黒雲会編――生きるための裏切り
### 第一話 帰る場所さえ失った男
都市の裏路地に、夜の雨が降っていた。
雨水は建物の壁を伝い、ひび割れた舗装の隙間に溜まっている。頭上を走る配管からは濁った水が滴り、遠くでは誰かの怒鳴り声と、金属を打ちつけるような音が聞こえていた。
都市では珍しくもない夜だった。
そして、そんな夜を生きる人間にとって、珍しくもない問題が一つあった。
金がない。
お前は、薄暗い共同住宅の一室で、机の上に散らばった硬貨を眺めていた。
数えても、数えても、足りない。
指先で硬貨を一枚ずつ並べ直す。銅色の硬貨が四枚。擦り切れた小額紙幣が二枚。あとは、使い物になるかも分からない古い切符と、何日も前に買った安い保存食の包み紙だけだった。
家賃の支払い期限は、とっくに過ぎていた。
「……あと、これだけか」
声に出したところで、金が増えるわけではない。
机の隅には、フィクサー事務所から受け取った仕事の記録が置かれている。8級フィクサーとして受けられる依頼は、危険の割に報酬が安かった。
荷物運び、見張り、揉め事の仲裁、低級シンジケートの構成員の追い払い。
成功しても、手元に残る金はわずかだ。
装備の修理費、食費、交通費。それらを差し引けば、生活費などほとんど残らない。
依頼が途切れれば、その日から食事を減らすしかなかった。
お前は濡れた上着を脱ぎ、椅子の背に掛けた。
壁に掛けられた安物の時計が、乾いた音を立てている。
針は夜の九時を少し回っていた。
そのときだった。
ドンドン、ドンドン。
乱暴に扉を叩く音が響いた。
「おい! いるんだろ!」
聞き覚えのある声だった。
お前はゆっくりと顔を上げる。
「家賃だ! いつまで待たせるつもりだ!」
大家だった。
扉の向こうから、苛立ちを隠そうともしない声が続く。
「先月も待った! 今月も待った! こっちは慈善事業で部屋を貸してるわけじゃねぇんだぞ!」
お前は椅子から立ち上がった。
扉の前まで歩き、錠前に手を掛ける。
開けた瞬間、大家が不機嫌そうな顔を覗かせた。太った男で、片手には帳簿、もう片方の手には古い鍵束を持っている。
「やっと出てきたか」
「……すみません。あと数日だけ待ってもらえませんか」
大家は鼻で笑った。
「数日? その台詞、何回目だと思ってる?」
「次の依頼が入れば、必ず――」
「依頼、依頼、依頼! お前の仕事がどうなろうと知ったことか!」
大家の怒鳴り声が、廊下に響いた。
近くの部屋の扉が少しだけ開き、住人がこちらを覗く。しかし、目が合うとすぐに扉が閉じられた。
誰も助けようとはしない。
この都市では、他人の困窮に首を突っ込むことは、余計な危険を招く行為だった。
大家は帳簿を指で叩いた。
「明日の昼までだ。それまでに払え。払えなければ荷物をまとめて出ていけ。鍵も替える」
「明日の昼……?」
「聞こえなかったのか?」
お前は唇を噛んだ。
明日の昼までに、まとまった金を用意する。
そんなことができるなら、そもそも家賃を滞納していない。
大家はお前の部屋を見回し、机の上の硬貨に気づくと、呆れたように肩をすくめた。
「その様子じゃ、払えるわけもないか。まったく、8級フィクサーなんて名乗っていて恥ずかしくないのかね」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
言い返したい気持ちはあった。
だが、何も言えなかった。
8級フィクサー。
都市の住人を守る英雄でもなければ、名のある剣士でもない。依頼を受けて金を稼ぎ、失敗すれば自分の命を失う。成功しても、次の依頼を探さなければならない。
お前の腕前では、危険な仕事を断ることも難しかった。
大家は鍵束を鳴らした。
「明日の昼だ。忘れるなよ」
そう言い残し、男は廊下を去っていった。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、雨音と時計の音だけだった。
お前はその場に立ち尽くした。
帰る場所まで失う。
それだけは避けたかった。
この部屋は狭く、壁は薄く、冬には隙間風が吹き込んでくる。それでも、お前が自分の金で借りている唯一の場所だった。
仕事で負傷した夜も、空腹で眠れなかった夜も、ここに帰れば少なくとも扉を閉めることができた。
