両儀式(偽)が月姫にいる。 作:ありえない話
夢を見ていた。
暗く、昏い、闇の中。
光も、音さえもない「 」 の洞に沈み込み、形ない死に触れながら、夢を見た。
夢。それはいつかの記憶。
古い畳の匂いがする。
誰かが名前を呼んでいる。
どこかの屋敷の長い長い廊下。
白々とした蛍光灯。夜の電車の窓に映る疲れた顔。
記憶。それは自分のものなのか。自分のものではないのか。本当にあったことなのか、誰かに作られたものなのか。認識する間もなくそれらはほどけて溶けあって、どこかへと流れていく。
曖昧な記憶の奔流の中でただ一つ。赤色だけがはっきりとしていた。
じわりと広がるそれは血の赤だ。毒々しいまでに赫い赤。
それだけはどの景色にも溶けることなく、焼き付いた染みのように、そこにあった。
だからきっと、それは共通した原体験。魂に焼き付いた、鮮烈な傷の
※
目を開けると白があった。天井だと理解するのに少し時間が掛かった。
染み一つなく清潔で、かえって病人めいた顔色をした天井。視線を横に滑らせれば、同じ色の壁がある。鼻の奥を突き刺す、かすかな消毒液の匂い。
病院。乾いた唇で呟く。他に人の気配がないあたり、個室らしい。
窓は開いていた。カーテンの裾がゆるく膨らむ度に、乾いた風が流れ込んでくる。空気は僅かに冷たさを帯びて、肌を撫でる。
窓の向こうには青い空。高く、遠く、雲の一つもない。呆れるほどに晴れ渡る。夏は過ぎ、もう秋になるのだと。それだけがわかった。
頭がうまく回らない。
今が何時なのか、何日なのか。どうして病院で寝ているのか。思考はまるで泥濘のようで、ちっともまともに考えてくれやしない。
ぼんやりとしたまま、体をベッドの上から持ち上げた。はらりと、掛かっていたシーツが胸の上から落ちる。
途端に世界がぐにゃりと歪んだ。壁が傾いて、天井が流れる。ぐるぐる回る。眩暈を起こしているのだと遅れて気づいた。
「う……」
眉根を寄せて目を閉じる。歯を噛みしめて収まるまでをじっと耐える。
体は違和感だらけだった。手足の感覚が鈍い。分厚い壁越しに体を動かしているような、ひどく不確かで、他人行儀の感覚。借り物の、とさえ思えた。
確かめるように何度か手を開き、握る。指は少し遅れて、それでも命令通りに動いた。
眩暈は激しく、もしやずっと続くのではないかと危ぶんだが、それは杞憂で済んだ。視界を揺らすものが、波のように引いていくのを感じながら、もう一度目を開ける。
体に感じた違和感は消えていなかった。それどころかさっきよりも強く感じるようになっていた。
病衣の袖から覗く両手。白い肌。日に当たったことがないのかと思うほど。腕は細く、肘の内側には点滴の管がテープで留められている。色の薄い皮膚の下に、青い血管が透けていた。
元から太っていたわけではない。よく陽に焼けていたわけでもない。それでもここまでのものだっただろうか。
己の身体に感じる疑問に首を傾げると、さらりと髪が頬に掛かった。肩口のあたりまで伸びっぱなしにされたような黒髪が揺れる。前髪をひと房、指でつまむ。細く、癖がない黒絹のような。自分はこんな髪だった?
積み重なる違和感に顔を顰めて視線を落とす。
病衣の胸元。そこにはささやかで、けれど確かな膨らみがあった。
なんだこれ。頭の中が真っ白になりそうだった。これではまるで
待て、と自分に言い聞かせる。落ち着け、順番に考えろ。今までの自分。ここに来る前の自分は――。
考えようとして、頭の裏側でフラッシュバックのように浮かび上がるものがあった。
それは赤色。
夢の底に焼き付いていた、血の赤だ。
そうだ。自分は死んだはず。
不思議なことに。いつ、どうやって死んだのかもわからずに、けれど確かに死んだのだという確信だけがある。
死んだ。なら、この続きはありえない。だというのに、今ここで息をしている、これはなんだ?
