<旅人side>
「よし、鍋は無事だな」
無抵抗の人間が盗賊に襲われていると報告があって来てみれば。
文字通り血塗れの被害者らしき人物が、爽やかな笑みで鍋をかき混ぜていた。
「……何か御用かね、君。邪魔をするなら、帰ってくれ」
どこか気怠げだが、迷いのない手元。
立ち去る意志を見せなかった事を不審がったのか、眉間に寄せられた皺が更に深まる。
素直に、怪我はないか、そう尋ねた。
「ん?…え、まさか私の心配を?……これまた、珍しい方が来たものだ」
事情を聞けば。
金銭と武器を取られたが、鍋は無事だから問題ない。
血塗れなのは、抵抗するのが面倒だったから殺されただけ。
鍋の中身は墓地に棲みつくドブ鼠と苔の煮込みスープ。
そこらの亡者の方が、まだ人間らしい。
「良ければ、一口どうかい?」
禍々しい色と独特な腐臭。
口にする勇気を持つのは至難の業だ。
「嗚呼、別に断ってくれて構わない。不死の身で食事を嗜むなど、可笑しな話さ」
自虐にしてはあまりにも豪快に笑った。
狂人にしては理性がありすぎるし、それにしては必要なネジが外れすぎている。
ただ、そんな人間は珍しくなかった。
「……食べたい?……冗談、ではなさそうだ。いや、味は保証するが、いやはや参ったな」
そんな人間が、至高の時間を味わうように、そのスープを胃に流し込むものだから。
つい興味が湧いてしまった。
長い旅路。
寄り道なんて幾らあっても良いだろう。
予想外の返答に、少々困惑の色を隠せていない人間改め奇特な料理人。
「……さあ、できた。毒や呪いなら、ハーブと火加減で綺麗に消してある」
遠慮がちに盛り付けられた皿を受け取り、躊躇なく口に入れた。
見た目に反して、胃を刺激するような強烈な味はしない。
時間をかけて煮込まれたのか、ほろりと噛み切る前に崩れる肉は感動すら覚える。
死体を2日ドブに漬けたような酷い臭みはなく、苔の食感が面白いアクセントを生んでいた。
なにより、胃の内側でこれほど心地良い熱を感じたのはいつ振りか。
まるで怯えるように視線を送る料理人に、美味しかったと率直な感想を述べる。
「普段、食事はしていないのだろう?味覚が衰えているはずだから、そうだな…」
盗賊にさえ目をつけられなかったであろう草臥れた装備の中から、次々に食材が飛び出す。
「ほら、これでどうだ」
何やら、謎の粉末を振り掛けられた。
軽くかき混ぜて、もう一度口に含む。
すると、どうだ。
先程よりもはっきりと味の輪郭を感じられる。
肉に付いていた脂身の口触りだけでなく、舌に残る旨み。
苔から滲むほんのりとした苦味。
そして、妙に癖になる独特な酸味。
「やはり、腐肉だから処理し切れなかった酸味が残ってね。でも、案外癖になる味だろう?」
思わず掻き込んだスープを飲み込み切れず、全力で頷く事で同意を示す。
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
その言葉が建前でないと信じて、こんな事を伝えた。
おかわりはもらえるか、と。
「……おかわりかね、君。ふふ、強欲だな。…だが、実に良い気分だ」
誰もが支配の象徴である冠に囚われていた。
誰もがどこまでも続く不死の呪いに理性を蝕まれた。
「少し待ち給え。君のような食客のためなら、スープの火加減をもう一度調べるのも、決して面倒な仕事ではないんでね」
されど、ささやかな安らぎは、確かにあった。
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「おや、久しぶりだね。旅は順調かい?」
狼煙の元には、懐かしい料理人の姿。
案の定、手元には料理がズラリと並んでいる。
…が、理解し難いモノが一つ。
「執拗に邪魔されてね。少し大人しくしてもらっているんだ」
縄で拘束された盗賊。
その隣で、鼻歌混じりに焚き火にかけられる塩を振られた魚。
あまりにも、あんまりな並びに言葉を失った。
煮込みの待ち時間に殺される事は許容するが、食事を執拗に邪魔される事は許せないらしい。
