貞操逆転世界で戦友を作る方法 作:ピピピ
「知らない女に、二人きりになろうと誘われても、ついていくな」
朝から、ずいぶん具体的な訓練だった。
俺は寝台に腰掛け、机の上に置かれた紙を見ていた。
盾を押したあとの右肘。
槍の間合いへの入り方。
その下に、女性に対する警戒心。
最後の項目だけ、線で囲まれている。
「武器の手入れを教えてやると言われてもだ。食事をご馳走すると言われても、部屋には行くな」
「それは、母にも言われました」
「そうか」
「騎士になると決まってから、毎日」
「いいお母様だ。手紙を書け。私は元気だと」
もう母の味方になっている。
エルナさんは椅子に座っていた。
包帯を巻いた左脚を、もう一脚の椅子に乗せている。
昨日より顔色はいい。ただ、目の下に薄く隈があった。
「知っている相手ならいい、という意味でもないぞ」
「じゃあ、誘われたら、エルナさんに相談すればいいですか」
「まずはそうしろ。相手と、行き先と、何をするつもりなのかを」
「分かりました」
彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
昨日、敵は俺の顔を見ただけで追い方を変えた。
俺がどういうつもりかと、相手がどういうつもりかは、別なのだ。
説明されれば、そのくらいは分かる。
「ところで」
俺は机の上の水差しを指した。
「水、取りますか。さっきから見てますけど」
「……頼む」
杯に注いで渡す。
受け取ろうとした指が、俺の指に触れた。
彼女の手が止まる。
「それもだ」
「水ですか?」
「距離だ。手渡しせず、机に置けばいい」
なるほど。
俺は杯を机に置いた。
エルナさんがそれを取ろうとして、体を傾けた。
椅子の上の左脚がずれ、眉がわずかに寄る。
俺は杯を取り直し、彼女の手へ渡した。
「……今の話を聞いていたか」
「机を寄せるのと、どっちがよかったですか」
彼女は杯を持ったまま黙った。
怪我をしている人の世話というのは、なかなか難しい。
***
朝食を持ってきてくれたのは、小隊の副長のマルタさんだった。
昨日、橋の上で負傷者に肩を貸していた兵士の一人だ。
髪を後ろでひとつに束ね、頬には小さな切り傷がある。
彼女は扉を叩くと、返事があるまで外で待っていた。
「入れ」
エルナさんが言って、ようやく扉が開いた。
盆の上に、二人分のパンと豆の煮込みが載っている。
「おはようございます、アルト卿。よくお休みになれましたか」
「はい。途中で一度起きましたけど、すぐ眠れました」
「それは何よりです」
マルタさんは、俺の顔を見た。
続いて、エルナさんの顔を見た。
「小隊長は」
「用件を言え」
「朝食です」
「見れば分かる」
では聞かなければいいのでは。
マルタさんは笑いもせず、盆を机に置いた。
「それと、交換用の留め革を。兜の分です。金具はそのまま使えるそうで」
「ありがとうございます」
昨日、切られた留め革だ。
兜の縁には、剣がかすめた傷も残っている。
あと少し深ければ。
そこまで考えて、パンを手に取った。
硬かった。
「……これ、昨日のですか」
「一昨日のですね」
マルタさんの返事に、エルナさんが煮込みの椀を寄せた。
「浸せ。歯で勝とうとするな」
言われたとおりにすると、ようやく食べられた。
豆はほとんど煮崩れていたが、塩気があって温かい。
腹に入って初めて、空いていたことに気づいた。
「今日の予定は」
エルナさんが尋ねると、マルタさんは脇に挟んでいた紙を広げた。
負傷者の移送。失った装備の確認。補給の受け取り。
短い言葉が続いた。
昨日は、橋を落としたところで全部が終わった気がしていた。
でも、兵士には今日も飯がいる。
壊れた盾も、血の染みた包帯も、そのままでは使えない。
「移送の名簿は私が確認する。装備は」
「こちらで数えています。小隊長は医務官の言いつけを守ってください」
「守っている」
椅子の上の左脚を、彼女が顎で示す。
「今朝、廊下に出ようとしたそうですね」
「水を取りに」
「呼んでください」
エルナさんは豆を食べた。
俺に一人で抱えるなと言った人も、人に頼るのが得意というわけではないらしい。
***
剣を振り回すほどの広さはない。
それでも、盾の構えを直すだけなら、寝台の足元で足りた。
マルタさんが持ってきてくれた訓練用の盾は、昨日のものより軽かった。
左腕に通すと、それでも筋肉が痛んだ。
右手には、マルタさんと同じ、短い木剣を持った。
「上がるか」
「上がります。少し張っていますけど」
「打ち合いはしない。痛みが増したら言え」
エルナさんは椅子に座ったまま、俺の右肘を指した。
「盾を押し出したあと、剣まで外へ振る癖がある。そこへ刃を差し込まれたら終わりだ」
ゆっくり、盾を前へ出す。
マルタさんが正面から手で受けた。
俺は相手を押し返すつもりで、右足を進める。
右腕が動く。
「そこ」
マルタさんの持った短い木剣が、脇に触れた。
