『ありふれた職業で世界最強 ―空間を越える黄金の精神―』 作:武藤 桜
――痛い。
それが、南雲ハジメの意識に浮かんだ最初の感覚だった。
全身が軋む。呼吸をするたびに胸の奥が焼けるように痛み、身体を少し動かすだけで、骨の砕けた箇所が悲鳴を上げた。
目を開けても、そこには暗闇しかない。
頭上に見えるのは、はるか遠くにある天井の亀裂から漏れる、かすかな光だけだった。
「……ここ、は……」
呟いた声は、ひどく掠れていた。
記憶が蘇る。
オルクス大迷宮第六十五階層。巨大な石橋。ベヒモス。そして、自分に向かって飛んできた魔法。
土煙の向こう側に見えた、あの顔。
――杜王町で出会った、あの殺人鬼を思わせる表情。
「……クソッ」
ハジメは歯を食いしばり、上半身を起こそうとした。
直後、全身に激痛が走った。
「ぐっ……!」
身体を支えようとした左腕が、動かない。
いや。
そもそも、そこには腕がなかった。
肩から先が、無惨にも失われていた。傷口からは血が流れ続け、衣服も、周囲の地面も赤く染まっている。
「……は、はは……」
笑いが漏れた。
笑うしかなかった。
異世界に召喚されてから、まだそれほど時間は経っていない。魔物と戦うために鍛え、魔法を覚え、スタンドの力を使いこなすために努力してきた。
杜王町で殺人鬼と戦った時も、イタリアでギャングたちの抗争に巻き込まれた時も、何度も死にかけた。
それでも、ここまで一方的に叩きのめされたことはなかった。
ましてや、仲間を守ろうとした結果がこれだ。
「……ふざけんなよ」
震える声が、暗闇に響く。
「何なんだよ、ここは……!」
返事はない。
当然だ。
ここには仲間もいない。香織も、雫も、光輝も、ユエもいない。
いるのは、傷ついた自分と、いつ襲ってくるとも知れない魔物だけ。
ハジメは奥歯を噛み締めた。
生き残らなければならない。
ここで死ぬわけにはいかない。
そう考えて、まずは傷の処置を試みた。
「錬成……!」
右手を地面につける。
魔力を流し、周囲の岩石を組み替える。最低限の空間を確保し、外から魔物が入り込みにくいように壁を作った。天井も崩落しない程度に補強する。
完成したのは、人ひとりが横になれる程度の簡素なシェルターだった。
雨風をしのげるわけでも、魔物を完全に防げるわけでもない。
それでも、何もない場所で眠るよりはましだった。
ハジメは壁にもたれかかり、呼吸を整える。
血が足りない。
痛みがひどい。
腹が減っている。
そして、何よりも――ここから脱出する手段がない。
上へ戻ろうにも、落ちてきた場所までの距離は途方もない。転移魔法も使えず、転移系の魔法陣が存在する保証もない。
仮に魔物を倒せたとしても、出口を見つけられなければ意味がない。
ハジメは右手で顔を覆った。
「……どうしろってんだよ」
その時だった。
錬成で作った壁の一部に、奇妙な鉱石が混じっていることに気づいた。
淡い光を放つ結晶。
見覚えのない素材だったが、ただの鉱石ではないことは分かった。
「……何だ、これ」
ハジメは残された魔力を振り絞り、結晶の性質を確かめる。
すると、その結晶が持つ膨大な魔力が、わずかに反応した。
神結晶。
後にそう呼ぶことになる未知の素材との、最初の接触だった。
ハジメはその場で、錬成を試みた。
必要なのは治療薬だ。今の自分に必要なのは、食料よりも先に、傷ついた身体を維持するための何かだった。
何度も失敗を繰り返した末、ようやく生成できたのは、透明な液体の入った小さな容器だった。
「……できた、のか?」
液体から感じる魔力は、尋常ではない。
ハジメは警戒しながらも、その液体を口に含んだ。
瞬間、身体の内側から熱が広がった。
「っ……!?」
焼けるような痛みが、急速に引いていく。
失われた血液が戻ったわけではない。左腕が再生したわけでもない。
それでも、死にかけていた身体が、かろうじて生存できる状態まで持ち直していく。
万能薬――神水。
この奈落で偶然手に入れた、命を繋ぐための奇跡だった。
