<騎士side>
自室の椅子に深く腰掛け、私は天を仰いだ。
胸の奥が、未だに不自然なほど熱く脈打っている。
あの時、あの者の口から零れ落ちた、甘やかな、しかし私の胸を抉るような響き。
どうしても、都合の良い夢を見てしまう。
もしも、必死に感情を押し殺していたのだとしたら。
あの必死の否定すらも、私の名誉を傷つけまいとする健気な配慮だったのだとしたら。
あの瞬間、張り詰めた心の隙間から、つい私を慕う本音が漏れ出てしまったのではないか、と。
そんな風に、あの者の忠義に甘え、私を慕っているのだと自惚れたくなってしまう。
騎士ともあろう私が、人間の言葉一つに、ここまで情けなく心を揺さぶられている。
だが。
やっと私を特別な名で呼んでくれたというのに、私は未だに、あの者の名前すら知らない。
拳をきつく握りしめる。
思い返せば、私は何度もあの者の名を知ろうとしてきた。
戦場では、
「たかが末端の兵を、騎士様が名で呼ぶ必要はございません」
と、一蹴された。
そして、数々の武功を挙げ、この神々の都へ出入りが許されるようになってからもそうだ。
もう身分の言い訳が使えない状況を作ったというのに、あの者はこう言い放った。
「神々の都に出入りが許されている人間など、私くらいなもの。識別する名は不要でしょう」
どこまで無欲で、どこまで孤高なのだ。
ただ神々に尽くすことだけを存在理由にしているかのような、あの凍てついた瞳。
そもそも、神々の感覚からすれば、たかが人間個人を指す名など気にする方が稀なのだ。
周囲を見渡しても、人間の兵を名前で呼んでいる者など一人もいなかった。
人間はただの“数”であり、使い捨ての駒。
名など必要ない。
それが神々の常識だ。
それなのに、私はこれほどまでに、あの者を、他の誰でもない“その存在”として呼びたいと願ってしまう。
「……私が、名をつけるべきか」
ぽつりと、誰もいない部屋に言葉が溢れた。
騎士としての私の権能を以てすれば、これ以上ない名をあの魂に刻み込むこともできる。
お互いに名を呼び合いたい。
あの者の口から「アル様」と呼ばれるのなら、私はその新しい名であの者を呼び、この都で我が半身として扱ってやりたい。
だが、私の内にある、醜い傲慢さがそれを躊躇わせる。
私が呼びたいのは、私の都合で与えた記号ではない。
あの者が生まれ、あの過酷な戦場に駆り出される前。
まだ温かい血が通う人間として生きていた頃に、確かに持っていたはずの、本当の名前。
あの者がいつか心を開き、その忠義の仮面を脱ぎ捨てて、私だけに明かしてくれる名。
私は、その名を呼びたいのだ。
あの者が自らの意志で、私に名を委ねてくれるその日を、私はどうしても諦めきれない。
「ローレンの酒、か……」
数日後に迫った、城下町の祭り。
あれを共に囲めば、あの頑なな理性の、ほんの少しの隙間でも抉ることはできるだろうか。
あの者に、ほんの一瞬でも、人間らしい渇きを思い出させることができるだろうか。
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遡ること、とある兵士が王への謁見を終えた翌日。
燦然と輝く白銀の玉座の間。
その厳かな静寂の中、守護騎士アルベリヒは先の深淵戦における戦況報告を終え、深く床に膝を突いていた。
すべてを聞き届けた神々の王は、満足げに玉座に腰掛け、大らかな微笑みを浮かべた。
「実に見事な戦いぶりであった、アルベリヒ。お前ほど忠義に厚い守護騎士への褒美が、何もなしというわけにはいくまい」
楽しげに顎を撫でた王は、跪く守護騎士の顔をじっと見つめ、悪戯に目を細めた。
