目を開けると白があった。
白い天井、白い壁。一瞬、病室に戻ってきたのかと思った。
けれど鼻の奥を刺す消毒液の匂いはなく、代わりにかすかな木と古い布の匂いがする。天井には細やかな漆喰の模様が施され、壁際には年季の入った箪笥と、小さな文机が置かれていた。
遠野の屋敷の一室。昨夜、秋葉に押し切られるまま泊まることになった部屋だ。
枕元の時計を見る。針はまだ六時の少し手前。
もう一度眠る気にもなれず、シキは布団の上に体を起こして、ぼうと窓の外を眺めた。
昨夜の雨はもうすっかり止んでいる。軒を打つ雨垂れの音もしない。空はまだ一面の灰色の雲に覆われていたが、その切れ間がところどころ薄く明るんでいた。じきに風に流されて、晴れ間が覗くだろう。
――両儀式は、この家にいた。
秋葉が「姉さん」と呼んだ以上、そうなのだろう。
けれど、シキには未だにピンと来なかった。
庭の景色にも、屋敷の形にも、廊下の曲がり角ひとつにも、随所に既視感を覚える。けれどそれは、どれも霧の向こうにぼんやりと見える輪郭のようなもので、手を伸ばしても具体的な記憶には届かない。
両儀という退魔の一族の娘がなぜ混血の遠野の家にいたのか。
どのような経緯でそうなったのか。
シキにはまるで分からない。
とはいえ、今日はそのことについて秋葉と軽く話をする約束になっている。
自分の頭の中だけで考えたところで答えは出ない。だったら今は放っておこう。
シキは思索を放り投げて、流れる雲を眇めて見るだけにした。
※
トントン、と扉を叩く軽い音がした。
「起きてる」
返事をすると、静かに扉が開いて、翡翠が部屋に入ってきた。
昨夜と同じ、きちりと整えられたメイド服姿。一礼して、腕に抱えていたものをシキの前に差し出す。
「おはようございます、式さま。お着替えをお持ちしました」
受け取ったのは二つ。昨夜脱がされたジャンパーと浅葱色の着物だった。
ジャンパーは肩口の裂け目が丁寧に繕われていた。よく見なければ分からないほど目立たない縫い目。一晩のうちに誰かが手直ししてくれたらしい。
「制服の方はまだお直しの途中でございます」
「そう」
学校に行っているわけでもないし、それはいいかとシキは思う。
それよりも、と手元の着物に目を落とす。
淡い緑がかった薄い藍色。朝の水面のような、澄んだ浅葱色の布地だった。
「着物か……なんでだ?」
「秋葉さまがご用意しました。式さまには、こちらのお召し物がお似合いになると」
翡翠は表情を変えずに答えて、それからわずかに言葉を継いだ。
「……お気に召さないようでしたら、別のものもご用意しておりますが」
「いや、これがいい。ありがとう」
寝巻き代わりに借りていたシャツを脱ぎ捨てて、着物に袖を通す。
帯の締め方なんてシキは知らない。けれど翡翠に手伝ってもらいながら襟を合わせ、帯を回していくうちに、手の方が勝手に次の動きを知っていた。きっと、かつての両儀式もこうだったのだろう。
ふと、鏡台の小さな鏡に映る自分の姿が目に入る。
浅葱の着物を纏った黒髪の少女がそこにいた。
不思議としっくり来るような感じがある。ブレザーにジャンパーを羽織っていたときよりもずっと
両儀式はこうでなくっちゃな、とシキは翡翠に聞こえない程度に呟いた。
※
かつ、かつ、かつ、と。廊下の向こうから、硬いヒールの音が近づいてきた。
この屋敷の静けさには似つかわしくない遠慮というものを知らない足音。
それとほぼ同時に、ノックもなしに扉が豪快に開け放たれた。
「ハアーイ、グッモーニーーンッ! 当主チャンからご指名と聞いてやってきたわよぅ」
現れたのは白衣を羽織った女だった。
端的に言うと成熟した女性と言う言い方になるだろう。下着一歩手前の上着やレザースカートの下から抜群のスタイルが見え隠れする。
異様に長い髪は赤みがかったブロンドで、どうでもよさげにまとめられている。髪の束がわさわさと揺れるたびに、シキはどこか蜘蛛を連想せざるを得なかった。
「あらあらあら、ほんとに起きてる! 一年ぶりの式チャンだわぁ。お目覚めの気分はいかが? 白馬の王子サマのキスでもあった?」
