『ありふれた職業で世界最強 ―空間を越える黄金の精神―』 作:武藤 桜
巨大な蠍の魔物が動かなくなったのを確認し、ハジメはようやく肩の力を抜いた。
「……終わった、か」
その場に腰を下ろす。右腕は痺れ、身体のあちこちが痛んでいた。空間を三つ同時に操作した負担も大きい。今すぐ次の戦闘になれば、かなり厳しいだろう。
隣では、ユエも静かに息を整えていた。
「ハジメ。怪我は?」
「擦り傷と打撲くらいだ。あんたは?」
「私は大丈夫。少し疲れただけ」
そう答えたユエだったが、顔色はまだ青白い。長い封印から解放されたばかりなのだから、当然だった。
ハジメは錬成で簡単な休憩場所を作り、二人で身を休めることにした。
しばらくの間、会話はなかった。
奈落の静寂の中、遠くから魔物の鳴き声が聞こえてくる。
やがて、ユエが口を開いた。
「……ハジメは、どうしてこの迷宮に?」
「クラスメイトと一緒に、訓練で来てたんだ。そこでトラップに巻き込まれて、奈落に落ちた」
「……一人で?」
「ああ。仲間とは離れ離れだ」
ハジメは視線を落とした。
「正直、最初はもう終わりだと思った。左腕も失ったし、地上に戻る方法も分からなかった。……でも、戻るって決めたんだ。みんなが待ってるからな」
ユエは静かに彼の話を聞いていた。
「……大切な人たちなのね」
「ああ。俺が帰らなきゃ、心配する奴らがいる」
ハジメは少しだけ笑った。
「それに、俺には帰る場所がある」
ユエはその言葉を胸に刻むように、ゆっくり頷いた。
「……私は、ずっと昔に裏切られたの」
今度はユエが、自分の身の上を語り始めた。
「信じていた人たちに裏切られて、封印された。何が起きたのか、全部を話せるほど整理できていないけれど……私は、もう昔の名前で生きたくなかった」
「だから、新しい名前を欲しがったんだな」
「ええ。ユエという名前をもらって、ようやく自分の人生を始められる気がした」
ユエは、ハジメを見つめた。
「あなたが助けてくれたから、私はもう一度歩き出せる」
「……そうか」
ハジメは照れくさそうに頭を掻いた。
「なら、これからは自分の足で歩けよ。俺も、あんたもな」
「ええ」
*
話は、互いの能力へと移った。
「ハジメの力は、空間を入れ替える能力なのね」
「ああ。最大一メートル四方の立方体を、別の場所の空間と交換する。今は三つまで同時に操作できる」
ハジメは小石を手に取り、目の前の空間を操作した。
小石が一瞬で別の位置へ移動する。
「魔物の力を取り込んでから、操作できる数が増えた。三つを組み合わせれば、かなり広い範囲に干渉できる」
「……便利な能力ね」
「便利だけど、万能じゃない。広範囲の攻撃を全部防げるわけじゃないし、集中力も使う。視界の外から攻撃されたら対応できないこともある」
ハジメはそう説明し、今度はユエへ視線を向けた。
「それで、あんたのスタンドは?」
ユエは少し考えてから、自分の手を見つめた。
「私の力は……魔法を操る能力に近いと思う。魔力の流れを感じて、形を変えて、動かすことができる」
「さっきの戦いで、蠍の動きを止めてたのも?」
「ええ。完全に止められたわけではないけれど、動きを妨げることはできた。魔法と組み合わせれば、もっと色々できると思う」
「なるほどな。スタンドの能力と魔法を併用できるのか」
ハジメは感心したように頷いた。
「それなら、俺が敵の動きを崩して、あんたが魔法で攻撃する。逆に、あんたが敵を止めて、俺が仕留めることもできる」
「協力すれば、今よりも強くなれるわね」
「ああ」
二人は顔を見合わせた。