「…此度の戦功におけるお前への最高の褒美として、あの人間との『婚姻の許可』を与える、というのはどうだ?」
思いもよらぬ王からの言葉に、アルベリヒはカッと顔を赤く染め、瞳を激しく見開いた。
まさか、己が胸の奥底に秘めていたあの者への執着が、とっくに見透かされていたとは。
その事実への猛烈な羞恥と、恐れ多さで、心臓がうるさいほどに跳ね上がる。
「は、恥ずかしながら……陛下の目を欺くことなど、到底できぬことでしたか。しかし、私は、そのような大それた望みなど……!」
「良いのだ、アルベリヒ。あれほど素晴らしい魂を持つ人間だ、都の守護騎士の伴侶として迎えるに相応しい。特別に許可しよう」
慌てて取り繕おうとする純情な臣下の姿に、王は愉快そうに声を立てて笑った。
「王からの直々の許可があると分かれば、あの謙虚な人間とて無下に拒むことはできまい」
「ーーはい。ありがたき幸せ……っ。この大いなる御聖断、我が魂に刻み、慎んでお受けいたします……!」
アルベリヒは顔の赤みも引かぬまま、震える手で深く胸元を押さえた。
王の寛大さと思いがけない親心のような温かさに、魂の奥がじんと熱くなる。
王の許しをいただいたのだ。
ならば私は、もう迷わない。
溢れんばかりの感謝と決意を胸に、騎士は厳かに玉座の間を後にするのだった。
─その背後で、玉座の王が浮かべた微笑の奥にある、底知れない冷酷さには、露ほども気づかぬままに。
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王から直々に婚姻の許可を賜ったものの、大きな問題が残っていた。
どうやってあの者を祭りに誘い、胸の内を伝えるか。
分からないならば、方法は一つ。
人目を忍ぶ回廊の片隅。
同僚の騎士カシアンは、手にした大剣の汚れを大層丁寧に拭う。
布を滑らせる指先の動き一つとっても、戦場を駆ける他の騎士たちの無骨さとは一線を画す、無駄のない優美なものであった。
「……なるほど。王から直々に、お前への褒美として婚姻の許可をいただいた、と。それはそれは、結構なことではありませんか、アルベリヒ殿」
眉をぴくりとも動かさず、皮肉混じりの声色で淡々と言葉を紡ぐ。
「ですが、王の許可まで毟り取っておきながら、肝心の誘い方一つ分からず、この俺に泣きついてくるとは……。先の戦の英雄ともあろうお方が、少々おめでたすぎやしませんか? 呆れて言葉もありませんよ」
ペラペラと舌が回るカシアンとは対照的に、自身は沈黙に埋もれていく。
「はぁ、実にもどかしい。本当に、戦以外は何もできない御仁ですね」
容赦の無い言葉と共に小さく溜息を吐き、これ以上ないほど冷ややかな視線を向けられる。
「お前がやるべきは、あの人間に心を開かせるための誠意を見せることです。……幸いにも、今回の祭りのために、下界のローレンの地から人間たちが醸した極上酒が貢物として届く予定です。神々の力の混じっていない、かつての人間が好んだ珍しい酒だとか。あの兵士とて人間です。その酒があると言えば、無下に断る理由もなくなるでしょう。まずはその酒で釣って祭りに誘い、お前の誠実さを態度で示しなさい。分かりましたか?」
拭っていた大剣を鞘へと収め、低く、冷え切った声音で言葉を継いだ。
「それと、アルベリヒ殿。……少々、急いだ方がよろしいかと思いますよ」
どこか焦りを助長する声色に、思わず息を呑む。
「未だにあの兵士をただの卑しい人間だと見下し、都に出入りすることすら不快に思っている傲慢な神々が根強くいるのは事実です。ですが、先の戦場であの兵士に命を救われ、慕うようになった者も、数多く存在しているのですよ」
丁寧な口調のまま、しかし有無を言わせぬ絶対的な威圧感を放った。
