両儀式(偽)が月姫にいる。 作:ありえない話し‼️
昨夜は結局、うまく眠れなかった。
目を閉じれば白い女の紅い瞳が。そして泥の中で死んでいった五〇〇の命の手触りが交互に浮かんだ。……命。殺したことに変わりはない。
噛まれた肩は熱を持って疼き、寝返りを打つたびに目が冴えた。
昼過ぎに点けたテレビでは昨夜の公園が映っていた。原因不明の陥没事故。ガス爆発の可能性も、とアナウンサーは言った。けが人はなし。それきり、画面はすぐに次のニュースへと移った。
……これ以上関わるべきではない、と彼女は言った。けれど部屋の中でじっとしていても、傷が疼いて落ち着かない。
ぼうとテレビを流しているのにも飽きたので、少し早めに外に出た。足の向くまま、いつもより少しだけ遠くへ。
気まぐれにそう決めたのが悪かったらしい。
駅を二つ分ほど歩いたあたりでにわかに雨が降りはじめた。
降り始めは頬に一粒二粒と当たる程度の小雨だったが、それがあっという間に勢いを増して、気づけば辺り一面が白く煙るほどの降りになっていた。
傘など持って歩いているわけがないので、当然のようにずぶ濡れになる。
頬についた髪の感触が鬱陶しい。うなじが
けれども軒先に逃げ込んで雨宿りをする気にもなれなかったので、そのまま歩くことにした。
ぱちぱちぱち。
ざあざあざあ。
まるでノイズの中に身を浸しているかのようだった。
ジャンパーの革に、家々の屋根に、アスファルトに。あらゆるものの上で雨粒が落ちては弾け、その音が幾重にも重なって、世界をすっぽりと覆い隠している。
雨に霞む街の景色は、描きかけの水彩画のように朧気だ。輪郭から滲んで消えてしまいそう。こんな雨では出歩く人も居やしない。その中を一人、彷徨い歩く自分は亡霊か。そこには交われない境界が引かれていて、異物たるシキだけをくっきりと浮かび上がらせている。そんな錯覚さえあった。
ジャンパー一枚だけでは雨は防ぎきれない。
頭から伝った水があっという間に襟元から内側へと侵食して、重くなったブレザーの生地がじっとりと肌に張り付いた。
秋口の雨は、ひどく冷たい。容赦なく体温を奪っていく。指先はとうにかじかんで、もう少しすれば体も震えはじめるだろう。
それでも寒い、とは思わなかった。
歩くうちに公園に辿り着いた。
つくづく公園というものに縁があるな、と何気なしに思う。
見覚えのない公園だった。
昨夜の公園ほど広くはなく、死人を殺した後に息を整えたあの公園ほど狭くもない。
雨に打たれる遊具と、水溜まりの広がる砂場と、水を吹いてるのか雨を貯めこんでるのかわからない噴水。等間隔に並ぶ街灯。どこにでもあるようなありふれた夜の公園。
ふと、視界の端に入ったベンチ。
そこに幽霊がいた。
制服姿の一人の少年だった。
降りしきる雨の中、傘も差さずにベンチに座り込み、深く項垂れている。濡れそぼった黒髪から、絶え間なく雫が滴り落ちていた。
膝の上で組んだ両腕に顔を埋めるようにして、まるで世界のすべてから閉じこもるように、少年はそこにいた。
幽霊のよう、とシキは思った。けれど幽霊とは少し違う。
幽霊は未練があるからこそ、死んだ後もこの世にしがみついている。
けれどあの少年は逆だ。まだ生きているのに、ここから消えていなくなろうとしている。いなくなりたいと願っている。
シキはその少年を知っていた。この場面も。
物語の中で少年は今夜取り返しのつかない罪を背負って、こうして雨に打たれていた。
一つの分岐点。
けれど見渡しても、公園には誰もいない。彼に傘を差し出す誰かは、どこにも現れない。
ここにいるのは物語の外から転がり込んできた異物が一人きり。それも傘の一本も持っていない。
「…………」
シキは立ち止まって考える。いつものように。
関わるべきか。関わらざるべきか。
――馬鹿馬鹿しい。
頭の中でその問いを一蹴する。
それを考える必要があったのは、もうずっと前のことだ。今更どうだこうだと考えるには、あまりにも遅すぎる。
低く息を吐いて、シキは少年の方へと歩いていった。
※
ベンチの前で足を止める。
少年は顔を上げない。すぐそこに人が立ったことにさえ気づいていないようだった。
「――死んでるか? 遠野志貴」
シキのぶっきらぼうな声に、少年は微かに身じろぎをした。
ひどく緩慢な動きで顔が上がる。
額に張り付いた前髪の奥で、焦点の合わない瞳が
眼鏡の下、微かに灯る蒼い燐光。……錯覚だ。けれど直死の魔眼はそこにある。魔眼殺しが力を抑えようと消えることはない。
「……し、き」
消え入りそうなほど小さく、話し方を忘れてしまったかのような掠れた声で、少年は――遠野志貴はそう呟いた。
「…………死んでたら、返事、できないだろ」
「確かに。生きててよかったな、志貴」
自然とそう口にしてから、シキはふと気づく。
