裏切り者は雲を掴む   作:色彩悪夢

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廃棄区間の怪物

アンジェラは、静かに廊下の奥を見つめていた。

 

そこにいたのは、かつて人間だったもの。

 

黒い球体。いや、もはや以前と同じ姿ではない。

 

表面は赤黒く変色し、濡れた金属のような光沢を帯びている。粘液が絶えず蠢き、その内部には取り込まれた肉体や武器の残骸が沈んでいた。

 

特に目を引くのは、球体の中心部だった。

 

頭部と心臓を守る二つの殻は、以前よりも明らかに厚く、強固になっている。幾重にも重なった黒い層の表面には、金属の部品が埋め込まれていた。

 

義体の部品だ。

 

取り込んだ司書の義体を分解し、その装甲や機械部品を殻の表面へ貼り付けている。部品は単に付着しているのではない。黒い粘液が隙間を埋め、殻そのものと一体化させていた。

 

防御をさらに強化するための変化なのだろう。

 

その周囲では、無数の触手が蠢いていた。

 

触手の先端には刀が握られている。

 

一本だけではない。複数の触手がそれぞれ異なる刀を持ち、互いに干渉することなく振り回していた。

 

その動きには無駄がない。

 

ただ力任せに振り回しているわけではなかった。刃を交差させ、攻撃の軌道を変え、間合いを調整する。複数の刀を扱っているにもかかわらず、それぞれの動きが連動していた。

 

まるで、長年の経験を積んだ熟練者が、複数の腕を使って戦っているかのようだった。

 

取り込んだ者たちの中には、刀を扱うことに長けた者がいた。その技術が、今ではこの異形の身体に組み込まれている。

 

触手そのものも変化していた。

 

細長く伸びる触手は、鎖を思わせる形状になっている。いくつもの輪が連なったような構造で、伸縮するたびに金属が擦れるような音を立てた。

 

床を這い、壁を伝い、時には天井にまで広がる。

 

その先端は自由に形を変え、対象を捕らえるための輪にも、鋭い刃にも変化していた。

 

さらに、触手の各所には奇妙な穴が開いていた。

 

銃の発射口に似た形状。

 

穴の奥には、白く細いものが並んでいる。骨を加工した針だろう。

 

それらは一定の方向を向いているわけではない。触手が動くたびに向きを変え、あらゆる方向へ攻撃できるようになっていた。

 

刀による近接攻撃。鎖状の触手による拘束。骨針による遠距離攻撃。そして、義体の部品を利用した強固な防御。

 

それらすべてが、一つの身体に収まっている。

 

アンジェラは目を細めた。

 

戦闘のたびに、相手を取り込み、強くなる。

 

単純な成長ではない。取り込んだ者の長所を選び、自分の身体に適した形へ変えている。

 

人間の技術も、機械の機能も、武器の形状も関係ない。

 

利用できるものなら、何でも自分の一部にしてしまう。

 

そして、その変化を支えているのは、ただ一つの目的。

 

生き残ること。

 

「……興味深いですね」

 

アンジェラの呟きに、返事はなかった。

 

黒い球体は、ゆっくりと触手を動かしている。

 

その内部に、かつての人間の記憶が残っているのかもしれない。

 

けれど、今の姿からは何も読み取れない。

 

ただ、次に現れる脅威を探すように、無数の触手が廊下の奥へ伸びていった。

 

アンジェラは一度目を閉じ、それから静かに口を開いた。

 

「あなたは、図書館の司書を殺害しました」

 

声に怒りはなかった。責めるような調子でもない。ただ、事実を告げているだけだった。

 

「本来であれば、あなたを本にするところですが……今回は特例としましょう」

 

アンジェラの手元に、一冊の本が現れる。

 

「司書たちとの戦いに勝利した報酬です。こちらをお渡しします」

 

本は床に落ち、黒い粘液の触手に包まれた。

 

命の殻は本を取り込むように表面を蠢かせた。内容を理解しているのか、あるいは単に利用できるものとして認識したのか。アンジェラには判断できない。

 

「ですが、あなたをこれ以上図書館に留めておくことはできません」

 

アンジェラが片手を上げる。

 

その背後に、巨大な光の輪が広がった。

 

「司書を殺し、図書館の設備を破壊し続ける存在を、いつまでも招待客として扱うわけにはいきませんから」

 

命の殻の触手が、一斉にアンジェラへ向いた。

 

