『ありふれた職業で世界最強 ―空間を越える黄金の精神―』   作:武藤 桜

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第四話 奈落編――吸血鬼の少女と、始まりの名前

奈落の底へ落ちてから、どれほどの時間が経過したのか。

 

 南雲ハジメには、もう正確には分からなくなっていた。

 

 太陽の光は届かず、昼と夜の区別もない。あるのは、迷宮の壁に反射する魔物の鳴き声と、時折聞こえてくる地鳴りのような足音だけだった。

 

 そんな環境の中、ハジメはひたすら下層を目指して進んでいた。

 

「……また魔物かよ。休ませる気もねえな」

 

 眼前に現れた魔物を見据え、ハジメは右手の大型リボルバーを構えた。

 

 銃声が響く。

 

 魔物が怯んだ隙に、ハジメはスタンドを繰り出した。空間を入れ替えて敵の攻撃を逸らし、体勢が崩れたところに拳を叩き込む。

 

 数秒後、魔物は地面に沈んだ。

 

「よし……」

 

 ハジメは周囲を確認してから、魔物の素材を回収した。

 

 奈落での生活は、狩りと錬成の繰り返しだった。

 

 魔物を倒し、その肉を食べ、毒に侵された身体を神水で維持する。手に入れた素材から武器や道具を作り、より強い魔物に備える。

 

 常人ならば、とっくに精神が壊れていてもおかしくない生活だ。

 

 しかし、ハジメは進み続けた。

 

 杜王町で、イタリアで、そしてこの異世界で。

 

 何度も死線をくぐり抜けてきた経験が、彼を支えていた。

 

「……待ってろよ、みんな」

 

 ハジメは誰にともなく呟き、再び歩き出した。

 

 地上へ戻る。

 

 仲間たちのもとへ帰る。

 

 それだけは、何があっても諦めるつもりはなかった。

 

     *

 

 やがて、ハジメは五十階層へとたどり着いた。

 

 そこは、これまで通過してきた階層とは明らかに様子が違っていた。

 

 広大な空間の中央に、巨大な石造りの構造物がそびえ立っている。周囲の壁には古代文字のような模様が刻まれ、床には複雑な魔法陣が描かれていた。

 

「……何だ、こりゃ」

 

 ハジメは足を止めた。

 

 魔物の巣にしては不自然だ。

 

 誰かが意図的に作り上げた施設。しかも、かなり古い。

 

 ハジメは警戒しながら、石造りの構造物へ近づいた。

 

 そして、その中央にあるものを見つけた瞬間、思わず目を見開いた。

 

「……人間?」

 

 そこには、ひとりの少女が封印されていた。

 

 金色の髪。

 

 幼い少女のように見える小柄な身体。

 

 そして、長い年月を経てもなお、その美しさを損なっていない顔立ち。

 

 少女は透明な結晶のような封印の中に閉じ込められ、目を閉じたまま静かに眠っていた。

 

 いや、眠っているのではない。

 

 ハジメが近づくと、少女の瞼がゆっくりと開いた。

 

 黄金色の瞳が、まっすぐにハジメを見つめる。

 

「……人?」

 

 か細い声だった。

 

 長い間、誰とも話していなかったのだろう。声にはかすかな掠れが混じっている。

 

 少女はハジメを見つめたまま、必死に口を動かした。

 

「お願い……助けて」

 

「……ここに閉じ込められてるのか?」

 

 少女は小さく頷いた。

 

「お願い。ここから出して……」

 

 ハジメは封印の周囲を調べた。

 

 頑丈な結晶体。表面には複雑な魔法陣が刻まれており、外側から無理に破壊すれば、内部の人間まで巻き込む可能性がある。

 

 しかも、封印そのものに相当な魔力が込められている。

 

「……面倒な仕掛けだな」

 

 ハジメは少女へ視線を戻した。

 

「一つ聞かせてくれ。あんたは、どうしてこんなところに閉じ込められてる?」

 

 少女は一瞬、視線を伏せた。

 

 それから、絞り出すように答えた。

 

「……私は、裏切られただけ」

 

「裏切られた?」

 

「信じていた人たちに……裏切られたの」

 

 その言葉には、深い悲しみが滲んでいた。

 

「私は、何も悪いことなんてしていない。それなのに……」

 

 少女の声が震える。

 

「だから、お願い……助けて。ここから出して……」

 

 ハジメは黙って少女を見つめた。

 

 その姿に、自分の境遇を重ねたわけではない。

 

 彼女が語った事情のすべてを理解したわけでもない。

 

 ただ、ひとつだけ分かったことがあった。

 

