両儀式(偽)が月姫にいる。 作:ありえない話し‼️
国道沿いの歩道を二人分の足音が引きずるように進んでいく。
等間隔に立つ街灯は乏しく、その頼りない明かりに照らされて、肩を寄せ合った二人の影がひとつに溶け、歪な形でアスファルトの上に伸びていた。
車の一台も通らない。聞こえるのは降りしきる雨音と、シキの荒い息と、志貴の引きずる靴音だけ。
肩を貸す、というよりも、ほとんど背負う形になってしまっていた。志貴の体重が掛かるたびに、肩の傷口だけが灼けた鉄を当てられたかのようにじわりと熱を持つ。
遠野家の敷地は広い。塀の向こうには鬱蒼とした木立が黒々と茂り、その奥に何があるのかは窺えない。門に辿り着くまでの間、シキはその塀をずっと横目に眺めながら歩かなくてはならなかった。
塀の先。木々のカーテンの向こうはきっと異界だ。世間という外界から隔離され、余人の目が届かない別世界。そこではきっと、どんな秘密だろうと覆い隠されるだろう。
坂を上り切った先、正門の前に誰かが立っていた。
門柱に据えられた小さな電灯が、雨の中にひとりの人影を浮かび上がらせている。
傘を差した少女だった。
頭の後ろで結ばれた青いリボン。黒い着物の上に白いエプロン。時代錯誤に古風な装い。一人門前に立つ姿は〝待ち人来ず〟という言葉を連想させる。
水溜まりを踏む足音に気づいたのか、少女の視線がこちらへと向けられる。その目は琥珀色をしていた。
少女はまず両儀式の姿に驚いたようだった。大きな瞳がさらに丸くなる。
それから、その肩に担がれているのが遠野志貴であることに気づいて、もう一度、目を丸くした。
そんな少女にシキは軽く声を掛ける。
「よう。落ちてたんで拾ってきた。入れてもらっていいか?」
「し、志貴さま!? ああ、どうしましょう――」
少女は慌てたように、シキを見て、志貴を見て、またシキを見た。
部外者をどう扱ったものか、一瞬だけ思案し、けれど結局は、志貴のことを優先することに決めたらしい。傘を畳むのももどかしげに、固く閉ざされた自動車用の大きな門の傍らへと駆け寄り、人が通るための小さな扉を開けて、こちらへと手招きをする。
――昔はここに守衛がいたんだけどな。
ふと思って首を傾げる。どうしてそんなことを知っているのか。
違和感。けれど今はそれを無視して、少女の先導に従った。
石造りの門を抜けて、敷地の中へと入る。
門から屋敷までは、なだらかなスロープになった道が続いていた。両脇には手入れの行き届いた植え込みが並び、雨に濡れて黒く光っている。
少女と二人、志貴の両側を支えながら、その道を進んでいく。
この道を、知っている。
一歩進むごとに違和感は大きくなっていった。そして、いつの間にか別のものへと変わっていく。
どこで道が曲がるのか。どのあたりで屋敷の姿が木立の向こうに見えてくるのか。頭では何ひとつ思い出せないのに、足がそれを知っている。思い出せなくとも体が覚えている。
――両儀式は、確かにここにいた。
隣を歩く少女に気取られないよう、表情には何も出さずにシキはそう確信した。
やがて木立が途切れる。雨の帳の向こうに、白亜の城の如くの遠野邸が姿を現した。
二人がかりで志貴を玄関ホールまで運び込むと、奥の方からぱたぱたと慌ただしい足音が近づいてくる。
現れたのはもう一人の少女だった。
クラシカルなメイド服に身を包み、髪をきちりと整えている。その目は翡翠色をしていた。
少女は一瞬、緊張するようにシキを見た。見慣れぬ者に対する硬い視線か。けれどやはり、彼女もすぐに志貴の方へと意識を向け直した。
もうほとんど意識を失いかけている志貴を二人の少女は両脇から支え、奥の部屋へと運んでいく。遠ざかっていく足音。
……そうして残されたのは濡れ鼠のシキだけだった。
所在なくホールを見渡す。高い天井。磨き上げられた床に、深い色の絨毯。壁には古めかしい絵画が掛けられ、正面には二階へと続く大きな階段が伸びている。
まるで違う国の違う時代に迷い込んだようだった。
ワンルームマンションに住んでいる身としてはどうにも落ち着かない。
とはいえ、やはりどこかに既視感があるのも事実だった。階段の手すりの形も、天井から下がる照明の影も、どこかで見たことがあるような気がする。
ぽたぽたと髪の先から滴が垂れて、足元の絨毯に染みを作っていく。
絞れば水が出そうなほど全身がびしょ濡れだった。このまま立っていれば、高価そうな絨毯をますます汚してしまう。それもなんだか気が引ける。
志貴を送り届けるという仕事は果たした。これ以上ここにいる理由もない。さっさと退散してしまおう。そう思って玄関の方へ顔を向け直したその時。
「待ちなさい」
凛とした声がホールに響いた。
振り返る。正面の大階段の上に、一人の少女が立っていた。
遠野秋葉がそこにいた。
※
長い黒髪の艶やかな少女だった。