理解するのに多少時間がかかった。
「いやぁ、この湖は最高だよ。ほら、見てくれ」
この者にとって、盗賊の捕縛はその程度の話題らしい。
さらりと変わった話題についていこうと、並んだ料理に目を向ける。
「まずはシンプルに塩焼き。魚本来の旨みを味わうなら、これに限る」
パリッと焼けた香ばしい皮に隠れたふっくらとした白身。
受け取ると信じてやまない、不死者らしからぬ純粋無垢な眼。
断る理由もないため、その一尾を手に取り、ぱくりと齧り付いた。
口内を満たす塩味と脂の暴力。
舌の上で白身がほぐれ、更なる旨みで刺激される。
共に含んだ焦げ目のついた皮の苦味も堪らない。
始めは面倒だと感じていた骨を除く作業も、次の一口を誘う。
あっという間に平らげ、満足感に思わずほっと息を吐いた。
「お次は、葉包み焼きだ。香辛料を贅沢に使い、じっくり味を染み込ませた」
休む暇など与えてはくれない。
鼻腔を刺激するピリッとした辛味。
突くだけで簡単にほぐれてしまう極上の白身に凝縮された旨み。
溢れ出た天然のスープが染み込む添え物も魅力的である。
まとめて一口。
噛み締めるとじゅわりと滲み出た黄金の旨みに、堪らず唸る。
そして、ツンと貫く刺激。
慣れないスパイスの辛味に舌先を踊らされる。
確かに辛いが、それがなんとも心地良い。
添え物の葉はしんなりと旨みを吸いながら、魚の脂を次の段階へと昇華する。
こちらもペロリと完食。
まだ料理は残っているようだ。
次の品に期待を膨らませていれば。
「出すか迷ったが……、今度は刺身だ。生食に抵抗があるなら、少し炙ろう」
脳内を駆け巡るリスクと不安。
思わぬ切り口に、手が止まった。
「そうだな、流石の君も躊躇うか」
しかし、どこか嬉しそうに笑うと、刺身の一部を炙り出す。
魔法がこんな形で使われるとは。
無駄に洗練された無駄のない無駄な動き。
炙られた刺身は、きゅぅと身を縮ませ、見事な焦げ目と照りに飾られた。
盛り分けられた刺身は、ぷるりとその身を震わせる。
躊躇ってなどいられない。
腹を括り、一気に口へと運んだ。
ぷりぷりとした食感が生食を実感させる。
それと同時に、炙られた箇所からは食べ慣れたあの味が。
更に咀嚼を続ければ、魚本来の旨みと無駄のない繊細な甘さに気付く。
そこからは早かった。
残りの刺身だけでなく、遂には炙る前の味にも魅了される。
これが刺身、これが生食。
一度でも躊躇ってしまった己を恥じるように食べ続けた。
「そうだ。一つ聞きたいんだが」
刺身を3枚重ねて口に含む前に、耳を傾ける。
「ここらに大きめの蛇が出たらしい。以前食べた蛇肉が中々美味しかったから、興味があってね。何か知らないかい?」
人間ほどの大きさの大蛇だろうか。
記憶を探ったが心当たりはなく、首を横に振る。
「ならば、自力で探す他ないな。もし狩れたら、次は蛇肉を振る舞おう」
素揚げが絶品らしい。
そんな話題に心を躍らせつつ、今度は自身も食材を渡そうと思った。
後日、湖の主である双頭の龍が姿を消した。
心当たりはないかと問われたが、その心当たりは口に出来なかった。
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例の料理人が、泡を吹いて倒れている。
驚愕のあまり三度見した後に、慌てて駆け寄った。
毒沼付近。
何かが煮込まれた鍋。
無類の珍味好き。
そこから導き出された答えを元に、料理人の口に毒消しをぶち込んだ。
「……ゲホッ、ゴホッ……。……いや、見苦しいところを見せたね、君」
全くである。
鍋の中身は毒沼の蛭らしい。
人間、こうはなりたくないものだ。
「痛覚がないというのは、こういう時にいささか不便だな。その上味が良いと、つい…ね」
そういう問題ではない。
この者はただの阿呆なのかもしれないと、少々認識を改めた。
自分が見つけなければ、死んでいただろうに。
否、むしろ、今までは死にきる事で解決していたのだと納得する。
