とある兵士の話   作:つぶつぶオレンジ

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【1話】飢えた奴隷

神の奴隷であった。

 

いつか味わった飢餓に怯え、卑しく惨めに這い蹲って。

戦場で穢れた血肉を撒き散らし、運命を呪う様は酷く滑稽で。

尊厳と屈辱を忘れて死地から蘇っては、神への畏怖に支配される。

 

無様で愚かで軟弱で。

それでも、生き永らえようと足掻く醜い魂。

 

私はきっと、そんな人間であったのだろう。

 

--------------

 

深淵の侵略が激化し、かつての故郷は灰と化した。

想像を絶する飢餓感と死への恐怖。

人類が、絶対的な力を持つ神々に救いを求めたのは必然であった。

 

しかし。

救いの先にある無慈悲な蹂躙は、神々もまた窮地に立たされている事実に他ならず。

 

驚異的な侵略を続ける深淵を相手に、神々はある決断を下す。

 

人類との共闘。

人類に“不死の加護”を授け、共に深淵の軍勢を討ち滅ぼす。

 

それに、人類は狂喜して応えた。

神々の加護を得た人類は深淵の軍勢を退け、遂には形勢逆転の兆し。

 

神々と人類は再び手を取り合いーー

 

「ーー世界に真の光をもたらすだろう」

 

人類を絶滅の運命から救った神の御業に、信者の男が感激の声を上げる。

共感して欲しいのか、貴重な休憩時間でもお構いなし。

 

「不死。嗚呼、なんと甘美で、神聖な響きか」

 

痣の目立つ生真面目な兵が鬱陶しそうに視線を下げた。

私も心の中で同意し、そっと目を逸らす。

 

「お前もそう思うでしょう?」

 

だがしかし、矛先がこちらに向いた。

面倒なことに巻き込まれたと肩を窄めれば、隣の陽気な兵士が口を開く。

 

「コイツは、まだ死んだことが無いんだ。分からんだろうよ」

「おや。これまた、珍しいですね」

「…いや、ただ臆病なだけさ」

 

戦闘で使えると判断されても困る。

適当に誤魔化し、話題を逸らした。

未だに戦場で足が震えるなど、この者達の前では言えなかった。

 

人類の為に、死を恐れずに戦う真の強き魂。

臆病者の私には、成れそうにない。

 

だからこそ、その気高さを少しだけ分けてもらおうと思った。

そんな浅ましい理由で。

 

「実は、酒と干し肉を持ってきた」

 

私の発言を咀嚼しようと、必死に思考を回す彼らは随分と間抜けに見えた。

そりゃそうだと自身の場違いな言動を恥じたが、撤回する気はなかった。

 

「戦の前に腹拵えか。いいねぇ、無駄な事こそ人生を豊かにするもんだ」

 

予想通り、酒好きが釣れた。

 

「人数分あるんだろうな?」

 

予想に反し、生真面目な兵も釣れた。

 

「…私は、隊長に従います」

 

信者の男は妙に言葉を濁した。

神々への不敬を恐れているのだろう。

 

「我らは神の加護を得た不死の兵だ。飢えも乾きも知らぬ身となり、主たる神々に倣うならば食事などという行為は本来不要である」

 

隊長は厳格だった。

融通が効かないとも言うが、戦場では頼りになる。

 

「…だが、これはあくまで、隊の士気を向上させるための儀式だ。無論、必要な行為である」

 

そして、案外話のわかる男であった。

 

気高く生きる彼らが、私には、どうにも眩しかった。

それなのに、何故だか目が離せなくて。

 

だから、気付いてしまった。

 

ずっと、神の奴隷でありたかった。

飢えを忘れて、恐怖を捨てて。

思考を放棄し、畏怖に身を委ねる。

それが、私が望んだ幸福のはずなのに。

 

酒好きは、日に日に口数を減らした。

生真面目は、簡単な指示すら忘れる事が増えた。

信者は、他者を見下すように傲慢になった。

隊長は、殿で死んでいく部下を振り返らなくなった。

 

彼らが蘇生を繰り返す度。

妊婦も赤子も見当たらない戦況に直面する度。

神々の力の源と深淵との関係に気付く度。

 

その違和感は膨れ上がって。

 

嗚呼。

神々にとって人類は、奴隷以下の存在でしかなかったのか。

 

その確信とともに注がれた安酒を、私は案外すんなり飲み込んだ。

 

