『ありふれた職業で世界最強 ―空間を越える黄金の精神―』   作:武藤 桜

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第五話 奈落編――限界を超えた先に

巨大な蠍の魔物が動かなくなったのを確認し、ハジメはようやく肩の力を抜いた。

 

「……終わった、か」

 

 その場に腰を下ろす。右腕は痺れ、身体のあちこちが痛んでいた。空間を三つ同時に操作した負担も大きい。今すぐ次の戦闘になれば、かなり厳しいだろう。

 

 隣では、ユエも静かに息を整えていた。

 

「ハジメ。怪我は?」

 

「擦り傷と打撲くらいだ。あんたは?」

 

「私は大丈夫。少し疲れただけ」

 

 そう答えたユエだったが、顔色はまだ青白い。長い封印から解放されたばかりなのだから、当然だった。

 

 ハジメは錬成で簡単な休憩場所を作り、二人で身を休めることにした。

 

 しばらくの間、会話はなかった。

 

 奈落の静寂の中、遠くから魔物の鳴き声が聞こえてくる。

 

 やがて、ユエが口を開いた。

 

「……ハジメは、どうしてこの迷宮に?」

 

「クラスメイトと一緒に、訓練で来てたんだ。そこでトラップに巻き込まれて、奈落に落ちた」

 

「……一人で?」

 

「ああ。仲間とは離れ離れだ」

 

 ハジメは視線を落とした。

 

「正直、最初はもう終わりだと思った。左腕も失ったし、地上に戻る方法も分からなかった。……でも、戻るって決めたんだ。みんなが待ってるからな」

 

 ユエは静かに彼の話を聞いていた。

 

「……大切な人たちなのね」

 

「ああ。俺が帰らなきゃ、心配する奴らがいる」

 

 ハジメは少しだけ笑った。

 

「それに、俺には帰る場所がある」

 

 ユエはその言葉を胸に刻むように、ゆっくり頷いた。

 

「……私は、ずっと昔に裏切られたの」

 

 今度はユエが、自分の身の上を語り始めた。

 

「信じていた人たちに裏切られて、封印された。何が起きたのか、全部を話せるほど整理できていないけれど……私は、もう昔の名前で生きたくなかった」

 

「だから、新しい名前を欲しがったんだな」

 

「ええ。ユエという名前をもらって、ようやく自分の人生を始められる気がした」

 

 ユエは、ハジメを見つめた。

 

「あなたが助けてくれたから、私はもう一度歩き出せる」

 

「……そうか」

 

 ハジメは照れくさそうに頭を掻いた。

 

「なら、これからは自分の足で歩けよ。俺も、あんたもな」

 

「ええ」

 

     *

 

 話は、互いの能力へと移った。

 

「ハジメの力は、空間を入れ替える能力なのね」

 

「ああ。最大一メートル四方の立方体を、別の場所の空間と交換する。今は三つまで同時に操作できる」

 

 ハジメは小石を手に取り、目の前の空間を操作した。

 

 小石が一瞬で別の位置へ移動する。

 

「魔物の力を取り込んでから、操作できる数が増えた。三つを組み合わせれば、かなり広い範囲に干渉できる」

 

「……便利な能力ね」

 

「便利だけど、万能じゃない。広範囲の攻撃を全部防げるわけじゃないし、集中力も使う。視界の外から攻撃されたら対応できないこともある」

 

 ハジメはそう説明し、今度はユエへ視線を向けた。

 

「それで、あんたのスタンドは?」

 

 ユエは少し考えてから、自分の手を見つめた。

 

「私の力は……魔法を操る能力に近いと思う。魔力の流れを感じて、形を変えて、動かすことができる」

 

「さっきの戦いで、蠍の動きを止めてたのも?」

 

「ええ。完全に止められたわけではないけれど、動きを妨げることはできた。魔法と組み合わせれば、もっと色々できると思う」

 

「なるほどな。スタンドの能力と魔法を併用できるのか」

 

 ハジメは感心したように頷いた。

 

「それなら、俺が敵の動きを崩して、あんたが魔法で攻撃する。逆に、あんたが敵を止めて、俺が仕留めることもできる」

 

「協力すれば、今よりも強くなれるわね」

 

「ああ」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 奈落に落ちてから、ハジメはずっと一人で戦ってきた。

 

 だが、今は違う。

 

 互いに能力を理解し、協力できる仲間がいる。

 

「……決まりだな」

 

 ハジメは立ち上がった。

 

