桜島麻衣が「霧島透子」だと噂され始めた頃、梓川咲太はひとつの可能性に気づく。

かつて警察署長のイベントで起きた騒動。あの場に本物の霧島透子がいなかったのだとしたら、彼女は今もどこかに潜んでいるのではないか。

そして、麻衣を霧島透子だと認識する人が増えることは、本物の霧島透子にとって何を意味するのか。

迎えた四月一日、麻衣のライブイベントで、咲太たちは思いもよらない真実と向き合うことになる。

誰かに認められたいという願い。
期待に応えたいという思い。
そして、本当の自分を見られることへの恐れ。

霧の向こうに隠された真実が明らかになるとき、彼らが見つける答えとは――。

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青春ブタ野郎はサンタクロースの夢を見ないの最終話の後から始まる
ifストーリーです。


青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない…もう一つの物語

 

3月31日、午後15時。

 

大学からの帰り道、僕は美東と並んで歩いていた。

少し冷たい春の風が、アスファルトの上を吹き抜けていく。

 

「なあ、美東」

 

「ん?」

 

「明日の麻衣さんのライブイベント、美東も来ないか?」

 

 僕の問いかけに、美東は足を止め、それから面白がるような笑みを浮かべた。

「それはデートの誘い?」

 

「友達としての誘いだ」

 

「お、友達候補から昇格したねえ」

 

「昇格した途端に上から目線なんだな」

 

「友達候補の時が同等だったんだから当然でしょ」

 

「そりゃそうだ」

 

僕の適当な返しに呆れたようにため息をつきながらも、美東は小さく肩をすくめる。

「本当、この人いい加減だわあ」

 

「じゃあ、また明日な」

 

「じゃあね」

 

軽口を叩き合って別れたあと、 

僕は胸の奥に引っかかる違和感を抱えたまま、

「Benny's」へと向かった。

 

3月31日、午後17時。

 

双葉に連絡を取り、指定した席で待っていると、

ほどなくして双葉がやってきた。

夕暮れのファミレスには、どこか落ち着いた空気が流れている。

 

「双葉、来てくれてありがとう」

 

「今度は何の相談?」

 

席に着き、メニューも見ずにカフェラテを頼んだ双葉が、

眼鏡の奥から冷めた目を向けてくる。

 

「双葉、麻衣さんの警察署長のイベントの時のこと、覚えてるか?」

 

「霧島透子を名乗る人がサンタクロースの格好をして大勢押し寄せたせいで、

 スピーカーが梓川の上に落ちて大怪我したのよね」

 

「ああ、そうだ」

 

 僕は小さく息を吐き出す。

「でも、あの時集まった群衆の中に、本当の霧島透子は一人もいなかった」

 

「何を言いたいの?」

 

「まだ本物の霧島透子が、麻衣さんを危険な目に合わせる可能性があるってことだ」

 

「それはそうかもしれないけれど、何か当てはあるの?」

 

「いや、ない」

僕は首を横に振った。

 

「しかし、今ネットでは麻衣さんのことが霧島透子だと言われている。

 ……それは、本物の霧島透子にとって、許し難いことなんじゃないかって思ったんだ」

 

「それは、霧島透子が桜島先輩のせいで認識されないから?」

 

「双葉は話が早くて助かる」

 

「なあ、双葉。ひとつ聞いていいか?」

 

「何?」

 

「霧島透子は、どうして思春期症候群を広めているんだと思う?」

 

双葉は手元のカップに視線を落とした。

 

「本人に聞かなければ、本当のところはわからないけど、

 でも、今までの状況から考えるなら……誰かの悩みを解決するため、という可能性はあると思う」

 

「悩みを解決するため、か」

 

「ネット上で話題になった思春期症候群が、実際に誰かの身に起きている。

 霧島透子は、それを予測したり、誘発したりすることで、人々の期待に応えているのかもしれない」

 

「人々の期待に応える、ね」

 

 僕は腕を組んだ。

 

「確かに、霧島透子は人々の悩みを解決するために、思春期症候群を広めているのかもしれない。

 だけど、それは霧島透子の独善的な思い込みでしかない」

 

「独善的?」

 

「悩んでいる人が、本当は何を望んでいるのか。それを確かめもせずに、

 自分が正しいと思う方法を押しつけているだけかもしれないだろ」

 