「……助かった、のか」
ハジメは容器を握りしめた。
だが、喜びは長く続かなかった。
神水があるからといって、無限に使えるわけではない。素材も限られている。左腕は失われたままだ。魔物を倒す力も、食料も、脱出方法もない。
生き延びることはできた。
しかし、生き延びた先に何があるのか。
そんな問いが、頭の中で何度も繰り返された。
仲間はどうなったのか。
香織は無事なのか。
雫は、光輝は、皆は――自分が奈落に落ちたあと、どうなったのだろう。
そして、あの時。
魔法が直撃する直前、土煙の中で見た顔。
あれは本当に、偶然だったのか。
もしも、誰かが自分を狙っていたのだとしたら。
もしも、檜山の行動も、魔法が自分に直撃したことも、すべてが意図的だったのだとしたら。
「……殺してやる」
ぽつりと、言葉が漏れた。
自分を奈落に落とした奴。
自分を見捨てた奴。
自分から何もかもを奪った奴。
そいつらを、許す必要などあるのだろうか。
「全員……ぶっ殺してやる」
声に、熱が宿った。
怒りが湧き上がる。
理不尽への怒り。裏切りへの怒り。何もできなかった自分への怒り。
そのすべてが混ざり合い、黒い感情へと変わっていく。
相手が誰であろうと関係ない。
敵か味方かも関係ない。
自分を傷つける可能性があるなら、先に潰せばいい。
自分から何かを奪う可能性があるなら、奪われる前に殺せばいい。
――そうだ。
それでいいじゃないか。
自分はもう、誰かを信じる必要などない。
誰かを守ろうとする必要もない。
自分を守るためなら、何をしてもいい。
そう考えた瞬間、ハジメの脳裏に、ひとりの男の顔が浮かんだ。
金髪を整え、身なりをきちんと整えた、どこにでもいるような男。
杜王町に潜み、他人の命を自分の欲望のために奪い続けた殺人鬼。
吉良吉影。
重ちーを殺した男。
自分が、絶対に許せなかった男。
『人間ってのは、誰だって自分のことが一番大事なんだろ?』
そんな言葉を、吉良が実際に口にしたわけではない。
それでも、あの男の生き方を突き詰めれば、そういう理屈に行き着くのだろう。
自分さえ平穏に暮らせるなら、他人がどうなろうと知ったことではない。
自分の欲望を満たすためなら、他人の人生を踏みにじっても構わない。
そして今、自分もまた、同じような理屈に手を伸ばしかけていた。
「……っ」
ハジメの表情が歪む。
脳裏に、別の光景が蘇った。
杜王町で出会った仲間たち。
東方仗助。
広瀬康一。
虹村億泰。
彼らと過ごした日々。
そして、重ちーを失った時のこと。
あの時、自分は誓ったはずだった。
人の命を、自分勝手な理屈で踏みにじるような人間にはならないと。
怒りに任せて、無関係な人間まで巻き込むような人間にはならないと。
仗助は、誰かを助けるためなら迷わず拳を振るった。
康一は、どれほど恐ろしくても、自分の信じる正しさを曲げなかった。
億泰は、頭が悪いと自分で認めながらも、仲間を裏切ることだけはしなかった。
そして、彼らはハジメに教えてくれた。
力を持つということは、好き勝手に振る舞う権利を得ることではない。
怒ることと、何もかもを憎むことは違う。
自分が傷つけられたからといって、他人を傷つけていい理由にはならない。
誰かを許せないことと、誰彼構わず呪うことも違う。
「……俺は」
ハジメは、震える右手を見つめた。
「……何やってんだよ、俺は」
自分が憎んだ男と、同じ場所に立とうとしていた。
自分が初めての友達を奪われた時、あれほど許せなかった考え方を。
自分の平穏のためなら、他人の命などどうでもいいという考え方を。
自分もまた、理不尽に傷つけられたという理由だけで、すべてを憎み、すべてを壊そうとしていた。
それは、吉良吉影が持っていた身勝手な理屈と、何が違うというのだろう。
「……違うだろ」
ハジメは、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、あいつらとは違う」