奈落に落ちてから、ハジメはずっと一人で戦ってきた。
だが、今は違う。
互いに能力を理解し、協力できる仲間がいる。
「……決まりだな」
ハジメは立ち上がった。
「地上へ戻る方法を探す。上に戻る道がないなら、下へ進んで出口を探す」
「私も一緒に行くわ」
「危険な道になるぞ」
「分かってる。でも、もう一人ではないもの」
ユエの言葉に、ハジメは頷いた。
「……そうだな」
二人は準備を整え、奈落のさらに下層へと進み始めた。
*
それからの道のりは、決して楽なものではなかった。
下層へ進むほど、魔物は強くなり、迷宮の構造も複雑になっていく。
だが、ハジメとユエは互いのスタンド能力を駆使し、少しずつ進んでいった。
ハジメが空間を操作して魔物の攻撃を逸らし、ユエが魔法を放つ。
ユエが敵の動きを封じ、ハジメがリボルバーで弱点を撃ち抜く。
時には二人の能力を組み合わせ、魔物の攻撃を利用して別の魔物を倒すこともあった。
戦いを重ねるたび、二人の連携は洗練されていく。
ハジメはユエの魔法の癖を理解し、ユエはハジメの空間操作のタイミングを掴んでいった。
互いに背中を預けられる。
それは、奈落で生き残るための大きな力だった。
やがて、二人は百階層へとたどり着いた。
*
百階層。
そこは、これまでの迷宮とは明らかに違っていた。
広大な空間の中央には、巨大な石造りの広場が広がっている。
その奥には、地上へ続く道を思わせる巨大な門がそびえていた。
「……ここが、最下層か?」
ハジメは周囲を警戒した。
魔物の気配はない。
静かすぎる。
まるで、何かを待っているかのようだった。
ユエもまた、緊張した面持ちで門を見つめている。
「……何か、いるわ」
その言葉に応えるように、地面が震えた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
広場の奥から、巨大な影が現れる。
複数の首を持つ、蛇のような魔物。
その身体は岩のように硬く、首ごとに異なる属性の魔力を纏っていた。
炎。
氷。
雷。
そして、光。
まるで、迷宮の最後の試練として用意されたかのような存在だった。
「……ヒュドラ、かよ」
ハジメは顔をしかめた。
魔物は複数の首を持ち、それぞれが異なる攻撃を放つ。
炎のブレスが広場を焼き、氷の息吹が地面を凍らせる。雷が空間を走り、光の魔力が巨大な槍となって降り注ぐ。
「ハジメ、右!」
「分かってる!」
ハジメは三つの空間を操作し、攻撃の軌道をずらす。
炎のブレスが壁へ逸れ、雷撃が地面を穿つ。
ユエは魔法を展開し、氷の首を凍らせようとした。
だが、ヒュドラはすぐに別の首で反撃する。
光のブレスが、二人を狙って放たれた。
「くっ……!」
ハジメはユエの腕を掴み、横へ飛び退く。
光の奔流が、先ほどまで二人が立っていた場所を飲み込んだ。
石床が蒸発する。
壁が削り取られ、空間そのものが焼けたような跡を残した。
「……あれをまともに受けたら終わりだな」
ハジメは息を吐いた。
ヒュドラの攻撃は多彩で、どれか一つを避けても別の首が追撃してくる。
空間操作を三つ同時に使っても、すべてを防ぐことはできない。
ユエの魔法も、複数の首を同時に相手にするには負担が大きすぎた。
それでも、二人は善戦していた。
ハジメが攻撃を逸らし、ユエが首の動きを封じる。
互いに声を掛け合いながら、少しずつヒュドラの動きを崩していく。
「ユエ! 左の首を頼む!」
「分かった!」
ユエが魔法を放ち、氷の首を拘束する。
ハジメはその隙にリボルバーを撃ち、炎の首の目を狙った。
弾丸が命中する。
ヒュドラが咆哮を上げた。
