両儀式(偽)が月姫にいる。 作:ありえない話
退院してから何度目かの夜だった。
街が寝静まるのを見計らって、シキは日の落ちた街へと繰り出した。
終電もとうに過ぎた時刻。
駅前の通りから一本外れれば、もう人の気配はない。
シャッターを下ろした商店。明かりの消えた窓。等間隔に並ぶ街灯が、無人のアスファルトに白い円をいくつも落としている。
動くものといえば自分だけ。あとはコンビニの明かりや街灯の下に時折浮かび上がる黒々とした影ばかり。
影の正体は電柱だったり、放置された自転車だったり、ゴミ捨て場のカラス避けのネットであったり。それらが光の当たり方ひとつで、怪物めいたシルエットを街に投影していた。
そんな夜を、冴え冴えとした月が照らしている。
雲ひとつない空に、ぽっかりと穿たれた穴が一つ。
白い孔は、隠すものも隠れるものも許さないとでもいうように、街の隅々にまで青白い光を流し込む。
それがなんだか、ひどく癇に障った。
見上げた先、どこまでも続く家々の屋根。この街は数え切れないほどの人間をその懐に抱え込んでいる。
――それなのに、こんなにもオレは一人だ。
気だるげに月を睨みつけて、シキは夜の街を行く。クローゼットに仕舞われていたブレザーの上に、安物の革のジャンパーを着流して。
昼間、学校へは行っていない。
何事もなければ、両儀式は今頃高校二年生の秋を迎えているはずだった。事故に遭った時点で休学の扱いになっているらしい、ということは医者から聞いた。療養を名目にすれば、しばらくはそのままでいられる。
素直に学校へ戻ろうという気はなかった。
教室に戻れば、そこには両儀式を知る人間がいる。クラスメイトか、教師か。彼らとは親しかったのか、そうでもなかったのか。
それさえも思い出せない相手の前で、両儀式の顔をして座っていられる自信はあまりなかった。
だからこうして、夜の
あてもなく、意味もなく、理由さえなく。
夜歩きを好んでいたのは、織の方だった。
式の場合は、いなくなった織の足跡をなぞるようなものだった――と、シキは記憶している。物語の中で、目覚めた彼女もまた夜を歩いていた。かつて半身がそうしていたように。
自分の場合はどうだろう。シキは考える。
この夜歩きを続ければ、両儀式という人間を知ることができるのだろうか。彼女が何を見て、何を思って夜を歩いたのか、わかるようになるのだろうか。
――いいや。
そんなことは考えていない。
ただ単に、それが両儀式らしい行為だから。
自分はそれをなぞっているだけに過ぎないのだろう。
※
しばらく眠った街を歩き続けた。
ふと顔を上げると、道路沿いに建つ一棟のマンションが目に入った。三階建ての、どこにでもあるような建物。
窓から漏れる明かりはぽつぽつとまばらで、白い光にしらじらしい生活感を感じ取る。
その入口に一人の女が立っていた。
三十を少し過ぎたくらいだろうか。ベージュのコートに、肩から提げた通勤鞄。仕事帰りに遅くなって、たった今帰り着いたところ。そういう風に見えた。
ぼう、とその姿を眺めていると、向こうもこちらに気づいたらしい。女は少しだけ首を傾げるような仕草をして、おいで、とでも言うように手招きをした。
迷子か、あるいは家出でもしてきた子供だとでも思ったのだろう。この時間に出歩く子供はそう多くない。ましてや吸血鬼などという噂が街に広まっている今では。
あながち間違いでもなかった。帰る場所はあっても、帰りたい場所があるわけではない。
そういう意味では、今の自分は迷子のようなものだった。
促されるまま、シキは女の後をついていった。
女はエントランスには入らなかった。建物の脇を回り込み、地下へと続く緩やかなスロープを下っていく。突き当たりには駐車場の入口らしいシャッターが下りていて、女はその隣の、非常用の鉄扉に手を掛けた。
振り返りもせず、扉の向こうへ消える。
無言のまま、シキもその後に続いた。
足を踏み入れた途端、甘い匂いがした。
脳髄をくらりとさせるほどに熟れた匂い。
柔らかな果物が腐り落ちる寸前の、濃密な甘さに似ている。