年の頃は両儀式の少し下ほど。清楚な紺の装いに背筋の伸びた立ち姿。手すりに軽く手を添えたまま、少女はゆっくりと階段を下りてくる。
その顔には冷たく厳しいものが浮かんでいた。整った眉がわずかに寄せられて、射抜くような視線が真っ直ぐにシキへと向けられている。
なるほど、警戒されている。当然だろうとシキは思う。
相手はあの遠野秋葉だ。物語の中で知っている。まだ若いとはいえ遠野家の当主を務める才媛である。そして彼女が兄を慮る気持ちは本物だ。
こんな夜更けにずぶ濡れの見知らぬ人間が、意識の朦朧とした兄を担いで屋敷に上がり込んできたというこの状況。警戒、敵意を向けはすれど歓迎なんてするわけがない。
階段を下りきった秋葉はシキの数歩手前で足を止めた。
そして思いのほか丁寧な所作で小さく頭を下げた。
「兄を連れ帰ってくださったこと、お礼を申し上げます」
声は硬い。けれど、礼の言葉に嘘はなかった。
「確認です。兄さんに何があったんですか」
「さあ、オレには詳しいことはなんとも。公園のベンチで座り込んでたのを見つけたから、連れてきた。それ以上のことは本人に聞いてくれ」
シキは肩を竦めて答える。嘘ではないが、本当のことでもない。
志貴が今日何をしてしまったのか。もしそれを答えるときがあるとすれば、それはシキではなく本人の口から伝えるべきことだ。こんな半端な部外者なんかからではなく。
「…………」
「…………」
秋葉はしばらく黙ってシキの顔を見つめていた。
量るような長い沈黙。秋葉は何かシキの方から言ってくるのを待つように口を開いて閉じて。やがて小さく息を吐き、低く抑えた声で詰問を始めた。
「それで、一体どんな風の吹き回しで戻ってきたのですか。
「……姉さん?」
シキは思わず
予想外。馬鹿みたいにぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「あんなに私からの連絡を無視していたくせに、どうして今になってここに戻ってきたのかと聞いているんです」
シキは何の話か分からずに押し黙る。
姉さん、連絡、無視、戻ってきた――?
どの言葉も自分の知る両儀式とは結びつかない。
「ここに来たのは志貴を帰らせるついでで偶然なんだが……。両儀式を知ってるのか」
「何を言っているんですか。あなたのことでしょう」
秋葉の眉がきゅっと顰められる。
「それに知ってるもなにも、あなたは――、」
言いかけて、秋葉ははっと言葉を呑み込んだ。
シキの顔をもう一度確かめるように見つめる。
「……覚えて、いないのですか」
どこか呆然とした声。
聞いて、胸に針を刺したような細く鋭い痛みの錯覚をシキは覚える。
自分が彼女の望む人物ではないことに。――ここに居るのは、歪な紛い物だ。
きゅっと握られた秋葉の手から目を逸らし、シキは頷いた。
「……ああ。一年も寝てたものだから、色々取りこぼしたみたいでさ。全部が全部忘れてるってわけじゃないが、覚えてないことの方が多いんだ」
それらしいことを口にしながらシキは考える。
姉さんと呼ばれたこと。屋敷に感じる既視感。志貴が一目でこちらを「しき」と呼んだこと。この少女の顔に覚える、かすかな見覚え。ばらばらだった断片が一つの形を結んでいく。
この世界の両儀式は遠野に引き取られて育ったのかもしれない。
物語のどこにもなかった来歴だった。
そして同時に、これまで不明だった身元保証人なる者の正体がぼんやりと見えてきた。
……さっさと立ち去ろう、と考えていたが、どうにもそんな雰囲気ではなくなってしまっていた。
「連絡ってなんだ。まさか手紙か? オレ、携帯持ってないし。持ってたとしたらどっかにいった。……というか住所も知ってるのか」
「知っています。あなたの身の回りのものは遠野が支払っていますから」
秋葉の表情が揺らいだように見えたのは一瞬で、次にシキが視線を戻したときには相変わらず冷ややかな、遠野家当主の顔だけだった。
シキの世間知らずな質問に、秋葉は当然だとでも言いたげな口ぶりで答える。
なるほど、とシキは思う。
支払い済みだった入院費。止められていない電気と水道、一年も空けていたのにそのまま残っていた部屋。誰かが支払っていなくては説明がつかないとは思いつつ、深くは考えないようにしていたが。生活基盤の出所に腑が落ちた。
ぼんやりとしたままのシキに苛立ちが戻ってきたのだろう。秋葉の声に険が戻ってくる。
「郵便受けくらい見てください。何度も琥珀を遣わせたのに、いつも留守なんですから。あなたを呼び戻すために、私が何度――、」
そこで、は、と秋葉が言葉を切った。
その視線がシキの顔から下へと滑る。
「――血が」
言われてシキも自分の手元に目を落とした。
袖口から滴る雨の雫に、赤いものが混じっていた。志貴を担いでいるうちに、肩の傷口が開いたのだろう。雨と一緒に腕を伝って、指先から絨毯へと、薄赤い染みがぽつりぽつりと落ちている。