「効いてる……!」
だが、次の瞬間。
光の首が、二人を見据えた。
その口元に、極光のような光が集まっていく。
「……まずい!」
ハジメは直感した。
あれは、今までの攻撃とは次元が違う。
避けきれない。
ユエもまた、光の奔流を見て動きを止めた。
「ユエ!」
ハジメは迷わなかった。
彼女を突き飛ばすようにして、自分の身体を前へ出す。
極光のブレスが放たれた。
世界が白く染まる。
右目に、灼熱の痛みが走った。
いや、痛みを感じる暇すらなかった。
ハジメの右目は、光に呑まれて蒸発した。
全身を極光が焼き、皮膚が裂け、肉が焦げる。
「――――ッ!」
声にならない悲鳴が、喉から漏れた。
身体が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
全身が焼けていた。
呼吸をするだけで激痛が走る。
視界は片側を失い、残された左目も、涙と血でほとんど見えなかった。
「ハジメ……!?」
ユエの叫び声が聞こえた。
ハジメは立ち上がろうとした。
だが、身体が動かない。
右腕も、脚も、全身が焼けている。
「……く、そ……」
ヒュドラが、再び首を持ち上げた。
今度はユエを狙っている。
「……逃げ、ろ……」
ハジメは声を絞り出した。
「ユエ……逃げろ……!」
だが、ユエは逃げなかった。
彼女はハジメの前に立ち、両手を広げた。
「……今度は、私が守る」
「……やめろ……!」
「あなたが私を助けてくれた。だから、今度は私があなたを助ける」
ユエは魔力を解放した。
スタンドが現れ、彼女の周囲に魔法陣が展開される。
炎と氷、雷と風。
複数の魔法が重なり、ヒュドラの攻撃を迎え撃つ。
しかし、力の差は大きかった。
ヒュドラの首が次々と攻撃を放ち、ユエの魔法を打ち破っていく。
それでも、ユエは退かなかった。
「……ハジメが、帰るって決めたんだもの!」
彼女は叫んだ。
「あなたを、ここで死なせない!」
ハジメは、地面に伏したまま、その姿を見つめていた。
ユエが一人で戦っている。
自分を守るために。
自分が助けた少女が、今度は自分を助けようとしている。
その姿が、かつての仲間たちと重なった。
仗助。
康一。
億泰。
香織。
雫。
光輝。
そして、今目の前で戦うユエ。
誰かが自分を守ろうとしてくれる。
そのために、命を懸けてくれる。
「……ふざけんな」
ハジメの右手が、地面を掴んだ。
「……俺は……」
身体が動かない。
痛みが、意識を奪っていく。
それでも。
「……まだ……終わってねえ……!」
ハジメは、無理矢理身体を起こした。
焼けた肉が軋む。
視界が揺れる。
全身が悲鳴を上げる。
それでも、立ち上がる。
「ユエ……!」
ユエが振り返った。
「ハジメ! 駄目、動いちゃ……!」
「……お前を……一人で戦わせるかよ……!」
ハジメはよろめきながら、ユエのもとへ歩いた。
そして、彼女を背中に乗せる。
「……しっかり掴まってろ」
「ハジメ……!」
「……今度は、二人で帰るんだろ」
ハジメは、残された左目でヒュドラを睨みつけた。
「だったら……最後まで一緒に戦うぞ」
ユエは、ハジメの背中にしがみついた。
「……ええ!」
*
ヒュドラが咆哮した。
複数の首が一斉に動き、炎、氷、雷、光の攻撃が放たれる。
ハジメは、立っているだけでも限界だった。
それでも、空間操作を発動する。
三つの空間が、同時に動く。
炎のブレスを逸らす。
雷撃の軌道をずらす。
氷の首の攻撃を、わずかに外す。
だが、今までの操作とは違う感覚があった。
空間を交換する。
それだけではない。
