両儀式(偽)が月姫にいる。 作:ありえない話し‼︎
その夜も、シキはいつものように街を歩いていた。
けれど、街の様子はどこか違っていて。
何かが。どこかが。
眠った家並みも、灯る街灯も、昨日までと何ひとつ変わらない。それなのに空気だけが妙に張り詰めている。
嵐の前の静けさか。それにしては騒がしい。
肌の表面がちりちりと粟立つような、そんな夜。
風が吹いて匂いを運んできた。
どこかの家の夕飯、団欒の気配。車の排気臭。いいやそんなものではなく。
そして、殺し合いの気配。
遠くはない。せいぜい数百メートル先。
シキは少しの間、その場に立ち止まった。
関わるべきではない。頭の中でそう告げる自分がいる。踵を返して来た道を戻ればいい。それだけのことではあるが。
けれど足は、勝手にその方向へと向かっていた。
※
辿り着いた先は公園だった。
先日足を運んだものよりもずっと広い。芝生の広場があり、遊歩道があり、噴水がある。昼間であれば付近の住人が犬を散歩させ、昼休みの会社員がベンチで弁当を広げる、そういう憩いの場であったのだろう。
けれど。そこは今、戦場と化していた。
芝生は血を吸って黒ずみ、遊歩道には肉片が散らばっている。噴水の水はとうに赤く濁って溢れている。
シキは息を殺し、街路樹の影に身を潜めて、その人外魔境の光景を見守った。
公園には二つの存在があった。
一つは獣たちだった。
犬や狼のような哺乳類から、あるいは鳥類、爬虫類、またそのどれとも似つかない、けれどいずれも爪や牙を備えた獣の群れ。
数は多く、多く、ひたすらに多く、広場のほとんどを埋め尽くしている。
その中心に、一人の男が立っていた。
黒い男だった。黒い外套に、色の抜けた髪。黒の気配。
けれどそれは闇の黒ではない。あらゆる極彩を混ぜ合わせ、混ぜ合わせ、混ぜ合わせた末に辿り着いた、混沌であるが故の黒。シキの眼にはそう視えた。
黒が相対する先に、白があった。
純白の白。白の女。
血に濡れた地面の上に立ちながら、その体には汚れの一つ、血の一滴すらない。
月光を浴びて輝く金の髪。闇の中でもなお紅い瞳。その
美しい、と思った。けれどそれは人に向けるものではなく、例えば聳え立つ山嶺を前にして抱く、寒々しい畏れに近い。
白の姫君が、凛とそこに立っていた。
男の視線が動く。それを合図に、獣たちが一斉に動いた。
狙いは女ただ一人。あっという間に取り囲み、牙を突き立て、爪で切り裂き、解体せんと四方から躍りかかる。
並の人間であれば死ぬしかない。いいや、たとえ怪物であろうとも。
シキが夜ごと殺してきた死人のような怪物であろうとも、なす術なく食い散らかされるだろう。残酷なまでの暴力の渦。
けれど、けれど。
――けれど。
女は、ただの怪物などではなく。
降りかかる獣を、女はその爪のみで寸断した。
月兎が跳ねる。
白い影が跳ねるそのたびに、十、二十と獣が消える。性能が違う。いいや、
ものの数秒で、群れの半分が壊滅した。
圧倒的な戦闘能力。それはもはや戦いではなく、一方的な殺戮だ。
しかし、相対する男もまた普通ではなく。
引き裂かれた獣の死骸がずるりと溶ける。泥のように地を這って、男の内側へと舞い戻る。そしてまた、新たな獣がそこから生み出される。尽きることのない獣の群れ。
シキは知っている。その男の名を。
死徒二十七祖第十位、ネロ・カオス。
その身の内には一つの世界があり、六六六の獣の因子が内包されている。繰り出される獣の一匹一匹、そのすべてがネロ・カオスそのものなのだ。
彼を滅ぼすためには、内包する命すべてを一度に断たねばならない。不死に限りなく近い、不滅の死徒。
それでもシキは、女の勝利を疑わなかった。
知っているから、というのもある。
アルクェイド・ブリュンスタッド。真祖の姫君。
その力は絶大だ。彼女こそが真祖の処刑人。死徒の天敵。たとえ相手がネロ・カオスであろうともなんら引けを取りはしない。いいや、鎧袖一触にするに違いない。何より、
そんなシキの確信とは裏腹に、戦いの趨勢は片方へと傾きつつあった。
獣の群れを屠る速度がわずかに落ちる。爪の振るわれる間隔が間延びする。動きが緩慢になっていく。超然としていたその表情に、苦しげなものが混じりはじめる。
圧倒しているのは彼女の方だ。獣たちは彼女に対し、未だ傷一つつけることもできていない。それなのに、追い詰められているのは彼女の方だった。
――追い詰められている?
