裏切り者は雲を掴む   作:色彩悪夢

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生命の殻

「お前たちが新しい招待客か」

 

鎖を巻いた司書が、こちらに向かって声をかけてきた。

 

「そうだ。ここは何の場所だ。先に進んだ者たちはどこにいる?」

 

ジュンが問い返す。

 

「招待客に答える必要はない。ここから先へ進みたければ、私たちを倒してみせろ」

 

その言葉が終わるより先に、司書の一人が動いた。

 

「来るぞ!」

 

副組長の声と同時に、俺たちは武器を構えた。

 

最初に飛び込んできたのは、全身義体の司書だった。重い身体からは想像できないほど素早く距離を詰め、拳を副組長へ叩きつける。

 

副組長は剣で受け止めたが、衝撃に押されて数歩後退した。

 

「ぐっ……!」

 

続いて、銃を持った司書が引き金を引く。

 

乾いた銃声が廊下に響いた。

 

俺は反射的に身を横へ投げ出す。弾丸が先ほどまで立っていた場所を通り抜け、背後の壁に穴を開けた。

 

「銃まで使うのかよ……!」

 

立ち上がる暇もなく、鎖を巻いた司書がこちらへ向かってきた。

 

鎖が床を擦り、蛇のように伸びる。

 

俺は短剣を抜き、飛んできた鎖を避けながら横へ回り込んだ。相手の正面に立つのは危険だ。ならば、攻撃の届かない位置へ回り、隙を突く。

 

鎖が大きく振り回された。

 

身を低くしてかわし、相手の脇腹へ短剣を突き出す。

 

だが、刃が届く寸前、司書は身体をひねった。

 

短剣の切っ先は服をかすめただけだった。

 

「浅いな」

 

司書の腕が俺の胸元を狙って伸びる。

 

俺は後ろへ跳び、かろうじて距離を取った。

 

その間にも、周囲では戦闘が続いていた。

 

若頭の一人が剣を持った司書と斬り結んでいる。もう一人は銃撃を避けながら反撃の機会を窺っていた。

 

ジュンも別の司書と向き合っていたが、相手の攻撃は簡単には崩せない。副組長も全身義体の司書を押し返そうとしているものの、決定打を与えられずにいた。

 

俺は鎖を巻いた司書から目を離さないようにした。

 

正面から打ち合うのは無理だ。

 

相手が鎖を振り上げた瞬間、俺は横へ踏み込んだ。鎖の軌道を抜け、その懐へ潜り込む。

 

今度こそ、短剣を脇腹へ突き立てる。

 

しかし、刃が相手の身体に届く直前、司書の手が俺の手首を掴んだ。

 

「また同じ手か」

 

力任せに腕を引かれる。

 

身体が前へ崩れた。

 

咄嗟に短剣を握り直すが、司書はもう片方の手で俺の武器を押さえ込んでいた。

 

次の瞬間、金属が砕けるような音がした。

 

短剣の刃が折れた。

 

「なっ……!」

 

残った柄を握ったまま、俺は後ろへ引き離される。

 

だが、相手は逃がしてくれなかった。

 

鎖が俺の腕に絡みつく。

 

「離せ!」

 

引き抜こうとしたが、鎖はさらに強く締まった。

 

司書が腕を引く。

 

身体の重心が崩れたところへ、もう一人の司書が横から踏み込んできた。

 

刃が閃く。

 

避けきれなかった。

 

右腕に強烈な衝撃が走った。

 

一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 

次に感じたのは、身体の均衡が崩れて床へ倒れ込む感覚だった。

 

右腕が、肘より上から斬り落とされていた。

 

「……っ、ああああっ!」

 

遅れて激痛が押し寄せる。

 

折れた短剣の柄が、手から滑り落ちた。

 

俺は左手で傷口を押さえながら、必死に後ろへ下がった。視界が揺れ、呼吸が乱れる。

 

まずい。

 

こんなところで死ぬわけにはいかない。

 

「若頭!」

 

誰かの声が聞こえた。

 

顔を上げると、ジュンがこちらを見ていた。

 

だが、ジュンも別の司書と交戦中だった。すぐに助けに来られる状況ではない。

 

鎖を巻いた司書が、俺へ向かって歩いてくる。

 

「もう終わりか?」

 

俺は返事をしなかった。

 

左手だけで立ち上がろうとする。短剣は折れ、右腕は使えない。正面から戦う手段など、もう残っていなかった。

 

どうにかして距離を取らなければ。

 

そう考えたところで、司書の影が目の前に迫った。

鎖を巻いた司書が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 

「もう終わりか?」

 

答える余裕などなかった。

 

左手で右腕の断面を押さえる。指の隙間から血が流れ続け、床に赤い跡を作っていた。痛みで視界が霞む。呼吸をするたびに胸が上下し、そのたびに傷口が脈打った。

 

立ち上がろうとする。

 

足に力が入らない。

 

もう一度、身体を起こそうとした。膝が震え、床に手をつく。右腕がないことを思い出すまで、一瞬だけ時間がかかった。

 