それすら失えば、路地裏で寝るしかない。
路地裏で眠る人間が、どんな目に遭うか。
お前は何度も見てきた。
財布を奪われる。武器を盗まれる。弱い者は強い者に踏みつけられる。運が悪ければ、朝まで生きていられない。
「……ふざけんな」
小さな声が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
大家か。
依頼主か。
それとも、何も変えられない自分自身か。
お前は机に手をつき、深く息を吐いた。
そして、ふと思い出した。
三日前の依頼。
黒雲会の荷物を奪う仕事。
高額報酬に釣られ、仲間たちとともに引き受けた、あの仕事だ。
あの依頼で仲間は倒され、お前は逃げ帰った。
以来、事務所には黒雲会から警告が届いている。
関係者が再び縄張りに足を踏み入れれば、容赦はしない。
本来なら、事務所の仲間たちと相談するべきだった。
警戒を強め、仕事を減らし、黒雲会の目が逸れるまで身を潜める。
だが、それでは金が入らない。
金がなければ、明日には部屋を失う。
部屋を失えば、仕事を探すどころではなくなる。
そして、黒雲会に目をつけられた8級フィクサーが、路上で生き延びられる保証などなかった。
お前は机の上の硬貨を握り締めた。
掌に硬貨の縁が食い込む。
痛みがあった。
まだ、自分は生きている。
まだ、選択できる。
そのとき、頭の中に一つの考えが浮かんだ。
――黒雲会に、自分を売り込めばいい。
いや、売り込むという表現は正しくない。
お前が差し出すのは、自分の忠誠心などではなかった。
事務所の情報だ。
構成員の名前。
事務所の所在地。
武器庫の場所。
隠れ家。
依頼記録。
取引相手。
そして、黒雲会と敵対する可能性のある人間たちの情報。
お前は8級とはいえ、事務所の仕事に関わってきた。すべてを知っているわけではないが、少なくとも何も知らない一般人よりは役に立てる。
情報を差し出す代わりに、黒雲会の庇護を求める。
成功すれば、追われる側から、追う側の組織に属する人間になれるかもしれない。
もちろん、殺される可能性もある。
裏切り者として処分されるかもしれない。
情報を渡したあと、用済みとして切り捨てられるかもしれない。
それでも。
お前は目を閉じた。
「……死にたくない」
口に出すと、その言葉はひどく惨めに聞こえた。
だが、嘘ではなかった。
英雄になりたいわけではない。
都市を変えたいわけでもない。
強くなりたいという願いすら、今は二の次だった。
ただ、明日も生きていたかった。
安い飯を食べ、狭い部屋で眠り、次の日に目を覚ましたかった。
誰かの都合で命を奪われるのは、もう御免だった。
お前は紙を一枚取り出した。
震える手で、黒雲会の縄張りと、そこに出入りしている構成員について知っていることを書き始めた。
最初は、わずかな情報だった。
次に、事務所の人員。
そして、武器の保管場所。
筆を動かすたびに、仲間たちの顔が脳裏に浮かぶ。
一緒に安酒を飲んだ男。
何度も仕事を紹介してくれた先輩。
負傷したお前を背負って逃げた仲間。
あの夜、黒雲会の刀に倒れた者たち。
彼らを裏切る。
そう理解するたび、胸の奥が重くなった。
しかし、手は止まらなかった。
紙が埋まっていく。
お前は知っている情報を整理し、嘘と事実を混ぜないよう慎重に書いた。間違った情報を渡せば、すぐに見抜かれる。そうなれば、交渉どころではない。
最後に、お前は一文を付け加えた。
『情報の対価として、黒雲会への所属と保護を求める』
筆を置く。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
明日の昼までに家賃を払わなければ、部屋を追い出される。
そして、その前に黒雲会との交渉を成功させなければならない。
お前は紙を折り、上着の内側にしまった。
これが正しい選択かどうかは分からない。
だが、ほかに道はなかった。
### 第二話 黒雲会の門前
翌朝。
お前はほとんど眠れなかった。
夜明け前に部屋を出て、顔を洗い、使い古した上着を身につけた。武器は最低限のものだけを持った。交渉の場で武装していると誤解されるのを避けるため、普段使っている刃物は鞘ごと腰から外し、部屋に置いてきた。
手元に残したのは、情報を書いた紙だけだった。