それは、口を開ければ味さえ感じられそうなほどに芳しい、血と、肉と、臓物の匂いだ。
背後でバタン、と扉が閉まる音がした。
続いてカチャン、と鍵の掛かる音。
後には闇だけが残された。
ポケットの中でシキは親指を滑らせる。
キチキチキチ。
乾いた音を立ててカッターの刃が伸びる。
闇の中。ぬうっと、白い手が伸びる――。
――それを、シキは躊躇いなく切断した。
ぐちゃり、と湿った音を立てて、女の手首から先が床に落ちる。
出血はない。血など、とうにその体には残っていないのだろう。
「こうやって誘い込んで、喰らってるわけか。お前らは」
誰に聞かせるでもなく呟いて、シキは闇の中を睥睨した。
駐車場の中には闇しかない。光源といえば、壁の高い位置に灯る非常口の誘導灯だけ。
緑色のピクトグラムが、走って逃げる人の形を頼りなく浮かび上がらせている。その微かな明かりでは、数歩先の床さえ定かではない。
けれど、シキには視えていた。
暗がりの中、のそりと身をもたげる人影がある。柱の陰、停められた車の向こう、天井の配管の下から。
そして、それらを埋め尽くすような死の線が。
常ならば、モノの上を走る死の線はまばらだ。揺らいで定まらず、ときに幾何学的な模様を描いてその表面を這っている。
けれど目の前の連中は違った。線の数があまりにも多い。顔も、腕も、胴も、隙間なく赤白い線に覆い尽くされて、その表情さえ読み取れない。
人に線があるのではなく、線そのものが人の形をとって立っているかのようだった。
死んでいるのに動いている。だから、こんなにも死に近い。
これなら暗闇だろうと、見落とすことはない。
死者の群れ。その数、六。
右手に構えるカッターナイフ。コンビニで購入しただけの、どこにでもある市販品。刃渡り僅か数センチ。力を込めれば簡単に折れる。
動く屍に対しては頼りない武装ではあるが。
けれどシキには関係ない。切って、突く。それさえ出来るのならば、なんでもいい。
瞬き一つ。瞬時に数と位置を把握して、シキは動く。
手首を失った女の死者が反応するより先に、その胴を走る線に刃を滑り込ませる。抵抗はない。即座に殺しきる。
手に伝わる刃が線を断つ感覚。それは甘美で、どこか清涼でもあった。
ようやく事態を呑み込んだのか、残りの五体が動き出す。その真ん中に。
己の裡にある何かに突き動かされるように、シキはトン、と軽く床を蹴って飛び込んだ。猫科の動物のようにしなやかに、動きに一切の無駄はなく。
手近な一体と刃の軌跡が重なる。すれ違いざまに首の線をなぞれば、ころりと首が落ちた。遅れて胴が崩れ落ちる。
それを見届けもせずにさらに駆ける。並んで立っていた二体の胴を、ひと薙ぎで纏めて断ち切った。上下に泣き別れた体が、床の上で湿った音を立てる。
残り二体。
残った死者の動きはひと際敏捷だった。
一体はまっすぐにシキへと駆けてくる。もう一体は人間離れした挙動で床を蹴り、天井へと跳び上がった。コンクリートを蹴りつけ、落下の勢いを上乗せして、砲弾のようにこちらへ降ってくる。
普通の人間ならば、肉体の反応が追いつかない。問題ない。
シキは足を止めないままに、頭上へ向けて刃を立てた。迎え撃つ必要すらない。降ってくる死者の頭から胴へと走る線に、刃の位置を合わせるだけ。反応できないのなら、向こうに裂かれてもらうだけだ。
唐竹に割られた死体が、シキの体を掠めて両脇に落ちた。
残り一。
正面から突貫してくる死者を前に、シキは足元に転がる死体の片割れを掴み、前へと押し出した。
突き出された腕が、恐るべき膂力をもって盾にされた死体を引き裂く。肉片が散る。
その一瞬があれば十分で、ばらばらになっていく死体の向こう、がら空きになった胸の中心。そこに走る線へ刃を突き入れる。
そして死者は、今度こそただの死体になった。
二度と動くことはない。残されたのは静寂のみ。
※
惨劇の場を後にしてシキは近くの公園にいた。
ブランコと滑り台と、砂場がひとつ。住宅街の隙間に申し訳程度に設えられた、小さな公園だった。