自分自身の位置を、空間ごと移動させる。
「……そうか」
ハジメは、極限状態の中で気づいた。
自分の能力は、空間を入れ替える力。
ならば、入れ替える対象は、必ずしも物体だけである必要はない。
自分がいる空間そのものを、別の位置へ移動させる。
空間交換による、瞬間移動。
「……できるか?」
考える暇はなかった。
ヒュドラの光の首が、再び極光のブレスを放とうとしている。
ハジメはユエを背負ったまま、意識を集中させた。
「……行くぞ!」
空間が揺らいだ。
次の瞬間、ハジメとユエの姿が消える。
極光のブレスが、二人のいた場所を焼き尽くした。
そして、少し離れた位置に、二人が現れた。
「……っ!」
ユエが息を呑む。
「ハジメ……今の……!」
「……自分ごと、空間を移動させた」
ハジメは荒い息を吐いた。
「まだ、完全には制御できねえ。でも……これなら!」
ヒュドラが首を振り、二人を探す。
ハジメは瞬間移動を繰り返した。
攻撃の直前に姿を消し、別の位置へ現れる。
極光のブレスを避ける。
炎の首の攻撃を潜り抜ける。
雷撃の隙間を通り、ヒュドラの懐へと迫る。
ただし、連続で使うたびに、ハジメの身体は限界へ近づいていた。
焼けた肉が痛む。
血が流れる。
意識が遠のく。
それでも、止まらない。
「ユエ……! 魔法を、準備しろ!」
「……分かった!」
ユエはハジメの背中で魔力を集中させた。
スタンドが現れ、魔法の制御を補助する。
炎の魔法が、次々と重なっていく。
ただ燃やすだけではない。
ヒュドラの複数の首を誘導し、逃げ場を塞ぐための爆炎。
ハジメは瞬間移動を使い、ヒュドラの攻撃を掻い潜りながら、少しずつ敵を誘導していった。
炎の首が追いかける。
氷の首が進路を塞ぐ。
雷の首が、逃げ道を狙う。
だが、ハジメは空間を移動し、攻撃をすり抜ける。
「……今だ、ユエ!」
「――行くわ!」
ユエの魔法が解き放たれた。
巨大な爆炎が、ヒュドラの周囲を包み込む。
ハジメは最後の瞬間、空間を移動してヒュドラの正面へと現れた。
そして、スタンドの拳を叩き込む。
ヒュドラの巨体が、爆炎の中へと押し込まれた。
炎が広がる。
魔物の咆哮が、迷宮全体に響き渡る。
複数の首が暴れ、炎を振り払おうとする。
だが、ユエの魔法は止まらない。
ハジメもまた、空間操作でヒュドラの動きを封じ続けた。
やがて。
ヒュドラの咆哮が、途切れた。
巨体が崩れ落ちる。
複数の首が地面に沈み、魔力の光が少しずつ消えていった。
百階層に、静寂が戻る。
「……倒した、のか……?」
ハジメは、ぼんやりと呟いた。
ユエが背中から降り、彼の顔を覗き込む。
「ハジメ……! ねえ、ハジメ!」
その声が、遠く聞こえる。
右目は失われた。
全身は大火傷を負っている。
新たに目覚めた瞬間移動の能力も、身体への負担が大きすぎた。
ハジメは、もう立っていることすらできなかった。
「……もう……限界だ……」
かすれた声で、そう呟く。
「……あとは……頼む……」
ハジメの身体が、前へ傾いた。
「ハジメ!」
ユエが慌てて抱き留める。
だが、ハジメの意識は、もうほとんど残っていなかった。
奈落の底で、ようやく百階層までたどり着いた。
最後の試練を乗り越えた。
それでも、彼の身体は限界を超えていた。
ユエはハジメを抱き締め、震える声で呼び続ける。
「ハジメ……! お願い、目を開けて……!」
返事はない。
ただ、かすかな呼吸だけが、彼がまだ生きていることを示していた。
百階層の巨大な門の前。
ヒュドラを倒した二人の戦いは、ようやく終わった。
だが、地上への帰還は、まだ始まったばかりだった。