変な人だ。
女はひっきりなしに喋り、ひっきりなしに笑っていた。口元がコミカルによく動く。
けれど目だけは――笑みの形に細められた瞼の奥で、その瞳だけは、粘つく糸のようにシキの体に絡みついて離れない。
「あ、メイドチャン。お湯とタオル、あと清潔なガーゼをたっぷりお願いできる? 急がなくていいわよぅ、ゆーーーっくりで」
「かしこまりました」
翡翠は一瞬だけシキの方を窺って、それから一礼して部屋を出ていく。
そして部屋にはシキと女の二人だけが残された。正直なところ、二人きりにはしてほしくはなかった。
「改めて、阿良句寧子。博士って呼んでくれたら、アタシとっても喜んじゃーう!」
「どうも。阿良句先生」
「あん、つれないわねぇ。さては当主チャンからなんか言われた? まいいけど」
阿良句は少しも残念そうでない顔で肩を竦めて、手にした鞄をどさりとベッドの上に置いた。
「はーい、それじゃあ患部を出してねー。すぐ出してねー」
言われるままに、着たばかりの着物の襟を肩から落とす。昨夜秋葉が巻いてくれた包帯が阿良句の手でするすると解かれていく。
露わになった傷を見て、阿良句の目がぱっと輝いた。
「あらぁ……! あらあらあら、まあまあまあ!」
子供が新しい玩具を見つけたときのような声である。少なくとも傷を見てあげるような声ではない。なんだか辟易としてシキはため息をついた。
「いいわねぇ、いいわねぇ。こういうの、アタシ大好き。ね、ね、式チャン。これ縫わなきゃダメよぉ、放っておいたら塞がる前にばい菌入って病気になっちゃう。でもせっかくだから縫い方を選ばせてあげる。痛くなくて痕が残らない方と痛くて痕が残るほうどっちがいーい?」
「……痛くなくて痕が残らない方だろ、普通」
「はーい、痛くない方ねー。んもぅ、式チャンったら安牌でつまんないわぁ」
言葉とは裏腹に、阿良句は嬉々として鞄から縫合の道具を取り出した。
麻酔もなしに、それでいてほとんど痛みもない。手早く縫合を進めていく。
ファンキーな見た目とおしゃべりな口から抱く印象とは反対に、その腕前は尋常ではない。そのちぐはぐさが、なんだか不気味なようにもシキには思えた。
「はい、おしまーい」
最後の糸を切って、阿良句は満足げに頷いた。
新しい包帯を巻きながら、ふと、シキの耳元に顔を寄せる。
翡翠はまだ戻ってきていない。
「それにしても式チャンったらとっても頑強ねぇ。この傷どこでもらってきたのかしら。普通ならすぐ医者に掛かってないとお陀仏よぅ?」
「……引っ掛けただけ。かすり傷だ」
「そーお? 結構がっぷりいかれてるように見えるけど。体の使い方は気をつけないと駄目よぉ、いつかぽろっと落としてなくしちゃうかも、なーんてねぇ。ま、アタシには関係ないしぃ? あ、でももしそうなったら呼んでね? ダッシュで行くから」
阿良句はケタケタと心底おかしいとでも言うように笑った。
包帯の端を留めてぽんと軽く肩を叩く。
ちょうどそこへ翡翠が湯を張った盥を抱えて戻ってきた。
「あらメイドチャン、ありがとー! でももう終わっちゃった。それ、お紅茶に使ってちょうだい。砂糖は五さじでよろしくぅ」
鞄を閉じて立ち上がると、阿良句はひらひらと手を振りながら扉へ向かった。
「じゃあねー、シキチャン。もう本当にどうしようもないって時になったら、アタシに相談しにいらっしゃい?」
※
バァイ、と騒がしく部屋を出ていった阿良句を見送って、シキは志貴の部屋を訪ねた。
軽くノックをして扉を開けると、志貴はベッドの縁に腰掛けていた。
昨夜のずぶ濡れの制服は脱がされたようで寝巻き姿になっている。
顔を上げた志貴は、入ってきたのが誰なのかを確かめるように目を瞬かせて、それから小さく相好を崩した。
「式。……久しぶり。やっぱり、昨日のは見間違いじゃなかったみたいだ」
「一年ぶりらしいな。いい加減病院で寝るのにも飽きたんで、起きてきた」
軽く返すと志貴は少しだけ口元を緩めた。過去を懐かしむような、意外に思うような。
「なんだよ」
「別に。ちょっと変わったなって思って。式って、そんな話し方だったっけ」