 彼女はここから出たいと願っている。

 

 そして、自分は彼女を助けられる位置にいる。

 

「……分かった」

 

 ハジメは右手を封印に触れさせた。

 

「出してやるよ」

 

「……本当?」

 

「ああ。ただし、何が起きても俺の指示には従ってくれ。ここは迷宮の中だ。封印が解けた途端、何が飛び出してくるか分からねえ」

 

 少女は驚いたように目を見開き、それから何度も頷いた。

 

「ありがとう……!」

 

「礼は、無事に出られてからにしな」

 

 ハジメは封印の構造を観察した。

 

 魔法陣の配置。結晶の強度。魔力の流れ。

 

 正面から破壊するのは危険だ。ならば、内部の魔力の流れを変え、封印そのものを崩す。

 

 ハジメは右手に魔力を集中させた。

 

「錬成……!」

 

 石造りの台座が唸りを上げる。

 

 刻まれた魔法陣の一部が変形し、結晶を支えていた構造が少しずつ崩れていった。

 

 しかし、封印は簡単には壊れなかった。

 

「……っ、しぶといな!」

 

 ハジメはさらに魔力を流し込む。

 

 結晶の表面に亀裂が走った。

 

 一本、二本、三本。

 

 そして――。

 

 パキンッ!

 

 甲高い音とともに、封印が砕け散った。

 

 少女の身体が前方へ傾く。

 

「おっと!」

 

 ハジメは右腕で少女を受け止めた。

 

 驚くほど軽い。

 

 長い間、封印の中にいたためだろうか。少女の身体には、ほとんど力が入っていなかった。

 

「大丈夫か?」

 

「……うん」

 

 少女はハジメの腕の中で、ゆっくりと顔を上げた。

 

 黄金色の瞳から、涙が一筋こぼれる。

 

「……外に、出られた」

 

 震える声だった。

 

「やっと……外に……」

 

 少女は周囲を見渡した。

 

 暗い迷宮。

 

 冷たい石床。

 

 それでも、彼女にとっては、長い年月を経てようやく手に入れた自由だった。

 

 ハジメは彼女を支えながら、静かに言った。

 

「……よかったな」

 

 少女は彼を見つめた。

 

「あなたが……助けてくれたのね」

 

「まあな」

 

「ありがとう……本当に、ありがとう……」

 

 少女は何度も礼を口にした。

 

 ハジメは少し困ったように頭を掻く。

 

「だから、礼は後でいいって。まずは身体の調子を確認しろ。立てるか?」

 

「……少し、力が入らないけど……大丈夫」

 

 少女は自分の足で立とうとした。

 

 しかし、膝が震え、身体がぐらつく。

 

「おいおい、無理すんな」

 

 ハジメは彼女を再び支えた。

 

「しばらく休んだ方がいい。……それで、あんたの名前は?」

 

 少女は、ぴたりと動きを止めた。

 

 先ほどまで安堵していた表情が、わずかに曇る。

 

「……名前」

 

「ああ」

 

「……昔の名前なら、あるわ」

 

 少女は自分の胸元を握り締めた。

 

「でも、もう……その名前では生きたくない」

 

 ハジメは黙って続きを待った。

 

「私は、信じていた人たちに裏切られた。大切なものを奪われて、こんな場所に閉じ込められて……」

 

 黄金色の瞳が揺れる。

 

「昔の私のままじゃ、きっと、何も変えられない。だから……」

 

 少女は顔を上げた。

 

「新しい名前が欲しいの。過去を捨てて、新しい人生を始めるための名前が」

 

 ハジメは少し考え込んだ。

 

 名前を変えたところで、過去が消えるわけではない。

 

 傷ついた記憶も、裏切られた痛みも、簡単にはなくならないだろう。

 

 それでも。

 

 自分で新しい一歩を踏み出したいというのなら、その願いを否定する理由はなかった。

 

「……そうだな」

 

 ハジメは少女の顔を見た。

 

 黄金色の瞳。

 

 長い年月を閉じ込められていたにもかかわらず、消えていない意志の光。

 

 その姿を見て、ふと頭に浮かんだ名前があった。

 

「ユエ、ってのはどうだ?」

 

「……ユエ?」

 

「ああ。短くて呼びやすいだろ」

 

 ハジメは少しだけ口元を緩めた。

 

「過去を捨てるって言っても、無理に全部忘れる必要はねえと思う。だけど、これからどう生きるかは、自分で決められる。新しい名前は、そのための区切りにすればいい」

 

 少女は、与えられた名前を口の中で繰り返した。

 

「……ユエ」

 