「周囲の連中は、何も揶揄っているだけではない。あの風変わりな人間に、本気で“興味”を持ち始めた者が他にも現れてきている。これ以上お前が煮え切らない態度を続ければ、あの無欲な人間は、別の傲慢な神に拐われて消費されるか、掠め取られるのがオチです」
そう言葉を切ると、小さな沈黙の後、どこか不機嫌そうに告げる。
「……あまり認めたくはありませんが、あの兵士の強さと高潔さは俺も理解しています。その上、戦以外に脳のないお前が生涯の伴侶に選ぶほどの者だ。あの人間をお前の伴侶として示さぬ限り、周りの蝿は消えませんよ。……嫌ならば、今度の祭りで、完璧に仕留めてご覧なさい」
心臓を直接掴まれたかのような衝撃。
この友人にそこまで言わせるほど、あの魂はすでに神々の都を揺るがし始めているのか。
「……嗚呼、分かった。カシアン殿」
あの者を他の神々に奪われ、消費されるなど、天地が引っくり返っても耐え難い。
深く息を吐き出し、その瞳に騎士としての冷徹なまでの、しかし熱い決意の光を宿した。
「あの者を誰にも渡しはしない。私の傍で、必ず幸せにしてみせる」
「結構なことです。ならば、早くその頼りない足取りを直すことですね」
フン、と鼻で笑い、カシアンは最後まで不機嫌そうな佇まいのまま、背を向けて去っていった。
一人残された回廊で、懐にある指輪をそっと握りしめる。
――神々の都の裏舞台で、完璧に編み上げられた盛大な包囲網。
その中心で、当の兵士が「早くローレンの極上酒を盗み出して、干し肉と合わせたい」という、ただそれだけの暴食の野心を滾らせていることなど、この時の彼らは知る由もなかった。
--------------
<兵士side>
祭り当日。
城下町は、数千年の神々の歴史でも類を見ないほどの活気と熱気に包まれていた。
空を覆うほどに色鮮やかな旗がはためき、通りには神々の都へ呼び寄せられた旅の曲芸師たちの歓声や、壮大な神話の戦いをなぞる即興劇を演じる声が至る所から響き渡っている。
一方、私の隣を歩く例の騎士は、あろうことかまるで初陣を控えた新兵のようであった。
会話も覚束ず、視線は何処か上の空。
遂に壊れたか?
様子のおかしな騎士はさておき、祭り自体は非常に楽しいもので。
その上、今夜は大聖堂の特等席で、あのローレンの極上酒が堂々と飲めるときた。
少々情緒のイかれた騎士を相手するくらいお安い御用だ。
暫く歩けば、此度の祭りの目玉である、御前試合の会場へと着いた。
どうやら、件の同僚であるカシアンという騎士が出場するらしい。
どれほどの腕前だと探していれば。
黄金の甲冑に身を包み、大剣を振るって観客席を一際沸かせる騎士の姿があった。
戦場では仏頂面を崩さない神々の騎士たちも、特等席から身を乗り出して、羨望と畏敬の入り混じった盛大な歓声を送っている。
なるほど、あれがカシアン様。
極めて理路整然としていて隙がない。
それでいて、時には万物を叩き斬るような大胆な一撃を放つ。
もし敵に回せば、非常に戦いにくそうな相手だ。
試合は、カシアン様が勝利を収めた。
周囲の熱狂に倣って、私も形ばかりの盛大な拍手を送っていたその時。
闘技場の中心で、息一つ乱さずに向けられた鋭い視線。
その瞳が一瞬だけぴくりと動き、何か短い言葉を吐いた。
距離があるため内容は聞き取れなかったが、きっと隣の騎士に向けられたものだろう。
そう思い、さりげなく隣に視線を移せば。
黙り込んだままの騎士が一人。
さらに背筋を強張らせて、上着の懐のあたりをそっと触るのを、私は見逃さなかった。
何なんだコイツは。
戦う前から怯んでいるのか。
それに、先程からカシアン様がこちらを見ている気がしてならない。