ありえない。
彼女はまだ、殺されたことはないはずだ。一度死んで蘇ったことによる弱体化もまだない。そんな彼女が苦戦するなどありえないはず。
その気になれば、ネロ・カオスを滅ぼすことなどわけないはずなのに。たとえば、空想具現化。世界そのものと同化し、星の権能を振るえば、獣の群れなど黒の男ごと一息で消し飛ぶだろう。
けれど彼女は、その素振りすら見せない。
――あるいは。
――使わないのではなく。使えないのか。
真祖はその力の多くを吸血衝動の抑制に割いている。
仮にその衝動が強まることがあるとすれば、戦いに割ける力はさらに少なくなるだろう。
そのために、なのだろうか。いいやすべては推測の域を出ない。
シキが考えている間にも状況は動く。
砕かれた獣たちが地に落ちる前に形を失った。どろりと溶けて泥状になり、うねりながらアルクェイドの体へと絡みつく。
足に、腕に、胴に。白い肢体を呑み込むように、黒い泥が這い上がっていく。
あれはきっと、『創世の土』。
ネロ・カオスの六六六の獣の因子、そのうち五〇〇を結束させて作り出す魔術。物語の中で語られていたその強度は、大陸を一つ破壊するにも等しいという。
ネロ・カオスの体内に等しい混沌。
それに囚われたアルクェイドは、食われるだけだ。
――どうする。
シキは咄嗟に周囲を見渡した。
アルクェイドがここで負けるはずはない。負けてはいけない。きっと、どうにかしてあの泥から抜け出して、勝つはずだ。
そう思いながら、けれどシキは何かを探してしまう。
誰か、誰か。彼女を助ける者は。
――いいや、いいや。誰もいない。誰も、いない。
夜の公園には誰もいない。死徒と真祖の他には誰も。
そう。木の影に隠れている、自分の他には誰も。
ネロ・カオス。
男はちょうどシキに背を向ける位置に立っていた。表に出ている獣も今はなく。
邪魔は、入らない。
両儀式ならどうするか。
それとも、シキならどうするか。
考えて。考えて。そして。
不意に、目が合った。
きっと偶然だったのだろう。泥に半身を呑まれたアルクェイドの、その紅い瞳が、木陰のシキの瞳と交差した。
自身が食われている最中だというのに、その瞳にはなんの表情も浮かんでいなかった。助けを求めるでもなく、諦めるでもなく。ただ、そこにシキがいることを見ているだけの視線。
舌打ちを一つ。
「……何やってんだろうな、オレは!」
気がつけば、木の影から飛び出していた。
アルクェイド・ブリュンスタッドであれば、一人だろうと何とかできるだろう。シキはそれを知っている。物語の中の彼女は、こんなところで終わったりはしない。
知っていて。けれど、見たままにしておくことはできなかった。
※
最短距離を駆ける。
駆けながら、右手でポケットのカッターを抜き出し、親指で刃を押し出す。
キチキチキチ。乾いた音が夜気を裂く。
そしてシキはネロ・カオスを視る。
視る。視る。視る。
黒い外套の上から死の線が視える。けれどきっと、線を断つだけでは足りない。ネロ・カオスという一個体をただ殺したところで、内に抱えた六六五の命がそれを補ってしまう。内包する命すべてを一度に殺しきらなくては死ぬことはない。
ならば、ネロ・カオスを
駆ける刹那に目を凝らす。線ではなくその源。存在起源の死そのもの。それを視る。
それは両儀式には視えないはずのもの。物語の中の彼女が視ていたのは、あくまで線だ。点を視ていたのはもう一人の眼の持ち主。
だが視る。視えないはずのものを視ろ。死をより鮮明に理解しろ。
眼球が軋む。脳髄の奥で、歯車が組み替えられる。そんな
そして、微かに捉えた。
男の左胸。心臓の位置。線を束ねたその先に、ぽつりと浮かぶ黒い点が。
残り、三歩。
ネロ・カオスは動かない。
その意識のすべては、咀嚼の最中にある真祖の姫君へと向けられている。背後から駆け寄るたった一人の人間など、認識すらしていない。する必要がない。
だからこそ、ここまで近づけた。
――その、瞬間。ネロ・カオスの影が蠢いた。
足元から獣が飛び出してくる。開かれた大顎が、まっすぐシキへと躍りかかる。
わかっていたことだ。
たとえネロ・カオスが気づかなくとも、その裡の他のネロが周囲を見ている。六六六対の眼が四方を見張っている。この男に奇襲は通用しない。