刀を握った触手が持ち上がり、鎖状の触手が床を這う。無数の発射口が、彼女の方へと向きを変えた。

 

しかし、アンジェラは動じなかった。

 

「さようなら。もう、ここへ戻ってくる必要はありません」

 

次の瞬間、光が命の殻を包み込んだ。

 

触手が床に食い込み、壁に絡みつく。逃れようとするように身体を広げるが、光はその全身を覆い、抵抗を許さなかった。

 

やがて赤黒い球体は、触手の先端から少しずつ光の中へ消えていく。

 

最後まで抵抗していた鎖状の触手も、床から引き剥がされるように消失した。

 

そして、廊下には何も残らなかった。

 

アンジェラはしばらく、その場所を見つめていた。

 

「……これで、ひとまず終わりですね」

 

彼女は踵を返す。

 

命の殻は、図書館から追放された。

 

しかし、それが都市のどこへ現れるのか。そして、再び何を取り込んでいくのか。

 

アンジェラには分からなかった。

光が消えた。

 

赤黒い球体が、硬い地面に落ちる。

 

周囲には崩れた建物と、積み上げられた廃材が広がっていた。使い物にならなくなった義体、破損した武器、折れ曲がった鉄骨。かつて何かの工場だった場所らしい。

 

都市の裏側にある廃棄区画。

 

ここには、誰も回収しようとしないものが集められていた。

 

命の殻はしばらく動かなかった。

 

やがて、球体の表面から一本の触手が伸びる。床を這い、近くに転がっていた金属片に触れた。

 

黒い粘液が金属片を覆う。

 

表面を包み込むように広がった粘液は、ゆっくりと金属を引きずり始めた。金属片は球体に触れると、そのまま表面へ沈み込んでいく。

 

溶けているわけではない。

 

粘液が金属の隙間へ入り込み、部品を分解し、使える部分だけを選び取っている。

 

しばらくすると、球体の表面が盛り上がった。

 

金属片の一部が黒い殻の外側へ押し出され、硬い板状に変形する。粘液がその周囲を覆い、隙間を埋めて固定した。

 

一つ目の部品が身体の一部になった。

 

次に触手が向かったのは、壊れた義体だった。

 

人型の胴体だけが残された義体。片腕はなく、胸部装甲には大きな亀裂が走っている。

 

触手が胴体に巻き付く。

 

黒い粘液が装甲の継ぎ目へ入り込み、固定具を外し、内部の機械を引きずり出した。小さな部品が次々と剥がれ、球体の表面へ吸い込まれていく。

 

義体の外装は、頭部と心臓を守る二つの殻へ運ばれた。

 

装甲板が重なり、粘液がそれらを接着する。

 

さらに内部から取り出した駆動部品が殻の隙間へ埋め込まれた。もはや単なる装甲ではない。金属と粘液が一体化した、分厚い防護構造になりつつあった。

 

その間にも、別の触手が動いていた。

 

廃棄された腕を引き寄せ、関節を分解する。油圧機構を取り出し、長い触手の内部へ組み込む。次の触手は、折れた脚部から車輪と駆動装置を奪っていた。

 

取り込むたびに、身体の形が変わっていく。

 

細長い触手の一部は、金属の輪が連なる鎖状の形へ変わった。別の触手は、油圧アームのように太くなり、先端に巨大な把持部を形成する。

 

球体の周囲に、以前よりも多くの腕が生まれていた。

 

それでも、命の殻は止まらない。

 

廃材の山へ身体を広げる。

 

大量の鉄骨が粘液に覆われ、ゆっくりと持ち上がった。使える部品は分解され、使えない部分は押し潰される。長い金属棒は骨格のように組み込まれ、装甲板は外側へ重ねられていった。

 

やがて、壊れた銃器の山に触れる。

 

銃身を引き抜き、機関部を分解する。弾薬はそのままでは使わず、内部の構造を調べるように部品を取り込んだ。

 

銃身の一部は触手の先端に組み込まれた。

 

別の触手には、複数の銃口が並ぶ。内部には骨を加工した針が装填され、粘液の収縮によって射出できる構造へ変わっていた。

 

刀を取り込んだ触手は、以前と同じように刃を振るう。

 

しかし、今ではその数も増えていた。複数の刀を持つ触手が、異なる方向へ伸び、互いの動きを妨げずに動いている。

 

