事務所に近づくにつれ、懐かしい景色が目に入った。
見慣れた建物。入口のそばに置かれた古い箱。壁に残った傷。以前は何とも思わなかったものが、今では妙に気になった。
ここに戻ってきたのは、仲間を助けるためじゃない。
黒雲会に情報を渡し、仕事を任されたからだ。
「……顔色を変えるなよ」
同行する黒雲会の構成員が、低い声で言った。
「分かっています」
俺は短く答え、服の乱れを直した。
事務所の連中に怪しまれれば、そこで終わりだ。俺が黒雲会と手を組んだと知られれば、何をされるか分からない。
だが、ここで怯えた様子を見せるわけにはいかなかった。
俺はいつものように扉を開けた。
「おはようございます。ちょっと顔を出しに来ました」
なるべく普段どおりの声で挨拶する。
室内にいた数人が顔を上げた。
「……お前、戻ってきたのか?」
「まあ、ちょっと用事があって」
俺は曖昧に笑った。
「最近どうですか? 仕事、入ってます?」
何でもない雑談のように話しながら、室内を見渡す。
入口近くに二人。奥の机に一人。壁際に、以前は見なかった男が立っている。
机の下に置かれた鞄の形から、武器を持ち込んでいる可能性も考えた。ただ、それが何なのかまでは分からない。見ただけで決めつけるのは危険だった。
腰に武器を差している人間もいる。短剣らしきものを持つ男もいれば、長物を保管しているらしい棚の前に立つ男もいた。
俺は会話を続けながら、人数と位置を頭の中で整理した。
「そういえば、あの仕事どうなりました?」
「ああ、あれか。結局、流れたよ」
「そうなんですか。残念ですね」
適当に相槌を打つ。
以前なら、こうした会話に何の意味も感じなかっただろう。だが今は、何気ない返事の間にも、相手の様子が気になった。
俺を警戒しているのは誰か。
何かを隠している様子はあるか。
俺が話しかけたとき、視線を交わしたのは誰か。
もっとも、全員が俺を疑っている可能性だってある。
何しろ、俺は一度この事務所を離れた人間だ。戻ってきた理由を不審に思われてもおかしくない。
「じゃあ、俺はそろそろ。ちょっと寄るところがあるので」
長居はしないほうがいい。
必要なことは、おおよそ確認できた。
「なんだ、もう帰るのか?」
「ええ。また時間があるときに」
俺は軽く手を振り、事務所を出た。
扉が閉まった瞬間、胸の奥に溜まっていた息を静かに吐いた。
危なかった、というほどのことは起きていない。
だが、いつまでもあそこにいたいとも思わなかった。
誰かに問い詰められる前に離れる。それが一番だ。
黒雲会に戻ると、俺はジュンの前で確認した内容を報告した。
「室内には、俺が確認できた範囲で六人いました。武器を持っている者も複数います。ただ、保管場所にある武器の全容までは確認できませんでした」
「お前が入って、怪しまれなかったのか?」
「多少は不審に思われたかもしれません。ただ、露骨に問い詰められることはありませんでした」
ジュンは黙って聞いていた。
俺は見たことと推測を分けて話した。人数は確認できた範囲の数。武器については、実際に見えたものだけ。奥の棚や鞄については、確証がないと伝えた。
曖昧なことを断定すれば、後で困るのは俺自身だ。
「分かった。準備を進める」
ジュンが書類を閉じた。
「お前も来い」
「……はい」
やはり、そうなるか。
報告だけで終わるとは思っていなかった。
むしろ、現場を知っている人間を連れていかない理由がない。
それでも、俺は返事を変えなかった。
「お前が先に出て、連中の注意を引け。こちらが動くまで、向こうを油断させておけ」
ジュンの言葉は淡々としていた。
俺は一瞬だけ、返事をするのが遅れそうになった。
つまり、先頭に立てということだ。
俺が顔を見せれば、事務所の連中は俺に意識を向ける。その間に黒雲会が突入する。
上手くいけば、相手の対応は遅れるだろう。
だが、俺がどうなるかまでは、言及されなかった。
「……承知しました」
それだけ答えた。
突入の準備が整うと、俺は事務所へ向かう黒雲会の構成員たちに合流した。
誰も、俺を励ましたりはしなかった。
当然だろう。これは俺が持ち込んだ情報を確かめる仕事であり、俺が前に出るのは都合がいいからだ。
それ以上の意味はない。
「行け」
合図を受け、俺は事務所の入口へ向かった。
足取りは普段どおりに。
焦っていると思われないように。
俺は一度、入口の前で立ち止まり、扉の向こうの気配をうかがった。
ここから先は、何が起きるか分からない。
正面から戦えば、俺に勝ち目はない。
相手がこちらを敵と認識した瞬間、短剣を抜く暇すらないかもしれない。
だから、俺は命令どおりに動いているように見せながら、周囲の様子を確認した。
事務所の正面に意識が集まっている。
なら、俺がそのまま先頭に立ち続ける必要はない。
俺は入口へ進むふりをして、建物の脇へ回った。
そこには、資材が積まれた一角があった。普段はほとんど人が通らない場所だ。物陰になっていて、正面からは見えにくい。
俺は周囲を確認し、身を低くした。
……悪いな。
心の中で、誰にともなく呟いた。
命令に逆らうつもりはない。
ただ、命令どおりに真っ先に危険へ飛び込むつもりもなかった。
俺が倒れたところで、黒雲会が俺を惜しんでくれるとは思えない。
ならば、自分の身は自分で守るしかない。
遠くで、慌ただしい足音が響いた。
続いて、怒声。
黒雲会が動き始めたらしい。
俺は物陰から様子をうかがい、短剣の柄に手を添えた。