 誰かを救いたいと思うこと自体は、悪いことじゃない。

 

 だけど、自分が救ってあげたいと思うことと、相手を本当に救うことは違う。

 

「そんなのは、本当の優しさじゃない」

 

 双葉は、少しだけ目を細めた。

 

「……珍しく、まともなことを言うわね」

 

「僕はいつだってまともだ」

 

「そういうところがまともじゃないって言ってるの」

 

 双葉はため息をついてから、話を続けた。

 

「ただ、もうひとつ考えられることがある。

 霧島透子が本当にネット上でしか認識されていない存在なら、

 彼女にとってネット上の評価は、自分の存在を支える重要な要素なのかもしれない」

 

「どういうことだ?」

 

「今は桜島先輩が霧島透子だと思われ始めている。

 もし、人々が桜島先輩を霧島透子として認識するようになれば、

 本物の霧島透子が担っていた役割は、桜島先輩に奪われることになる」

 

「つまり、霧島透子は、自分の居場所を失うってことか」

 

「可能性の話よ。でも、そう考えるなら、桜島先輩を邪魔に思う理由も説明できる」

 

僕は黙って考えた。

自分の存在を認めてほしい。自分の役割を失いたくない。

その願い自体は、理解できる。

けれど、そのために他人を傷つけてしまうのなら。

 

「……だからって、麻衣さんを巻き込んでいい理由にはならない」

 

「ええ。そこは間違えないで」

双葉は、いつもの調子で言った。

 

「梓川が何をするつもりなのかは知らないけど、少なくとも桜島先輩を守ることは忘れないで」

 

「言われなくても、そのつもりだよ」

 

「ならいいわ」

 

 双葉は小さく鼻を鳴らし、それから手元のスマホを滑らかに操作し始めた。

「……で、当てはないと言いながら、明日桜島先輩のイベントに美東さんを呼んだわけね」

 

「観測者を揃えておかないと、確定できないからな」

 

「国見にも連絡を入れておくよ。

 今日は夜勤のはずだから、明日の四月一日は非番ね。

 会場の警備や不測の事態への備えなら、非番の消防士がいるのは心強いでしょ」

 

「助かる。国見にも悪いな」

 

「国見なら、連絡すれば二つ返事で引き受けてくれるわよ。

 ……それより梓川、明日は絶対に桜島先輩から目を離さないことね」

 

「ああ、わかってる」

 

 窓の外を見ると、街の明かりがゆっくりと灯り始めていた。

 話が一区切りつき、僕たちは席を立った。

 店を出ると、夕方の空気が頬に触れた。

 

 明日、すべてが動き出す。

 その予感を抱きながら、僕たちはそれぞれの夜へと戻っていった。

 

4月1日

 控室の空気は、必要以上に静かだった。

 イベント前の緊張というより、何かが起きることを、

 誰もが薄々わかっていて言葉を失っている、そんな沈黙だ。

 

 麻衣さんは鏡の前で、いつも通り落ち着いた表情をしていた。

 メイクも衣装も完璧で、国民的女優・桜島麻衣として、何一つ不安要素は見当たらない。

 

 ――それでも。

 

 僕は、胸の奥に張り付いた違和感を無視できずにいた。

 

「麻衣さん」

 

 声をかけると、彼女は視線だけをこちらに向ける。

 

「なに、咲太。顔、硬いわよ」

 

「……僕の推測が正しければ」

 

 一度、息を吸う。

 

「麻衣さんは、確実に霧島透子に嫌われてます」

 

 一瞬、空気が止まった。

 

「ずいぶん物騒な言い方ね」

 麻衣さんは苦笑しながらも、目は逸らさない。

「理由は?」

 

「霧島透子は、ネットという世界で“期待に応える存在”として観測され続けたい人格なんだと思います」

 

「人格、ね」

 

「はい。麻衣さんが、バニーガールの姿で誰かに観測してほしかったように」

 

 あの時、麻衣さんは姿を隠さなかった。

 消えかけながらも、正面に立ち続けた。

 

「霧島透子も、ネットという世界で観測してほしかった。

 でも、ネットは霧島透子を――麻衣さんだと認識した」

 

 麻衣さんの眉が、わずかに動く。

 