「地上へ戻る方法を探す。上に戻る道がないなら、下へ進んで出口を探す」

 

「私も一緒に行くわ」

 

「危険な道になるぞ」

 

「分かってる。でも、もう一人ではないもの」

 

 ユエの言葉に、ハジメは頷いた。

 

「……そうだな」

 

 二人は準備を整え、奈落のさらに下層へと進み始めた。

 

     *

 

 それからの道のりは、決して楽なものではなかった。

 

 下層へ進むほど、魔物は強くなり、迷宮の構造も複雑になっていく。

 

 だが、ハジメとユエは互いのスタンド能力を駆使し、少しずつ進んでいった。

 

 ハジメが空間を操作して魔物の攻撃を逸らし、ユエが魔法を放つ。

 

 ユエが敵の動きを封じ、ハジメがリボルバーで弱点を撃ち抜く。

 

 時には二人の能力を組み合わせ、魔物の攻撃を利用して別の魔物を倒すこともあった。

 

 戦いを重ねるたび、二人の連携は洗練されていく。

 

 ハジメはユエの魔法の癖を理解し、ユエはハジメの空間操作のタイミングを掴んでいった。

 

 互いに背中を預けられる。

 

 それは、奈落で生き残るための大きな力だった。

 

 やがて、二人は百階層へとたどり着いた。

 

     *

 

 百階層。

 

 そこは、これまでの迷宮とは明らかに違っていた。

 

 広大な空間の中央には、巨大な石造りの広場が広がっている。

 

 その奥には、地上へ続く道を思わせる巨大な門がそびえていた。

 

「……ここが、最下層か?」

 

 ハジメは周囲を警戒した。

 

 魔物の気配はない。

 

 静かすぎる。

 

 まるで、何かを待っているかのようだった。

 

 ユエもまた、緊張した面持ちで門を見つめている。

 

「……何か、いるわ」

 

 その言葉に応えるように、地面が震えた。

 

 ゴゴゴゴゴゴ……!

 

 広場の奥から、巨大な影が現れる。

 

 複数の首を持つ、蛇のような魔物。

 

 その身体は岩のように硬く、首ごとに異なる属性の魔力を纏っていた。

 

 炎。

 

 氷。

 

 雷。

 

 そして、光。

 

 まるで、迷宮の最後の試練として用意されたかのような存在だった。

 

「……ヒュドラ、かよ」

 

 ハジメは顔をしかめた。

 

 魔物は複数の首を持ち、それぞれが異なる攻撃を放つ。

 

 炎のブレスが広場を焼き、氷の息吹が地面を凍らせる。雷が空間を走り、光の魔力が巨大な槍となって降り注ぐ。

 

「ハジメ、右!」

 

「分かってる!」

 

 ハジメは三つの空間を操作し、攻撃の軌道をずらす。

 

 炎のブレスが壁へ逸れ、雷撃が地面を穿つ。

 

 ユエは魔法を展開し、氷の首を凍らせようとした。

 

 だが、ヒュドラはすぐに別の首で反撃する。

 

 光のブレスが、二人を狙って放たれた。

 

「くっ……!」

 

 ハジメはユエの腕を掴み、横へ飛び退く。

 

 光の奔流が、先ほどまで二人が立っていた場所を飲み込んだ。

 

 石床が蒸発する。

 

 壁が削り取られ、空間そのものが焼けたような跡を残した。

 

「……あれをまともに受けたら終わりだな」

 

 ハジメは息を吐いた。

 

 ヒュドラの攻撃は多彩で、どれか一つを避けても別の首が追撃してくる。

 

 空間操作を三つ同時に使っても、すべてを防ぐことはできない。

 

 ユエの魔法も、複数の首を同時に相手にするには負担が大きすぎた。

 

 それでも、二人は善戦していた。

 

 ハジメが攻撃を逸らし、ユエが首の動きを封じる。

 

 互いに声を掛け合いながら、少しずつヒュドラの動きを崩していく。

 

「ユエ! 左の首を頼む!」

 

「分かった!」

 

 ユエが魔法を放ち、氷の首を拘束する。

 

 ハジメはその隙にリボルバーを撃ち、炎の首の目を狙った。

 

 弾丸が命中する。

 

 ヒュドラが咆哮を上げた。

 

「効いてる……!」

 

 だが、次の瞬間。

 

 光の首が、二人を見据えた。

 

 その口元に、極光のような光が集まっていく。

 

「……まずい!」

 

 ハジメは直感した。

 

 あれは、今までの攻撃とは次元が違う。

 