呆れるほど呑気で、次の一口を狙う小賢しい料理人改め阿呆の頭を小突く。
「まさか、口に出来ない料理を振る舞うつもりは毛頭ないよ。それに、これ以上無様な醜態を晒すのは、私の本意ではないんでね」
どこかズレた返答をすると、一つの甘味を取り出した。
「君がくれた氷竜の息吹を使って氷菓を作ったんだ。お詫びも兼ねて受け取ってくれ」
ひんやりと、あの氷竜との戦闘を思い出す冷気が手のひらを撫でる。
シャーベット状の粒が、瓶の中で星空のような輝きを放っていた。
「果実も小さく刻んで混ぜ込んだから、色鮮やかで美しいだろう?」
以前口にした果実を使ったゼリーとやらも美味しかった。
他の料理では中々味わえない強烈な甘味。
それが、毒消し一つで手に入った。
「いやぁ、深淵の亡霊から冷気を抽出した時以来だったから、上手くいってよかったよ」
今恐ろしい言葉を聞いた気がしたが、反応したら負けだと無視を決め込む。
この者は時々、タチの悪い冗談を言うのだ。
『以前食べた亡者の肉は、とても食べられたものではなかったが、君の肉は程よく引き締まっていて実においしそうだ。今すぐにでも解体して、大釜に放り込んでやりたいくらいだね。……そう警戒なさんな、君。冗談に決まっているだろう?』
あれは他愛もない雑談の一種だったのだろうか。
偶に振る舞われる謎の肉の正体には触れない方が良いのだろうか。
深淵よりも恐ろしい闇に、そっと蓋をした。
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深淵に足を踏み入れてから、はや数日。
徘徊する異形を薙ぎ払いながら、最深部に潜むであろう深淵の王を目指す。
噂に違わぬ不気味さと視界の悪さに、早くも気が滅入っていた。
こんな時には。
取り出したのは、例の氷菓子。
気分転換に腹を満たせば、活力も湧いてくるというもの。
密封された瓶の蓋に力を込めれば、かぽりと軽い音を立てた。
魔法で冷気を閉じ込めているようで、長旅でもあの時と同じ美しさを保っている。
キラキラと深淵で輝く星空のように。
指先に伝わる感触と、赤い果実の混じった小さな星屑。
暫く眺めた後、その味を堪能する。
口に含んだ瞬間、ふんわりと冷気に包まれる。
舌先で転がす度にじわじわと溶け出し、脳味噌を震わすような甘味が広がっていく。
なんとも幸福で、思わず口角が上がってしまうような感触。
表面がほんのり柔らかくなったところを、奥歯で噛み締めた。
シャリっとした雪を踏み締めるような独特な食感と瑞々しい果実の甘み。
これほど楽しい食べ物があったのか。
戦闘の後や、太陽が照らす水場に溶岩の中。
この冷たさと対照的な暑さの中で味わってみたいものだ。
「何をしている」
食事に夢中になっていれば、背後からの声にびくりと肩を震わせる。
振り返れば、随分と背の高い騎士が佇んでいた。
少し灰に塗れた甲冑と血の染み込んだマント。
使い込まれた長剣と盾。
何よりもその佇まいが、強者の証であった。
必死に食事をしていたと伝えれば、案の定、微妙な反応が返ってくる。
「不死の身で、食事…?中々、奇特な趣味だが、…まあ、それはいい」
どうやら食事の件ではなく、深淵にいる理由を知りたかったようで。
素直に、深淵の王を倒すためだと告げた。
その瞬間、周囲に緊張が走る。
眼前の騎士は、少しだけ沈黙を挟み、ゆっくりと口を開いた。
「………私も、連れて行ってはくれないだろうか」
なんと、目的は同じ。
こちらとしても戦力が増えるのは嬉しいため、喜んで承諾する。
「…感謝する」
その言葉にサムズアップで返す。
これで、道中も随分と楽になるだろう。
更に、最深部までの道案内もしてくれるそうだ。
素晴らしい出会いに感謝し、もう一度、あの氷菓を口にする。
騎士にも勧めたが、丁重に断られてしまった。
少しだけ悲しかったが、共に食事を楽しめる友人の存在を思い出し、持ち堪える。
そんな心を癒すように、氷菓が口の中でほろりと溶けた。
ーー暫くして。
「怪我は無いか?」
この騎士、強過ぎる……!!
