裏切り者は雲を掴む   作:色彩悪夢

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終わらぬ生存闘争

黒い球体が、廊下の中央で蠢いていた。

 

表面は半透明で、濡れたような光沢を帯びている。内部には黒い粘液が絶えず流動し、時折、細長い触手が表面から伸びては引っ込んでいた。

 

人間の形は、もうどこにも残っていない。

 

「……武器を下ろせ」

 

ジュンの声が廊下に響いた。

 

誰に向けた命令なのか、一瞬判断できなかった。黒雲会の者たちも、司書たちも、互いに距離を取りながら目の前の球体を警戒している。

 

その中で、鎖を身体に巻きつけた司書が一歩前に出た。

 

「武器を下ろせだと? こいつが何なのか分かって言っているのか」

 

司書が鎖を引く。金属音が廊下に響いた。

 

その瞬間、黒い球体の表面が大きく波打った。

 

触手が一本、床を這うように伸びる。

 

鎖を巻いた司書はすぐに反応し、鎖を振り下ろした。触手は鎖に打ち据えられ、床に叩きつけられる。

 

だが、切断されたわけではない。

 

触手は床に広がり、薄い膜のように変化した。鎖がそこに沈み込む。

 

「何だ……?」

 

司書が鎖を引き戻そうとしたとき、膜の一部が急激に収縮した。

 

鎖が引っ張られ、司書の身体が前に傾く。

 

その隙に、別の触手が足元から伸びた。

 

「下がれ!」

 

ジュンの声とほぼ同時に、司書は鎖を手放して後方へ飛び退いた。触手は空を切り、床に叩きつけられる。

 

黒い球体は奪った鎖を内部に取り込んでいた。

 

「武器を狙っているのか……?」

 

別の司書が銃を構えた。

 

高級な銃器だった。引き金が引かれ、乾いた銃声が廊下を震わせる。

 

弾丸は球体の表面を貫いた。黒い粘液が飛び散り、床に落ちる。

 

しかし、穴はすぐに塞がった。

 

二発、三発と銃弾が撃ち込まれる。球体の表面が何度も抉られ、そのたびに粘液が盛り上がって傷を埋めていく。

 

銃を持つ司書が照準を変えた。

 

そのとき、球体の一部が不自然に膨らんだ。

 

膨らんだ部分が千切れ、床に落ちる。

 

小さな黒い塊は、落下と同時に細い触手を広げた。銃を構える司書の背後へ回り込み、腕に絡みつく。

 

「後ろだ!」

 

司書が振り返るより早く、触手が銃身に巻きついた。

 

銃口が上を向く。司書は引き金を引いたが、弾丸は天井に穴を開けただけだった。

 

触手が銃を引き剥がす。

 

司書は空いた手で触手を振り払おうとしたが、別の触手が手首に絡みついた。腕を引かれ、身体が床に叩きつけられる。

 

黒い塊が銃を取り込んだ。

 

「武器を奪っている……!」

 

ツヴァイ協会を思わせる服装の司書が、倒れた司書を引きずって後退させた。彼女は盾のように構えた腕で触手を受け止め、仲間を守るように立ち塞がる。

 

触手が腕に叩きつけられる。

 

一度、二度。

 

彼女は姿勢を崩さなかった。だが、三度目の衝撃で足元が滑り、壁に背中を打ちつける。

 

その間に、全身義体の司書が前へ出た。

 

義体の腕が変形し、鋭い刃が展開される。触手が伸びてくると同時に、刃を振り抜いた。

 

粘液が切り裂かれ、床に落ちる。

 

今度は触手が再生する前に、義体の司書が踏み込んだ。球体の表面に刃を突き立て、そのまま横へ引く。

 

黒い粘液が大きく裂けた。

 

だが、内部には硬いものがあった。

 

刃が何かに弾かれる。

 

