黒い球体が、床に横たわる若頭の遺体へ触手を伸ばした。
それは、さっき殺した若頭だ。
すでに動かなくなった身体が、黒い粘液に覆われていく。
衣服も、肉も、骨も、持っていた武器も。すべてが球体の内部へ沈み込んでいった。
司書の一人が、それを見て動いた。
「死体を取り込んでいる……!」
銃声が響く。
しかし、弾丸は黒い表面にめり込んだだけだった。わずかにへこみ、穴が開く。だが、その傷はすぐに塞がっていく。
先ほどまでとは違う。
黒い表面が、明らかに厚くなっていた。
触手も太くなっている。床を這う動きには重みが増し、先端には硬い突起がいくつも生えていた。
次の瞬間、球体の表面が盛り上がった。
細長い白いものが、いくつも黒い粘液の中から突き出す。
骨だった。
それらは細く鋭い針へと形を変え、球体の表面に並んでいく。
「伏せろ!」
司書が叫ぶ。
直後、無数の骨針が射出された。
廊下を白い軌跡が走る。
司書たちは身を隠し、武器で弾き、防御姿勢を取った。壁や床に突き刺さった針が、乾いた音を立てる。
それまで触手の接近を警戒していればよかった相手が、今度は距離を取っていても攻撃してくる。
黒雲会の三人も、思わず足を止めていた。
「何だ、あれは……!」
答える者はいなかった。
『命の殻』は、彼らの声に反応しない。
ただ、武器を持つ者へ向けて触手を伸ばしていた。
球体の表面から、一本の触手が伸びた。
先端が二つに分かれ、何かを握る形へ変わっていく。
そこに、先ほど取り込んだ刀が現れた。
触手は刀の柄を握り、ゆっくりと持ち上げる。
そして、横薙ぎに振った。
空気が裂ける。
「……刀を使っているのか?」
誰かが呟いた。
ただ刀を振り回しているだけではなかった。
触手が司書へ向けて伸びたとき、刀は相手の武器に正確に刃を合わせた。受け流し、軌道を逸らし、無防備になった身体へ刃を走らせる。
先ほど取り込まれた若頭が見せていた剣の動きだった。
黒い球体には、彼の記憶も、意思も、仲間への感情も残っていない。
取り込まれたのは、刀を扱うという長所だけだった。
『命の殻』は刀を振るう触手を動かしながら、別の触手で骨針を射出する。
斬撃を防げば針が飛ぶ。
針を避ければ触手が絡みつく。
触手を斬れば、切断面から新しい触手が伸びてくる。
司書たちは防御に追われ、反撃の機会を失っていった。
「距離を取れ! あの刀に近づくな!」
司書の指示が飛ぶ。
だが、距離を取ったところで安全ではない。
黒い球体の表面に、再び無数の骨針が並び始めていた。
骨針が射出された。
司書たちは散開し、互いの射線を塞がないように距離を取った。銃を持つ司書が後方から射撃を続け、義肢の司書が前に出る。鎖を巻いた司書は床を這う触手を鎖で絡め取り、動きを止めようとしていた。
ただの力任せでは押し切れない。相手もまた、戦闘に慣れた者たちだった。
「本体を狙え! あの黒い塊の中に核がある!」
銃声が連続する。
弾丸は黒い球体の表面に穴を穿った。だが、粘液が流れ込んですぐに塞がっていく。司書は射撃の手を緩めず、同じ場所へ弾丸を集中させた。
一瞬、黒い表面が大きく裂けた。
その奥に、硬い殻が見える。
「やはり、あそこだ!」
鎖を巻いた司書が鎖を投げた。鎖は球体の表面を越え、内部の殻へ巻きつこうとする。
しかし、その直前に一本の触手が鎖を掴んだ。
引き合う。
司書は両足を床に踏み込み、鎖を引き戻そうとした。だが、触手はそれ以上の力で鎖を引き寄せていた。
「離せ!」
別の鎖を振るい、触手を叩きつける。