どうしてこの少年の名前をこんなにも当たり前に呼べたのだろう。少しだけ考えて、その理由を思い当たる。
遠野志貴と両儀式はどうやら面識があるらしい。
それが両儀式の昏睡する前の、高校に上がってからのことなのか。それとも、もっと幼い頃からのことなのか。そこまでは思い出せなかったが。
志貴の体は震えていた。
それは寒さから来るものか。それとも恐れか。――あるいは悔いか。
おそらくはそのどれもだろう。己のしでかした行為を、目の前の現実を受け止めきれずに、少年はただ自失している。
ならば、遠野志貴は殺したのだろう。
昨夜シキが出会ったあの白い女を。アルクェイドという名の真祖を。それをシキは
物語の中でそうなることを知っていた。知っていたはずだった。
遠野志貴はアルクェイド・ブリュンスタッドを十七に分割して殺害した。シキはそれを知りながら、けれど何もしなかった。ひとつの命を見殺しにした。志貴が殺人を犯すことを知っていながら、見過ごした。
知っているから何か出来たはず、と思いあがることはないが。
そのことに何か――何か、思うところが、ないわけでもない。
「おまえ、このままなら死ぬぜ」
わかり切ったことを口にする。
志貴は何も答えなかった。
否定も、肯定もしない。まるでそれを望んでいるかのようだった。
力なく垂れた手にはまだナイフが握られていた。
銀色の細い刃が街灯の明かりを鈍く跳ね返して、剣呑な気配を醸し出している。
それを自分の喉に突き立てれば。事は簡単に済むだろう。
けれど志貴にはそれができない。
まだ正気だから。正気を投げ捨ててしまえば楽になれるのに、狂うこともできず、かといって立ち上がることもできず、ただ打ちのめされていることしかできない。
行くべき場所を見失った迷子のようだった。
「家に帰れよ。それか、動けないなら迎えにでも来てもらえ」
「…………」
志貴は、のろのろと首を横に振った。
それは困る、と。
動けない。動きたくない。どこにもいけない。いきたくない――。
言葉にならない拒絶が、項垂れた肩から滲み出している。彼を苛む罪の重さに、そのまま押し潰されてしまいそうに見えた。
そんな志貴を見下ろして、シキはまた短く息を吐いた。
「死にたくないけど、生きたくもない、か」
雨音に紛れるほどの声で呟く。
「気持ちはわかる、とかは言ってやれないけどさ」
一歩、近づく。
有無を言わせず、ナイフを握ったままの志貴の手を掴んで、強引に引き寄せた。
死体のように冷たい手。生気がない。けれど、まだ生きている。脈を打っている。
まだ残っているものがあるのなら、それは投げ出すべきではない。
「死んだって、どうにもならないぜ。おまえだって知ってるだろ。向こうにはなんにもないからな」
「……」
「なんだ、帰れないって? そりゃ帰りたくないの間違いだ。おまえは、取り返しのつかないことをした自分にはどこにも行っていい場所なんてないって、そう思いたいだけだろ。罪を犯したってどうにもならなくたって、世界が簡単に止まってくれるもんか」
志貴は何かを言いたげに、紫色に褪せた唇を震わせた。
けれどその微かな声は、降りしきる雨音にかき消されて、シキの耳までは届かなかった。
「おまえにはまだ帰れるところがある。だから帰れ。自分がどうしようもない人間だって決めて投げ出すのは、その後からでもいいだろ。……帰りたくても帰れなくなったら、もう遅いんだから」
言って、シキは顔をしかめる。今のは余計だったな、と舌打ちをした。
引き上げるようにして、志貴を立ち上がらせる。
膝が笑っている。自力では立っていられないらしい。仕方なく、その腕を自分の肩に回させた。
途端に肩口に鋭い痛みが走った。
昨夜、噛まれて牙が食い込んだ場所だ。濡れた布地の下で、塞がりかけていた傷がじくりと疼く。
シキは小さく声を漏らして、それでも志貴の腕を離さなかった。
さて、どこへ運ぶか。
シキのマンションは、ここからでは少し遠い。この雨の中、ろくに歩けない男を引きずっていける距離ではない。
ここからなら、遠野の屋敷の方が近いだろう。 雨に煙る街並みの向こう、坂の上。黒々とした木立に囲まれて、古い洋館の影がぼんやりと浮かんでいる。
どうしてだろう。初めて見るはずのその影が、ひどく懐かしいもののように思えた。
シキは首を振って感じたそれを振り払い、坂道へと足を向け直した。
「……意外と重いな。動けるなら、ちょっとくらい自分で歩いてくれ」
返事はない。それでも、引きずられるだけだった足が、ほんの少しだけ前に出た気がした。
シキの体も、とうに冷え切っていた。
触れ合った肩と肩の間に、温もりと呼べるものは何もない。冷えた体を二つ寄せ合ったところで、熱を分け合うことはできない。
出来ることは、ただ、こうして重みを引き受けることだけだった。
両儀式(偽)ルート?