短剣は折れた。

 

右腕も失った。

 

目の前には、まだ俺を殺そうとしている司書がいる。

 

どうする。

 

どうすればいい。

 

逃げるしかない。逃げなければならない。いつもそうしてきた。勝てない相手とは戦わず、隙を見つけて逃げる。相手の背後を取り、弱いところを突き、危なくなれば切り捨てる。

 

それが俺のやり方だった。

 

正面から戦う力なんて、最初からなかった。

 

だから情報を集めた。人の動きを観察した。誰が何を知っているのか、誰が何を隠しているのか。自分より強い相手と正面から向き合わずに済むように、できることを探してきた。

 

元の事務所の仲間が死んだときも、俺は逃げた。

 

生活に困れば、元の職場の情報を売った。

 

自分の正体が露見しそうになれば、同僚を殺した。

 

倉庫で襲撃に遭ったときも、荷を持って逃げた。口封じが必要になれば、仲間だった人間も殺した。

 

何度も裏切った。

 

何度も切り捨てた。

 

そうしなければ生き残れなかったからだ。

 

誰かに責められたところで、今さら後悔などしていない。正しいことをしたかったわけでも、誰かを守りたかったわけでもない。

 

ただ、生きていたかった。

 

死ぬのが嫌だった。

 

そのためなら、何だってした。

 

そして、ようやく黒雲会に居場所を得た。

 

若衆から若頭にまで上がった。情報を集める役目を与えられ、組織の中で自分の価値を示すことができた。

 

これで少しは生きやすくなると思った。

 

少なくとも、簡単に捨てられることはなくなるかもしれないと。

 

なのに。

 

「……なんでだよ」

 

声が漏れた。

 

俺は何をしてきた?

 

何人裏切った?

 

何人殺した?

 

何を犠牲にして、ここまで来た?

 

全部、生き残るためだった。

 

それなのに、どうして。

 

どうして、こんな場所で死ななければならない。

 

司書が武器を持ち上げる。

 

その動きが、やけにゆっくり見えた。

 

避けられない。

 

逃げられない。

 

誰かが助けに来る保証もない。

 

ジュンたちも戦っている。俺一人を助けるために動ける状況ではない。仮に助けに来てくれたとしても、それまで持ちこたえられるとは思えなかった。

 

死ぬ。

 

本当に死ぬ。

 

今度こそ、逃げられない。

 

「嫌だ……」

 

喉が詰まった。

 

「嫌だ、死にたくない」

 

身体が震える。

 

こんなところで終わるのか。

 

ようやくここまで来たのに。

 

生き残るために人を裏切って、利用して、見捨ててきた。自分の命以外、何も大切にしなかった。

 

それなのに、最後に残った自分の命すら守れない。

 

ふざけるな。

 

俺はまだ何も手に入れていない。

 

まだ生きていたい。

 

明日も、その先も、生きていたい。

 

誰かに命令されてもいい。頭を下げてもいい。惨めな思いをしてもいい。腕を失っても、足を失っても構わない。

 

だから。

 

「死にたくない……!」

 

その瞬間、周囲の音が消えた。

 

司書の足音も、遠くで響いていた剣戟も、銃声も聞こえない。

 

時間が止まったようだった。

 

目の前に、誰かが立っている。

 

長い髪の女。

 

静かな表情で、こちらを見つめている。

 

いつからそこにいたのか分からない。周囲の景色とはまるで馴染まないのに、その存在だけは不思議とはっきり認識できた。

 

『あなたは、生きたいのですね』

 

女の声が頭の中に響いた。

 

耳から聞こえたのではない。

 

頭蓋の内側に直接、言葉を流し込まれたような感覚だった。

 

「……誰だ」

 

『あなたは、ずっと生きることを望んできた』

 

女は俺の問いには答えず、静かに続ける。

 

『自分を守るために、他人を見捨てた。自分が生き残るために、誰かを裏切った。それでも、あなたは生きてきた』

 

「うるさい……」

 

『それを後悔していますか?』

 

「してない」

 

答えはすぐに出た。

 

後悔していない。

 

あのとき逃げなければ死んでいた。情報を売らなければ生きていけなかった。口封じをしなければ自分が殺されていた。

 

そう考えてきた。

 

今だって、その考えは変わらない。

 

『では、なぜ泣いているのですか?』

 

言われて初めて、頬が濡れていることに気づいた。

 

涙なのか、汗なのか、血なのか分からない。

 

「……俺は」

 

『あなたは、ここまで生き延びてきた』

 

女の声は穏やかだった。

 

責めるような響きはない。

 

だからこそ、逃げ場がなかった。

 

『何度も危機を乗り越え、何度も他人を切り捨て、それでも命を繋いできた。ようやく手に入れた居場所も、立場も、すべて失うことになるのですね』

 

「やめろ」

 

『ここで死ねば、あなたがしてきたことは何だったのでしょう』

 

「やめろって言ってるだろ……!」

 