道中の敵がバッサバッサと薙ぎ払われ、その呆気なさに思わず同情してしまった。
それから大きく躓くこともなく。
驚くほど順調に進み、あっという間に深淵の最深部まで辿り着いた。
この先に、深淵の王が待ち構えている。
装備を見直し、回復を多めに補充。
騎士のカバーが出来るように、範囲が広めの物に変えておこう。
準備が終わり、ふと視線を騎士に向ける。
まるで、主に忠誠を誓うように。
使い込まれた長剣が、その輝きを一層強くして。
神々しさを感じるほどに、美しい祈りであった。
深淵の王との戦闘を前に、精神を統一しているようだ。
小さく吐かれた息が途切れると、カチリと視線がかち合った。
「では、行こうか」
自身とは異なる覚悟を重みが、節々から感じ取れて。
強く、剣を握り直した。
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それは月明かりのように。
闇の中で歪に輝く黄金の鎧が、妙に目を引いた。
想像よりも美しい佇まいに、気品と理性を感じてしまう。
だからこそ、その異様さが際立っていた。
頭身に届きそうなほど大振りな剣。
継ぎ目から溢れ出す黒いヘドロ。
文字通り、首の皮一枚で繋がる頭部。
そんな深淵の王が、こちらに気付いた。
強烈な反響音。
急所を的確に貫くとした剣をいなし、じんと痺れる両腕を叩き起こす。
見た目よりも長いリーチと素早い剣筋。
深淵らしからぬ身軽さで、気品すら感じる。
次の一撃を警戒しつつ、背後の騎士へ視線を送った。
パチリと火花が散る。
深淵を照らす瞬間的な光が、自身に悍ましい追撃を知らせた。
盾を構える暇はない。
咄嗟に捻り上げた肉体に、ピシリと軋みが走る。
カツリカツリと連続で響く後退の足音は緊張感に変わった。
斬り上げた剣先が脇腹を軽く掠めたようで、鈍い痛みとじんわりと染みる温もりを感じる。
次の攻撃に備えて、傷を庇う事も出来ずに剣を構えた。
しかし、予想に反して。
手入れをしたばかりの磨かれた表面に反射するのは、騎士の姿である。
先ほどの攻撃で見切ったのか。
はたまた、既知の動きであったのか。
慣れた動作でカバーに入ると、深淵の王の攻撃が弾かれた。
仕事を果たした盾が鳴らす衝撃音に、ずぶりと肉を貫く血生臭い音が混じる。
ぼたりと溢れ出た黒い血液は、剣筋を伝って地面と白銀の鎧を穢した。
気味の悪い痙攣とぐるりと回る頭部。
貫かれた剣を引き抜こうと、傷を厭わず抗い続けた。
意味を成さない嗚咽に似た呻き声が深淵を包む。
ただ、その手に持つ大剣は決して手放なかった。
明らかに、生者のソレではない。
傷の回復を待つ己を嘲笑うように、深淵の王は反撃の手を緩めなかった。
がくん。
突然、力無く崩れた肉体。
その瞬間を、騎士は見逃さなかった。
ぽんと放物線を描くように切り離された右腕。
予想外の角度から現れた2本目の剣と、心臓を貫かれたまま歪に沈んでいく深淵の王。
その右腕に握られていた大剣がカシャリと地面に落ちた。
深淵の王はこちらには目もくれず、その大剣に向かって動き出す。
呆然としていた己も加勢し、バランスの崩れた肉体に追い打ちをかける。
深淵の王より小柄な身なりを生かし、狙うは足元。
ばつりと切断された右脚。
断面から噴き出す血飛沫を浴びる前に、相手が激しく転倒する。
まだ油断ならない。
騎士より、自身の方が距離が近い。
己が迅速にトドメを刺さねば。
頭部の切断。
心臓が急所でないならばと、振り翳した剣先。
虚しいほどの金属音が、深淵にこだまする。
ずるりと甲冑の隙間から這い出た触手のような異形が、その首を遥か先に逃した。
明らかに変容した相手の肉体。
美しい剣筋から豹変し、獣のように欠けた四肢が地面を這う。
補うように生やされた触手からはヘドロのような黒い液体が、ゴポゴポと湧き立っていた。
無様に晒された大剣は、陽の光を浴びず。
そのヘドロに塗れ、深淵に溶けた。
異様なほどの悪寒。
過度の緊張か、浅くなる呼吸を正そうと肺を膨らませる。
これから来るであろう猛攻に、どう対処するか。
もう一つの気配が背後まで近づいたのを確認し、背中を預けるという決断を下す。
頼もしい相方に、少しだけ心が落ち着いた。
「来るぞ」
短い言葉のすぐ後。
脳で処理する前に、条件反射で動いた肉体。
左頬に、右足の付け根、鳩尾や脳味噌を抉る軌道を描く触手を、寸前で斬り落とす。
呼吸をする暇もなく、有り得ないリーチで深淵から攻撃が飛び出した。