強烈な苦味が思わず顔を顰める。

干し肉は筋張っていて、噛み切るのも一苦労。

今まで味わった食べ物の中で、下から数えた方が早い有様で。

 

そんな食事が、何よりも美味しかった。

 

私に、戦場で死ぬ覚悟を。

私に、魂を奪う勇気を。

私に、仲間を裏切る決意を。

 

きっと、この味が与えてくれるだろうから。

 

--------------

 

空になったグラスを前に一人、柄にもなく感傷に浸っていれば。

神々を裏切ったと噂される蛇が、闇の奥から囁く。

 

「共に神を討とう。人類に、真の栄光を」

 

なんと甘美な響きか。

私には、不死よりも恐ろしく魅力的な誘いで。

私に、仲間と共に散る栄誉を許してくれたようで。

 

ただ、理性を残していた。

他の全てを捨ててでも、これだけは手放さなかった。

 

よくぞ私に声をかけてくれた。

よくぞ私に最後の決断を下す機会を与えてくれた。

 

全てを失う前に。

この味の意義を忘れる前に。

 

「私は、人類の勝利を確信している。…あなたもそうなのだろう?」

 

だから神々を捨てた。

 

「だが、今ではない」

 

足りない。

神々をも圧倒する、絶対的な“数”の力が。

神々をも凌駕する、真なる“王”の存在が。

 

「あの者達の計画は知っている」

 

深淵を討伐した後、その栄光と名誉を掲げて突き進む人類の結末を。

神々へ向ける、早すぎる刃の行き着く先を。

 

「それは神々も同じこと」

 

神々は知っている。

深淵たる神の末路に届く、その力の脅威を。

人類へ与えた屈辱と、彼らが抱いた覚悟の重みを。

 

「ならば、その力に溺れさせるまで」

 

戦場を忘れるほどの途方もない年月。

人類の拙い反撃の阻止。

家畜同然で尽くす従順な駒。

 

それらすべてが、神々の魂に、慢心という毒を巡らせるだろう。

 

「あなたは、いずれ現れる英雄に期待すればいい」

 

遥か未来、人類を率いるに値する、真の王たる魂の到来を。

 

「お前は、王の器ではないと」

 

そんな戯言を、蛇は言った。

見当違いも甚だしい暴論に、久方ぶりに笑い声が鼓膜を震わせる。

 

数千年後の人類の勝利の為に、今の人類を見捨てる選択を取るというのに。

保身の為に、神の奴隷になるというのに。

 

これほどまでの愚者が居るものか。

 

「ほら、私は神々に忠誠を尽くす身。それ以上の妄言は許しませんよ」

 

これ以上は無駄だと判断し、厄介な隣人を追い出すように手を振る。

最後に聞かせてくれと、蛇が闇の向こうで笑った。

 

「名は」

「さあ。たかが捨て駒の兵に必要ですか?」

「ならば、こう名乗ると良い」

 

蛇が口にした名の意味は、私には分からなかった。

ただ、音の響きだけは、酷く気に入った。

されど、その名を使うことは無いだろうと、そう思い至った。

 

--------------

 

食事を終えた後の戦闘で、私は死んだ。

次の戦闘では、身体は震えなかった。

 

左足と頭部を吹き飛ばされ、私は死んだ。

次の戦闘では、痛みはなかった。

 

隊の人数が欠けた。

次の戦闘では、罪悪感はなかった。

 

深淵に心臓を貫かれ、私は死んだ。

次の戦闘では、何を失ったかさえ忘れていた。

 

あの日誓った決意も。

世界の行く末を見据えた計画も。

かつて闇の奥で交わした、あの蛇との会話すらも。

 

あらゆる記憶が擦り切れていく魂の中で。

ただ一つだけ、消え残った本能があった。

 

ーー激しい、飢えの感覚。

 

加護によって消えたはずの飢餓感が、なぜか魂の底から突き上げてくる。

私はそれを誤魔化すように、いつの間にか懐に持っていた、筋張った干し肉を口に含んだ。

 

咀嚼する。

 

その瞬間、何かが満たされる感覚があった。

 

魂の空白がぴったりと埋まるような、そんな錯覚。

失った目的の代わりに、歪んだ執着だけが私の肉体に深く根を下ろす。

 

そして、空っぽになった私は、こう結論付けた。

 

ただ、この味を貪るために生きていたのだと。

 

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