その日、彼は初めて自分の未来を諦めた。
何度見直しても結果は変わらなかった。ほんの僅かな可能性を拾い上げ、都合の悪い未来を消し去り、残った道筋を一つずつ確かめていく。これまで数え切れないほど繰り返してきた作業だったが、今回はどうにも勝手が違った。
何をしても、最後には同じ光景に辿り着く。
見知らぬ者たちが自分を取り囲んでいた。その中心にいるのは、憎らしい龍の男だ。周囲には人間もいれば、他の種族もいる。誰もが疲弊し、傷ついているというのに、彼らの表情には勝利を確信した者特有の安堵が浮かんでいた。
そして、その視線の先には自分がいる。
逃げ場はなかった。ようやく手に入れたはずの自由を奪われ、幾重もの拘束を施され、再び誰にも触れられない場所へ閉じ込められる。
死ぬわけではない。
それが何よりも腹立たしかった。
「……まいったなぁ」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
白い空間に声が響く。返事はない。ここには他に誰もいないのだから、当然だった。
とはいえ、彼は孤独に慣れていた。誰かと話したくなれば夢に現れればいいし、退屈になれば適当な人間を選んで、その人生がどこへ転がっていくのか眺めていればいい。
感謝されることもあった。恨まれることもあった。面と向かって罵倒されたことだって、一度や二度ではない。
それでも構わなかった。
人間という生き物は、少しばかり道を示してやるだけで面白いほど動いてくれる。困っている者には解決策を教え、悩んでいる者には選択肢を与える。あとは本人が勝手に決断し、勝手に行動するのだから、こちらとしても大した手間は掛からない。
勿論、時には少々残念な結果に終わることもある。
けれど、それは仕方のないことだ。誰もが望み通りの人生を送れるわけではないし、何より、自分の未来を守るためには多少の犠牲も必要だった。
そうして今日までやってきた。
自分は間違っていなかったはずだ。
少なくとも、生き残るという目的に関しては。
「それなのに、どうしてこうなっちゃったかなぁ……」
彼は仰向けに寝転がり、頭の後ろで手を組んだ。
見上げた先にも白が広がっている。空など存在しない場所だから、厳密には見上げるという表現も正しくないのだろうが、そんなことを気にする者はいない。
もう一度、未来を覗く。
龍の男がいた。
その後ろには幾人もの協力者がいる。彼らがどのような経緯で集まり、どんな犠牲を払ってここへ辿り着くのかも、ある程度は分かっていた。
ならば、その芽を摘めばいい。
実際、これまでもそうしてきた。
ところが、一つの障害を取り除くと別の障害が生まれる。人間を一人殺せば、その死をきっかけに別の人間が動き出す。誰かを味方に引き入れれば、今度はその人物の行動が予想外の因縁を作ってしまう。
未来は変わる。
確かに変わるのだ。
それなのに、どれだけ経緯を変えても最後に待っている結末だけは変わらなかった。
まるで、自分が足掻けば足掻くほど、誰かが丁寧に逃げ道を塞いでいるようだった。
「嫌になるよね。僕はただ、平穏に暮らしたいだけなのにさ」
これもまた、誰に聞かせるでもない独り言だった。
もっとも、彼の言う平穏と他人の考える平穏が必ずしも一致するとは限らない。彼自身、その違いを理解していないわけではなかったが、だからといって考えを改めるつもりもなかった。
問題は、そこではない。
自分の望む未来が、もう存在しないということだ。
その事実だけは、どれほど不愉快でも認めなければならなかった。
彼は起き上がり、しばらく考え込んだ。
勝てないのであれば、負けるしかない。
そんな当たり前の結論を受け入れるまでに、随分と長い時間が掛かった気がする。
だが、負けることと、諦めることは別だった。
「……あれ?」
ふと、彼は首を傾げた。
自分は今、何を諦めたのだろう。
龍の男に勝利することか。それとも、未来において自由であり続けることか。
どちらも正しい。
けれど、その二つは必ずしも同じ意味ではない。
彼は再び未来を見た。
自分は敗北する。神としての力を封じられ、身動きの取れない場所に閉じ込められる。それは間違いない。