「……寝てる間にいろいろ落っことしてきたんだよ、何しろ頭を打ったんだから。自分のことでさえ忘れてるし、両儀式は穴だらけだ。話し方くらい変わるさ」
「そういうものか。でも全部忘れたわけじゃないんだろ?」
「まあ…………多少は」
「じゃあ、式は式ってことで。それでいいだろ」
さらりと、志貴はそんなことを言ってみせた。なんだかフクザツな気持ちになってシキは口をとがらせる。ほんとこいつ。
「それで、体の方は大丈夫なのか?」
「多少寝ぼけてるけど問題ないよ。……オレにはおまえの方が休みが必要に見えるけど」
シキは扉の脇の壁に背を預けて志貴の顔を眺めた。
眠れなかったのだろう。
志貴の顔は青白いを通り越して土気色だった。目の下には濃い隈が浮かび、頬はこけて、たった一晩で何年も歳を取ってしまったかのように見える。
「いつもの貧血だよ。心配ない」
言って、志貴は空気が抜けるように笑った。
その口元は引き攣り気味で、虚勢なのは一目でわかる。
けれどシキは深くは追及しなかった。追及したところで、今の志貴に答えられることなど何もないのだろうから。
「……なら、風呂にでも入っとけ。結構汚いぞ、おまえ」
「わかってるよ。今翡翠に用意してもらってるところだ」
それならいい、と頷いてシキは背を壁から離した。
部屋を後にしようと扉のノブに手を掛ける。
「――式、あのさ」
呼び止められて振り返る。
志貴は膝の上で組んだ自分の手をじっと見下ろしていた。それはどこか、罪を打ち明ける罪人か、帰り道を探す迷子のようにも見えた。
「……変な、話だけど。悪趣味な夢を見たとして、それが現実としか思えないときって、式ならどうする?」
シキはしばらく黙って志貴を見ていた。
悪趣味な夢。それが何を指しているのかシキは知っている。
「さあ。夢だと思えるなら、夢だと思えばいい。そう思えないなら、受け入れるしかないだろ」
「……だよな。変なこと聞いた、悪い、気にしないでくれ」
肩を竦めるシキに、志貴は力なく笑った。
シキは何も言わずに部屋を後にした。
扉を閉める間際。志貴がもう一度、自分の手のひらをじっと見つめているのが見えた。
※
志貴が風呂に入っている間に、シキは秋葉と朝食の席についた。
広い食堂の長いテーブル。その端に向かい合って二人きり。翡翠は秋葉の背後で彫像のように待機している。
琥珀の用意してくれた和食の朝餉を口に運びながら、秋葉は約束どおり、両儀式の昔のことを話してくれた。
両儀式がこの屋敷に来たのは六歳の頃だったという。前当主の遠野槙久を後見人として、引き取られてきたらしい。
「それから三年ほど、兄さんと私と姉さんの
秋葉は箸を置いて懐かしむように目を細めた。
けれどその三年後、志貴が事故に遭った。志貴は療養を名目に有間の家へと送られ、それと前後して、式もまた遠野の分家の方へと預けられた。
それからは、三人とも離れ離れで暮らしてきたのだという。
「姉さんは高校に上がると同時に一人暮らしを始めたと聞いています。それから半年ほどで、あの事故に遭われて……。あとは、姉さんもご存じのとおりです」
「ふうん……」
シキはやや上の空で返事をする。
幼くして遠野に引き取られた両儀の娘。同じように引き取られて遠野の名を与えられた少年。その構図には覚えがある。
七夜。遠野志貴の本当の生家。退魔の一族であったがゆえに、その力を危惧した遠野槙久の手によって滅ぼされた。志貴自身も殺されるはずが、『しき』という名前を持った偶然がために生かされ、遠野に引き取られることになった。
両儀もまた退魔の一族だったはず。ならば、両儀の家も七夜と同じように、槙久の指示で滅ぼされたのかもしれない。そう考えれば退魔の娘が混血の家にいた理由にひとまずの説明がつく。
……多くは推測だ。確かめる術はない。
「……もし、姉さんが気になさるとおっしゃるのであれば、今の両儀家のことをお調べしますが」
「必要ないよ。昔がどうだろうと、オレの今はここにしかないんだから」
黙り込んだシキを気遣うような秋葉の言葉に、シキはゆるゆると首を横に振る。