「あ」
「昨日は、それを二度拾った」
エルナさんが言う。
俺は剣を持つ手を引きつけ、もう一度やり直した。
押す。
右肘を締める。
木剣は入ってこない。
「今度は盾を寄せすぎだ。私の槍が出るところを塞いでいる」
難しい。
一人で正面の相手を倒すなら、空いているところへ踏み込めばよかった。
二人で戦うには、空けておかなければならない場所もある。
俺はエルナさんの肩の位置を見た。
あそこから槍が伸びてくるとして。
盾を、少しだけ傾ける。
「そうだ。それで押せ」
マルタさんが半歩下がった。
さっきまでより、小さな動きだった。
俺の右肘も、開いていない。
「……今のですか」
「今のだ」
嬉しくなって顔を向けかけると、エルナさんの指が上がった。
「相手を見ろ」
「はい」
褒められたか確かめる暇もない。
なかなか厳しい戦友だった。
同じ動きを、何度か繰り返した。
次は、盾の縁を押されたとき。
次は、相手が横へずれたとき。
マルタさんの木剣が、盾を軽く叩いた。
乾いた音がした。
左腕が、勝手に強張った。
斧を止めたときの重さを思い出した。
すぐ目の前にあった顔も。
開いた口も。
「リオ」
返事をしようとして、息が浅いことに気づいた。
「盾を下ろせ」
「まだ、できます」
「今、誰と向かい合っている」
俺は目の前を見た。
頬に、小さな切り傷があった。
木剣は下がっている。
「……マルタさんです」
「そうだ」
エルナさんの声が、すぐ近くで聞こえた。
「少し休む。座れ」
俺は盾を外した。
留め具は、今朝は自分で外せた。
寝台の端に座ると、膝の上に置いた手が震えた。
昨日の夜、ちゃんと眠れたから、もう大丈夫だと思っていた。
「すみません」
「謝ることじゃない」
エルナさんが言う。
「だが、黙るな。手が強張ったら、そのときに言え」
「戦っている途中でも、ですか」
「途中なら、なおさらだ」
俺は膝の上の手を見た。
「言ったら、負担が増えませんか」
「言わずに倒れられたら、もっと増える」
隣でマルタさんがうなずいた。
「昨日、運んだやつもそうです。歩けると言い張って、門を出たところで潰れました。最初から担架に乗せていれば、もう少し早く下がれた」
責める口調ではなかった。
ただ、困ったのだという顔をしていた。
橋を渡ってきた三人を思い出す。
運ぶ方の二人も、足元が危なかった。
「……俺、今は少し、手がうまく動きません」
言ってみる。
声にすると、ひどく情けなく聞こえた。
「分かった」
エルナさんは、それだけ言った。
マルタさんが、俺の盾を壁へ立てかけた。
別に、何も終わらなかった。
部屋から追い出されもしない。
「前に出られなくなったら、交代と言え。私が位置を変える。勝手に下がるな。間が空く」
「はい」
「私が言ったら、お前が代わる」
顔を上げた。
「エルナさんも、言うんですか」
「当たり前だ。槍は重いし、腕は二本しかない」
彼女は、俺の手が震えていることをもう見ていなかった。
代わりに、自分の右肘を曲げてみせた。
「余裕があるうちに言え。動けるうちに代われ。その方が、二人とも長く戦える」
俺はうなずいた。
強くなって、任せてもらうことばかり考えていた。
任せる側にも、練習がいるらしかった。
***
午前のうちに、マルタさんは補給の受け取りへ戻った。
俺は盾を片付け、水差しを満たしてから、兜の修繕を始めた。
切れた革を外し、新しいものと長さを比べる。
金具の位置に印をつけたところで、向かいの椅子がきしんだ。
エルナさんが机へ身を寄せていた。
名簿に何かを書きつけ、脇に置いた別の紙を取る。
そのたびに、左脚の置き場所を少しずつ変えている。
「痛むんですか」
「同じ姿勢だと、少しな」
「横になったら」
「これを終えたら」
紙は、まだ何枚もあった。
「俺にできること、ありますか」
「お前は自分の装備を」
「名前の書き写しくらいなら、できます」
エルナさんはペンを止めた。
名簿の右側には、行き先の違う救護所の名前が書かれていた。
「……この印のある者を、別の紙に。所属と、名前と、移送先を。書いたら私が見る」
「了解です」
机の端を借りた。
知らない名前ばかりだった。
同じ名字が二つ続いて、書き間違えたかと思ったら、姉妹だという。
「同じ救護所には、行けないんですか」
「必要な治療が違う。だが、手紙は届けられる。そのためにも、間違えるなよ」
俺は一行ずつ、指で確かめながら写した。
最後まで書いて顔を上げると、エルナさんは目を閉じていた。
呼吸がゆっくりになっている。
けれど、紙を動かした音ですぐに瞼が開いた。
「終わったか」
「はい。でも、先に寝てください」
「確認が」
「急ぎですか」
彼女は窓の外を見た。
まだ、昼の鐘は鳴っていない。
「移送は明日の朝だ」
「じゃあ、少し休んでからでも」
返事の代わりに、手が伸びてきた。
俺は書き終えた名簿を渡さず、机の上に伏せた。