文句の一つも言いたくなったが、生きている自分を褒めつつ、体勢を立て直す。
恐ろしいことに、今ので学習したのだろう。
曲線を描くようにわざと急所を外してきたり、弾かれた先で背後の騎士を狙ったり。
狡猾に、かつ的確に嫌な攻撃を繰り返される。
反撃に転じたいが、隙をつくことすら叶わない。
このままでは少しずつ文字通り削られていく。
どうしたものかと疲弊する脳を酷使していれば、背後で指示が飛ぶ。
「私が盾になる。懐に潜り込め」
その言葉通り、背中に感じていた気配がくるりと反転し、自身の前方へ現れた。
駆け出した背中を追いかけ、騎士が討ち漏らした触手にだけ気を配る。
べちゃりと地面に落ちる無数の触手。
白銀の鎧から溢れる騎士の血が、その攻撃の壮絶さを物語っていた。
しかし、それこそが反撃の兆し。
深淵の王に退路はない。
背後を壁に阻まれ、道は前方のみ。
攻撃が止まった。
合図なんて分かりやすいものはなかった。
背後から飛び出し、潜り込んだ相手の懐。
想像よりも大きな図体に怯みそうになったが、自滅覚悟で触手の中へ飛び込む。
肉体に増えた穴を憂うよりも、剣を握るその手を緩めたくなかった。
切り刻まれ歪に揺れる触手の中で、晒された首元。
振るった刃が、遂にその首に届く。
ーが、止まった。
突然両腕に降りかかる重み。
あの、首の皮一枚で繋がっていたような頭部を落とすのに必要なソレではなかった。
返り血で滲む視界が鮮明になって、初めて気がつく。
何重にも結われた細い触手が、その剣の侵入を阻んでいた。
やられた。
再度振り抜こうにも、絡み付くように拘束されている。
懐から次の武器を引き抜こうと、手を伸ばしたその時。
全身に走る鈍い痛み。
貫かれたのは右腕か、いや傷を抉るように脇腹も。
即死を免れた幸運に感謝していれば、小さな呻き声を鼓膜が拾う。
まさか。
「は、やく………、とど、めを……っ」
自身を襲った触手はあれだけではなかった。
騎士を貫く無数の触手。
斬り落とせなかった分の触手を全身で受け止めたのか、痛々しいほどの鮮血が溢れ落ちる。
自身の不甲斐なさに奥歯を噛み締め、視線を戻せば。
首元の触手が減っている。
触手の数は無限ではない。
騎士や己に数を割けば、その分急所を守る方は疎かになる。
上から叩き斬るように。
再度握り締めた剣は、じくじくと音を立てて押し進む。
まだ足りない。
更に体重をかける。
血を流しすぎたせいかぼやける脳味噌を、今だけ奮い立たせて。
あと少し。
ボロボロの肉体に鞭を打ち、深淵の王の首を斬り落とす。
深淵を象徴する黒いヘドロのような残穢が切断面から溢れ出した。
「離れろッッ!」
騎士の声に反応し、瞬間的に飛び退く。
皮膚を焦がすような強烈な熱気。
深淵の王を包み込む炎が、どこまでも続く闇を照らす。
その光の中で、ゆっくりと崩れていく様は、どこか儚く。
満身創痍の肉体と、その魂に焼き付いた。
カシャンと、静寂を穿つ金属音。
「……ありがとう、…ありがとう。これでやっと、殿下も、……、っ」
突然、崩れ落ちた騎士に駆け寄れば、そんな言葉をかけられた。
きっと、騎士にとって大切な人だったのだろう。
気休めにしかならないが、簡単な応急処置を施す。
血の滲む包帯とどこか覚束ない会話。
深淵は全て葬ったか。
自分は、その言葉を肯定した。
この深淵に、もう王はいない。
神々の王を討つ前に、成し遂げたい事が叶った。
その事実に、安堵と達成感、そしてどこか罪悪感を感じていれば。
「主を、……友を、弔わせてくれ」
手を貸そうか、そう伝える。
この深淵に、独りは、耐え難いだろうから。
騎士は断った。
むしろ、その孤独が、魂を癒すのだと。
お互い、次の言葉はなかった。
深淵に消えていく足音が、何だか寂しくて。
(騎士の友の魂が、どうか安らかに眠れますように。)
そう、願わずにはいられなかった。
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単純な興味本位であった。
「……腹ごしらえに、私と手合わせを?」
言い訳にすらなっていなかったが、困惑の色を隠せないその瞳から目を逸さなかった。
賄賂の如く差し出した食材の山。
ついでに、これより一歩も引かぬと決死の覚悟を宿してみせる。
呆れ半分、諦め半分。
長い沈黙と、それを破る溜息。
「君を説得するより、その提案に頷いた方が楽そうだ」
完全勝利であった。
早速、戦闘の準備をしようと声をかければ。
「仕込みがあるから、早めに頼むよ」
え、もう?