私のような人間風情が、同僚の傍に平然と居座っていることが気に食わないのだろうか。
都の連中に妙な噂を立てられる前に、少し距離を置くべきかもしれないな。
ーーしかし、私のそんなささやかな懸念は。
この後、さらに逃げ場のない最悪の形へと歪んでいくことになるのであった。
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祭りも終盤。
大聖堂の広間は、絢爛豪華な夜会の会場へと姿を変える。
私は正装に身を包み、守護騎士の同伴としてその場に並んでいた。
そして、遂に。
その刻が訪れる。
壇上から投げかけられる形式だけの退屈な祝辞はすべて右から左へと聞き流し、全精神を眼前の銀杯、そこに満たされた液体へと集中させる。
不純物の無い、美しいまでの透明感。
黄金の海を漂う小さな気泡が、表面でぷつりと小さく弾けた。
そこから一気に鼻腔を突き抜ける、甘美な果実の薫り。
強烈な酸味の刺激が、私の五感を鋭く愛撫してくる。
早く、乾杯の合図を。
待てを命令された従順な猟犬の如く。
戦場で培ったあの凄まじい反射神経が、いま、この至高の食事のために遺憾なく発揮された。
合図と同時に銀杯を傾ける。
唇に触れ、そのまま舌の上を滑らかに転がっていく。
ローレンの地独特の鉄分を含んだ果実が齎す、鮮烈で気品のある強烈な酸味。
それを、洗練された熟成が、極上のキレと深みへと昇華させていた。
圧倒的多幸感。
酔いとは無縁のはずのこの肉体が、その味の暴力に激しく震え上がるようであった。
しかし、すべての美しいものに終わりがあるように。
カラン、と、私の世界に乾いた音が響く。
我に返った私の手元には、既に一滴残らず空になった銀杯があった。
あの幸福な時間が、終わってしまった。
なんと儚く、なんと残酷な一瞬であったか。
……樽は一つではない。五つだ。五つにしよう。
私の精神は、いまやその野心だけで埋め尽くされていた。
そんな身勝手な暴食の思考に支配された兵士には、広間に集まった神々の反応など、最初から一瞥も視界に入っていなかった。
未だにただの卑しい人間と見下す傲慢な神々の冷ややかな視線も。
遠巻きに神と人間の恋を揶揄っている連中の下劣な邪推も。
身分差の純愛を応援するような、一部の奇特な者たちの温かな視線も。
そして。
隣に立つ騎士が、愛おしそうに、されど壊れ物を労るように兵士を見つめ続けていることすら。
「どうした? あまり、好ましくなかったか…?」
耳元で、突然、重々しい声が響いた。
完全に酒のことで意識が虚空へ飛んでいた私は、驚きで肩を大きく跳ね上げる。
「い、いえ、滅相もございません! とても…言葉にできないほど、美味しゅうございました」
私は、その酒がいかに素晴らしいかを必死に語り始めた。
単なる言い訳にしては長すぎる感想が、私の口から堰を切ったように溢れ出していく。
なぜ私は、ただの言い訳に、これほどの言葉を尽くしているのだろう。
ふと、胸の奥に奇妙な違和感が過った。
だが、そんな違和感も、一瞬であの酒を飲み干してしまったという絶望感にかき消される。
そんな絶望を必死に堪えているその余裕のない、悲痛なまでの笑顔は、騎士の胸を悲痛なまでに締め付けることになった。
騎士は、ここにきて勘違いを加速させる。
冷ややかな目や不躾な邪推に晒され、これほど怯えながらも、私の前では笑顔を保ち、こんなにも熱く言葉を尽くしてくれている。
…ならば、我が身を挺して、今すぐその悪意から、この魂を守らねばな。
そんな愛の熱量が、ついに爆発した。
突然、私の手がそっと、しかし拒絶を許さぬほど力強く包み込まれる。