 そして、そっと微笑んだ。

 

「……うん。いい名前」

 

「そうか。なら、これからはユエだ」

 

「ありがとう、ハジメ」

 

「……俺の名前、まだ教えてねえぞ?」

 

 ハジメが目を丸くすると、ユエは小さく笑った。

 

「さっき、自分で言っていたわ」

 

「……ああ、そうだったか」

 

 ハジメは苦笑した。

 

 久しぶりに、誰かと普通の会話をした気がした。

 

 奈落に落ちてから、ずっと一人だった。

 

 魔物を倒し、肉を喰らい、錬成を繰り返す日々。

 

 そこには、会話も、笑い声もなかった。

 

 だが今、目の前にはひとりの少女がいる。

 

 自分が助けた少女が。

 

 そのことに、ハジメはほんの少しだけ救われた気がした。

 

「……よろしくな、ユエ」

 

「ええ。よろしく、ハジメ」

 

 ふたりは、互いに頷き合った。

 

 ――その瞬間だった。

 

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!

 

「……っ!?」

 

 地面が大きく揺れた。

 

 ハジメは即座にユエを背後へ庇い、リボルバーを構えた。

 

「何だ!?」

 

 先ほどまで封印が置かれていた台座の下から、巨大な魔法陣が浮かび上がる。

 

 壁に刻まれた紋様が赤く輝き、迷宮全体に不気味な音が響き渡った。

 

 ユエの顔から血の気が引いた。

 

「……そんな。まさか……」

 

「おい、ユエ。何か知ってるのか?」

 

「封印が解かれたら……罠が作動するようになっていたのかもしれない……!」

 

「……はぁ!?」

 

 ハジメは思わず声を上げた。

 

「そういう大事なことは先に言え!」

 

「ご、ごめんなさい! 私も、こんな仕掛けがあるなんて……!」

 

 言い終わる前に、台座の奥で巨大な岩が動いた。

 

 壁が左右に開き、その向こうから何かが這い出してくる。

 

 硬質な外殻。

 

 複数の脚。

 

 そして、獲物を捕らえるための巨大な鋏と、鋭い尾。

 

 巨大な蠍の魔物だった。

 

 その身体は人間など簡単に押し潰せるほど大きく、尾の先端には禍々しい毒針が輝いていた。

 

「……おいおい。封印を解いたお礼がこれかよ」

 

 ハジメはリボルバーを握り直した。

 

「ずいぶんと手厚い歓迎じゃねえか!」

 

 巨大蠍が咆哮した。

 

 次の瞬間、尾が鞭のように振るわれた。

 

「ユエ、下がれ!」

 

 ハジメはユエを押しやり、自ら横へ飛び退いた。

 

 毒針が地面に突き刺さる。

 

 石床が泡立つように変色した。

 

「毒持ちかよ……!」

 

 ハジメは舌打ちした。

 

 まともに受ければ終わりだ。

 

 巨大蠍は尾を引き抜き、今度は鋏を振り回して襲いかかってきた。

 

 ハジメは三つの空間を同時に操作する。

 

 鋏の軌道をずらし、直撃を回避。

 

 そのままリボルバーを構え、弾丸を撃ち込んだ。

 

 銃声が響く。

 

 弾丸は巨大蠍の外殻に命中したが、甲高い音を立てて弾かれた。

 

「硬ってえな……!」

 

 ハジメは顔をしかめた。

 

 普通の弾丸では、外殻を貫けない。

 

 空間転移の術式を仕込んだ弾丸も、表面に着弾させるだけでは決定打にならなかった。

 

 巨大蠍は勢いを緩めず、ハジメへ突進してくる。

 

「くっ……!」

 

 ハジメは空間を操作し、巨体の進路をわずかに逸らした。

 

 巨大蠍が壁に衝突する。

 

 しかし、すぐに体勢を立て直し、再び襲いかかってきた。

 

 速い。

 

 しかも、攻撃範囲が広い。

 

 空間を三つ同時に操作できるようになったとはいえ、全方位からの攻撃をすべて防げるわけではない。

 

 毒針を避ければ鋏が迫る。

 

 鋏を逸らせば、脚による踏みつけが飛んでくる。

 

 わずかな判断の遅れが、致命傷につながる。

 

「……こいつ、思った以上に厄介だな!」

 

 ハジメは距離を取りながら、敵の動きを観察した。

 

 外殻は硬い。

 

 毒針は危険。

 

 攻撃速度も速い。

 

 ならば、狙うべきは――。

 

「……関節か!」

 

 脚の付け根。

 

 外殻が重なり合う部分には、わずかな隙間がある。

 