気にならないと言えば嘘になるが、知る必要も今はない。
けれど秋葉は、その言葉を聞いて、どこかほっとしたように小さく微笑んだ。
※
「はいはい、志貴さんご案内でーす」
しばらくして食堂の扉が開いた。
明るい声と共に入ってきたのは琥珀だった。その後ろに、腕を引かれるようにして志貴が続く。志貴は風呂上がりらしく髪はまだ湿っていて、制服の襟元から微かに石鹸の匂いがした。
温まったおかげか、多少顔色は良くなっているように見えなくもないが、まだ健康体とはとても言えない顔をしている。
「玄関で捕まえちゃいました。朝ご飯も食べずに学校へ行こうとなさるんですもの」
「いや、だから食欲がないって……」
「いけませんっ! 今食べやすいお雑炊などをご用意しますので、ちょっとだけお待ちくださいね」
琥珀に有無を言わせぬ笑顔で椅子を引かれ、志貴は観念したように腰を下ろした。ちょうどシキの隣。秋葉の斜め向かいの席。そして琥珀はささっと部屋を出ていった。厨房に行ったのだろう。
「……おはよう、秋葉」
「おはようございます、兄さん」
交わされる挨拶はどこかぎこちない。
八年ぶりに一つ屋根の下で暮らしはじめた兄妹だ。互いの距離の測り方をまだ思い出せずにいるのだろう。
秋葉はちらちらと気遣わしげに志貴の顔色を窺っている。体調を気遣っているのもそうで、更に言えば、昨夜のことが気にかかって仕方がないのが傍から見ていても丸分かりだった。
けれど当の志貴はといえば、その視線にまるで気づいていない様子。朴念仁め。
シキは内心で呆れながら、焼き魚の身をほぐした。物語の中でも、この男はこういう奴だった気がする。
ぽつぽつと、気まずい空気を溶かすように当たり障りのない会話が続く。
やがて話題は秋葉の学校のことへと移った。
「そういえば秋葉。浅上女学院って全寮制だろ? どうしてここから通っているのかなって。往復二時間って、普通に遠いだろ」
「それは――」
秋葉が言葉に詰まる。答えに窮した妹と、本気で分かっていない兄。その二人を見比べて、シキは呆れ半分に口を挟んだ。
「そりゃあおまえ、決まってるだろ。秋葉がここから通ってるのはおまえと一緒に居られる時間を増やすためだって」
「なっ、姉さん!」
秋葉の頬にさっと朱が差した。図星なのだろう。
それを横から助けるように翡翠が口を開く。
「秋葉さまは以前から週の半分をお屋敷でお過ごしになられていました。ですので、学園に通うのはそう特別なことではありません」
「んんっ、……翡翠の言う通り、元よりお父様たっての願いでしたから。週の半分はこちらで過ごす事にしていたんです。今はそれが少し増えただけで、何も変なことはありません。それに私には当主としての責任がありますので。昨夜のようなことがある限り、当分は屋敷から通います」
「昨日のようなこと……?」
早口でまくし立てる秋葉を志貴はきょとんとした顔で眺めている。やはり、何も分かっていないらしい。
シキは隣で笑いを噛み殺した。
そんな秋葉の照れの矛先は案の定というか、こちらへと向く羽目になった。
「……ところで、姉さん」
こほん、と小さく咳払いをして秋葉が居住まいを正す。じろりとした目がシキを見る。
「姉さんはいつから復学なさるおつもりでしょうか」
「む」
「これだけ元気なのですから、もう学校にも行けるでしょう? 確かに療養は必要ですが、いつまでもフラフラとされていても困ります」
「まだ病み上がりだろ。しばらくは休養って医者にも言われてるし」
「そうでしょうか。昨夜はご自分で病み上がりではないとおっしゃりたそうでしたけど」
「……」
見透かされていた。
「そう言えば有彦とか弓塚も心配してたぞ。式が事故に遭ったって聞いて、ずっと気にしてた。顔くらい出してやれよ」
「…………」
二対一。しかも片方は自分が何を言っているのかまるで分かっていない顔で悪気なく追い打ちをかけてくる。勘弁してほしい。
シキは長い溜息を吐いた。学校なんて、今更通ったところで困るだけなのだが。そうは言っても、秋葉には普通の言い訳はあまり通じてはくれそうになかった。
