこそ、今の自分がいる。
そう、ハジメは思っていた。
*
「……懐かしいな」
通学路を歩きながら、ハジメは小さくつぶやいた。
あれから、いくつもの季節が過ぎた。
杜王町での冒険も、イタリアでの死闘も、今となっては過去の出来事だ。
もちろん、忘れたわけではない。
むしろ、忘れられるはずがなかった。
あの経験があったからこそ、ハジメは多少のことでは動じなくなった。
目の前で奇妙なことが起きても、まずは状況を確認する。
理解できない敵に遭遇しても、すぐに諦めたりはしない。
そして、自分の手が届く場所に守りたいものがあるなら、できる限りのことをする。
それが、彼の生き方になっていた。
「まあ、だからって、また面倒事に巻き込まれたいわけじゃないんだけどな」
苦笑しながら、ハジメは歩を進めた。
今度こそ、普通の高校生活を送りたい。
授業を受け、友人と話し、平穏な毎日を過ごす。
そんな生活に、少しばかり憧れていたのだ。
杜王町の仲間たちも、イタリアの仲間たちも、それぞれの場所で生きている。
いつかまた会える日が来るかもしれない。
そのときには、昔話に花を咲かせながら、笑って過ごせたらいい。
ハジメはそんなことを考えながら、学校への道を歩いていた。
――その日が、自分の人生を根底から変える一日になるとも知らずに。
*
教室に入ると、いつも通りの光景が広がっていた。
クラスメイトたちの談笑。
机を動かす音。
窓から差し込む朝の光。
その中に、南雲ハジメという一人の高校生がいる。
彼は自分の席へ向かい、鞄を置いた。
「おはよう、ハジメ」
声をかけてきたのは、クラスメイトの一人だった。
「ああ、おはよう」
短く返事をし、椅子に座る。
その何気ないやり取りに、ハジメは少しだけ安堵した。
ここには弓も矢もない。
ギャングの抗争もなければ、スタンド使いたちの命懸けの戦いもない。
少なくとも、今は。
やがて担任教師が教室へ入ってきた。
生徒たちが席に着き、朝のホームルームが始まる。
いつも通りの一日。
そのはずだった。
教師が口を開き、連絡事項を伝えようとした、その瞬間。
教室の床に、見たこともない紋様が浮かび上がった。
「……あ?」
ハジメの眉が動く。
光り輝く幾何学模様。
床一面に広がる、魔法陣のようなもの。
クラスメイトたちが困惑の声を上げる。
「な、何だこれ!?」
「床が光ってる!?」
「先生、これ何ですか!?」
騒然とする教室。
ハジメは反射的に立ち上がった。
足元の光を見つめ、周囲の様子を確認する。
スタンド攻撃か?
いや、違う。
少なくとも、自分が知る能力のどれとも一致しない。
しかも、これは自分一人を狙ったものではない。
教室全体を、いや――クラスそのものを包み込もうとしている。
「おい、全員! 動くな!」
ハジメが声を張り上げた。
だが、遅かった。
光が爆発的に膨れ上がり、視界を白く塗り潰す。
身体が浮き上がるような感覚。
耳鳴り。
天地がひっくり返るような浮遊感。
ハジメは咄嗟に机へ手を伸ばしたが、指先が触れる直前、机そのものが光の中へと溶けていった。
「クソッ……!」
スタンドを発現させようとする。
しかし、能力を使うよりも早く、世界そのものが遠ざかっていく。
最後に見えたのは、驚愕に目を見開くクラスメイトたちの姿だった。
仗助。
康一。
ジョルノ。
イタリアで共に戦った仲間たち。
脳裏に浮かんだ顔は、どれも遠い場所にいる。
ここで自分が消えたら、あいつらに何も伝えられない。
そんな思いが一瞬だけ胸をよぎった。
だが、次の瞬間。
南雲ハジメの意識は、完全な白に呑み込まれた。
こうして、一人のスタンド使いの新たな冒険が始まった。
それは、杜王町の奇妙な事件とも、イタリアの黄金の風とも異なる物語。
神を名乗る者の気まぐれによって異世界へ召喚された少年が、やがて奈落へ落ち、絶望の底から這い上がる物語である。
そして、その少年の手には――空間を切り取り、別の空間と入れ替える力があった。