球体の中心近くに、厚い殻のようなものが見えた。もう一つ、別の位置にも同じようなものがある。

 

頭部と心臓。

 

その二つだけは、黒い粘液の奥で異様なほど厚く守られていた。

 

義体の司書が刃を引き抜こうとした瞬間、球体の表面が一斉に盛り上がる。

 

触手が四方から伸びた。

 

義体の司書は刃を振るって二本を切り落としたが、残りは腕と脚に絡みついた。関節を固定され、身体が持ち上げられる。

 

「離せ!」

 

義体の腕が変形し、触手を切断する。

 

その間に、球体の一部が床を這い、義体の背後へ回り込んでいた。

 

黒い粘液が脚部にまとわりつく。関節の隙間に入り込み、動きを鈍らせていく。

 

義体の司書は自ら脚部の一部を切り離した。

 

重い金属音が響く。

 

切り離された脚が床に落ちるより早く、司書は残った脚で後方へ跳んだ。

 

球体は切り離された義体の部品を取り込み、再び一つの塊へと戻っていく。

 

「本体を狙うな。周囲から削れ!」

 

鎖を巻いた司書が叫んだ。

 

「再生するなら、再生する部分を分散させろ!」

 

鎖が床を走る。

 

今度は球体そのものではなく、周囲に広がった粘液を狙っていた。鎖が粘液を引き裂き、別の司書がその隙に刃を突き立てる。

 

黒い球体の表面が大きく歪む。

 

一時的に動きが鈍った。

 

しかし、その隙を突こうとした黒雲会の若衆が、前へ出すぎた。

 

「待て!」

 

副組長の制止は間に合わなかった。

 

若衆の刀が球体に届く直前、床に広がっていた粘液が一斉に跳ね上がった。足首、膝、腰へと絡みつき、身体を持ち上げる。

 

若衆は刀を振り回した。

 

刃が粘液を切り裂く。だが、切り裂いた部分はすぐに戻り、刀身にまとわりついた。

 

「離せ! 離せ!」

 

粘液が刀を引き抜く。

 

若衆は柄を握りしめたまま抵抗したが、腕ごと引き寄せられた。身体が球体に接触する。

 

黒い粘液が肩から広がり、上半身を覆った。

 

「助けろ!」

 

副組長が踏み込もうとしたが、ジュンが腕を伸ばして止めた。

 

「待て。近づくな」

 

その直後、粘液が若衆を包み込んだ。

 

悲鳴は途中で途切れた。

 

球体が一回り大きくなる。

 

若衆の刀だけが、粘液の表面から柄を覗かせていた。やがてそれも沈み込み、完全に見えなくなった。

 

誰も動かなかった。

 

司書たちも、黒雲会の者たちも、目の前のものが何をしたのか理解するのに数秒を要した。

 

「……人間を取り込んだのか」

 

誰かが呟いた。

 

球体は答えない。

 

ただ、表面から伸びた触手が、次の武器を探すように廊下を這っていた。

 

それから、どれほどの時間が経ったのか分からない。

 

戦闘は終わらなかった。

 

司書たちは何度も攻撃を仕掛け、そのたびに黒い球体を削った。だが、削った部分はすぐに再生する。切断された触手も、床に散った粘液も、時間が経てば再び本体へと戻っていった。

 

一方で、司書たちの動きは少しずつ鈍くなっていた。

 

銃を持つ司書は弾薬を使い切り、武器を奪われた司書は後方へ下がった。鎖を扱う司書も、何度も鎖を振るったことで呼吸が荒くなっている。

 

全身義体の司書は損傷した関節を庇いながら戦っていた。ツヴァイを思わせる服装の司書も、仲間を守るために前へ出続けた結果、腕の動きが鈍っている。

 

黒雲会も同じだった。

 

若衆の一人はすでに取り込まれ、残った者たちも疲労を隠せなくなっていた。副組長は刀を振るい続け、もう一人の若頭も攻撃の手を緩めていない。

 