迫る牙。涎を垂らして開かれた顎。
引き延ばされた時間の中で、シキはそれを落ち着いて見つめていた。
予想できたこと。ならば問題ない。
駆ける勢いをそのままに、シキはぐんと上体を倒した。
背中を掠めるようにして跳び越えていく獣の、その腹を走る線へ、振り上げた刃を合わせる。
獣が二つに分かれて落ちる。
息つく間もなく、次の影が跳ねた。距離が近すぎる。シキは勢いを殺さぬまま斜め前方へと跳び、間合いを外しながら、返す手で獣の首を払った。頭部を失った体が地に落ちる。
ぐるりと弧を描いてシキは男の正面近くへと回り込んでいた。
ネロ・カオスがそこで初めて振り返った。
じろり、と濁った眼がシキを睨め付ける。
「ほう……人間か」
その眼に浮かぶ色は、人が足元の虫を見下ろすときのそれに似ている。
すなわち、無だ。
「使い魔か? ならば遅いぞ。姫君は既に我が手中にある。どうすることもできんぞ、人間」
「残念だけど」
ネロの声を遮って、シキは言った。
「生憎、使い魔なんかじゃない。ただの通りすがりだ。お互い、顔も知らない仲だろ」
「ならば何故だ」
「さて、ね」
シキは小さく首を振る。
「それがわかれば苦労しないんだが」
死徒と人。
会話が成立しているようで、その実そう見えているだけ。
互いに、己のためだけに言葉を口に出しているに過ぎない。
だから、束の間の均衡は、すぐに脆くも崩れ去る。
「丁度いい。我が命は尽きぬとはいえ、姫君に体を裂かれたばかりでな。些か、養分が足りておらぬ」
〝命、喰らわせろ〟。
言葉を狼煙に、ネロとシキは同時に動いた。
黒い外套がはためき、その内側から獣が繰り出される。
対してシキは一直線に駆けた。
ネロ・カオスではなく、アルクェイド・ブリュンスタッドの方へと。
女を拘束する泥へ、手にした刃を一閃。そのまま、一突きにする。
「無駄だ。真祖の姫君ならばいざ知らず、ただの人間が我が魔術に触れられると思うな」
思いあがるな人間。
刃を突き出したままの無防備なシキの背に、ネロ・カオスを代行し獣が食らいつく。肩口に牙が食い込む。
「終わりだ」
「ああ――」
獣の顎に呑まれる寸前。
そこで初めて、ネロとシキの視線がぶつかった。
「――
※
その瞬間、ネロ・カオスは異常に気づいた。
自身を構成する六六六の獣の因子。そのうち五〇〇にも亘る己が死んでいる。
己の半数以上が死に絶えている。その特大の異常が、雷のようにネロの全身を駆け巡った。
死んだだけならば、まだいい。死んだ命はネロの裡へと回帰し、即座に蘇る。それがネロ・カオスという存在である。
けれどそれらは戻ってこない。
回帰しない。蘇らない。完全に消滅していた。
「ぬう……!?」
――何が起こった。何をした。
――違う。
――こいつは、ただの人間ではない!
ネロの全神経、全感覚が総毛立つ。久しく忘れていたはずの死の感覚に戦慄する。
目の前の存在の認識を、有象無象から敵へと書き換える。
全力をもって殺せと、内なる一六六の命が一斉に叫ぶ。
けれど、ネロ・カオスは見落としていた。
己の多くを人間に殺されるという、不可解極まる事象を前にして。真に警戒すべきものが、何であったのかを。
一秒にも満たない時間。
けれど確かに、ネロ・カオスは忘我した。
故に、こうなることは決まっていた。
塵となって崩れ去る泥土の中で。
ゆらり、と。純白の腕が、
ネロ・カオスはそれに気づいたか。どちらだろうともう遅い。
その腕が振り下ろされる刹那。
シキの眼には、世界を
ギロチンが落とされる。
空間ごと歪曲し、圧縮し、破壊する一撃。
黒い男の姿は、夜の中から跡形もなく消し飛んだ。
※
戦いが終わった。沈黙の帳が落ちる。
つい先刻まで、獣の咆哮と肉の裂ける音に満ちていた公園は、嘘のように静まり返っていた。
いや、もはや公園とは呼べなかった。戦いの煽りを受けて、そこは跡地としか言いようのないほどに破壊し尽くされていた。原型を留めている遊具はひとつもなく、噴水は砕け、芝生の広場には抉れた跡がいくつも口を開けており、根こそぎ倒れた街路樹が折れた枝を夜空へ突き出していた。
シキは覆い被さっていた獣の残骸を押しのけた。
アルクェイドの一撃の余波を受けて千切れ飛んだものだ。それはもう動かない。持ち主の元へ還ることもなく、ただの肉塊になっている。