「うっ、は……っ」
喉の奥から何かがせりあがって、思わず口元を押さえた。
肋骨の内側で、心臓が痛いほどに脈打っている。胸を掻きむしりたくなるほどの混乱、困惑。気が、狂いそうだった。
鏡。鏡が見たい。確かめたくてそれを探す。見渡してもベッドの周りに姿を映せるものはなかった。
シーツを跳ねのけて床に足を下ろす。
目覚め切っていない体はまるで枯れ木のようで、踏み出そうとした一歩目で膝ががくりと折れた。支えを求めて伸ばした手が点滴台を掴んで、そのまま床に崩れ落ちる。
がしゃん、と金属がぶつかる派手な音。
腕に繋がったままの点滴の管。
震える指でテープを剥がし、引き抜いた。ぷつりと小さな痛みがあって、肌の上に赤い玉が滲む。
廊下の方が俄かに騒がしくなった。バタバタとせわしない足音。誰かの声。そんなものはどうでもいい。
床に、壁に、倒れた点滴台にさえある、子供が出鱈目に引いたラクガキのような線の群れ。それも今はどうでもいい。
冷たい床に手をついて、部屋の隅の洗面台まで、息を切らしながら体をひきずっていく。たったそれだけの動きでさえも、今の自分にとっては重労働で、なんだか情けない。たどり着いた台の縁に指をかけ、震える腕で上体を持ち上げた。
鏡の中に映っていたのは知らない顔だった。
ある意味では、酷く見慣れた顔でもあった。
不揃いに伸びた黒髪。血の気の失せた白い肌。どこか作り物めいた、硬質な面差し。呆然とこちらを見返す黒い瞳。
知っている。何度も目にした顔だ。ただしそれは、画面の向こう側の、物語の中でのことで。
「両儀式」が、そこにいた。
※
死んで目が覚めたと思ったら、両儀式になっていた。
端的にいえば、そういうことになる。
ベッドの脇に置かれた丸椅子に、白衣の男が腰掛けている。
四十がらみの、穏和そうな表情を顔に貼り付けた医者だった。手元のカルテに目を落としながら、ゆっくりとした口調で何かを説明している。
その声を半ば聞き流しながら、未だ混乱の中にある頭の中で事態の把握に努めていた。
「両儀さん。聞こえていますか」
「……両、儀」
「そうです、両儀式さん。あなたの名前です」
呼ばれて、遅れて顔を上げる。
それが自分を指す呼び名なのだと理解するのに、一拍かかった。
鏡の中の顔は見間違いではなかった。この肉体は、確かに両儀式のものらしい。
医者の話はこうだった。
一年前、両儀式は交通事故に遭ったらしい。怪我の度合いは酷くなかったものの、頭部を強く打って病院に担ぎ込まれ、それきり目を覚まさなかった。検査では脳に目立った損傷は見つからず、それでも意識だけが戻らない。そうして一年、このベッドの上で眠り続けていたのだという。
らしい、としか言えないのは、自分にもそれが思い出せないからだ。
両儀式の記憶は、ひどく曖昧だった。覚えているものもあれば、思い出せないものもある。頭の中で手を伸ばせば届くものもあれば、伸ばした指の先で霞のように消えるものも。
とりわけ、この身に何が起こったのか。事故の日のことは、どれだけ思い出そうとしても、何ひとつ思い出すことは出来なかった。
自身に関することに答えることのできない自分を見て、医者は記憶障害だろうと言った。頭という繊細な場所に衝撃を受けたことによる、あるいは長期に渡って眠り続けていたことによる一時的な記憶の混濁。焦らなくていい、少しずつ戻ることも多いのだと、言い聞かせるように付け加えた。
はたから見ればそうなのだろう。けれど誰が信じるというのか。一人自嘲する。
一度死んで、目が覚めたら性別も違う別人になっていました、なんて。そんなことを口にすれば、記憶障害の上に別の病名が付け足されるに違いない。
だから、曖昧に頷くだけにした。
それを同意ととったのか、また何かを話し始めた医者の顔を、茫洋と眺める。
加齢による皺が乗った額の上を、首筋を、細い線が這っていた。床や壁に走っていたのと同じ、出鱈目なラクガキのような線。それは生きた人間にもあった。全てのものにあった。
直視すると、そこからボロボロと何もかもが脆く崩れていくような錯覚さえ覚えて、胃の底がざわついた。一口だけ飲んだ水でさえ吐き出しそうな気がしたので、医者の顔から目をそらし、目を伏せたままにすることにした。生き物より、無機物を見ている方がマシだった。
今ここで、他人の体に入り込んで生きている。そのすべてに、まるで実感が湧かなかった。
悪い夢でも見ているようだ。あるいは、一冊の絵本の中に放り込まれたとでも言えば適切かもしれない。そう思うのも当然だろう。誰だって他人の歴史を我が事として感じることなどできないのだから。出来るなんて言えるやつは錯覚か、あるいは精神を病んでいるに違いない。