「……わかったよ。もう少ししたらそうする」
「本当ですね?」
「本当だって」
秋葉は満足げに頷いた。それから、当然の続きのように言う。
「でしたら、マンションよりもこちらの屋敷から通われる方が近いでしょう。あちらはいつ引き払いますか?」
「……ん?」
あまりにもさらりと言われたので聞き流すところだった。
シキは呆気にとられて目を丸くする。
「ここに住まわせるつもりなのか? オレも?」
「当然でしょう。そもそも私が姉さんに連絡していたのはそのためなのですから」
秋葉は何を当たり前のことを、とでも言いたげな顔をした。
「それに、その方が二人まとめて管理しやすいですから」
涼しい顔で付け加えられて、シキと志貴は思わず顔を見合わせた。
それからどちらからともなく肩を竦める。
どうやらこの屋敷では当主の決定は絶対らしかった。
※
朝食を終えて、シキは学校まで志貴を送っていくことにした。
浅葱の着物の上に繕われたばかりのジャンパーを羽織る。和装に革の上着という取り合わせは妙なものだが、袖を通してみると、不思議とこれも収まりがよかった。
「いってらっしゃいませ、志貴さま、式さま」
正門前で翡翠が深々と頭を下げる。
その静かな声に見送られて二人は屋敷を後にした。
昨夜は雨に煙っていた坂道が、今朝は嘘のように明るい。
空を覆っていた雲は風に流され、その切れ間から、洗い立てのような青が覗いていた。濡れたアスファルトが朝日を照り返して、目に眩しい。
道中二人は無言だった。
志貴はずっと思い詰めた顔をしていた。
時折、何かを言いかけるように口を開いては閉じる。視線は足元に落ちたまま、時々ちらりと隣のシキを窺っては、すぐに逸らされる。
言うべきか。言わざるべきか。その天秤が志貴の中でずっと揺れ続けているのを感じる。
シキは何も言わない。言わないまま志貴の歩幅に合わせて歩くだけ。
言うも言わないも、志貴が決めることだ。どちらを選んだとしても、それを受け止めるくらいのことはしてやれる。
もっとも、シキが何もしなくとも志貴は大丈夫だろうが。シキはそれを知っている。
だというのにこんなことをしているのは何故だろうか。それはきっと、酷く利己的な動機からだろう。
坂を下り、住宅街を抜け、通りに出る。
登校する学生たちの姿が増えてくる。制服の群れの中に、着物にジャンパーの
やがて、通りの先に校舎が見えてきて、そこで不意に志貴は足を止めた。
「――あのさ、式」
シキは足を止め、視線だけを志貴に返した。
志貴の声は掠れていた。鞄を握る手が震えている。
「言わないといけないことがあるんだ。オレは、昨日……」
そこで、志貴の言葉がふっと立ち消えた。
その目が、ある一点を凝視したまま、凍りついている。
顔から、残っていたわずかな血の気までもがすうっと引いていく。
シキは志貴の視線の先を追った。
通りの向こう。交差点、横断歩道の先に、白い女が立っていた。
朝の光を柔らかく弾く金の髪。細く長い眉、赤い瞳。白のハイネックにミニスカート。
行き交う学生たちの景色の中で、そこだけが切り取られたように浮いて見えた。
女は退屈そうにガードレールに腰を掛けて、ぶらぶらと足を揺らしている。
何か、誰かを、待っているような様子だった。そわそわとして落ち着かず、視線はあちこちを見ては戻る。
やがて、その紅い瞳がこちらに気づいた。
志貴と、そしてシキの姿を捉えて、ぱっと表情を輝かせる。
やっと来たわね、と。
そう言うかのように、女は――アルクェイド・ブリュンスタッドは、親しげに微笑んだ。
一昨日の夜、月の下で言葉を交わした女と同じ顔ではあるが。けれど、あのときの何も映していないような静かな瞳とは似ても似つかない。別人の如くの貌と気配。シキはその理由を知っている。
ついに始まった、と。
シキは胸の内で、小さくそう呟いた。
たくさんの評価、感想ありがとうございます。とても励みになっております。ウレシッ
それはそれとして文フリに参加するので次回以降少し更新が途切れます。お待ちください。