自分は聖人ではない。
正義の味方でもない。
誰も彼もを救えるほど強くもない。
それでも、自分には譲れないものがある。
重ちーの死を無駄にしないこと。
仗助たちと過ごした時間を、なかったことにしないこと。
自分が大切だと思った人間を守り、理不尽に立ち向かうこと。
たとえ、その結果として自分が傷つこうとも。
もちろん、だからといって自分を陥れた者を許すつもりはない。
自分を殺そうとした相手に、無抵抗で命を差し出すつもりもない。
敵には敵として立ち向かう。
必要ならば、容赦なく倒す。
だが、それは自分が憎しみに呑まれ、何もかもを壊すためではない。
自分の意志で、生きるためだ。
「……帰るぞ」
ハジメは神水の容器を握り締めた。
「絶対に、帰ってやる」
左腕を失った。
仲間と離れ離れになった。
脱出の方法も分からない。
それでも、まだ右腕がある。
錬成が使える。
スタンドもある。
そして、自分はまだ生きている。
ならば、やれることは残っている。
ハジメは、シェルターの壁に手をつき、立ち上がった。
「……いつまでも、ここで腐ってられるかよ」
その目には、先ほどまでの絶望とは違う光が宿っていた。
奈落の底から這い上がるための、静かな決意だった。
*
それからのハジメは、ひたすら生きるために行動した。
最初に取り組んだのは、食料の確保だった。
奈落には魔物がいる。
だが、それは救いであると同時に、最大の脅威でもあった。
この世界の魔物は、人間とは異なる生物だ。その血肉には、人間にとって猛毒となる魔力や成分が含まれている。
普通なら、食べることなどできない。
しかし、食べなければ死ぬ。
水と神水だけで、いつまでも生きていけるはずがなかった。
「……食わなきゃ、死ぬ。食っても、死ぬかもしれない」
ハジメは、遠くに見える魔物の姿を睨んだ。
巨大な爪を持つ獣。
岩肌に紛れるような体色をした、奈落に適応した魔物だった。
まともに戦えば勝てない。
ならば、戦わずに仕留めるしかない。
ハジメは地面に触れ、錬成を行った。
魔物の通り道に、足を取られる程度の窪みを作る。さらに、壁の一部を脆く加工し、獲物が通りかかった時に崩れるよう細工を施した。
正面からの力比べを避け、地形を利用して仕留める。
杜王町でスタンド使いと戦った時も、イタリアで敵と対峙した時も、真正面からぶつかるだけが戦いではなかった。
相手の能力を見極め、行動を予測し、自分に有利な状況を作る。
それは、どんな世界でも変わらない。
やがて、魔物が罠の近くを通りかかった。
ハジメは息を殺す。
魔物が足を踏み出した瞬間、仕掛けていた岩が崩れた。
獣の動きがわずかに鈍る。
「今だ!」
ハジメの右手が前へ伸びた。
スタンドが出現する。
その拳が魔物の頭部へ叩き込まれた。
一撃で倒せるほど甘くはない。
魔物は吠え、身体を捻って反撃しようとする。
だが、その動きは予測していた。
ハジメは自分の視界に収まる範囲の空間を区切り、魔物の攻撃が通る位置をずらす。
爪が空を切る。
その隙を逃さず、スタンドの拳が再び叩き込まれた。
何度も。
何度も。
やがて魔物は動かなくなった。
「……はぁ、はぁ……」
ハジメは荒い息を吐きながら、その場に膝をついた。
勝てた。
だが、余裕など欠片もなかった。
腕が二本あったなら、もう少し楽に戦えただろう。身体が万全なら、もっと短時間で倒せたはずだ。
今の自分は、弱い。
だからこそ、弱いなりの戦い方をしなければならない。
「……いただきます、ってか」
ハジメは魔物の肉を切り取り、火を起こして加熱した。
味など気にしていられない。
毒を少しでも減らせる保証もない。
それでも、口に運ぶ。
噛み締めるたび、強烈な苦みと異様な刺激が舌に広がった。
「ぐっ……! なんだ、これ……!」
吐き気が込み上げる。
胃が拒絶する。
それでも、ハジメは飲み込んだ。
食べなければ死ぬ。
生きると決めたのだ。
ならば、食べるしかない。
数分後、異変が起きた。