黒雲会の縄張りに近づくにつれて、街の雰囲気が変わっていく。
通りの人影は少なくなり、代わりに黒い着物やスーツを着た男たちが目につくようになった。腰には刀。袖口から覗く刺青。こちらを見定めるような視線。
彼らは大声で威嚇することも、無意味に騒ぐこともしない。
ただ、そこにいるだけで、周囲の人間に自分たちの立場を理解させていた。
黒雲会の縄張り。
ここでは、誰が強いのかを確かめる必要などない。
お前は歩みを止めず、指定された建物へ向かった。
古びた建物だった。
外壁には黒ずんだ染みが広がり、入口の両脇には黒雲会の構成員が立っている。二人とも刀を帯びていた。
お前が近づくと、片方が一歩前に出た。
「止まれ」
低い声。
「ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ」
お前は足を止めた。
「黒雲会に話がある」
「何の話だ」
「情報を売りたい」
男の目が細くなる。
「……どこの回し者だ?」
「フィクサー事務所の人間だ。8級。三日前、黒雲会と敵対した依頼に参加した」
男の表情が変わった。
刀の柄に手が掛かる。
「お前か。逃げた奴ってのは」
お前は喉が鳴るのを感じた。
「そうだ」
「よくもまあ、ここに顔を出せたもんだな」
「殺されに来たわけじゃない。交渉に来た」
男は鼻で笑った。
「交渉? お前みたいな小物が?」
もう一人の構成員も、呆れたように肩をすくめた。
「さっさと帰れ。今なら、足が二本ついたまま帰れるぞ」
お前は逃げなかった。
ここで引き返せば、家賃を払う金も、身を守る手段もない。
「事務所の情報を渡す。人員、武器庫、隠れ家、依頼記録……俺が知っていることは全部だ」
二人の表情から、わずかに嘲笑が消えた。
「……全部?」
「ああ」
「仲間を売るってことか」
「そうだ」
お前は視線を逸らさずに答えた。
「俺は死にたくない。黒雲会と敵対して生き残れるほど強くない。だから、敵になるのをやめる。代わりに、役に立つ情報を渡す」
短い沈黙。
雨上がりの水滴が、屋根から落ちる音が聞こえた。
やがて片方の男が、建物の奥を振り返った。
「……ちょっと待ってろ」
彼は入口の扉を開け、内部へと消えた。
お前はその場に立ち尽くした。
数分後、男が戻ってきた。
「入れ。頭がお前の話を聞くそうだ」
扉の向こうには、薄暗い廊下が続いていた。
お前は一度だけ振り返った。
ここを越えれば、元の生活には戻れないかもしれない。
それでも、前へ進むしかなかった。
### 第三話 頭との交渉
通された部屋は、外から想像していたよりも広かった。
畳の上には低い机が置かれ、壁際には刀が並べられている。部屋の隅には二人の構成員が控え、入口にも見張りが立っていた。
逃げ道はない。
机の向こうには、一人の男が座っていた。
黒い着物に羽織。腰には一振りの刀。表情は穏やかだが、その目は鋭い。
黒雲会の頭、ジュン。
彼はお前を見るなり、机の上に置かれた紙束へ視線を落とした。
「お前が、うちに情報を売りたいっていうフィクサーか」
「……そうだ」
「8級?」
「そうだ」
ジュンは小さく笑った。
「大した腕もなさそうだな」
否定できなかった。
ジュンは紙束を指先で引き寄せる。
「それで、何を差し出す?」
お前は上着の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。
「俺の事務所の情報だ。構成員の名前、武器庫の場所、隠れ家、依頼記録。黒雲会と敵対する可能性がある依頼についても、知っていることは全部話す」
ジュンは紙を受け取り、ゆっくりと目を通した。
最初は何の反応もなかった。
しかし、数行読み進めたところで、彼の指が止まった。
「……へえ」
顔を上げる。
「なかなか細かく書いてあるじゃねぇか」
「知っていることは、できるだけ正確に書いた」
「嘘は?」
「ない」
「本当に?」
ジュンの声が低くなった。
「ここで嘘をつけば、どうなるか分かってるよな」
「……分かってる」
「いや、分かってねぇかもしれねぇな」
ジュンは紙を机に置き、背もたれに身体を預けた。
「お前は、仲間を売ってまで生き残りたいんだろ?」
「そうだ」
「自分だけ助かりたい?」
「そうだ」
「金もない。腕もない。帰る場所も危うい。だから、うちにすがりに来た?」