「……少し、抜け出そうか」
「え、あ、はい……?」
その手に誘われるように。
喧騒を離れ、向かうは大聖堂の奥にある静かな月明かりのテラス。
城下町の祭りの賑わいが遠くに聞こえる、二人きりの空間。
冷たい月光が静かに照らし、昼間の熱気をそっと冷ましていく。
テラスの欄干に手をかけた騎士は、遠くの街明かりを見つめながら、静かに口を開いた。
「覚えているか。かつての戦場で、お前に戦う意味を訊ねた時のことを」
「……はい。身に余る加護への感謝の念を、お答えしたかと記憶しております」
私は、消え入りそうなほど殊勝な笑みで応じた。
「あの時の、お前の姿が……今も私の胸を離れないのだ」
騎士は目を細め、私の方を真っ直ぐに振り返った。
その瞳には、かつてないほど激しい情熱が宿っている。
「揺るぎない忠義を尽くすその姿は気高く、美しかった。私はあの瞬間、いや、ずっと前から、お前という比類なき魂が、愛おしくて仕方がなかった」
私の脳細胞に、過去最大級の警報が鳴り響く。
しかし、荒れ狂う内心を悟ってはくれない。
騎士が私の前に静かに跪き、懐から、まばゆい光を放つ指輪をそっと差し出してきた。
「愛している。どうか、私と共に歩んではくれないか」
「……………………は?」
想像の斜め上の、天地が引っくり返るような事態に、私の理性は驚愕と絶望に叩き落とされた。
まさしく絶句。
差し出された指輪は、私の首に掛けられる絞首刑の縄と同意義で。
この騎士の真意に気付かなかったとは。
なんたる失態。
なんたる醜態。
しかし、後戻りは出来ない。
私は腹を括った。
「ああ…っ、なんという…なんという過分なお言葉でしょう。私のような人間を、そこまで…そこまで深く想ってくださるなんて……!」
私は顔を覆い、声を激しく震わせた。
気合いで滲ませた涙が、月光に照らされ頬を濡らす。
「本当ならば今すぐにでも、その指輪を受け取り、伴侶として生涯お側にいたい…!ですが、ですが……私には、今それを受け取る資格が、どうしてもございません…!」
そして、彼の胸元へと縋り付くように手を伸ばした。
「私は、神々の王にすべてを捧げた身。今も下界では、私たちの同胞が、凄惨な戦いに身を投じています。世界が未だ深淵の危機に瀕しているというのに……私のような者が、己の幸福に溺れ、この神々の都で安寧を貪ることなど、許されるはずがありません! 深淵が完全に滅び去り、真の平和が訪れるその日まで……私をただの“戦場の矛”でいさせてください。アル様のお気持ちは、このからっぽの魂に生涯の宝として刻みます。ですから……どうか、その指輪は、すべての戦いが終わるその日まで、待っていただけないでしょうか……っ!」
私はそのまま、跪く彼の胸へとしなだれかかるようにして額を伏せた。
最後に、駄目押しの一言。
「ーーそして、それが叶ったその時に。私の名を、呼んではくれませんか」
崇高で誠実な愛を突きつけられた騎士は息を呑み。
そして。
愛おしそうに、あまりにも優しく微笑んだ。
「…分かった。その約束、我が魂に刻もう。お前が戦いの重荷を下ろせるその日まで……私は、何百年でも待とう」
ーーどうして、こうなった。
重苦しい愛の言葉を囁かれる裏で、私の理性は、ついに停止した。
今夜これから仕掛けるはずだった酒樽密輸の計画も。
極上の肉をソテーする至高のレシピも。
最近始めた魚の生食も。
仕込んでいた漬物の経過も。
今の私には、それらを考える余裕すら、塵一つ残されていなかった。
ただ、月明かりの下。
私のからっぽの腹を満たしていたのは、消え去ったはずの人間的な感情。
あまりにも深く、あまりにも激しい、言葉にできない“後悔”の念だけだった。