貞操逆転世界で戦友を作る方法 作:ピピピ
「男は馬車の中にいてください」
初陣で最初に受けた指示が、それだった。
目の前の女騎士は、俺の叙任状と顔を交互に見比べ、最後にもう一度、叙任状を見た。
紙の端には、女王陛下の印が押されている。
いくら睨んでも消えませんよ、それ。
「リオ・アルト。二十歳。本当に、あなたが?」
「はい。昨日付で第七騎士団に配属されました」
「……式典用の名誉騎士ではなく?」
「実技も筆記も受けました。配置命令には、グレイ小隊の撤退支援と」
「私がエルナ・グレイです」
知っている。
灰色の瞳に、短く切った黒髪。
長槍を持つ右手の甲には、古い傷が走っていた。
鎧も外套も泥に汚れているが、槍の穂先だけは曇りなく磨かれている。
槍術試験の会場に、彼女の模範演武の記録があった。
三歩の間に、三人の試験官を転がしていた人だ。
その人が今、頭痛をこらえるような顔で俺を見ている。
「事情は、移動しながら聞きます。ともかく救護馬車へ」
「俺も戦えます」
「あなたを見つけた敵がどう動くか、考えましたか」
言い返しかけた口が止まった。
城壁の向こうで、鈍い音がした。
少し遅れて、石の崩れる音と悲鳴が届く。
東の空が、朝焼けとは違う色をしていた。
***
俺は、前世の記憶を持っている。
日本という国で暮らしていた記憶と、寝る前に何度も読み返した、一冊の戦記小説の記憶だ。
好きだったのは、大軍を蹴散らす英雄より、その隣にいる男だった。
普段は同じ兵舎で暮らし、稽古では遠慮なく相手を転がす。
まずい飯に一緒に文句を言う。
戦場に出れば、短い合図ひとつで互いの死角を埋める。
どちらかが倒れれば、もう片方が引きずってでも連れて帰る。
そんな二人が、次の章ではまた、鍋の焦げをどちらが洗うかで喧嘩している。
俺は、あれが欲しかった。
だから剣と鎧のある世界に生まれ直したと気づいたとき、今度こそ、と思ったのである。
ただし、少々、想定と違うことがあった。
この世界では、男が極端に少ない。
家を継ぐのも、武器を持つのも、求婚するのも、たいていは女だ。
男は大事に育てられ、慎みを教えられ、よい家に迎えられることを期待される。
俺が初めて木剣を握った日、母は泣いた。
騎士試験に合格した日には、もっと泣いた。
それでも十年鍛えて試験を通り、とうとう騎士になった。
男の騎士は、俺一人だった。
なお、今やっている戦争も、発端は王弟殿下の縁談だという。
隣国の女王が断られ、それで諦めなかった結果、俺たちのいる国境の町が燃えている。
「敵は、あなた一人を捕らえるために追撃を続けるかもしれません」
エルナさんは歩きながら言った。
「ここには負傷者がいます。逃げる速さを上げられない人たちです。あなたの腕前だけでは済まない」
道の端に、折れた車輪が転がっていた。
その向こうで、衛生兵が兵士の腕を縛っている。
兵士は自分の足で立とうとして、立てなかった。
俺は盾の持ち手を握り直した。
「……分かりました。救護馬車では、何をすれば」
「歩ける人を乗せないこと。動けない人から乗せること。馬車が詰まったら、人を下ろす前に呼んでください」
「了解です」
彼女は一瞬だけ俺を見た。
「兜は、脱がないように」
そう言い残して、東門へ戻っていった。
俺は救護馬車の幌をめくった。
「乗るのを手伝います。肩を貸すので、つかまってください」
差し出した手を、負傷した女兵士が呆然と見た。
しまった。
まただ。
この世界の男は、そう気軽に女へ触れない。
「騎士です。救護の手伝いを命じられました」
そう言うと、彼女は恐る恐る俺の腕をつかんだ。
うん。
ちゃんと説明すれば、分かってもらえる。
***
町の西には川が流れていて、対岸へ渡るには石橋を使うしかなかった。
橋の西詰では工兵が待機している。
全員が渡ったら、橋脚に仕掛けた爆砕符を起動する手はずだ。