ジュンも前線に立っていた。

 

刀を振るい、触手を切り落とす。粘液が迫れば身を引き、隙を見つければ本体へ斬り込む。

 

だが、斬ったところで決定打にはならない。

 

『命の殻』は、攻撃を受けるたびに身体の形を変えていた。

 

大きく裂かれた部分を切り離し、別の場所に新しい塊を作る。攻撃が集中すれば、球体そのものを小さく収縮させ、頭部と心臓を中心に守りを固める。

 

その間、周囲に散った粘液は細い触手となって床や壁を這い、武器を持つ者の足元へ回り込んでいた。

 

正面からの攻撃だけに注意を向けていれば、背後から武器を奪われる。

 

誰かが触手を切り落とせば、その切断面から別の触手が伸びる。

 

身体を分断しても、残った部分がそれぞれ動き出す。

 

司書たちは対処法を探していた。

 

だが、時間が経つほどに、彼らの選択肢は減っていった。

 

「本体を囲め! 散った粘液を近づけるな!」

 

鎖を巻いた司書が叫ぶ。

 

鎖が床に広がった粘液を押さえ込み、全身義体の司書が刃を振るう。ツヴァイを思わせる司書は後方から援護し、残った司書たちが本体への攻撃を続けた。

 

一時的に、球体の動きが止まる。

 

その隙に、ジュンが前へ出た。

 

刀を両手で握り、球体の中心へ向けて振り下ろす。

 

刃は表面を深く切り裂いた。

 

黒い粘液が飛び散る。

 

だが、刀は内部の硬い殻に届かなかった。

 

次の瞬間、球体の表面から伸びた触手が刀身に絡みつく。

 

ジュンはすぐに引き戻そうとした。

 

しかし、触手は刀を離さなかった。

 

一本、二本、三本。

 

刀身から柄へと触手が巻きついていく。

 

「くっ……!」

 

ジュンが力を込める。

 

触手はさらに太くなり、刀を引き込もうとした。ジュンは手を離さず、足を踏ん張る。

 

副組長が助けに入ろうとした。

 

「組長!」

 

「来るな!」

 

ジュンの声が飛ぶ。

 

その一瞬の隙に、床に広がっていた粘液がジュンの足元を覆った。

 

足首に絡みついた触手が、身体を引き寄せる。

 

ジュンは刀を手放した。

 

だが、もう遅かった。

 

刀は触手に引きずられ、黒い球体の内部へと沈んでいく。

 

刃が消え、柄が消える。

 

最後に鍔が粘液の表面に触れ、それも見えなくなった。

 

ジュンは後方へ跳び、距離を取った。

 

手元には、もう何も残っていない。

 

「……お前は、まだ俺を覚えているのか?」

 

ジュンが黒い球体を見つめた。

 

その声に、俺の意識が反応する。

 

覚えている。

 

ジュンの顔も、声も、これまでのやり取りも。

 

俺が黒雲会に入ったときのことも、若頭に昇格したときのことも、すべて覚えている。

 

だが、それだけだった。

 

返事をする理由はない。

 

助ける理由もない。

 

俺にとって、ジュンは武器を持っていた人間で、今は刀を失った人間だった。

 

それ以上の意味はなかった。

 

黒い球体の表面がゆっくりと波打つ。

 

ジュンは刀を失い、後方へ下がっている。だが、副組長と残った若頭はまだ武器を手放していない。

 

司書たちも同じだった。

 

鎖を持つ者。刃を持つ者。義体に武器を備えた者。

 

まだ、脅威は残っている。

 

球体の表面から、細い触手が何本も伸びた。

 

床に広がった粘液が一斉に持ち上がり、壁を這い、天井へと広がっていく。

 

頭部と心臓を守る二つの殻が、黒い粘液の奥でさらに厚くなる。

 

『命の殻』は、再び動き出した。

 

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