「リオ」
「俺がさっき、まだできるって言ったとき、休ませたでしょう」
「お前は初陣の翌日だ」
「エルナさんは、矢が刺さった翌日です」
彼女の手が止まった。
「それに、寝てないんですよね。脚が痛くて?」
「……それだけではないが」
やはり、昨日の戦いのことだろうか。
俺には、まだ分からないことがたくさんある。
部下を連れて帰る責任というのも、きっと、そのひとつだ。
「俺が、ここにいますから」
灰色の目が、こちらを向いた。
「外に出る用事もありません。誰か来たら、扉を開ける前に用件を聞きます。判断できなかったら、起こします」
今朝、教わったことだ。
ここまで言えば、護衛の仕事をさぼることにはならないはずだった。
「何かあったら、必ず起こせ」
「はい」
「親切そうだからといって」
「ついていきません」
エルナさんは、しばらく俺を見ていた。
「……頑固だな、お前は」
「十年、騎士になるって言い続けましたから」
母には、本当に申し訳ないと思っている。
やがて彼女は、机にペンを置いた。
椅子に乗せていた左脚を、ゆっくり下ろす。
「肩を、貸してくれるか」
俺は立ち上がった。
近づいて、彼女が腕を回せるように、少し腰を落とす。
「距離は、これでいいですか」
「今はいい」
少しだけ、声が掠れていた。
やっぱり、相当疲れているのだ。
彼女の体重が肩にかかった。
昨日は、倒れ込むようにして運んだ。
今度は、一歩ずつでよかった。
寝台まで、三歩。
彼女が腰を下ろしてから、包帯に触れないように脚を乗せる。
丸めた毛布をその下へ入れると、ようやく眉間の皺が緩んだ。
「交代ですね」
そう言うと、エルナさんは俺を見上げた。
「……何とだ」
「俺ばかり、休ませてもらったので」
しばらくして、彼女が小さく息を吐いた。
「頼む」
「任せてください」
橋の上より、ずっと静かなやり取りだった。
でも、嬉しかった。
俺は椅子を扉の見える位置へ動かし、兜と革を持って座った。
鞘に入れた剣は、手の届くところに置いた。
少しして、寝台から寝息が聞こえてきた。
俺も、ようやく肩の力を抜いた。
革の穴に、針を通す。
こういう作業は、母に教わった。
いつか迎えてくれる人が困らないように、と。
母は、兜を縫わせるつもりではなかったと思う。
それでも、覚えていてよかった。
糸を引くたびに、切れていたものがつながっていく。
震えていた指も、今はそれに従ってくれた。
***
エルナが目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは、糸を引く小さな音だった。
窓から入る光の位置が変わっている。
部屋の隅で、リオが兜を膝に載せていた。
何かを確かめ、革を引き、また針を通す。
目が合うと、彼は手を止めた。
「起こしましたか」
「いや」
声を出して、喉が乾いていることに気づいた。
リオが立ち上がり、水を注ぐ。
一度机を見てから、そのままこちらへ持ってきた。
今度は、受け取る手を止めなかった。
「誰か来たか」
「マルタさんが。名簿は夕方まででいいそうです。それと、包帯を替える人が、昼の鐘のあとに」
「そうか」
「ちゃんと、扉のところで話しましたよ」
少し得意そうだった。
聞いていないわけではない。
この男は、教えれば覚える。
盾を押したあとの右肘も、扉を開ける前の確認も。
そのうえで、自分のそばでは気を抜くのだ。
エルナは杯の水面を見た。
男を同室に置く以上、自分がずっと気を張っているつもりだった。
まさか、その男の前で先に眠らされるとは思わなかった。
「脚、どうですか」
問いかけに、反射で、大丈夫だ、と答えかけた。
リオは返事を待っている。
今朝、自分が彼にそうしたように。
「……まだ、少し痛む」
「じゃあ、包帯を替えるときに言いましょう。起きるときは呼んでください」
彼は椅子へ戻った。
それ以上、顔を覗き込もうとはしなかった。
痛いと言ったところで、何も失われなかった。
彼の見る目も、変わらなかった。
エルナは、枕に頭を戻した。
「リオ」
「はい」
「起きたら、お前の兜を見せろ。留め革が緩すぎると、また兜がずれる」
「お願いします」
嬉しそうな返事だった。
その声を聞いているうちに、もう少し、眠れそうな気がしてきた。
悔しいので、目を閉じたまま付け足す。
「ほかの女の前では、こうはいかないからな」
「分かってます」
針を動かす音が止まった。
「俺も、誰とでも同じ部屋で暮らしたいわけじゃありません」
エルナは目を開けた。
リオはもう、手元へ視線を戻していた。
何でもないことのように、糸を引いている。
エルナは、毛布を少し引き上げた。
顔を隠すほどではない。
そう見えない程度に、慎重に。
朝から、警戒するようにと教えていた。
その自分が今、彼にもう少しこちらを見てほしいと思っている。
困ったことに、脚の痛みよりも、そちらの方が眠る邪魔になった。