しかし、そこで拘束されているものは何だろう。
肉体か。
魂か。
それとも、神としての自分という存在そのものか。
答えを出そうとして、彼は思わず笑ってしまった。
「いやいや、そんな都合のいい話があるわけないじゃないか」
自分でも馬鹿げていると思った。
仮に、神としての自分が敗北するのだとしても、その一部が別の何かとして存続することまで否定されたわけではない。
ただし、そんなものを用意できるのなら、誰も苦労しない。
魂を分けるだけならまだしも、それが自分の一部だと分かれば、いずれ敵に辿り着かれてしまう。記憶や使命を与えればなおさらだ。自分を救えと命じられた存在など、真っ先に疑われるに決まっている。
何より、そのような存在の未来は、結局のところ自分の未来と繋がってしまう。
それでは意味がない。
「じゃあ、何も教えなければいいのかな」
口にしてから、彼は少し考えた。
自分のことを知らない。
自分を救う必要もない。
何の命令も与えられず、好きな場所で生まれ、好きなように生きていく。
そんな存在が、果たして自分のためになるのだろうか。
なるはずがない。
助けに来る理由がないのだから。
そもそも、世界中にいる無数の人間のうち、たった一人が偶然こちらへ辿り着く可能性など、考えるだけ馬鹿馬鹿しかった。
ところが、彼はその考えを捨てきれなかった。
未来を知ることができるというのは、便利な能力だ。失敗を避け、成功する道を選べる。どれほど複雑な計画であっても、結果を確かめながら修正していけばいい。
しかし、その能力には一つだけ厄介な問題があった。
見えている未来の外側で何が起きるのかは、分からない。
自分の知らないものが、自分の知らない場所で生まれたらどうなるのだろう。
仮に、それがこの世界とは異なる場所だったなら。
「……そうか」
彼はゆっくりと立ち上がった。
世界の外側。
そこには、この世界とは異なる理屈で動く場所がある。自分の力も、知識も、未来を見る目も、そこへ届くとは限らない。
これまでの彼なら、そのような場所に頼ろうとは思わなかっただろう。
自分で確認できないものなど、計画に組み込む価値がない。
成功するか分からない手段を選ぶくらいなら、確実に利益を得られる方法を探すべきだ。
だが、確実な方法はすべて失敗してしまった。
ならば、最後くらいは不確実なものに賭けてもいいのではないか。
「本当に嫌だなぁ。こんなの、僕らしくないよ」
彼は苦笑した。
そして、自分という存在の奥深くへ意識を向けた。
神としての力を外へ持ち出すことはできない。魂の一部をそのまま切り離しても、封じられた本体との繋がりが残ってしまう。
だから、必要なものだけを残すことにした。
記憶はいらない。
名前もいらない。
自分への忠誠など、むしろ邪魔だった。
ただ、ほんの僅かな性質だけを残す。
ものとものを隔てる境目に気づくこと。
誰もが当然だと信じている仕組みに疑問を持つこと。
不可能だと言われた時、その不可能を成立させている条件そのものを考えること。
彼は自らの魂を削り、その性質を一つの小さな核へと結びつけた。
それは本来、生命と呼べるものではなかった。
神の分身というにはあまりに脆弱で、使徒と呼ぶにはあまりに不確かだった。
自分自身ですら、それが何になるのか分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
これには未来がなかった。
正確には、自分の目に映る未来のどこにも、その核が辿る道筋を見つけられなかった。
「……へえ」
彼は目を細めた。
見えない。
何度確かめても、そこだけが空白になっている。
先ほどまであれほど不愉快だった不確実さが、今は少しばかり愉快に思えた。
「君がどこへ行くのか、僕には分からないんだね」
当然、返事はなかった。
彼は小さな核を眺める。
これを放ったところで、何かが起こる保証はない。世界の境界を越えられずに消えてしまうかもしれないし、運よくどこかへ辿り着いても、何の役にも立たないまま終わるかもしれない。
自分を嫌う者になる可能性だってある。