頭の中にある両儀式の記憶は穴だらけで、そのうえ雨に滲んだ本のようだった。頁をめくっても、文字はところどころ流れて読めない。読める箇所にしたところで、それが本当に彼女の
けれど、わかることもある。
ここはきっと、自分の知る『空の境界』の世界ではない。
連絡のつく家族はいないと聞いた。この一年、見舞いに訪れた人間もいなかったと。
両儀の家の人間も、
物語の中で彼女を取り巻いていたはずの人々は、この少女のもとには一人として存在しない。
医者が言うには、両儀式は既に天涯孤独の身なのだそうだ。
身元保証人はいるにはいるらしい。入院の手続きも、費用のことも、そちらが引き受けているという。ただ、何やら先方が立て込んでいるようで、今は連絡がつかない。目を覚ましたことは伝えておくけれど、すぐに会うのは難しいだろう、と。
申し訳なさそうな顔をする医者には悪いが、正直なところ、ほっとした。
両儀式に入り込んだ
知らない自分。知らない世界。
そこに、一人きり。
つまりは、それが現実だった。
※
リハビリの日々を一週間ほど過ごして、ようやく退院の許可が下りた。
一年も眠っていた身としては早いのかもしれない。点滴を外してくれた看護師が、回復が早いですねえ、と感心したように言っていた。若いからかしら、とも。若いから、ではないのだろう。きっと、この体がそういうふうに出来ているだけだ。
本当はもっと早くに出ていきたかった。
早く人のいない場所に行きたかった。一人になりたかった。
病院という場所では、否が応でも人と顔を合わせることになる。そして顔を合わせれば、その上を這う線を見てしまうから。目を伏せて歩くのにも、もう疲れていた。
世話になった医者と看護師に簡単な挨拶だけを済ませて、足早に病院を後にした。
一年を過ごした場所を離れる。そうは言っても感慨の一つも湧かなかった。その一年のほとんどを眠ったまま過ごしたのだ、実感も何もない。何より、今の自分にはそんなものを噛みしめる余裕もない。振り返ることすらしなかった。
両儀式の家は総耶という街にあった。
駅からほど近い、古い家並みと新しい家並みがまだらに混じった住宅街。その一角に建つワンルームマンションの一室が彼女の住処だった。
住所は退院の際に受付の手元から盗み見た書類で知った。けれど道順を教えてくれたのは書類ではなく体の方だった。駅を出てどの道を行けばいいのか、頭の方ではちっとも思い出せないくせに、体の方が勝手に動いて、気づけば迷うことなく部屋の前に立っていた。記憶と呼ぶのもおこがましい、染みついた癖のようなもの。
ドアノブを回す。あっけないほど簡単に扉は開いた。鍵は掛かっていなかった。
普通なら空き巣の心配をするところだが、違和より先に不思議と腑に落ちた。ここの両儀式には鍵を掛けるような習慣はなかった。盗られて困るものなど何も置いていない。誰に入られようと構いはしない。投げやりにすら感じられる人間性。
中はがらんとしていた。玄関から少ししかない廊下の先に、居間と寝室を兼ねた部屋がある。
ベッドがひとつ。冷蔵庫がひとつ。最低限の家具だけが置かれている、というよりも置き去りにされている。生活の匂いが薄い部屋。きっと部屋の主には、趣味のひとつもなかったに違いない。
フローリングにはうっすらと埃が積もっていた。踏み込む度に足跡がひとつ、またひとつと残る。この一年、誰の出入りもなかったのだろう。
抜け殻のような部屋だった。
かつてここに住んでいた誰かが、ある日ふいと出て行って、それきり戻らなかった。そんな部屋。実際、そのとおりなのだけれど。
無意識に壁際のスイッチを押していた。パチリと軽い音がして、天井の電灯がつく。
台所の蛇口をひねってみる。ごぼりと一度咳き込むような音を立ててから、水は普通に流れ出した。
そういえば、病院の受付でも入院費は既に支払い済みだと言われた。一年分の入院費だ。決して安くはないだろう。この部屋の家賃にしてもそうだ。
誰が払っているのだろうか。例の身元保証人なのだろうか。
思って、深く考えないことにした。今考えたところで答えは出ない。出ない答えを探すより、先に片付けなければならない問題がある。
一番の問題。
それは、自分が何者かということだった。
洗面所の鏡の前に立つ。
病院で見たものより少し大きな鏡に、今の自分の姿が映っていた。
不揃いに伸びた黒髪。白い肌。華奢な肩。退院のために売店で用意しただけの間に合わせの服。
黒髪の少女がそこにいる。何度見てもそれは変わらない。