寧ろ、こちらの心の準備の方が間に合わない始末。
「……嗚呼、武器がないな。……この辺ので良いか」
何という適当さ。
武器にこだわりが無いにも程がある。
適当に拾い上げたそれは武器とも呼べぬ鈍らで、酷い錆と刃の欠け。
盾も木の鍋蓋のように見える。
「合図は、まあ、君が攻撃してきたら反撃するよ」
舐められているのかとも思ったが、この者の性格的に、ただ面倒なだけなのだろう。
締まらない空気に困惑しつつ、剣を構えて進む。
手合わせといっても不死者同士の決闘。
自身は相手を殺す気で、その剣を振り下ろした。
あまりにも薄い手応え。
自身を貫こうとする鈍らの先端が、漸くいなされた事を自覚させる。
咄嗟に、体勢を変えて急所を外す。
切れ味の悪い剣が皮膚を荒く引き裂いた。
ピリピリと普段よりも厳しい痛みと熱。
こちらが滲ませた殺気と緊迫に反して、相手は普段と何ら変わりない。
「…早く終わらせたかったんだが」
その言葉に、今の攻撃に明確な殺意があったことを確信する。
受け身ではやられる。
相手に主導権を握られる前に、こちらから踏み込んだ。
相手もただの人間。
いくら戦闘技術が高くとも、防御力は紙同然。
一つの攻撃が致命傷になり得る。
まずは表面だけでも傷を付けたい。
そんな思いで、フェイントを交えた不意の一撃。
だが、的確に対処され、飛ばすのは木屑のみ。
盾は潰せた。
少しでも前向きに捉えようと切り替えていれば、視界が突然遮られる。
反射で叩き落とせば、カランとボロい木の鍋蓋が転がった。
投げつけてきた!?
見た目にそぐわない野蛮な戦闘スタイルに、驚愕の色を隠せないでいたその時。
視線を逸らしたその隙を見逃さず、いつの間にか懐に潜り込んできた相手。
仕方ないと、なりふり構わず剣を振るったのがいけなかった。
「少し借りるよ」
耳障りの悪い金属音と突如無くなった手のひらの重み。
足元に投げ捨てられた鈍ら。
「使い込まれた良い武器だ。これが君のお気に入りかい?」
いつの間にか、相手の手のひらに自身の武器が収まっていた。
パリィされた上、武器を奪われた?
絶体絶命の状況だが、そんなものは今まで幾度となく経験してきた。
代わりに捨てられた鈍らを拾い、武器を構え直す。
相手はそんな己に目を見開くと、少しだけ楽しそうに笑った。
しかし、その後は防戦一方。
攻撃を受け切ろうにも、これ以上は武器が持たない。
良いところ一つ見せられず終わるのかと心の中で嘆いていると。
「ほら、君に返そう」
ぽんと宙を舞う己の愛剣。
普通に返された???