 避けきれない。

 

 ユエもまた、光の奔流を見て動きを止めた。

 

「ユエ!」

 

 ハジメは迷わなかった。

 

 彼女を突き飛ばすようにして、自分の身体を前へ出す。

 

 極光のブレスが放たれた。

 

 世界が白く染まる。

 

 右目に、灼熱の痛みが走った。

 

 いや、痛みを感じる暇すらなかった。

 

 ハジメの右目は、光に呑まれて蒸発した。

 

 全身を極光が焼き、皮膚が裂け、肉が焦げる。

 

「――――ッ!」

 

 声にならない悲鳴が、喉から漏れた。

 

 身体が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。

 

 全身が焼けていた。

 

 呼吸をするだけで激痛が走る。

 

 視界は片側を失い、残された左目も、涙と血でほとんど見えなかった。

 

「ハジメ……!?」

 

 ユエの叫び声が聞こえた。

 

 ハジメは立ち上がろうとした。

 

 だが、身体が動かない。

 

 右腕も、脚も、全身が焼けている。

 

「……く、そ……」

 

 ヒュドラが、再び首を持ち上げた。

 

 今度はユエを狙っている。

 

「……逃げ、ろ……」

 

 ハジメは声を絞り出した。

 

「ユエ……逃げろ……!」

 

 だが、ユエは逃げなかった。

 

 彼女はハジメの前に立ち、両手を広げた。

 

「……今度は、私が守る」

 

「……やめろ……!」

 

「あなたが私を助けてくれた。だから、今度は私があなたを助ける」

 

 ユエは魔力を解放した。

 

 スタンドが現れ、彼女の周囲に魔法陣が展開される。

 

 炎と氷、雷と風。

 

 複数の魔法が重なり、ヒュドラの攻撃を迎え撃つ。

 

 しかし、力の差は大きかった。

 

 ヒュドラの首が次々と攻撃を放ち、ユエの魔法を打ち破っていく。

 

 それでも、ユエは退かなかった。

 

「……ハジメが、帰るって決めたんだもの!」

 

 彼女は叫んだ。

 

「あなたを、ここで死なせない!」

 

 ハジメは、地面に伏したまま、その姿を見つめていた。

 

 ユエが一人で戦っている。

 

 自分を守るために。

 

 自分が助けた少女が、今度は自分を助けようとしている。

 

 その姿が、かつての仲間たちと重なった。

 

 仗助。

 

 康一。

 

 億泰。

 

 香織。

 

 雫。

 

 光輝。

 

 そして、今目の前で戦うユエ。

 

 誰かが自分を守ろうとしてくれる。

 

 そのために、命を懸けてくれる。

 

「……ふざけんな」

 

 ハジメの右手が、地面を掴んだ。

 

「……俺は……」

 

 身体が動かない。

 

 痛みが、意識を奪っていく。

 

 それでも。

 

「……まだ……終わってねえ……!」

 

 ハジメは、無理矢理身体を起こした。

 

 焼けた肉が軋む。

 

 視界が揺れる。

 

 全身が悲鳴を上げる。

 

 それでも、立ち上がる。

 

「ユエ……!」

 

 ユエが振り返った。

 

「ハジメ! 駄目、動いちゃ……!」

 

「……お前を……一人で戦わせるかよ……!」

 

 ハジメはよろめきながら、ユエのもとへ歩いた。

 

 そして、彼女を背中に乗せる。

 

「……しっかり掴まってろ」

 

「ハジメ……!」

 

「……今度は、二人で帰るんだろ」

 

 ハジメは、残された左目でヒュドラを睨みつけた。

 

「だったら……最後まで一緒に戦うぞ」

 

 ユエは、ハジメの背中にしがみついた。

 

「……ええ!」

 

     *

 

 ヒュドラが咆哮した。

 

 複数の首が一斉に動き、炎、氷、雷、光の攻撃が放たれる。

 

 ハジメは、立っているだけでも限界だった。

 

 それでも、空間操作を発動する。

 

 三つの空間が、同時に動く。

 

 炎のブレスを逸らす。

 

 雷撃の軌道をずらす。

 

 氷の首の攻撃を、わずかに外す。

 

 だが、今までの操作とは違う感覚があった。

 

 空間を交換する。

 

 それだけではない。

 

 自分自身の位置を、空間ごと移動させる。

 

「……そうか」

 

 ハジメは、極限状態の中で気づいた。

 

 自分の能力は、空間を入れ替える力。

 