「……がっ、あああああっ!」
全身に激痛が走った。
血管の中を煮えたぎる液体が流れているようだった。皮膚が裂け、筋肉が痙攣し、骨の内側から何かに食い破られるような痛みが押し寄せる。
魔物の血肉が持つ猛毒が、ハジメの身体を蝕んでいた。
「く、そ……! こんなところで……!」
右手が震える。
視界が歪む。
このままでは死ぬ。
だが、ハジメは神水を取り出した。
残りは少ない。
ここで使えば、後がなくなるかもしれない。
それでも、使わなければ今ここで死ぬ。
「……まだ、だ」
容器を口に当て、神水を飲み下す。
直後、身体を襲っていた痛みが少しずつ和らいだ。
毒そのものが消えたわけではない。魔物の血肉による変質と、神水による回復が、身体の中で拮抗している。
それは、綱渡りのような行為だった。
いつ均衡が崩れてもおかしくない。
それでも、ハジメは生き延びた。
そして、その日を境に、身体に変化が起こり始めた。
魔物の血肉を取り込むことで、ハジメはその魔物が持っていた固有魔力と、特殊な能力を自分のものとして身につけ始めたのだ。
普通の人間ならば、毒に侵されて死ぬだけだっただろう。
だが、ハジメは神水によって身体の崩壊を抑え込みながら、魔物の力を取り込んでいった。
それは、正攻法とは程遠い。
むしろ、常軌を逸した方法だった。
だが、奈落で生き残るためには、それしかなかった。
*
日々の狩りと、毒に侵されては神水で命を繋ぐ生活。
その繰り返しの中で、ハジメはひとつのことに気づいた。
スタンドの能力が、以前よりも安定している。
いや、正確には、これまで自分が能力の使い方を狭く考えすぎていたのだ。
「……一度に操作できる空間は、一つだけ」
ハジメは、地面に転がした石を見つめながら呟いた。
自分のスタンド能力は、最大で一メートル四方の立方体の空間を、別の場所の空間と交換するものだ。
これまで、ひとつの空間を別の場所と入れ替えることに集中してきた。
それは間違いではない。
実際、戦闘ではその使い方が最も扱いやすかった。
しかし。
「……本当に、一つだけなのか?」
ハジメは眉をひそめた。
能力の説明を受けたわけではない。
スタンドは魔法のように、誰かが丁寧に使い方を教えてくれる力ではない。自分で理解し、自分で可能性を見つけなければならない。
ならば、これまでの常識を疑う余地はある。
「一つの空間を交換できる。それなら、二つ目は? 三つ目は?」
ハジメは実験を始めた。
最初は失敗した。
ひとつ目の空間を操作した瞬間、二つ目の操作が崩れる。意識が分散し、空間の位置関係を正確に把握できなくなる。
「……くそ。やっぱり、無理なのか?」
いや。
そこで諦めるわけにはいかない。
ハジメは何度も試した。
空間の大きさを変える。
交換する位置を近づける。
同時に操作するのではなく、交換の瞬間をわずかにずらす。
魔物の能力を取り込んだ身体が、以前よりも多くの魔力を扱えるようになっていることにも気づいた。
その力を利用できないか。
スタンドの制御に、魔物から得た力を回せないか。
失敗を重ねるたび、ハジメは条件を変えた。
そして、ある時。
「――できた!」
石が、三つの異なる位置で同時に入れ替わった。
ハジメは目を見開く。
ひとつ目の空間を操作しながら、二つ目、三つ目の空間も維持できている。
ただし、無制限に増やせるわけではない。
意識を集中させる必要があり、距離が離れすぎると制御が乱れる。複雑な位置関係を維持しながら戦闘を行うのも難しい。
それでも、明確な進歩だった。
「……三つ、か」
ハジメは呼吸を整え、改めて能力を確認した。
最大一メートル四方の空間を、三つまで操作できる。
それぞれの空間を組み合わせれば、直径三メートル、高さと奥行きがそれぞれ一メートルの範囲をまとめて操作することも可能になる。
以前なら防げなかった攻撃にも、対応できる余地が生まれた。
ただし、三つの空間を同時に扱うには集中力を大きく消耗する。
何も考えずに連発できる力ではない。