「それは……」

「霧島透子にとって、いちばん許せないことです」

 

 自分が演じてきた“役割”を、

 顔も名前も持つ実在の人間に奪われた。

 

 麻衣さんは、しばらく黙ってから小さく息を吐いた。

 

「私のせいで、認識されないから……」

「そうです」

 

 それは謝罪でも自責でもなく、ただの事実だった。

 

「じゃあ」

 麻衣さんは、ふっと笑う。

「私がもっと嫌われたら、怒って出てくるかもしれないわね」

 

「それはダメです」

 即答だった。

「麻衣さんが危険だ」

 

「その時は、咲太が守ってくれるんでしょ?」

 

 軽い調子。

 でも、その目は本気だ。

 

「……それは、全力で守ります」

 言葉を選びながら続ける。

「でも、麻衣さんを、もう二度と失いたくない」

 

 翔子さんのことが、脳裏をよぎる。

 未来は、何度もやり直せるわけじゃない。

 

「今度は、未来から戻ってこれないかもしれない」

「だから…」

「国見や双葉、今まで出会った人、全てに頼ってでも――麻衣さんを守ります」

 

 麻衣さんは、少しだけ目を見開いてから、笑った。

 

「……決まりね」

「ちゃんと守ってね、咲太」

 

「はい」

 

 その返事に、迷いはなかった。

 

⸻

 

 ステージに出た瞬間、照明が眩しく視界を焼いた。

 拍手。歓声。いつも通りの空気。

 

 麻衣さんは、マイクを手に取る。

 

「今日は、来てくれてありがとうございます」

 

 会場が静まる。

 

「ひとつ、話しておきたいことがあります」

 

 咲太は、客席の端で息を止めた。

 

「――私が、霧島透子です」

 

 一瞬、音が消えた。

 

 ざわめきが起きる前に、

 天井から嫌な音が落ちてくる。

 

 ――ガラスが割れる。

 

「麻衣さん!」

 

 考えるより先に、身体が動いていた。

 咲太は彼女の上に覆い被さり、衝撃から守る。

 

 会場は暗転し、悲鳴と混乱が交錯する。

 

 そのとき。

 

 ステージ背後の巨大モニターが、ひとりでに点いた。

 

 映っていたのは、

 こちらに背を向けた、ひとりの少女。

 

『ふざけないで』

 

 スピーカー越しの声は、震えていた。

 

『私の役割を取らないで』

『私という人格を、消さないで』

『そんなことされたら……私は、認識されなくなる』

 

 麻衣さんは、僕の腕の中から静かに立ち上がった。

 

「それは」

 マイク越しに、はっきりと言う。

「あなたが、匿名で、後ろ姿しか見せないからじゃないの?」

 

 会場が息を呑む。

 

「私は、観測されるためにバニーガールの姿で、いろんな場所に行った」

「でも、自分の姿は隠さなかった」

 

 あの寒い図書館。

 誰にも見えなくなっていた彼女。

 

「だから、咲太に見つけてもらえた」

 

 モニターの少女が、わずかに揺れる。

 

「いつまでも自分を隠していたら」

 麻衣さんは、まっすぐ前を見た。

「見つけてもらえることは、決してないわ」

 

「認識してほしかったら――正面を向きなさい」

 

 沈黙。

 

 ゆっくりと、モニターの中の少女が振り返る。

 

 映し出された顔を見た瞬間、

 僕の中で、すべてが繋がった。

 

「……美東」

 

 そこにいたのは、

 美東美織だった。

 

 役割として生きてきた人格が、

 観測者を得た瞬間。

 

 世界は、静かに確定し始めていた。

 

「……私?」

 

会場にいた美東はその一言を残して、その場に崩れ落ちた。

 

意識が戻ったとき、最初に見えたのは白い天井だった。

 病院ほど無機質じゃない。けれど、どこかで見覚えのある色。

 

 ――ああ。

 

 ここがどこかを理解する前に、匂いで分かった。

 消毒液と、少し古い布の匂い。救護室だ。

 

「……起きた?」

 

 視界の端で、誰かが身を乗り出す。

 

「美東」

 

 聞き慣れた声だった。

 

「……梓川君?」

 

 声が自分のものじゃないみたいに、少しだけ掠れていた。

 喉が渇いている。

 