『あなたは、何のために生きてきたのですか?』

 

「生きるためだ!」

 

声が裏返った。

 

「死なないためだ! 生き残るためにやってきたんだ! 他に何がある!」

 

『ならば、まだ生きたいのですね』

 

「当たり前だ!」

 

『腕を失っても?』

 

「構わない!」

 

『身体を失っても?』

 

「構わない!」

 

『人間でなくなっても?』

 

一瞬、言葉が止まった。

 

目の前の女は、変わらない表情で俺を見ている。

 

人間でなくなる。

 

そんなことを考えたこともなかった。

 

だが、今の俺に残された選択肢はほとんどない。

 

このままなら死ぬ。

 

それだけは分かっていた。

 

「……それでもいい」

 

『何を失っても?』

 

「いいと言ってるだろ!」

 

『あなたの望みは、ただ生きることなのですね』

 

「そうだ!」

 

喉が痛い。

 

息が苦しい。

 

それでも、叫ばずにはいられなかった。

 

「俺は死にたくない! ここまで生き延びてきたんだ! 何度も裏切って、何度も逃げて、何もかも捨ててきた! それなのに、こんなところで終わってたまるか!」

 

『……そうですか』

 

女がわずかに目を細めた。

 

『ならば、あなたの望むままに』

 

その声が聞こえた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 

心臓が大きく脈打つ。

 

次の瞬間、身体の内側から黒い液体が溢れ出した。

 

「ぐっ……!?」

 

右腕の断面から、首筋から、背中から、皮膚を押し破るように黒い粘液が噴き出す。

 

それは血液のように流れ落ちることはなかった。

 

粘液は俺の身体にまとわりつき、意思を持つ生き物のように蠢き始める。

 

腹部を覆い、胸を覆い、肩や首へと這い上がる。

 

頭部に到達した粘液は、顔を覆い隠した。

 

目も、鼻も、口も、黒い膜の中へ沈んでいく。

 

「がっ……あ、あああああっ!」

 

身体が引き伸ばされる。

 

骨が鳴るような感覚がした。背骨が曲がり、肩の位置が崩れ、胴体の輪郭が歪んでいく。

 

右腕があった場所からは、何本もの触手のような粘液が伸びた。指の形を作ろうとしては崩れ、腕の形を作ろうとしては溶ける。

 

やがて左腕も、脚も、元の人間の形を保てなくなった。

 

膝から下が液体に沈み、足先が床へ広がる。胴体は異様に膨らみ、いくつもの黒い塊が重なり合う。背中からは細長い突起が何本も伸び、床を這うように蠢いた。

 

その中で、二つだけが異様なほど明確に守られていた。

 

頭部。

 

そして、心臓。

 

頭部は巨大な黒い球状の膜に包まれ、何重もの粘液が殻のように重なっていた。表面には細かな泡が浮かび、内部には暗い光が揺れている。

 

胸の中央には、心臓を覆う厚い塊が形成されていた。何層もの粘液が幾重にも折り重なり、硬い殻のように脈打っている。

 

それ以外の部分は、もはや人間の身体とは呼べなかった。

 

黒い粘液の塊。

 

無数の触手。

 

不規則に膨らんでは縮む肉塊のような胴体。

 

床に広がった液体は、周囲の壁や柱にまで這い上がり、ゆっくりと本体へ戻っていく。

 

司書が武器を構え直した。

 

「……ねじれたか」

 

その声に反応したのか、黒い塊が大きく震えた。

 

司書が斬りかかる。

 

刃が粘液に食い込んだ。

 

だが、切断された部分は床に落ちる前に無数の細い糸へと変わり、すぐさま本体へ戻っていく。

 

さらに粘液が膨れ上がり、刃を包み込んだ。

 

司書が武器を引き抜こうとする。

 

その瞬間、粘液の一部が硬化した。

 

刃が軋み、金属がひしゃげる。

 

攻撃を受けた部分は大きく裂けたが、その裂け目はすぐに閉じていった。

 

頭部を覆う膜は一切崩れていない。

 

心臓を守る殻も、変わらず脈打っていた。

 

まるで、身体のほかの部分などいくら壊れても構わないと言わんばかりに。

 

「……何だ、これは」

 

司書が後退する。

 

黒い塊がゆっくりと動いた。

 

人間のように立ち上がることはできない。代わりに、何本もの触手を床につき、身体全体を引きずるように前へ進む。

 

その動きは不規則で、どこが頭でどこが胴体なのかさえ分からない。

 

ただ、頭部を包む黒い球体だけが、司書の方を向いていた。

 

俺はまだ生きている。

 

それだけは分かった。

 

声を出そうとした。

 

口がどこにあるのか分からない。

 

それでも、頭の内側から言葉が浮かんだ。

 

死にたくない。

 

まだ、生きていたい。

 

黒い粘液が床を這い、司書へと伸びていく。

 

それは敵を倒すための姿ではなかった。

 

ただ、何を犠牲にしても、頭と心臓だけは守り抜くための姿だった。

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