 そこならば、弾丸も通る可能性がある。

 

 ハジメは狙いを定め、リボルバーを撃った。

 

 一発。

 

 二発。

 

 三発。

 

 弾丸が関節部に命中し、巨大蠍の動きがわずかに鈍る。

 

 だが、決定的なダメージにはならなかった。

 

「チッ……!」

 

 弾丸の残数も少ない。

 

 このままでは、先にこちらの魔力と体力が尽きる。

 

 その時だった。

 

「……ハジメ!」

 

 背後から、ユエの声が響いた。

 

「私も戦うわ!」

 

「何言ってんだ! あんた、さっきまで封印されてたんだぞ!」

 

「でも、あなた一人では……!」

 

 ユエが手を伸ばす。

 

 その瞬間、彼女の周囲に魔力が集まり始めた。

 

 ハジメは目を見開いた。

 

「……魔力?」

 

 ユエの手の先に、淡い光が生まれる。

 

 それは魔法を発動させる時の魔力とは、どこか違う。

 

 もっと奇妙で、もっと根源的な力。

 

 ハジメには、見覚えがあった。

 

 杜王町で。

 

 イタリアで。

 

 数多くのスタンド使いたちと対峙してきた彼だからこそ、分かった。

 

「……まさか、お前……!」

 

 ユエの背後に、何かが現れた。

 

 人の姿を思わせる、淡く輝く存在。

 

 彼女の動きに合わせて、その腕が動く。

 

 スタンド。

 

 間違いない。

 

 ユエもまた、スタンド使いだったのだ。

 

「……やっぱり、そうか!」

 

 ハジメは驚きながらも、すぐに状況を理解した。

 

 ユエは魔法だけでなく、スタンド能力を持っている。

 

 ならば、この戦いにも勝機がある。

 

「ユエ! あいつを止められるか!?」

 

「やってみるわ!」

 

 巨大蠍が再び尾を振り上げた。

 

 ハジメは三つの空間を操作し、毒針の軌道をずらす。

 

 同時に、ユエがスタンドを前へ出した。

 

 彼女の能力によって生じた力が、巨大蠍の動きを妨げる。

 

 その一瞬。

 

 巨大蠍の身体が、明らかに硬直した。

 

「今だ!」

 

 ハジメはリボルバーを構えた。

 

 狙うのは、先ほどから攻撃を集中させていた脚の関節。

 

 銃声が響く。

 

 弾丸が着弾し、仕込まれた術式が発動した。

 

 空間が揺らぎ、巨大蠍の脚の一部が不自然にずれる。

 

 関節の動きが崩れた。

 

 巨大蠍がバランスを失う。

 

「もう一発……!」

 

 ハジメは最後の弾丸を撃ち込んだ。

 

 着弾地点で空間転移が発生する。

 

 巨大蠍の巨体が大きく傾き、腹部を地面にさらした。

 

 硬い外殻に覆われた背中とは違い、腹部には柔らかい部分がある。

 

 そこが弱点だった。

 

「ユエ!」

 

「分かってる!」

 

 ユエのスタンドが動いた。

 

 巨大蠍の動きを押さえ込むように、彼女の力が集中する。

 

 長くは持たない。

 

 それでも、十分だった。

 

 ハジメは地面を蹴った。

 

 スタンドが拳を握り締める。

 

 空間を操作し、巨体の反撃を封じる。

 

 そして――。

 

「これで、終わりだあああっ!」

 

 渾身の一撃が、巨大蠍の腹部へ叩き込まれた。

 

 鈍い衝撃音。

 

 巨大蠍が大きく痙攣し、やがて力なく地面に倒れ込んだ。

 

 尾が一度だけ跳ねる。

 

 それきり、動かなくなった。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 ハジメは荒い息を吐きながら、リボルバーを下ろした。

 

 ユエもまた、肩で息をしている。

 

 しばらくの間、二人は警戒を解かなかった。

 

 魔物が再び動き出す気配はない。

 

 ようやく、ハジメは大きく息を吐いた。

 

「……勝った、か」

 

「……ええ」

 

 ユエは頷いた。

 

 ハジメは彼女を振り返る。

 

「それにしても……あんたもスタンド使いだったとはな」

 

 ユエは少しだけ目を丸くした。

 

「スタンド……?」

 

「ああ。俺が使ってる能力と同じ系統の力だ。普通の人間には見えない、精神の力みたいなもんだと思ってくれ」

 

「……そうなのね」

 

 ユエは自分の手を見つめた。

 

「私も、自分の力が何なのか、ずっとよく分からなかった。でも……あなたの力を見ていたら、何となく似ていると思ったの」

 