「無理に起きなくていい」

「大丈夫……たぶん」

 

 体を起こそうとすると、軽いめまいが走った。

 その瞬間、さっきまでの出来事が、まとめて押し寄せてくる。

 

 ステージ。

 割れた照明。

 モニター。

 後ろ姿。

 

 そして――

 

「……私?」

 

 思わず、同じ言葉が口から漏れた。

 

「さっきも、そう言ってた」

 咲太は、責めるでもなく、淡々と言った。

「そのあと、倒れた」

 

「そっか……」

 

 天井に視線を戻す。

 頭の中が、うるさい。

 でも、混乱している、という感じでもなかった。

 

 むしろ――

 静かすぎる。

 

「ねえ、梓川君」

 

「なに?」

 

「私さ……中学の頃のこと、思い出した」

 

 自分で言って、少し驚いた。

 “思い出した”という言い方が、やけに自然に出てきたから。

 

「全部?」

 

「全部じゃない。でも……大事なところは」

 

 誰かの期待に応えることが、自分の価値だと思っていたこと。

 頼られると、断れなかったこと。

 それができなくなった自分を、嫌いになったこと。

 

「みんなが求める“役割”をやり続けてた」

「……それが、霧島透子?」

「たぶんね」

 

 美東は、ふっと息を吐いた。

 

「便利だったんだよ。名前も顔もない存在って」

 

「責任を引き受けなくて済む」

 

「そう。期待には応えるけど、失望は全部、匿名の向こう側」

 

 少し間を置いて、続ける。

 

「でも……」

 美東は、ゆっくりとこちらを見た。

「誰にも、本当の私を見られてなかった」

 

 咲太は、何も言わなかった。

 ただ、そこにいた。

 

「ねえ」

 

「うん」

 

「観測されるって、怖いね」

 

 笑おうとして、失敗する。

 

「正面向いた瞬間に、全部バレる」

「いいところも、ダメなところも」

「逃げられない」

 

「……それでも」

 咲太は、静かに言った。

「逃げなかった」

 

 その言葉が、胸に落ちる。

 

「うん」

 美東は、頷いた。

「逃げなかった。……逃げるの、もう疲れた」

 

 カーテンの向こうで、誰かが動く気配がした。

 きっと国見だ。運んでくれた、現実側の人。

 

「私ね」

 美東は、少しだけ背伸びするみたいに言った。

「これからは、美東美織として答えられる期待にだけ、答える」

 

 声は、もう震えていなかった。

 

「全部は、無理」

「できないことは、できないって言う」

「それで嫌われたら……まあ、それまでかな」

 

「それでいいと思う」

 咲太は、即答した。

「美東は、美東以上でも以下でもない」

 

 美東は、少しだけ目を見開いてから、笑った。

 

「……それ、告白みたい」

 

「違う」

 

「知ってる」

 

 その言葉に、変な軽さはなかった。

 重くも、甘くもない。

 

 ただの、確認だ。

 

「ありがとう、梓川君」

 

「なにが?」

 

「観測してくれて」

 

 少しだけ、間があった。

 

「美東」

 咲太が、いつも通りの声で言った。

「美東は、もう僕たちの友達だ」

 

 一瞬、美東は言葉を失った。

 

「そうよ、美織」

 麻衣さんが、迷いなく頷く。

 

 その二人を見て、

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 

「……ありがとう」

 

 誰かに見られることで、

 役割じゃなく、自分として立てた。

 

 それだけで、十分だった。

 

 カーテンが開く。

 

「お、起きたか」

 国見が、いつもの調子で顔を出す。

「無理すんなよ。倒れ方、派手だったからな」

 

「ごめん。ありがとう」

 

「いいって。こういうのは消防隊員の仕事だろ」

 

 その言い方に、美東は小さく笑った。

 

 ――日常。

 

 思春期症候群がなくなっても、

 奇跡が起きなくなっても。

 

 それでも、続いていくもの。

 

 美東美織は、ゆっくりと息を吸った。

 「霧島透子って名前ね」

 

 美東は、少し考えてから続けた。

 

「霧みたいに、柔らかく誰かを包めたらいいなって思ったの」

「でも、霧が濃くなりすぎると、周りが見えなくなるでしょ」

 

 咲太は、黙って聞いていた。

 