 ならば、入れ替える対象は、必ずしも物体だけである必要はない。

 

 自分がいる空間そのものを、別の位置へ移動させる。

 

 空間交換による、瞬間移動。

 

「……できるか?」

 

 考える暇はなかった。

 

 ヒュドラの光の首が、再び極光のブレスを放とうとしている。

 

 ハジメはユエを背負ったまま、意識を集中させた。

 

「……行くぞ!」

 

 空間が揺らいだ。

 

 次の瞬間、ハジメとユエの姿が消える。

 

 極光のブレスが、二人のいた場所を焼き尽くした。

 

 そして、少し離れた位置に、二人が現れた。

 

「……っ!」

 

 ユエが息を呑む。

 

「ハジメ……今の……!」

 

「……自分ごと、空間を移動させた」

 

 ハジメは荒い息を吐いた。

 

「まだ、完全には制御できねえ。でも……これなら!」

 

 ヒュドラが首を振り、二人を探す。

 

 ハジメは瞬間移動を繰り返した。

 

 攻撃の直前に姿を消し、別の位置へ現れる。

 

 極光のブレスを避ける。

 

 炎の首の攻撃を潜り抜ける。

 

 雷撃の隙間を通り、ヒュドラの懐へと迫る。

 

 ただし、連続で使うたびに、ハジメの身体は限界へ近づいていた。

 

 焼けた肉が痛む。

 

 血が流れる。

 

 意識が遠のく。

 

 それでも、止まらない。

 

「ユエ……! 魔法を、準備しろ!」

 

「……分かった!」

 

 ユエはハジメの背中で魔力を集中させた。

 

 スタンドが現れ、魔法の制御を補助する。

 

 炎の魔法が、次々と重なっていく。

 

 ただ燃やすだけではない。

 

 ヒュドラの複数の首を誘導し、逃げ場を塞ぐための爆炎。

 

 ハジメは瞬間移動を使い、ヒュドラの攻撃を掻い潜りながら、少しずつ敵を誘導していった。

 

 炎の首が追いかける。

 

 氷の首が進路を塞ぐ。

 

 雷の首が、逃げ道を狙う。

 

 だが、ハジメは空間を移動し、攻撃をすり抜ける。

 

「……今だ、ユエ!」

 

「――行くわ!」

 

 ユエの魔法が解き放たれた。

 

 巨大な爆炎が、ヒュドラの周囲を包み込む。

 

 ハジメは最後の瞬間、空間を移動してヒュドラの正面へと現れた。

 

 そして、スタンドの拳を叩き込む。

 

 ヒュドラの巨体が、爆炎の中へと押し込まれた。

 

 炎が広がる。

 

 魔物の咆哮が、迷宮全体に響き渡る。

 

 複数の首が暴れ、炎を振り払おうとする。

 

 だが、ユエの魔法は止まらない。

 

 ハジメもまた、空間操作でヒュドラの動きを封じ続けた。

 

 やがて。

 

 ヒュドラの咆哮が、途切れた。

 

 巨体が崩れ落ちる。

 

 複数の首が地面に沈み、魔力の光が少しずつ消えていった。

 

 百階層に、静寂が戻る。

 

「……倒した、のか……?」

 

 ハジメは、ぼんやりと呟いた。

 

 ユエが背中から降り、彼の顔を覗き込む。

 

「ハジメ……! ねえ、ハジメ!」

 

 その声が、遠く聞こえる。

 

 右目は失われた。

 

 全身は大火傷を負っている。

 

 新たに目覚めた瞬間移動の能力も、身体への負担が大きすぎた。

 

 ハジメは、もう立っていることすらできなかった。

 

「……もう……限界だ……」

 

 かすれた声で、そう呟く。

 

「……あとは……頼む……」

 

 ハジメの身体が、前へ傾いた。

 

「ハジメ!」

 

 ユエが慌てて抱き留める。

 

 だが、ハジメの意識は、もうほとんど残っていなかった。

 

 奈落の底で、ようやく百階層までたどり着いた。

 

 最後の試練を乗り越えた。

 

 それでも、彼の身体は限界を超えていた。

 

 ユエはハジメを抱き締め、震える声で呼び続ける。

 

「ハジメ……! お願い、目を開けて……!」

 

 返事はない。

 

 ただ、かすかな呼吸だけが、彼がまだ生きていることを示していた。

 

 百階層の巨大な門の前。

 

 ヒュドラを倒した二人の戦いは、ようやく終わった。

 

 だが、地上への帰還は、まだ始まったばかりだった。

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