だが、使い方次第では、戦闘の選択肢が大きく広がる。
「……悪くない」
ハジメは小さく笑った。
奈落に落ちた時、自分は何もかもを失ったと思った。
だが、失ったものばかりではない。
生き延びるために足掻き、考え、試した結果、新しい力を手に入れた。
ならば、もっと強くなれる。
もっと戦える。
そして、いつか必ず地上へ戻る。
*
次に、ハジメが取り組んだのは武器の製作だった。
魔物の肉を食べるだけでは、生存できても戦闘の効率が悪い。
何より、左腕を失った状態で近接戦闘を続けるのは危険すぎた。
ならば、距離を取って戦える武器が必要だ。
ハジメは、錬成で金属を加工し始めた。
銃身。
弾倉。
撃鉄。
引き金。
強度と重量のバランスを考え、部品を組み上げていく。
完成したのは、大型のリボルバー拳銃だった。
片手で扱うには大きく、反動も強い。だが、ハジメの筋力ならば制御できる範囲だ。
弾丸も自分で作る。
ただし、普通の弾丸ではない。
ハジメは一発ずつ、弾丸の内部に特殊な錬成加工を施した。
着弾地点に、空間交換を発生させるための仕掛け。
空間操作の力を弾丸に付与し、命中した場所を起点として空間転移を引き起こす。
単に敵を撃ち抜くための弾丸ではない。
着弾地点の空間そのものに干渉する、ハジメ独自の特殊弾だった。
「……これなら、届く」
ハジメは試し撃ちをした。
銃声が、奈落の壁に反響する。
弾丸が岩壁に着弾した瞬間、仕込んだ術式が発動した。
空間が揺らぎ、岩壁の一部が別の位置へと転移する。
成功だ。
ただし、弾丸に仕込んだ術式は精密な調整が必要で、製作にも魔力を消耗する。何発でも使えるわけではない。
それでも、これまでのハジメにはなかった攻撃手段だった。
「……よし」
ハジメはリボルバーを腰のホルスターに収めた。
右手に銃を持ち、失われた左腕の代わりに錬成とスタンドを駆使する。
以前とは違う戦い方を身につけるしかない。
それが奈落で生きるということだった。
*
そして、ついにその時が来た。
ハジメの前に、巨大な魔物が姿を現した。
熊のような体躯。
全身を覆う分厚い筋肉。
そして、獲物を引き裂くために発達した、恐ろしく鋭い爪。
ハジメの左腕を奪った魔物――熊爪。
あの日、ハジメは何もできなかった。
スタンドの力を使っても、空間を交換しても、その圧倒的な力を完全には防げなかった。
爪の一撃を受け、左腕を失った。
あの時の痛みは、今も身体の奥に刻まれている。
熊爪はハジメを見つけると、唸り声を上げた。
ハジメは大型リボルバーを構えた。
「……久しぶりだな」
声は静かだった。
「お前には、借りがある」
熊爪が地面を蹴った。
凄まじい速度で迫ってくる。
以前のハジメなら、反応するだけで精一杯だっただろう。
だが、今は違う。
ハジメは視線を動かし、熊爪の動きを捉えた。
爪が振り下ろされる。
その瞬間、ハジメは三つの空間を操作した。
攻撃の軌道がわずかにずれる。
熊爪の爪が地面を砕き、岩片が飛び散った。
「そこだ!」
ハジメはリボルバーを撃った。
一発目の弾丸が熊爪の肩付近に着弾する。
弾丸に仕込まれた術式が発動し、着弾地点の空間が転移した。
熊爪の巨体が、わずかに体勢を崩す。
その隙を逃さず、ハジメは二発目を撃ち込んだ。
しかし、熊爪もただの獣ではない。
咆哮とともに身体を捻り、弾丸を避けようとする。さらに、その巨大な腕を振り回し、ハジメを壁際へ追い詰めた。
「っ……!」
ハジメは後方へ飛び退く。
爪が胸元を掠め、服が裂けた。
あと少し遅れていれば、身体ごと切り裂かれていた。
「……相変わらず、とんでもねえな!」
ハジメは歯を食いしばった。
空間操作を三つ同時に維持する。
その負担は重い。視界に入る情報を整理し、熊爪の動きを予測しながら、空間の位置を正確に把握し続けなければならない。
しかも、銃の反動を制御するのも右腕一本だ。
どれかひとつでも失敗すれば、次の一撃で終わる。
熊爪が再び突進する。