鎖が床を這い、金属の腕が廃材を引き寄せ、銃口が周囲を向く。

 

それらの中心にあるのは、赤黒い球体だった。

 

頭部と心臓を守る殻は、もはや元の大きさを大きく超えている。何層もの装甲が重なり、その隙間から黒い粘液が脈打つように動いていた。

 

身体の大部分は金属と機械で覆われている。

 

それでも、中心にあるものは変わらない。

 

生き残ること。

 

そのために、利用できるものを取り込む。

 

そのために、身体を変える。

 

そのために、さらに多くのものを集める。

 

廃棄区画にあった大量のガラクタが、少しずつ消えていった。

 

---

 

数日後。

 

廃棄区画に近づいた回収業者が、奇妙な報告を残した。

 

廃材の山が消えている。

 

金属部品や義体の残骸が、何者かによって持ち去られた形跡がある。

 

最初は盗難だと思われた。

 

しかし、現場には不自然な跡が残っていた。

 

地面を削ったような深い溝。壁に残された無数の金属片。銃弾とは違う、細い針が突き刺さった跡。

 

そして、回収業者の一人が、廃工場の奥で巨大な黒い影を見たと証言した。

 

その後も、廃棄区画に入った者が戻らなくなる事件が続いた。

 

武器を持ったフィクサーが消息を絶つ。

 

廃材を運び出そうとした回収業者が襲われる。

 

現場には、切断された義体の残骸と、骨のような針が大量に残されていた。

 

目撃者の証言は一致しなかった。

 

黒い塊だったという者もいれば、巨大な機械の獣だったという者もいる。

 

ただ、一つだけ共通していた。

 

それは、相手が武器を持っていると、こちらが何もしていなくても襲いかかってくるということだった。

 

被害報告は複数の事務所を経由し、やがてフィクサー協会へ送られた。

 

---

 

数週間後。

 

ある会議室に、複数のフィクサーと協会関係者が集まっていた。

 

机の上には、廃棄区画で発生した事件の報告書と、現場で撮影された写真が並べられている。

 

写真には、破壊された建物と、奇妙な痕跡が写っていた。

 

壁に突き刺さった大量の骨針。

 

切断された義体の残骸。

 

そして、遠くから撮影された赤黒い巨大な影。

 

「これが、問題の存在ですか?」

 

一人のフィクサーが写真を手に取った。

 

「目撃者によれば、複数の刀を触手で扱い、鎖のような腕を伸ばしてくるそうです。さらに、銃器に似た発射機構も確認されています」

 

「義体まで取り込んでいるのか?」

 

「ええ。現場に残された部品の数から考えて、相当な量を吸収しているようです」

 

別のフィクサーが報告書をめくる。

 

「元は何なんだ?」

 

「不明です。人間だったという証言もありますが、現在の姿からは確認できません」

 

「廃棄区画にあるものを食べている、ということか」

 

「それだけではありません。武装した人間やフィクサーも襲撃しています。被害者の装備や義体も、現場から消えているそうです」

 

会議室に沈黙が落ちた。

 

一人が写真を机に戻す。

 

「放置すれば、さらに大きくなる可能性があるな」

 

「すでに通常の野良フィクサーが対処できる相手ではないでしょう」

 

「討伐依頼を出すべきだ」

 

その言葉を受け、協会関係者が報告書に目を落とした。

 

「現時点では情報が不足しています。まずは調査を行い、危険度を判断する必要があります」

 

「調査に向かった人間まで取り込まれる可能性は?」

 

「否定できません」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

やがて、会議の記録に新たな案件名が記された。

 

廃棄区画に出現した正体不明の異形。

 

武装した対象を無差別に襲撃し、装備や義体を取り込んで成長する存在。

 

その危険性は、現在も上昇している可能性がある。

 

一方、その頃。

 

廃工場の奥では、巨大な赤黒い塊が静かに蠢いていた。

 

かつて人間だった部分は、もうほとんど見当たらない。

 

金属の装甲が何重にも重なり、複数の機械腕が地面を支えている。刀を持つ触手が周囲を警戒し、鎖状の触手が床や壁に広がっていた。

 

無数の銃口が、暗闇の中でゆっくりと向きを変える。

 

そして、廃工場の入口に人影が現れた。

 

その手には武器が握られていた。

 

赤黒い塊が動く。

 

会議室で危険性について話し合われている間にも、怪物は新たな獲物を見つけていた。

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