俺は救護馬車の車輪を押し、ぬかるみを抜け、橋を渡った。
運んだ兵士の数は、途中から数えられなくなった。
重かった。
人間は、鎧を着て、力を失うと、こんなにも重くなるのか。
最後の馬車が橋を渡り終えたときには、腕が熱を持っていた。
「残りは!」
「グレイ小隊、四名!」
誰かの叫びに振り返る。
橋の向こうから、兵士が二人、負傷者を挟んで走ってきた。
その後ろに、エルナさんがいる。
長槍が横に振られた。
追いつきかけた敵兵がたたらを踏む。
その隙に彼女は三歩下がり、槍を構え直した。
あの演武と同じだった。
違うのは、相手が転がされても笑わないことと、彼女の左脚から血が流れていることだった。
矢が刺さっている。
「援護射撃!」
西詰の弓兵が矢を放つ。
敵は盾を上げた。
エルナさんが、また後退する。
最後の負傷者が、西詰に辿り着いた。
俺はその体を衛生兵に預けると、盾を上げて橋へ踏み出した。
「待て、橋を――!」
背後で声がした。
「二人戻るまで、待ってください!」
エルナさんも、こちらへ下がってくる。
あと三歩で手が届く。
その左膝が折れた。
近くにいた敵兵が槍の柄を踏みつける。
別の一人が、斧を振りかぶった。
俺は石畳を蹴った。
剣を抜き、盾を突き出す。
訓練なら、何度もやった。
間に合え。
斧が落ちてきた。
盾で受けた瞬間、左腕の骨が全部鳴った気がした。
重い。
訓練用の武器とは、まるで違う。
だが、止まった。
俺は盾の縁を押し上げ、相手の顎にぶつけた。
のけぞった胴へ剣を突き入れる。
刃が、途中で引っかかった。
敵兵の顔が近くにあった。
女だった。
俺より、少し年上に見えた。
口が開く。
何かを言おうとしている。
目が離せなかった。
「顔を上げろ!」
耳元を、銀色の穂先が通り過ぎた。
俺の右から迫っていた敵兵が崩れる。
エルナさんだった。
槍を取り戻した彼女が、俺の肩をつかんで引いた。
さっきまで俺の頭があった場所を、剣が薙いだ。
「倒した敵を見るな。次を見ろ!」
「――了解!」
剣を抜く。
息がうまく吸えない。
胃の奥がせり上がってくる。
それでも顔を上げると、次の敵が見えた。
「盾を前に。私より出るな」
短い指示が飛んだ。
体が従う。
剣を盾で受ける。
すぐ脇から、彼女の槍が伸びる。
敵が離れる。
二人で下がる。
「三歩。……止まれ」
俺たちが足を止めたところへ、槍が突き込まれた。
盾で外す。
踏み込んで返そうとした俺の腕を、彼女が止める。
「追うな」
下がる。
たった三歩が、ひどく遠い。
剣が兜をかすめ、留め革が切れた。
ずれた面頬の下から、冷たい空気が入り込む。
「男だ!」
敵の一人が叫んだ。
「そっちは生け捕りにしろ!」
後ろにいた兵士まで、こちらへ駆けてくる。
エルナさんの言ったとおりだった。
俺がいるだけで、敵の動きが変わる。
盾を押す力が増した。
足が滑る。
左から、別の兵士が回り込もうとする。
全部は受けられない。
「エルナさん」
「喋るな。息を使え」
「左、任せてもいいですか」
返事まで、一拍あった。
正面の敵が、盾を押してくる。
「俺は、この二人を止めます」
左の敵は見なかった。
怖くなかったわけがない。
今も、そちらから刃が来る気がしている。
けれど、俺が見た演武でも、さっき俺を助けてくれたときも、彼女の槍は一度も外れていなかった。
「……任せろ」
エルナさんが、左へ動いた。
俺は盾に体重を乗せた。
左で、槍が風を切る。
悲鳴が上がる。
振り返らなかった。
「右を頼む、リオ!」
「任せてください!」
初めて、名前を呼ばれた。
その声で、もう一歩、足が動いた。
橋の幅は狭い。
敵の数が多くても、同時に剣を届かせられるのは二、三人だ。
俺が止める。
彼女が突く。
彼女が足を引きずる分、俺が半歩前に残る。
俺が前へ出すぎる分、彼女の声が引き戻す。
最後の数歩で、味方の盾兵が駆け寄ってきた。