ハジメは正面から逃げず、ギリギリまで引きつけた。
爪が迫る。
その瞬間、空間を交換する。
熊爪の攻撃が、本来とはわずかに違う位置へと逸れた。
同時に、ハジメは身体を捻りながらリボルバーを撃つ。
弾丸は熊爪の前脚に着弾した。
空間転移が発生し、前脚の踏み込みが崩れる。
巨体が傾いた。
「今だあああっ!」
ハジメはスタンドを前へ出した。
強烈な拳が、熊爪の頭部に叩き込まれる。
熊爪が咆哮を上げた。
倒れない。
まだ、倒れない。
熊爪は怒り狂ったように暴れ、巨大な爪を振り回す。
ハジメは空間を操作して攻撃をずらし、銃を撃ち、時にはスタンドの拳で迎え撃った。
何度も、何度も。
互いに一歩も譲らない、死闘だった。
やがて、ハジメの弾丸が残り少なくなった。
右腕が痺れている。
息も上がっていた。
空間操作を維持する集中力も、限界に近い。
対する熊爪も、無傷ではなかった。
前脚の動きは鈍り、頭部には何度も攻撃を受けた跡がある。
あと一撃。
あと一撃で決める。
ハジメは、熊爪が大きく腕を振り上げるのを見た。
全身の力を込めた、最後の一撃。
避けきれなければ、今度こそ命はない。
ハジメは逃げなかった。
「……来いよ」
熊爪の爪が振り下ろされる。
ハジメは三つの空間を操作した。
爪の軌道を逸らす。
ほんのわずか。
それだけでよかった。
爪が地面に突き刺さり、熊爪の体勢が崩れる。
ハジメは残った弾丸を撃ち込んだ。
着弾地点で空間転移が発生し、熊爪の巨体が大きく傾いた。
その瞬間、スタンドが拳を握り締める。
「これで――終わりだあああっ!」
全力の一撃が、熊爪の頭部に叩き込まれた。
鈍い衝撃音。
巨体が大きく揺れ、地面に倒れ込む。
それでも、熊爪はすぐには動かなくならなかった。
ハジメは距離を取って警戒を続けた。
数秒。
十数秒。
やがて、熊爪の身体から力が抜けた。
動かない。
もう、立ち上がってこない。
「……はぁ……はぁ……」
ハジメはその場に膝をついた。
勝った。
ようやく。
自分の左腕を奪った魔物を、自分の力で倒したのだ。
失った腕が戻るわけではない。
あの日の傷が消えるわけでもない。
だが、あの時の自分とは違う。
あの時は、何もできなかった。
今は、違う。
「……やったぜ、仗助先輩」
ハジメは、誰もいない暗闇の中で呟いた。
「俺、まだ生きてるよ」
返事はない。
それでも、その言葉を口にするだけで、少しだけ心が軽くなった。
*
熊爪を倒したあと、ハジメは慎重に周囲を調べた。
熊爪ほどの魔物がいるということは、この階層にはそれに匹敵する、あるいはそれ以上の魔物が潜んでいる可能性がある。
油断はできない。
熊爪の素材は、武器や防具の強化に利用できるだろう。肉もまた、神水と組み合わせれば食料になる。
何より、ここまで生き延びたことで、ハジメはひとつの結論に至った。
地上へ戻る方法が見つからない以上、上を目指すのは危険すぎる。
落下した場所まで戻れる保証はない。
転移トラップが再び作動する可能性もある。
それならば、別の道を探すしかない。
「……下だな」
ハジメは奈落の奥へと視線を向けた。
地上へ戻るための出口があるとすれば、迷宮のどこかに存在するはずだ。
ならば、探索を続けるしかない。
魔物を倒し、素材を集め、武器を作り、力を身につける。
生き延びるために必要なものを、すべて自分で用意する。
そして、出口を見つける。
「待ってろよ、みんな」
ハジメはリボルバーを確認し、錬成で作った装備を整えた。
「必ず戻る。何があってもな」
その瞳に、もはや絶望の色はなかった。
奈落に落ちた時、彼はすべてを失ったと思った。
だが、絶望の底で、自分が何を守りたいのかを再確認した。
誰かを憎むだけのために生きるのではない。
理不尽に屈しないために。
大切な人間を守るために。
自分自身の信念を裏切らないために。
ハジメは、再び歩き始めた。
奈落のさらに深い場所へ。
地上へと続く道を求めて。
そして、自分を待つ仲間たちのもとへ帰るために。