それどころか、何も知らないまま敵に味方し、自分を滅ぼす側へ回ることすら考えられた。
馬鹿馬鹿しい。
これほど割に合わない賭けは、今まで一度もしたことがなかった。
「まあ、いいか」
彼は笑った。
これが失敗したところで、どうせ自分の結末は変わらない。
ならば、失うものなど何もない。
彼は指先を伸ばし、小さな核を白い空間へと押し出した。
何かが砕ける音はしなかった。世界が揺れることも、眩い光が辺りを照らすこともない。
ただ、その瞬間だけ、彼の指先から何かが失われた。
自分の一部だったものが、自分ではないものへと変わっていく。
その感覚は、思いのほか不愉快ではなかった。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
誰もいない場所へ向かって、彼は手を振った。
「君が何になって、どんな人生を送るのかは知らないけどさ。できれば、楽しく生きてくれると嬉しいな」
そこで一度言葉を切り、彼は悪戯っぽく笑った。
「それで、もし何かの間違いで僕に会うことがあったら、その時はよろしくね」
返事はない。
核はすでに、彼の認識できる場所から消えていた。
彼はしばらくその方向を眺めていたが、やがて肩をすくめ、いつものように寝転がった。
未来を覗けば、相変わらず自分の敗北が見える。
何も変わっていない。
それでも構わなかった。
自分はもう、負けると決まっているのだから。
今更、見えないものが一つ増えたところで、何の問題もない。
「……ああ、そうだ」
ふと思い出したように、彼は呟いた。
「一つだけ、お願いしておけばよかったかな」
もう遅い。
何しろ、相手はとっくに自分の手を離れている。
彼は少し残念そうに笑って、それから目を閉じた。
どうせ届かないのだから、声に出す必要もない。
ただ、もしも叶うことなら。
いつか、自分のことを知ってもらいたかった。
そして、その上で。
自分をどうするか、選んでもらいたかった。
それが神にとって、最後の悪足掻きだった。
* * *
その夜、日本のとある病院で、一人の男児が産声を上げた。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
看護師の言葉に、父親は何度も頭を下げていた。出産を終えた母親は疲れ切った様子だったが、それでも胸元に抱かれた小さな我が子から目を離そうとはしなかった。
どこにでもある出産だった。
神の祝福もなければ、奇跡を知らせる光が降り注ぐこともない。
ただ新しい生命が一つ、この世界に生まれた。
「名前、どうする?」
父親が尋ねると、母親は赤ん坊を見つめながら、少しだけ笑った。
「
「裕人?」
「うん。豊かな人生を送ってほしいから。いろんな人と出会って、いろんなことを経験して……自分で幸せを見つけられる子になってほしいなって」
父親はしばらく考えてから、頷いた。
「いい名前だと思う」
二人が顔を見合わせる間にも、赤ん坊は小さな手を動かしていた。
何も知らない。
自分がどこから来たのかも、これからどんな人生を歩むのかも、当然ながら知るはずがない。
その小さな身体には、何の魔力も宿っていなかった。
未来を見ることも、他人の夢に入り込むこともできない。
泣いて、眠って、乳を飲むことしか知らない、ただの人間だった。
母親は赤ん坊の頬を指先で撫でた。
「よろしくね、裕人」
それが、彼に与えられた名前だった。
その名前を、白い世界の男が知ることはなかった。
彼に見える未来のどこにも、その子供は存在しなかったのだから。
そして、生まれたばかりの裕人もまた、自分という存在の誕生に、一人の神の敗北が関わっていることなど知る由もなかった。
ただ、母親の指を握り返し、小さく欠伸をした。
この時点では、何も起きていない。
誰も不幸にはなっていないし、誰かが救われたわけでもない。
神の企みも、人間の願いも、まだ何一つ結実していなかった。
もっとも、それでよかった。
未来を知ることのできなかった神が、最後に残したもの。
それは未来を変えるための命令でも、誰かを殺すための力でもなかった。
ただ一人の人間が、自分の意思で何かを選べるという可能性だった。