目を凝らす。鏡の中の少女の瞳のその奥に、爛と光るものがあった。
黒い瞳の底に、蒼い燐光が灯っている。硝子玉の奥で冷たい火が燃えている。
知っている。物語の中で何度も目にしたものだ。
――直死の魔眼。
病院で見たラクガキの正体がそれだった。
視界の至る所、赤白い線が走っている。鏡の表面にも、洗面台の陶器にも、蛇口にも、壁にも。そして、鏡に映った自分自身の体にも。
死の線。モノの壊れやすい箇所。そこをなぞれば、モノは死ぬ。
吐き気がするほどおぞましかった。
世界が縫い目だらけのつぎはぎに見える。今この瞬間に解けてばらばらになってもおかしくない、脆い何か。こんなものの上に自分は立っているのだと思うと、足元が抜け落ちるような心地がした。
それなのに。
どうしてだろう。美しい、とも思ってしまったのは。
細く、鋭く、モノを貫く死の線。それは何よりも正しいものの形をしていた。あらゆるモノが最後に行き着く場所。その道筋が、こんなにもはっきりと視えている。
気づけば指を伸ばしていた。鏡の端に走る線に、そっと触れる。
つぷり、と柔らかい感触があった。硬いはずの硝子に、指先がわずかに沈み込む。そのまま、爪で線をなぞった。
かきん、と澄んだ音がして、鏡が割れた。
蜘蛛の巣のような罅が走り、破片がぱらぱらと洗面台に落ちる。
そこに力は必要ない。紙を鋏で切るよりもなお容易い。ただ、なぞるだけで鏡は死んだ。
鏡だけではない。天井も、床も、この部屋も。なんであろうと、同じようになるだろう。無論、人間も。
死は、すべてのものにあるのだから。
割れた鏡の破片のひとつひとつに、少女の顔が映っている。
ばらばらの、いくつもの両儀式が、こちらを見ていた。
その眼から逃れることはできない。
目を潰したところで意味はないのだろう。死を視る眼球と、死を理解してしまった脳。その組み合わせが直死の魔眼だというのなら、眼がなくなったところで、脳はもう死を知っている。
眼球を潰せば、今度は閉じることのできない頭の中で、ずっと死と向き合うことになる。それは御免だった。
見たくないものから目を逸らすことすらできなくなるなんて、冗談じゃない。
元々の両儀式は、どうなったのだろう。それもわからない。
物語の中の彼女にはもう一人の自分がいた。両儀式の中にいたもう一つの人格。殺人を肯定する陰の側。両儀織。
この世界の織も、事故の日に式の身代わりとなって消えたのだろうか。物語の中でそうだったように。
だとすれば、自分は織がいなくなった穴に転がりこんだのだろうか。式はまだこの肉体にいるのだろうか。彼女は未だ眠っているだけなのか、それとも共に消えてしまったのか。
胸に手を当ててみても、答えは返ってこない。真実はわからない。
ただ、胸の奥。空いた穴。その空隙を埋めきれない、噛み合わないパズルのピースのような己がある。ガランドウに落ちたひとかけら。ひっかかってはいるけども、その隙間を通り過ぎる風が、ひどく孤独と違和を自覚させてくる。
せめて頭の中にでも話せる人がいれば。願ったって、一人のままだ。居るのならば早く目覚めてくれればいいのに。
己は一度死んだ身だ。
前世の自分が何者だったのか。名前も、顔も、どんな人生を送っていたのかさえ、今はもう思い出せない。それでも、死んだということだけは確かだった。
死んだくせに、人の身体に転がり込んでまで生きている。
なぜ。どうして。
わからないことばかりだ。
こんなものは自分ではない。そう思うのは簡単だ。
けれど、だからといって何ができる。まったくの別人として、この新しい生を幸運だと受け止めていいものか。二度目の人生だと喜んで好きなように生きていいものか。……そんな風に簡単に割り切ることは出来ない。
ならば死ぬか。この体を走る線をひと裂きすれば、容易いだろう。目の前にある砕けた鏡のように、呆気なく死ぬに違いない。けれどそれも出来そうにない。
自分の人生だと割り切ることもできず、かといって投げ捨てるほどに思い切ることもできず。どこまでも中途半端で不出来な自分。
この体は自分のものではない。この顔も、この髪も、この眼も。
けれど、たとえ紛い物であろうとも。異物であろうとも。
この体が「両儀式」であることに、変わりはない。
「……そうだな。オレは、両儀式だ」
そこから逃れることは出来ない。
ならば、決まっている。
両儀式として生きる他に、道はないだろう。
口調が定まる。己を定める。
割れた鏡の中で、少女の唇が小さく動いた。
「……悪いな。しばらく使わせてもらうことになりそうだ」
そうして、