お前は黙って頷いた。
ジュンはしばらくお前を見つめたあと、意外なことを尋ねた。
「……なんで、そこまでして生きたい?」
質問の意味が分からず、お前は顔を上げた。
「何?」
「聞こえなかったか? なんで生きたいんだって聞いてんだよ」
ジュンの目には、嘲笑も怒りもなかった。
ただ、答えを待っていた。
お前は少し考えた。
金が欲しいからか。
強くなりたいからか。
復讐したいからか。
どれも違う。
「……家賃が払えないんだ」
ジュンが眉を上げた。
「は?」
「金がない。昨日、大家に明日の昼までに払えって言われた。払えなければ部屋を追い出される」
お前は苦笑した。
「仕事を受けても、飯と装備の修理代で消える。黒雲会と敵対してからは、まともな依頼も入らない。だから……もう、どうしようもない」
部屋の空気が少し変わった。
お前は続けた。
「俺は英雄になりたいわけじゃない。誰かを救いたいわけでもない。ただ、寝る場所が欲しい。明日も飯を食いたい。朝になったら、ちゃんと目を覚ましたい」
喉が詰まった。
「それだけなんだ」
ジュンは何も言わなかった。
お前は視線を落とす。
「だから、事務所を売る。仲間も売る。俺が知っていることなら何でも話す。……卑怯者だって言われても構わない」
しばらくして、ジュンが息を吐いた。
「……はっ」
短い笑い声だった。
「お前、思ったより正直だな」
彼は机の上の紙を指で叩いた。
「だが、勘違いするな。正直なだけで信用できるわけじゃねぇ。今日、仲間を売った奴が、明日には俺たちを売るかもしれねぇからな」
「分かってる」
「本当に分かってるなら、これからの話は簡単だ」
ジュンは姿勢を正した。
「お前の情報が正しいか、こっちで確認する。役に立つなら、うちで使ってやる。だが、嘘があれば終わりだ」
お前は唾を飲み込んだ。
「……使ってもらえるのか?」
「まだ決まったわけじゃねぇ」
ジュンは冷たい声で続けた。
「お前は黒雲会に敵対した。仲間を売りに来た。信用はゼロだ。まずは働いてもらう。それから判断する」
彼は背後の構成員に目配せした。
「こいつの話を記録しろ。事務所の人員、武器庫、隠れ家、依頼主。全部だ。裏を取れ」
「承知しました」
構成員が紙を受け取る。
ジュンは再びお前を見た。
「それと、ひとつ聞いておく」
「……何だ?」
「お前、明日の昼までに家賃を払わなきゃ追い出されるんだったな?」
お前は頷いた。
ジュンは少しだけ考えたあと、机の引き出しから小さな袋を取り出した。
中で硬貨が鳴った。
彼はそれを机の上に置く。
「前払いだ。家賃を払ってこい」
お前は目を見開いた。
「……いいのか?」
「勘違いするな。情けをかけてるわけじゃねぇ」
ジュンは袋を指で押しやった。
「お前が寝る場所もなくして、明日から動けなくなったら、こっちも困る。働くなら、最低限の環境は整えておけ」
お前は袋を見つめた。
金がある。
明日の昼までに家賃を払える。
追い出されずに済む。
その事実が、ようやく頭に入ってきた。
「……ありがとう」
ジュンは鼻で笑った。
「礼を言うのは早ぇよ。まだお前が仲間になったわけじゃねぇんだからな」
彼は立ち上がり、刀の位置を直した。
「明日の朝、もう一度ここに来い。情報の確認が終わるまでは、勝手な行動をするな。事務所にも戻るな。誰かに余計なことを話したら、その時点で交渉は終わりだ」
「……分かった」
「よし」
ジュンは扉のほうへ歩きながら、最後に振り返った。
「それと、お前」
「何だ?」
「名前を聞いてなかったな」
お前は自分の名前を告げた。
ジュンは一度だけ頷いた。
「覚えておく。明日からは、ただの8級フィクサーじゃ済まねぇかもしれないからな」
扉が開く。
構成員に促され、お前は部屋を出た。
手元には、家賃を払えるだけの金がある。
だが、安心はできなかった。
お前は事務所を売った。
仲間を裏切った。
そして、黒雲会という新しい組織に、自分の命を預けようとしている。
もう、以前の生活には戻れない。
それでも。
外へ出ると、雨は止んでいた。
お前は袋を握り締め、久しぶりに深く息を吸った。
少なくとも、今日の寝床は確保できた。
明日のことは、明日考えればいい。
今はただ、生き延びる。
それが、お前のすべてだった。