「霧に覆われた島にいたら、その中の出来事だけが現実になる」

「外の世界があること、忘れちゃうかもしれない」

 

 少しだけ、苦笑する。

 

「音楽やってた時につけた芸名」

「誰かのために歌ってたつもりだったけど……」

「気づいたら、自分も霧の中にいた」

 

 一拍置いて、言った。

 

「霧が晴れたあとに残るのは、透明な空気だけ」

「でも、それでいいって、今は思ってる」

 

 これからは、

 自分の名前で、生きていく。

 

 

春の光は、冬よりも無遠慮だ。

窓から差し込む白さが、部屋の輪郭をくっきり浮かび上がらせていく。

 

麻衣さんはカップを片手に、ソファの背に軽く寄りかかっていた。

 朝のニュース番組の音が小さく流れている。画面の中の世界は今日も忙しそうだ。

 

 ――奇跡がなくても、世界は忙しい。

 

「ねえ、咲太」

 

「なに?」

 

 麻衣さんは、少しだけ視線を細めた。

 

「最近、考え込む時間が増えたわね」

 

「……増えたかも」

 

 僕は、自分の手元のスマホじゃない空白を見ていた。

 持たないことが当たり前になりすぎて、持っていた記憶の方が遠い。

 

「美織のことが片付いたから?」

 

「片付いたって言い方は、違う気がする」

 

「じゃあ、なに?」

 

「……確定した、って言い方なら近いかも」

 

 麻衣さんは頷いた。

 

「役割を降りた、ってことね」

 

「うん」

 

 沈黙が落ちる。

 嫌な沈黙じゃない。考えるための沈黙だ。

 

「でもさ…思春期症候群って、結局なんだったんだろう」

 

 麻衣さんはカップを置き、僕を見た。

 

「咲太」

 

「うん」

 

「咲太は、ずっと観測してたのよ」

 

「……観測?」

 

 麻衣さんは、当たり前みたいに言う。

 

「思春期症候群を」

 

「でもなんで僕だけ、いつも観測できたんだろう」

 

「咲太が携帯電話を捨てたからじゃない?」

 

 その答えに、僕は少しだけ目を見開いた。

 

「どういうこと? 麻衣さん」

 

「霧島透子は、ネットという霧の中に誘い込むことで、

 思春期症候群を“現実”にしてた」

「霧の中だと、みんな同じものを見る」

「同じものを、同じ温度で信じる」

 

 麻衣さんは、ほんの少しだけ息を吐く。

 

「でも咲太は、その霧の外側にいた」

「だから見えた」

「見えたから、咲太は観測し続けた」

 

 僕は、喉の奥が乾くのを感じた。

 

「でも僕も……思春期症候群になってた時期があった」

 

「それは」

 麻衣さんは言葉を選ぶ。

「観測し続けたことの弊害なんじゃない?」

 

「弊害……」

 

 翔子さん。

 胸の傷。

 かえで。

 自分が見えなくなった感覚。

 

「そうか」

 僕は、小さく笑ってしまった。

「翔子さんの思春期症候群を観測し過ぎて傷が出来て、

 花楓の思春期症候群を観測し過ぎて、自分が見えなくなった」

 

 麻衣さんは頷く。

 

「優しい人ほど、境界が薄くなる」

「だからこそ、咲太には私が必要なの」

 

「……それ、ずるくないですか?」

 

「ずるいのは、咲太よ」

 

 麻衣さんの目が、わずかに意地悪くなる。

 

 それを見て、僕は急に不安になった。

 

「本当に麻衣さん?」

 

「……は?」

 

「双葉と入れ替わる思春期症候群、発症してない?」

 

 言った瞬間、自分でも馬鹿らしくなった。

 でも、麻衣さんは答えの代わりに――

 

 僕の足を踏んだ。

 

「痛っ」

 

 現実の痛みが、頭の中の霧を一気に払う。

 

「やっぱり麻衣さんだ」

 

「当たり前でしょ」

麻衣さんは平然としている。

 

「咲太は、私のどこを観測して、私を確定してるの?」

 

「……全部です」

 

 僕がそう言うと、麻衣さんは少しだけ笑った。

 

「全部、ね」

 

「はい」

 

「ずるい答えね」

 

「そんな、僕の偽らざる本心です」

 