その間にも、黒い球体から伸びた触手が床を這っていた。司書の足元を通り過ぎ、背後へ回り込む。
鎖を操る司書が気づいたときには遅かった。
足首を取られ、身体が床から浮く。
鎖を手放さず抵抗するが、触手は腕にも巻きついた。さらに別の触手が胴体を捕らえる。
黒い粘液が、ゆっくりと全身を覆った。
司書は最後まで鎖を振るおうとしていた。
だが、その腕も、鎖も、黒い球体へ引き込まれていく。
やがて抵抗する音が途絶えた。
球体の表面が一度大きく波打つ。
それから、取り込んだ鎖を使うように、何本もの触手が細長く伸びた。先端は鎖の輪に似た形へ変わり、床や壁を這い始める。
「散れ! 捕まるな!」
司書の声に、残った者たちが動く。
義肢の司書が前に出た。
脚部の機構が駆動音を立て、床を蹴る。銃撃を避けながら一気に距離を詰めると、義肢の拳を球体へ叩き込んだ。
鈍い衝撃音。
黒い表面が大きく陥没する。
二撃目。三撃目。
連続した打撃によって外殻が削られ、粘液が飛び散る。再生が追いつかないほどの連撃だった。
だが、義肢の腕が四撃目を放つ直前、黒い球体の表面から太い触手が伸びた。
触手が義肢の腕を掴む。
司書は腕を引き抜こうとしたが、触手は離れない。別の触手が脚部に巻きつき、強引に身体を引き寄せた。
「離せ!」
義肢の拳が球体を殴りつける。
その衝撃で表面が大きくへこむ。しかし、触手は緩まなかった。
黒い粘液が義肢の関節へ入り込み、動きを鈍らせていく。
司書はもう片方の腕で触手を引き剥がそうとした。だが、その腕にも別の触手が巻きつく。
最後に、球体から伸びた刃のような骨が、義肢の胴体へ突き立った。
司書の動きが止まる。
そのまま身体全体が黒い粘液に覆われ、義肢も装甲も内部の機構も、まとめて飲み込まれていった。
『命の殻』の表面に金属の部品が浮かび上がり、やがて内部へ沈んだ。
それを見ていた銃を持つ司書が、射撃の手を止める。
「近づくな! 取り込まれたものまで使ってくる!」
司書は距離を取り直し、残った弾薬を惜しまず撃ち込んだ。
一発が殻に当たる。
二発目も同じ場所へ。
三発目は表面を削り、内部の殻をわずかに露出させた。
しかし、球体は後退しなかった。
代わりに、床を伝って広がり始める。
黒い粘液が廊下の壁を這い、柱の裏へ回り込む。銃を持つ司書が足場を変えたとき、すでに背後にも黒い膜が広がっていた。
骨針が飛ぶ。
司書は銃を盾のように構えて弾く。だが、一本が肩に刺さり、もう一本が脚を貫いた。
膝をつく。
それでも銃口を向け続ける。
「まだだ……!」
最後の弾丸が放たれた。
それは黒い球体の表面を貫いたが、厚い粘液に勢いを奪われ、内部の殻には届かなかった。
次の瞬間、床から伸びた触手が司書の身体を引き倒した。
銃を握る腕が持ち上がる。
触手がその腕を覆い、銃ごと粘液の中へ沈めていく。
司書はもう片方の手で床を掴んだ。指先が床を滑り、爪が剥がれる。だが、身体はゆっくりと引きずられていった。
やがて、その手も見えなくなった。
廊下に残っていた銃声が消えた。
残る司書たちも、攻撃の手を緩めなかった。
二人が左右から同時に接近する。片方は斬撃で触手を切り払い、もう片方は打撃で球体の表面を崩そうとした。
だが、切断された触手は床に落ちたままではいなかった。
それぞれが細かく分裂し、床を這って司書たちの足元へ回り込む。
一人が気づいて跳び退く。
もう一人は反応が遅れ、足首を掴まれた。
武器を振り下ろして触手を断ち切る。だが、その間に別の触手が背中へ回り込んでいた。
身体が引き倒される。