「悪い、汚したな」
「手当てを」
「問題ない。これくらい、なんとも」
「手当てをします」
有無を言わせない口調だった。
断ろうとしたシキの言葉は最後まで言わせてもらえなかった。
※
数分後、シキは居間のソファに座っていた。
濡れた上着もシャツも、あっという間に剥ぎ取られてしまった。代わりに肩から羽織っているのは、志貴の介抱の合間を縫って翡翠が持ってきてくれた、厚手のタオルが一枚だけ。それも肩の手当てのために片側を落としているので、上半身はほとんど剥き身同然だった。
「あとで琥珀に風呂の用意をさせます。少しの間我慢してください」
「……んん」
寒くはないんだけどな、と小声でつぶやく。
なんとなく、身を晒していることに居心地の悪さを覚える。
まだ自分は男であるという意識が抜けきらないのだ。肉体の上では同性とはいえ、年下の少女に裸の背中を見られているというのは、どうにも気恥ずかしい。
かといって、隠すのも妙な話だ。気にしていても仕方がない。
シキは諦めて、ソファの隣に腰を下ろした秋葉へと背を向けた。
「悪いな、やらせちまって」
「大したことじゃありません。これくらいで謝らないで」
秋葉の細い指がそっと肩に触れた。
冷え切ったシキの体には、ただの人肌でさえ熱いくらいだった。
露わになった肩口の傷を見て、秋葉が息を呑む音がした。
背を向けているので表情は見えない。けれどどことなく気配でわかる。きっと険しい顔をしているのだろう。
志貴に肩を貸しているうちに開いてしまった傷口からまだ薄く血が滲んでいる。それがどんな形をしているのか、自分の目では確かめられない。
「……この傷を、どこで?」
「昨日どっかに引っ掛けた。見かけほど大した傷じゃない」
消毒液を含ませた脱脂綿が傷口に押し当てられる。
ちりちりと染みる痛みにシキは奥歯を噛んだ。
「何をしていたのかは知りませんけど、危ないことはしないで。退院してからまだ間もないのですから、病み上がりの自覚を持ってください」
「病み上がりって……」
動けてるんだから問題ない。そう言いかけて、やめた。
秋葉の声は酷く静かだったが、その裏側にはシキの理解できない感情が渦巻いているのがわかる。
言い訳をしようものなら、きっと墓穴を掘るだろう。それくらいは出会って間もない今でもなんとなく分かった。
秋葉は拙いながらも、手早く処置を進めていく。
傷口を拭い、薬を塗り、ガーゼを当てて、包帯を巻く。慣れた手つきとは言い難い。
当主自らが、こんな夜更けに救急箱を抱えて。
物語の中の遠野秋葉は兄である志貴以外にもこういうことをするような少女だっただろうか。シキにはもう、よく分からなかった。
最後に包帯の端を留めて秋葉はようやく手を離した。
「明日の朝、念のため阿良句先生にも診てもらいましょう」
「朝って。泊っていけってことか?」
いいのか、とシキは言外に問いかける。
「構いません。遠野の館は姉さんが居た頃とは変わりました。今の当主はこの私です。ここに住んでいるのも私と兄さん、それに琥珀と翡翠だけですので」
「…………」
救急箱を閉じて片付けをする秋葉の横顔を、シキはぼうとしばらく眺めていた。
それから、意を決して口を開く。
「あのさ。一ついいか」
「なんでしょう」
「医者からオレのことはなんて聞いてる。たぶん聞いてるだろ」
「……頭部に衝撃を受けたことと、長期間の昏睡による、軽い記憶障害のようなもの、とは聞いています。ですが、まさかそんなに……」
そうか、とシキは小さく息を吐く。
過去の両儀式を知っている者には言っておかなければならないことがある。
すべてではなくとも言える範囲の真実を。
「両儀式はさ、一年前にいろんなものを置き去りにしてきたみたいなんだ。とりわけ自分ってものがわからなくなってる。同じ人間のように見えても連続してないんだよ。事故の前と後じゃまるっきり別人になったって言っても過言じゃない。だからオレは……」
「姉さん」
言いかけたシキの言葉を、けれど秋葉は遮った。
「確かに、私も受け止める準備が不十分だったことは認めます。……けれど。両儀式がどうなろうと、どう思おうと。私が姉さんと呼ぶ人は一人だけです。これまでも、これからも。そのことはどうかお忘れなく。そして二度とこのようなことは言わせないでください」
シキは肩越しに振り返った。
秋葉は真っ直ぐにシキを見ていた。静かで、けれど確たる意思を湛えた目。
――ああ、敵わないな。
何に、とは分からないまま、シキはそう思った。
「……そう。おまえがそれでいいなら、オレもそれでいいぜ。秋葉」
知らず、どこか拗ねたような口調でシキは呟いていた。
初めて呼んだその名前に、秋葉の表情がほんのわずかに綻んだようにシキには見えた。