「こっちへ!」
俺はエルナさんの腕を肩に回した。
ほとんど倒れ込むように、西詰へ転がり込む。
「落とせ!」
白い光が、橋の下から噴き上がった。
地面が跳ねた。
遅れて、腹の底を殴るような音。
石の橋が中央から崩れ、濁った川へ飲み込まれていった。
俺は、しばらく起き上がれなかった。
***
後方の野営地で、俺は革紐と戦っていた。
兜の留め革は切れたのに、籠手の留め革は丈夫だった。
指が震えて、どうしても外せない。
「貸せ」
エルナさんが、俺の前に腰を下ろした。
左脚には包帯が巻かれている。
骨には届いておらず、数日休めば歩けるという。
彼女は黙って、籠手の紐をほどいてくれた。
「救護馬車に同行しろ、と命じたはずだが」
「最後の馬車は渡りました」
「だから、戻っていいと?」
顔を上げる。
灰色の目が、まっすぐ俺を見ていた。
「……置いていけませんでした」
彼女はしばらく何も言わなかった。
籠手が外れた。
手首に赤く、革の跡が残っている。
「初陣か」
「はい」
「人を斬ったのも?」
うなずく。
あの敵兵の顔を、たぶん、忘れられない。
「今夜は、眠れないかもしれない。顔が浮かんでも、酒でごまかすな。水を飲め。何か食べろ」
「……はい」
「一人で抱えるな。話したくなったら、呼べ」
彼女が水筒を差し出した。
受け取って飲む。
水が、少しだけ鉄の味をしていた。
「怖かったです」
言うと、ようやく息が深く入った。
「見れば分かる」
「左から来たやつ、振り返りそうになりました」
「振り返っていたら、正面の二人に崩されていた」
「じゃあ、任せてよかった」
そう言うと、彼女は視線を落とした。
外した俺の籠手を、膝の上でひっくり返す。
「……よく、任せられたな」
「エルナさんだったから」
籠手をひっくり返す手が止まった。
「試験場の記録、見たんです。今日も、俺が見えていなかった敵を倒してくれましたし。だから、この人なら大丈夫だって」
俺が持っている根拠は、それだけだった。
十分だと思った。
「私が、間に合わなかったら」
「俺が死んでました」
「簡単に言うな」
声が、急に強くなった。
俺は口を閉じた。
エルナさんの指が、籠手の縁を強く握っていた。
「……すみません。助けてもらったのに」
「そういう話をしているんじゃない」
彼女は息を吐いた。
「私も、お前が来なければ死んでいた」
それから、ようやく顔を上げた。
「助かった。ありがとう」
胸の奥が、熱くなった。
男なのに偉い、でも。
危ないから下がっていろ、でもなく。
俺がそこにいたから、助かったと。
そう言ってもらえた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
頭を下げる。
地面に視線を落としたまま、考えた。
ここで礼を言って終わりにしたら、きっと後悔する。
「エルナさん。お願いがあるんです」
「……何だ」
「俺の戦友になってくれませんか」
返事がなかった。
顔を上げると、彼女は妙な表情をしていた。
「戦友……」
「はい」
「今日、一緒に戦っただろう」
「今日だけじゃなくて」
うまく伝わっていない。
「これからも、という意味です。同じ隊で、普段から一緒に鍛えて。互いの癖を覚えて、いざってときに何も言わなくても動けるように」
今日の俺は、指示されるばかりだった。
剣を引くのが遅れた。敵を追いかけそうにもなった。
彼女に救われた分だけ、次は俺も救えるようになりたい。
「また、背中を預けたいんです。あなたに」
エルナさんの口が、少し開いた。
閉じた。
俺の顔を見て、それから、手元の籠手を見た。
「……男が、女に、そういうことをだな」
「嫌ですか?」
「嫌ではない」
返事が速かった。
「ただ、お前は、もう少し考えてから相手を選ぶべきだ」
「考えましたよ。さっき、橋の上で」
あそこより真剣に考えられる場所が、ほかにあるだろうか。