「なるほどな……」

 

 ハジメは納得したように頷いた。

 

 魔法が使える世界で、スタンド使いが存在してもおかしくはない。

 

 自分がそうである以上、ユエがそうであっても不思議ではなかった。

 

 それに、彼女の能力は、ハジメの空間操作とは違う。

 

 戦闘でどのような力を発揮するのか、まだ詳しくは分からない。

 

 だが、少なくとも、先ほどの戦いでは彼女の能力が勝利の決め手になった。

 

「……助かったよ、ユエ」

 

「私こそ。あなたがいなかったら、あの魔物に殺されていたわ」

 

「お互い様ってことだな」

 

 ハジメは小さく笑った。

 

 そして、倒れた巨大蠍を見下ろす。

 

「……さて。こいつの素材も、食料も、利用できそうだな」

 

「……食べるの?」

 

「食わなきゃ生きていけないからな」

 

 ハジメは平然と答えた。

 

 ユエは一瞬、何とも言えない表情を浮かべた。

 

「……あなた、ずっとこんな生活をしていたの?」

 

「ああ。奈落に落ちてから、ずっとな」

 

 ハジメは何でもないことのように言った。

 

 だが、その言葉の重さを、ユエはまだ知らない。

 

 片腕を失い、毒に侵され、魔物の肉を喰らいながら生き延びてきた日々。

 

 その過酷さは、簡単に想像できるものではない。

 

 ユエは、ハジメの失われた左腕へ視線を落とした。

 

「……ハジメ」

 

「ん?」

 

「……あなたは、どうしてそこまでして生きようとするの?」

 

 ハジメは少しだけ黙った。

 

 それから、静かに答えた。

 

「……帰る場所があるからだよ」

 

 香織。

 

 雫。

 

 光輝。

 

 そして、奈落に落ちる前まで共にいた仲間たち。

 

 彼らの顔が、脳裏に浮かぶ。

 

「俺を待ってる奴らがいる。だから、何があっても帰る。それだけだ」

 

 ユエは、じっと彼を見つめていた。

 

 その言葉に、何かを感じ取ったのかもしれない。

 

 やがて、彼女は小さく頷いた。

 

「……そう」

 

 そして、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

「……なら、私も一緒に行くわ」

 

「……は?」

 

 ハジメは目を丸くした。

 

「いや、待て。あんたは封印されてたんだぞ。身体も本調子じゃないだろ」

 

「でも、ここに一人で残るわけにはいかないわ。それに……」

 

 ユエはハジメを見上げた。

 

「あなたが私に新しい名前をくれた。私は、その名前で新しい人生を始めたいの」

 

 黄金色の瞳に、確かな意志が宿っていた。

 

「だから、私もあなたと一緒に行く。あなたが地上へ帰るというのなら、私も一緒に進むわ」

 

 ハジメはしばらく彼女を見つめていた。

 

 危険な道のりになる。

 

 自分ですら生き延びるのが精一杯なのだ。ユエを連れていけば、負担が増えることも間違いない。

 

 だが、彼女をこの場所に置き去りにするつもりもなかった。

 

 何より、彼女は自分の意志で歩こうとしている。

 

 ならば、その意志を尊重するべきだろう。

 

「……分かった」

 

 ハジメは頷いた。

 

「ただし、無茶はするな。戦えそうにない時は、俺の後ろに下がれ。俺も、あんたの力を当てにしすぎないようにする」

 

「ええ、分かったわ」

 

「それと、これから先も魔物が出てくる。さっきみたいな奴ばかりかもしれない。覚悟はいいか?」

 

 ユエは迷わず答えた。

 

「大丈夫。私はもう、誰かに守られているだけの存在ではいたくないから」

 

 ハジメは、その答えを聞いて小さく笑った。

 

「……そうか」

 

 彼はリボルバーをホルスターに収め、周囲を確認した。

 

 奈落の奥は、まだ暗闇に包まれている。

 

 危険も、困難も、これから先にいくらでも待ち受けているだろう。

 

 それでも、今までとは違う。

 

 隣には、共に戦える仲間がいる。

 

 かつて自分が杜王町で、そしてイタリアで出会った仲間たちと同じように、背中を預けられる存在が。

 

「……行くぞ、ユエ」

 

「ええ、ハジメ」

 

 二人は並んで歩き出した。

 

 地上へ帰るために。

 

 それぞれの過去を背負いながら、新しい未来を掴むために。

 

 そして、奈落の底から始まった二人の物語は、ここから本当の意味で動き始めるのだった。

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