「じゃあ私も咲太の全部を観測しなきゃね」

「私も咲太を見続ける」

 

「お手柔らかにお願いします」

 

 胸の奥が、少しだけ軽くなる。

 

「……やっぱり麻衣さんには敵わないなあ」

 

「当たり前でしょ」

 

 それが、僕たちの“日常側”の答えだった。

 

⸻

 

 数年後。

 空はよく晴れていた。

 

 式場のロビーには、やけに見覚えのある顔が揃っていた。

 見覚えがあるというか、人生の節目でばかり顔を合わせてきた人たちだ。

 

「梓川、おめでとう」

 双葉が、いつも通りの冷めた声で言う。

「今日は泣かないでよ」

 

「泣かない」

 

「泣く方が自然だと思うけど」

 

「自然って便利な言葉だな」

 

 国見が笑って、僕の肩を軽く叩いた。

 今日は制服じゃない。消防隊員の制服でもない。普通のスーツだ。

 

「お前さ、よくここまで来たな」

 

「国見に言われると変な感じする」

 

「俺は日常担当だろ」

 

「便利な担当だな」

 

「にひひ」

 その声で、僕は振り返る。

 

「お兄ちゃんおめでとう、そしてありがとう

 麻衣さんをお姉ちゃんにしてくれて」

「でも今日は泣かないよ」

 花楓が胸を張る

 

「……いや、泣いていいと思うけど」

 

「お姉ちゃんのドレス、絶対きれいだよね!」

 のどかが落ち着かない様子で言い、

 卯月が「空気は吸うものだよ」とよく分からない励ましをしている。

 

 ――うるさい。

 

 でも、それがいい。

 

 人が集まるって、こういうことだ。

 

 扉の向こうで、音楽が始まった。

 

 麻衣さんが入場する。

 その瞬間だけ、世界が静かになる。

 

 僕は、息を吸った。

 

 ここまで来た。

 奇跡がなくても。

 思春期症候群が終わっても。

 

 それでも、僕たちはここに立っている。

 

 そして、客席の後方。

 静かに座っているひとりの少女を見つけた。

 

 牧之原翔子さん。

 

 彼女は、いつものように優しく笑っていた。

 その笑顔が、僕の胸の奥のどこかを、そっと撫でる。

 

 ――未来は変えられないかもしれない。

 でも、今は選べる。

 

 翔子さんの手術費のこと。

 ドナー登録のこと。

 募金のこと。

 

 全部、できる範囲でいい。

 身の丈でいい。

 

 それでも、誰かのために、今できることをする。

 それが、未来に辿り着くための唯一の方法かもしれない。

 

 そんな考えが、胸の奥に根を張っていく。

 

⸻

 

 式が終わり、夜になった。

 

 ホテルの部屋に戻ると、麻衣さんは靴を脱いで、ベッドに腰を下ろした。

 僕も隣に座る。

 

 静かだ。

 でも、寂しくはない。

 

「麻衣さん」

 

「なに、咲太」

 

 僕は、言葉を選ばなかった。

 

「これからも麻衣さんをずっと見続けていくよ」

 

 麻衣さんは、少しだけ目を細める。

 

「ありがとう」

「でも咲太は、一回私のこと忘れた前科があるからね」

 

「うっ、それは……」

 喉の奥に、変な音が詰まる。

 

「大丈夫よ」

 麻衣さんは、当たり前みたいに言った。

「見ていなかったと感じたら、また足踏んで思い出させてあげる」

 

「はは、それは……ご褒美かもしれません」

 

「足踏まれることがご褒美なんて言ってる人と、これからやっていけるかしら」

 

「麻衣さん、冗談です」

 

「わかってる」

 

 麻衣さんは、少しだけ笑ってから、僕の手を取った。

 

「でもね」

「咲太だけが私のことを見続けるんじゃない」

「私もあなたを見続ける」

「そして二人で幸せになるのよ」

 

「……やっぱり麻衣さんには敵わないなあ」

 

 僕は、素直に言う。

 

「麻衣さんのことが大好きです」

「これからもよろしくお願いします」

 

「ふふっ。こちらこそ」

 

 僕たちの世界に、霧はもうない。

 透明な空気の中で、息をしている。

 

 それでも、見続ける。

 

 それが、僕たちの答えだった。


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