誰もいないベンチに腰を下ろして、荒い息を整える。
視界が歪んで明滅していた。
ツキリ、と。眼球の奥に何かが染み入るような痛み。
――いいや。
痛みなど、ない。
両儀式の肉体は特別だ。直死の魔眼を行使できるだけの性能が、元よりこの体には備わっている。
反動はない。負担もない。眼球が焼けることも、脳が軋むこともない。
あるとすれば、それはシキの
元より凡人。死を視ることになど慣れていない。受け止め慣れない情報の渦に耐えきれず、魂が勝手に悲鳴を上げているだけのこと。
錯覚だ。だから早く収まれと、シキは肩で呼吸を繰り返した。
死の線は、今も見えている。
いいや、常に、だ。
目を覚ませば天井に線がある。食事をとればその食物に線がある。目を閉じても瞼の裏にまで死線の残像がある。
魔眼殺しなんて便利なものを持っているわけもない。かといって、目を閉じたままでは生活に支障がある。この眼とは、一生付き合っていくしかないのだ。
顔を上げる。ベンチの座面に、水飲み場の蛇口に、錆びたブランコの鎖に。どこもかしこも死線が走っている。チカチカと目に焼き付きそうなほどに鮮明に。
シキはそれをじっと見つめた。
両儀式は、表面を見ようとしてはいけないのだ。物語の中の彼女はもっと深いところを視ていたはず。モノの表皮ではなく、その奥にあるものを。
焦点をずらすように意識する。目の前のものを見るのではなく、その向こう側へ視線を投げる。
ほどなくして、焼き付くようだった線がすうっと薄らいでいった。完全に消えることはない。けれど、さっきよりはずっとましだった。
脳裏に先ほどの光景がフラッシュバックする。
闇の中で身をもたげた人影。線に覆われた体。血の一滴も流さずに崩れ落ちた肉。
あれは死者だ。吸血鬼に血を吸われ、血を送られ、哀れにも動く死体にされた人間の成れの果て。
すなわち、この街には死徒がいる。
初めてあれに出会ったのは、夜歩きを始めて二日目の夜だった。
人気のない高架下。電車の通らない時間帯。そこに、背広姿のサラリーマンが立っていた。
終電を逃した酔っ払いだろうかと思ったのは一瞬で、街灯の下に出てきたその男は全身を死の線に覆われていた。そして襲いかかられた。
シキは動揺した。頭の中が真っ白になった。けれど体の方はいたって平静で、動揺するシキを置き去りにしたまま危機に肉体は反応し、ポケットの中にあったカッター一本でそれを惨殺した。気がついたときには、足元に動かなくなった死体が転がっていた。
そのときシキは知った。この世界の両儀式もまた戦える人間らしい。
それからは、夜歩きの最中に彼らを見つける度に、こうして滅ぼすのが日課になっていた。
死徒も、死者も、危険な相手だ。
人ではなくなった怪物ども。今殺せているのは直死の魔眼があるからで、出会っているのがまだ低級のものばかりだからに過ぎない。ただの人間が戦える存在ではない。
より高位の階梯のものが現れたとき、シキはきっと殺される。
魔眼はあらゆるものを殺す。殺すことができる。けれど結局のところ、殺すためには自分の手で線をなぞらなければならない。触れることさえできないほど運動性能に差が開けば、魔眼など無用の長物に成り下がる。なんの準備も、装備もない今のシキでは、到底敵わない相手もいるだろう。
だというのに、どうしてこんなことをしているのか。
関わらず、見ないふりをした方がずっと安全だ。魔を滅ぼしたいという衝動があるわけでもない。正義感なんてものも持ち合わせていない。それなのに。
それにこんなことを続けていれば、この街に来ているはずの聖堂教会に目をつけられかねない。あるいは、もう目をつけられているのかもしれないが。
……理由はシキ自身にもよくわかっていなかった。
この殺人の代替行為を続けていれば、夜を歩いた彼女のことが理解できるかもしれないと。そんな淡い期待でも持っているのだろうか。
結局のところ、死人を破壊したところでなんの代わりにもなりやしないというのに。
見上げれば、白い孔がまだ空に穿たれていた。