仲間が助けに向かうが、骨針がその進路を塞ぐ。
黒い球体は、二人の司書を別々の触手で捕らえた。
一人は武器を奪われ、もう一人は抵抗する腕を拘束される。二人とも最後まで攻撃を続けたが、黒い粘液に覆われていった。
残った司書たちの動きに焦りが見え始める。
攻撃を重ねても再生される。距離を取っても骨針が飛んでくる。接近すれば触手に捕まり、武器を奪われる。
戦い方を変える時間は、もう残されていなかった。
黒い球体が廊下の中央へ広がる。
床を覆った粘液が壁へ伸び、司書たちの退路を塞いでいく。
一人が突破を試みた。
正面の触手を避け、壁を蹴って跳び上がる。黒い球体の上を越えようとしたのだ。
しかし、壁に広がっていた粘液が反応した。
細い触手が腕に巻きつき、身体を空中で止める。
司書は武器を振るい、拘束を断ち切ろうとした。
その瞬間、球体から伸びた刀が横薙ぎに走る。
刃が武器を弾き飛ばした。
司書の身体が床へ落ちる。
複数の触手が一斉に絡みつき、黒い粘液の中へ引きずり込んだ。
最後まで抵抗していた司書も、やがて動かなくなった。
廊下に静寂が戻る。
『命の殻』は、残された司書たちの遺体へ触手を伸ばした。
肉体が取り込まれていく。骨は砕かれ、細長い針へと再構成される。武器や装備も、使える部分が選ばれるように粘液の内部へ沈んでいった。
外殻はさらに厚くなり、触手の数も増えていく。
その間、黒雲会の三人は距離を取っていた。
「……あれを止められるのか?」
副組長が呟く。
ジュンは答えなかった。
刀を構えた若頭が一歩前へ出る。
「俺が行きます」
「無理に近づくな。武器を奪われれば終わりだ」
「ですが、このままでは押し切られます」
若頭は刀を握り直した。
彼は触手の動きを見ていた。伸びる速さ、戻る間隔、攻撃の方向。すべてを見極めようとしている。
黒い球体から触手が伸びる。
若頭は一歩踏み込み、刀を振るった。
触手が切断される。
続けて横から伸びた触手も斬り落とす。さらに床を這うものを踏み越え、球体の表面へ刃を叩き込んだ。
黒い粘液が飛び散る。
しかし、刃は内部の殻に届かなかった。
球体の表面が盛り上がる。
若頭はすぐに距離を取った。
だが、次の触手は彼の退路を塞いでいた。
刀を振るう。
触手を断ち切る。
その直後、別の触手が刀身へ絡みついた。
「しまっ――」
引っ張られる。
若頭は柄を握りしめ、腕に力を込めた。刀を奪われまいと踏ん張る。
副組長が助けに入ろうとする。
「副組長、来るな!」
若頭は自分の刀を手放さなかった。
しかし、黒い粘液が刀身を覆い始めていた。刃が沈み、柄にまで黒い膜が広がる。
もう一本の触手が若頭の腕を捕らえた。
身体が引き寄せられる。
若頭は最後まで抵抗し、自由な手で触手を殴りつけた。だが、黒い表面がわずかにへこむだけだった。
刀が手から離れる。
その瞬間、骨針が若頭の身体を貫いた。
膝が崩れる。
触手が全身を覆い、若頭は黒い球体の中へ沈んでいった。
ジュンと副組長は、その光景を見ていた。
球体の表面が大きく波打った。
刀を持つ触手が、若頭から奪った刀を持ち上げる。
そして、横薙ぎに振った。
空気が裂ける。
副組長が目を細める。
「……また刀を取り込んだのか」
違う。
先ほどから刀を扱っていた触手とは別に、今取り込んだ若頭の刀も身体の一部になっていた。
若頭から獲得した長所は、刀術だけではない。彼の戦闘経験の中で最も優れた技術が、黒い身体の機能として加わっていく。
だが、記憶や人格は残らない。
ただ使える技術だけが残る。
「……ふざけるな」
