翌朝、俺は大家に家賃を支払った。
「今回は遅れずに払えたな。次も頼むぞ」
「はい。すみませんでした」
頭を下げて部屋を出る。
これで寝床は確保できた。少なくとも、今夜の心配はしなくていい。
俺はそのまま黒雲会の縄張りへ向かった。
中に入ると、何人かの構成員がこちらを見た。
「……あいつが例のフィクサーか」
「仲間を売って逃げてきたって奴だろ?」
聞こえないふりをして通り過ぎる。
わざわざ否定する気はなかった。俺が以前の事務所を裏切ったのは事実だ。ここで言い訳をしたところで、連中の見る目が変わるとも思えない。
それより、周囲の様子を見ておくほうが大事だった。
腰に刀を差した男が二人。片方は周囲に目を配り、もう片方は仲間と笑いながら俺を眺めている。壁際に立つ大柄な男は、俺が近くを通っても視線を外さなかった。
特に、最後の男は覚えておくことにした。
強そうな相手と、実際に危険な相手は必ずしも同じではない。何を考えているか分からない人間のほうが、厄介なこともある。
俺は短剣一本で戦う身だ。正面から刀を振るわれれば、まともに勝負するのは難しい。
ましてや、ここは黒雲会の縄張りだ。小さな揉め事で済む保証もない。
「おい、新入り。ジュンさんがお呼びだ」
声をかけてきた構成員に、俺はすぐに頭を下げた。
「はい。案内をお願いします」
相手について歩きながら、廊下の曲がり角や出入口を目に入れておく。今すぐ逃げるつもりはないが、逃げ道を知らないまま動くのは落ち着かなかった。
やがて、ジュンのいる部屋に着いた。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けると、ジュンが机の向こうに座っていた。周囲には数人の構成員がいる。俺を見る目は、どれも好意的とは言い難かった。
俺は余計なことを言わず、ジュンの前まで進んだ。
「おはようございます。本日から、よろしくお願いします」
深く頭を下げる。
返事がない。
顔を上げるべきか迷ったが、そのまま待つことにした。先に動いて機嫌を損ねるよりはいい。
「……家賃は払えたか?」
ようやく声がかかった。
「はい。おかげさまで」
「そうか。なら、働いてもらうぞ」
「はい。俺にできることなら、何でもやります」
口にしてから、少しだけ考えた。
本当に何でもできるわけではない。腕前に見合わない仕事を押しつけられれば、命を落とすこともある。
だが、今ここで仕事を選べる立場ではなかった。
ジュンは俺の返事を聞いても、特に反応を示さなかった。
「話がある。座れ」
「はい」
俺は指示された場所に腰を下ろした。
机の上には、俺が渡した書類が置かれている。その隣には、別の資料も用意されていた。
どうやら、話はこれかららしい。
第五話 使い捨ての新入り
「お前が持ってきた情報だが、いくつか確認が取れた」
ジュンは書類をめくりながら言った。
「武器の保管場所も、人員の配置も、おおむね話のとおりだった」
「……それなら、よかったです」
「全部、把握していたのか?」
顔を上げたジュンと目が合う。
「俺が知っていた範囲では、すべてお伝えしました。新しい情報までは分かりません」
「そうか」
ジュンはそれ以上追及せず、別の書類を取り出した。
「ひとつ仕事を頼む」
俺は背筋を伸ばした。
「以前、お前の事務所が使っていた拠点がある。今も使われているか、確認したい」
「俺が案内するんですか?」
「お前なら場所を知っている。それに、向こうも知っている顔が来れば、すぐには警戒しないかもしれない」
なるほど。
俺を使う理由は分かった。土地勘があり、相手の顔も知っている。調査役としては都合がいい。
ただし、向こうが俺を裏切り者として認識していれば話は別だ。
「最後に確認したのは三週間ほど前です。今の人員や警備までは分かりません」
「だから見てこいと言っている」
「……承知しました」
ジュンは書類を机に置いた。
「まずはお前が接触しろ。拠点の様子を確かめて、分かったことを持ち帰れ。状況次第では、こちらも動く」
「俺以外の人間も来るんですね?」
「必要ならな」
それだけだった。
誰が来るのか、いつ動くのか。詳しい話は聞かされないらしい。
俺は余計な質問を控えた。
「お前が向こうでどう振る舞うかも、見させてもらう」
ジュンの声は淡々としていた。
「また裏切るようなら、次はないぞ」
「……もちろんです」
すぐに頭を下げた。
信用されていないのは当然だ。俺は自分が生き残るために、以前の仲間を売った。その事実を知っている相手が、簡単に信用するはずもない。
だからこそ、ここで疑いを深めるような真似は避けたかった。
「準備ができ次第、出発しろ」
「分かりました」
俺は立ち上がり、部屋を出た。
廊下を歩きながら、短剣の位置を確かめる。
知っている場所なら、裏口や人目につきにくい通路も覚えている。現地で状況を見て、危険なら深入りしなければいい。
ただ、相手が俺をどう迎えるかは分からない。
裏切り者として追い返されるだけならまだいい。捕まえて問い詰めようとするかもしれないし、最初から敵と見なして襲ってくる可能性もある。
俺は歩みを止めず、頭の中で現場の様子を思い返した。
まずは場所を確認する。相手の人数と武器、出入口を把握する。無理に踏み込まず、帰れるうちに帰る。
それだけだ。
黒雲会に入ったからといって、俺が急に強くなったわけではない。信用も立場も、まだ手に入れていない。
役に立たなければ、いつか切り捨てられる。
なら、役に立つところを見せるしかない。
俺は息を整え、外へ向かった。
命令には従う。
だが、何も考えずに命を預けるつもりはなかった。