彼女は片手で顔を覆った。
しばらくして、くぐもった声がした。
「……槍を出した直後、左側が空く」
「はい?」
「私の癖だ。脚が治ったら、そこを埋める練習から始める」
俺は、思わず立ち上がった。
「それじゃあ!」
「お前は盾で押したあと、右肘が開く。先にそっちを直す。今のままだと、何度でも私が拾うことになる」
「はい!」
「声が大きい」
注意された。
でも、仕方ないと思う。
俺に、戦友ができたのだから。
***
その日の夕方、もうひとつ問題が見つかった。
「宿舎、俺だけ別なんですか」
兵站係が、当然でしょう、という顔をした。
男の騎士が入ってくることを想定していなかったらしい。
俺には町の宿の個室を借り、扉の外に護衛を置くという。
稽古場からは遠いし、戦友は兵舎だ。
「エルナさんの部屋では駄目ですか」
隣で、何かが落ちた。
エルナさんが、渡された鍵を拾っている。
「……何を言った?」
「小隊長用の二人部屋なんですよね。片方、空いてるって」
「空いてはいるが」
「朝の鍛錬も一緒にできますし。脚が治るまで、荷物を運ぶのも手伝えます」
兵站係が俺を見た。
エルナさんを見た。
もう一度、俺を見た。
「アルト卿。それは、同じ部屋で寝起きするという意味ですよ」
「はい」
「グレイ卿と」
「はい。戦友なので」
普通なら、男女が同室などと言えば縁談の話になる。
でも、エルナさんは俺を騎士として扱ってくれた。
戦友になってくれ、と頼んで、了承もしてくれた。
彼女となら、余計な誤解はないはずだ。
兵站係は黙った。
エルナさんも黙った。
あれ。
やっぱり、いきなり相部屋は図々しかっただろうか。
「もちろん、嫌なら別の部屋で――」
「嫌ではない」
また速かった。
エルナさんは咳払いをした。
「……ただし、寝台は別だ」
「当然でしょう」
「当然だな。うん。そうだ」
兵站係が、帳面を開いた。
「グレイ卿が護衛と監督を引き受けるということで、よろしいですか。隊長にも届けますが」
「私が責任を持つ」
そこだけは、橋の上と同じ、きっぱりした声だった。
彼女は、握った鍵を見つめていた。
***
エルナ・グレイは二十三歳になるまで、一度も男を自室に入れたことがなかった。
今、いる。
しかも、寝ている。
隣の寝台で、すっかり気を抜いた顔をして。
最初は話をしていたのだ。
明日の訓練について。今日の戦いについて。
リオの手がまた震えたので、温かい湯を飲ませた。
やがて返事がゆっくりになり、彼は横になった。
『眠れそうか』
尋ねたエルナに、彼は目を閉じたまま答えた。
『うん。君がいるから』
それが最後だった。
エルナは、寝台の端に腰掛けたまま動けずにいた。
橋の上で、リオが背を向けた瞬間を思い出す。
怖くてたまらないくせに、こちらを確かめようともしなかった。
彼女が守ると、本当に信じていた。
そして今も同じことをしている。
この部屋にいる女が、どれほど必死に椅子一脚分の距離を守っているかも知らずに。
寝返りを打ったリオの肩から、毛布がずれた。
エルナは立ち上がり、それを戻した。
指先が頬に触れそうになって、慌てて手を引く。
「……信じすぎだ、馬鹿」
小さく言った。
リオは起きなかった。
彼女は机に戻り、翌日からの訓練予定を書いた。
盾を押したあとの右肘。
槍の間合いへの入り方。
負傷時の交代。
そこまで書いて、しばらく迷った。
最後に一行、書き足す。
女性に対する警戒心。
さらに、その横へ小さく、最優先、と加えた。
寝台から声がした。
「……エルナ」
ペンが止まる。
振り返ったが、彼は眠ったままだった。
名前を呼んだだけらしい。
エルナは両手で顔を覆った。
明日までに、どうやって教えればいいのか考えなければならない。
自分以外の女にも、こんなふうにしてはいけないと。
――自分ならいい、と思ってしまったことは、今夜は考えないことにした。