副組長が吐き捨てる。
刀を扱う触手が、再び刃を構える。
そこへ、別の触手が床を這って迫った。
副組長は後退しながら刀を振るう。迫る触手を斬り落とすが、切断面から新たな触手が伸びる。
さらに骨針が飛ぶ。
副組長は刀で弾き、身を低くして避けた。
だが、攻撃の隙間はどんどん狭まっていく。
「組長、下がってください!」
副組長が叫ぶ。
ジュンはすぐには動かなかった。
目の前にいるものは、かつて自分の命令を聞いていた若頭だった。
その若頭の刀を、今は別の何かが扱っている。
「組長!」
ジュンはようやく後退した。
副組長はその前に立ち、刀を構える。
迫ってくる触手を斬り、鎖状の触手を弾き、骨針を受け流す。
何度も攻撃を防いだ。
しかし、相手は疲れない。
副組長の呼吸が荒くなる。腕に力が入りにくくなり、刀を振るう速度が落ちていく。
それを見逃すことはなかった。
刀を持つ触手が正面から斬り込む。
副組長は受け止めた。
刃と刃がぶつかる。
その瞬間、床から伸びた触手が副組長の足を絡め取った。
「くっ!」
体勢が崩れる。
刀を持つ触手が押し込む。
副組長は踏ん張るが、別の触手が腕へ巻きついた。
刀を手放さないように力を込める。
しかし、黒い粘液が刀身を覆い始めた。
副組長は歯を食いしばった。
「離せ!」
刀を振り上げようとするが、触手が腕を固定している。
やがて刀は柄まで黒い粘液に覆われた。
副組長の手から武器が奪われる。
直後、太い触手が胴体を捕らえた。
副組長は抵抗し、拳で殴りつける。だが、黒い表面はわずかにへこむだけだった。
触手が締まる。
身体が持ち上がる。
「組長……!」
その声を最後に、副組長の姿は黒い球体へ消えた。
ジュンだけが残った。
周囲には、もう立っている者はいない。
司書も、黒雲会の構成員も、全員が倒れるか、黒い球体の中へ消えていた。
ジュンはその表面を見つめた。
刀を扱う触手が一本。
鎖を操る触手が数本。
骨針を備えた表面。
金属部品を取り込んだ外殻。
かつて自分の組織にいた者たちの長所が、ひとつずつ異なる形で残っている。
「……お前は、俺を覚えているのか」
以前と同じ問いだった。
球体の内部には、ジュンの顔も名前も残っている。
彼が何を命じたのかも、どんな立場だったのかも、記憶としては残っていた。
だが、その記憶に意味はなかった。
黒い触手が伸びる。
ジュンは一歩下がった。
逃げ道はない。
触手が腕に巻きつく。ジュンはそれを振り払おうとしたが、もう一方の触手が胴体を捕らえた。
「……そうか」
ジュンは抵抗を続けた。
しかし、武器を持たない彼にできることは限られていた。
触手が身体を締めつけ、黒い粘液が衣服の上から広がっていく。
ジュンは最後まで球体を睨みつけていた。
その顔が見えなくなり、やがて完全に吸収された。
廊下から、すべての人影が消えた。
『命の殻』は、動きを止めた。
球体の表面が波打つ。
取り込んだ肉体が再構成され、骨が針へ変わり、武器が触手に組み込まれる。新たに獲得した長所が、身体の各所へ反映されていく。
刀を扱う触手は、先ほどよりも滑らかに刃を動かした。
鎖状の触手は床を這い、周囲の空間を探る。
金属を含んだ外殻は厚みを増し、骨針はさらに数を増やしていた。
敵はいない。
脅威も、今のところ見当たらない。
黒い球体は、床に広がった身体をゆっくりと収縮させた。
頭部と心臓を守る二つの殻は、傷ひとつなく内部に残っている。
そこに残された人々の名前も、かつて交わした言葉も、もう何の意味も持たなかった。
ただ、生き残るために。