打ち捨てて、立ち上がる。
牙の食い込んだ肩口がずきりと痛んだ。ジャンパーの革ごと裂けて、じわりと血が滲んでいる。けれど、傷は浅い。あと一瞬でも彼女の攻撃が遅れていれば、きっとこれだけでは済まなかっただろう。
「ねえ」
声がした。
いつの間にか白い女がすぐ近くに来ていた。
その体に死の線が視えた。薄く、けれど確かに。白い肌の上を、細い線が幾筋か走っている。戦いの前には視えなかったはずのもの。
反射的に、目を逸らしそうになる。
けれどシキは目を離せなかった。わずかに瞠目したまま、ただその姿を見つめていた。
――ああ、なんて。
何かを言いかけて飲み込む。代わりに差し障りのないことを口にする。
「やつは……死んだのか?」
「いいえ。ぎりぎりのところで逃げられたわ」
シキの問いにアルクェイドは淡々と答えた。
悔しがるでもなく、苛立つでもなく。ただ起きた事実を述べるだけの声。
それきり言葉が途切れた。
気まずい沈黙が落ちる。けれどアルクェイドは、シキの前から動こうとしない。
「ねえ、あなた。さっきのは、どうやったの?」
不意に、純粋な疑問だけを声に乗せて、アルクェイドは問いかけた。
「どうって。これで切って、突いただけだ」
カッターをぴっと振って汚れを払い、刃を収めてジャンパーのポケットにしまい込む。
それ以外のことは企業秘密だとばかりに伏せておいた。もっとも、彼女であればすぐにその答えに辿り着くだろうが。
「ふぅん……」
アルクェイドは訝しげな声を漏らした。
かと思うと、つかつかと不用心に歩み寄ってきて、ずいと至近距離からシキの顔を覗き込んでくる。
「――――、」
シキは思わず黙り込んだ。
互いの吐息すら感じられる距離。金色の髪の先が、微かに頬に触れる。
紅い瞳がすぐそこにあった。
戦いの最中、遠くから見たときには何の感情も映していないように見えた瞳。それがこうして間近にある。その赤が、ただ本当に綺麗だと。シキは思った。
「……ま、そういうことにしておいてあげるわ」
しばらくじっと見つめた後、唐突に興味を失ったように、アルクェイドはふいと顔を背けて離れた。
「もう一つ聞くわ。どうしてこんなことをしたの。あなた、教会の人間でもないわよね」
「言っただろ、通りすがりだって。……どうして、ね」
シキは、夜空を覆う天蓋を見上げた。
地上の惨状とは何の関わりもなく、白い貌は変わりなく、そこに浮かんでいる。
「――月がこんなに綺麗だから、一人くらい気の違ったやつも出てくるもんだろ。……余計だったか?」
「ええ」
「だろうな」
そっけないアルクェイドの返答にシキは肩を竦めた。
そう。本当に、必要のないことだった。
助けなどなくとも、アルクェイドはこの窮地を一人で切り抜けられただろう。彼女はそういう存在だ。
結局のところ、自分がしたいからしただけだ。両儀式らしさとか、そういうのは関係ない。
見捨てなかったのではなく、見捨てられなかった。ただ、それだけの話。
「でも、人間に助けられたのは初めてよ」
アルクェイドは変わらず平らな声で続けた。
「だから――ええ。こういう時は、ありがとう、って言えばいいのかしら」
予想していなかった言葉に、シキはぱちぱちと瞬きをした。
礼の言葉ではあるが、その声には温度がない。知らない言語の単語を教えられたとおりに口にしてみただけのようではあるが。
それでも確かに彼女はそう言った。それがなんだか、少し可笑しかった。
「この街の死人の巣を潰していたのも、あなたよね」
「……まあ、そうだな」
「助けてくれたことには、礼を言うわ。でも、忠告もしておく」
紅い瞳がもう一度だけシキを捉えた。
「あなたは、これ以上こちらに関わるべきではないわ。ただの人間が奴らに目を付けられたら、死ぬしかないんだから」
それだけを言い残して、アルクェイドは身を翻した。
跳躍を一つ。倒れずに残っていた街路樹の幹を蹴って、白い影が夜の向こうへと消えていく。
後には何も残らない。
それを見送って、シキは溜息を一つ吐いた。
肩の傷が、今になってじくじくと疼きはじめる。
関わらない。
そう決めて、そうできるのなら、苦労はしないのだが。
結局のところ、それが出来ないことが、シキの弱さなのだろう。