尽きぬ疑問が脳内を埋め尽くすが、そんな暇もない。
すぐさま攻撃を再開する。
相手は一時武器を無くしたが、途中で拾った棒切れで距離を取られ、新たな武器を調達された。
次は槍か。
嫌な間合いで、こちらに距離を詰めさせない。
ビビっていても仕方がない。
剣を握り直し、槍の軌道を捉えることに集中する。
そして見つけた、歪んでひび割れた箇所。
間合いを詰める動作を挟めば、案の定的確に抑えてきた。
それを逆手に取り、武器そのものに攻撃を入れる。
ばきり。
そんな不穏な音とともに、槍が真っ二つに折れた。
急激な変化に、相手も対応しきれていない。
狙うは心臓。
素早い踏み込みで、相手は回避すら間に合わない。
ぶつりと肉を劈く感触が、剣を通じて皮膚に響く。
しかし、貫いたのは心の臓ではなく、相手の腕であった。
剣を伝って滴り落ちる血。
ぐじゃりと内側の骨と肉を掠める音。
早く引き抜かないと。
そんな思考すら、許さなかった。
相手は、そのまま距離を詰めてきた。
武器を引き抜けないように、自身の血肉で止めて。
顔色一つ変えずに、腕を貫く剣先が顔の横をまで届いた。
遂に、目と鼻の先。
「満足した?」
凍りついていた背筋が腑抜けてしまいそうな、どこか疲れた顔で。
恐怖すら感じていた相手と同一人物だとは思えないほどの変わりようであった。
少しだけ息を呑んだ後に、そっと頷いた。
「…嗚呼、良かったよ。あのままだと、折れた槍と小剣で突き刺し合うしかなかったし」
隠し持っていた武器もバレていたようだ。
あのまま引いていなければ、この者の言うとおり、血みどろの戦いになっていただろう。
お互いに傷の手当てをして、料理の仕込みを手伝う。
「それにしても、君が戦闘狂だったとはね。意外だよ」
戦闘狂呼ばわりは語弊があると、必死に現状を説明する。
「…神々の王を、君が?」
神々の王を討つために、自身を鍛えているのだ。
腕試しも兼ねて、以前から実力が気になっていたこの者に声をかけた。
想像よりもボコボコにされてしまい、些か自信を失ったところではあるが。
「まあ、君ほどの実力があれば可能だろうね」
落ち込んでいる背中を雑に叩き起こされ、雑に励まされる。
てっきり否定の言葉が飛んでくると思ったが。
「なんだ、蛇にでも唆されたか。……ふふ、だが、君らしい選択だな」
グツグツと煮立つ鍋を見つけて、料理人は笑う。
自分が権力や王の地位、不死の呪いにさえ興味が無いことを知っていたから。
「皆、不死の肉体に飽き飽きしているのだろうね。この呪いを解こうと躍起になっている」
多くの者がその運命を呪い、死ぬことも叶わず亡霊となった。
永遠の命とは、そう良いものではなかった。
「……私か?まあ、私は食を堪能できればそれで構わないが」
少し間をおいて、こう言った。
「不死の方が、長く楽しめそうだ。それに、未知の食材も死んで試せる。これは中々捨て難い」
この料理人は、相変わらずであった。
身に染みて実感しているため、案の定な回答に、呆れると同時に少しだけ嬉しかった。
「だが、死の恐怖によって生まれるものもある。…もしかすると、こうして食卓を囲める友人が増えるかもしれないね」
だから。
「きっとそれは、喜ばしいことだ」
そんな表情をする相手が、なんだか珍しくて。
「どんな結末を選ぶにせよ、君が最後までその美しい理性を保ったままであることを願うよ」
いつもの食事が、より一層輝かしいものに思えた。
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都が崩壊してから数百年。
神々の王を討ち取ったという噂が流れ始めた。
得たものは、何もなかった。
主を失い、忠義を踏み躙られ、世界のすべてが無と化した。
絶望の中で、騎士が生きる唯一の糧は、あの者と交わした約束であった。
ただ、歩き続けた。
辿り着いたその先。
微かに残る故郷の面影と、その瓦礫の上で。
一人の兵士が食事に勤しんでいた。
かつて英雄と呼ばれた兵士は、騎士を食事に誘った。
劇的な感動も、再会の涙もない。
理由も、意義も、そこにはなかった。
ただ、すべての永い呪縛が消え去った皿の上で、筋張った肉片を噛み締めた。
兵士は、なんとなく、いつもより腹が満たされるような気がした。
それは、酷く淡く、不明瞭な感覚で。
そんな兵士に。
騎士が、光を失った虚な目を向け、掠れた声で問う。
何百年もの間、この地獄に繋ぎ止めていた、その名を。
「…ルサージュ。そう、呼んでください」
ルサージュと呼ばれた兵士は、あの時と同じ仕草で笑った。
本編はこれにて終了です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
2話ほど、番外編とifを載せる予定です。