今、飛び出すべきか。
いや、まだだ。
状況が分からないうちに動くのは危険すぎる。俺ができるのは、ここから様子を見て、逃げ道を確保しておくことだ。
正面では、黒雲会の構成員たちが事務所へ踏み込んでいった。
俺は動かなかった。
指示を無視したことが知られれば、後で責められるかもしれない。臆病者だと笑われるかもしれない。
それでも、今は生きている。
その事実を手放したくなかった。
やがて、事務所の中から物音が響いた。
俺は息を潜め、目を凝らした。
――まずは、ここで生き残る。
その後のことは、状況を見てから考えればいい。
事務所の脇に身を潜め、俺は中の様子をうかがっていた。
怒声と足音が交錯する。何かが倒れる音に続き、金属のぶつかる甲高い音が響いた。
黒雲会の襲撃は、すでに始まっている。
俺は物陰から動かなかった。
ジュンの命令は、先頭に立って相手を油断させることだった。だが、命令に従って真っ先に飛び込んだ結果、斬られてしまえば意味がない。
後で何を言われるかは、そのとき考えればいい。
今は、ここで生き残ることが先だった。
「……くそっ、何が起きてるんだよ!」
突然、近くから声がした。
俺は反射的に短剣の柄へ手を伸ばし、顔を上げた。
建物の陰から、一人の男が駆け込んでくる。息を切らし、顔を強張らせたその男には見覚えがあった。
以前の事務所の同僚だ。
向こうも俺に気づいたらしく、驚いた顔をした。
「お前……! なんでこんなところにいるんだ?」
まずい。
こいつが俺を見た。
しかも、俺が黒雲会側にいると知られたら、何を言われるか分からない。助けを求められるかもしれないし、裏切り者だと叫ばれるかもしれない。
俺は一瞬で考えた。
ここで口封じをするか。
いや、落ち着け。まだ何も知られていない。こいつが何を考えているか、まず確かめるべきだ。
「……俺も、帰るところだったんだ」
できるだけ自然な声で答えた。
「帰るところって……お前、何も知らないのか? 黒雲会がいきなり襲ってきたんだぞ!」
「えっ……?」
俺は驚いたように目を見開いた。
「何があったんだ?」
「分かるわけねえだろ! 急に踏み込んできて、こっちは大混乱だ。俺は隙を見て逃げてきたんだよ!」
男は何度も背後を振り返った。
その様子を見て、俺は頭の中で選択肢を並べた。
こいつを連れて逃げる。
二人で隠れる。
あるいは、こいつを利用する。
俺がここにいた理由を説明する必要はない。俺も襲撃に巻き込まれたと言えばいい。実際、今この瞬間だけを切り取れば、そう言えなくもない。
問題は、その後だ。
襲撃が終わったとき、俺が無傷で見つかればどうなる?
黒雲会の連中は、俺がどこにいたのか確認するだろう。先頭に立つよう命じられた俺が、戦闘に参加せず隠れていたと知られれば、立場が悪くなる。
何より、ジュンに説明を求められる。
俺は喉の奥に引っかかるような感覚を覚えた。
そのとき、男が俺の腕をつかんだ。
「おい、ここにいたら危ない! 隠れるぞ!」
「……ああ、そうだな」
俺は頷いた。
そして、男の顔を見た。
こいつは俺を疑っていない。
昔の同僚だからか、それとも、今はそれどころではないからか。どちらにしても、俺を味方だと思っているらしい。
そのことが、かえって厄介だった。
「こっちだ。あそこなら、正面からは見えない」
俺は建物の裏手を指した。
男は迷わずついてきた。
数歩進んだところで、俺はもう一度周囲を確認した。人影はない。正面からは、まだ怒声が聞こえている。
男がほっとしたように息を吐いた。
「助かった……。お前がいてよかったぜ」
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
昔、こいつと一緒に仕事をしたことがある。
特別仲がよかったわけではない。それでも、何度か同じ現場に出て、くだらない話をしたことくらいはあった。
今、こいつは俺を仲間だと思っている。
俺もそう思われていることを利用しようとしている。
「……ああ」
俺は小さく頷いた。
男がこちらに背を向け、物陰の奥をのぞき込む。
その瞬間、俺は短剣を抜いた。
迷いがなかったわけではない。
ここで見逃せば、こいつは俺のことを誰かに話すかもしれない。黒雲会に情報を売ったことも、俺が先頭に立つふりをして隠れていたことも、いずれ知られる可能性がある。
逆に、今ここで殺せば、俺は戻ったときに「襲撃に巻き込まれ、応戦していた」と説明できるかもしれない。
もちろん、それだけで疑いが晴れる保証はない。
だが、何もせず隠れていたと知られるよりは、まだましだ。
男が振り返った。
「……おい、何して――」
俺は一歩近づいた。
そして、短剣を振るった。
男の声が途切れた。
俺はすぐに彼の身体を支え、物陰の奥へと引き寄せた。床に倒れる音をできるだけ抑え、短剣を握った手を見つめる。
男はもう、何も言わなかった。
俺はしばらく動けなかった。
怖かったからではない。
いや、怖かったのだろう。
ただ、それ以上に、頭の中が妙に静かだった。
今、自分が何をしたのか。
理解していないわけではない。
それでも、考え続ければ手が止まってしまいそうだった。
俺は短剣を拭い、鞘に戻した。
「……ごめんな」
小さく呟いた。
返事はない。
「俺も、まだ死にたくないんだ」
誰に聞かせるつもりもない言葉だった。
「それに……何もせず隠れてたって思われたら、俺がここにいる意味がなくなる」
俺は目を伏せた。
「だから、悪いけど……死んでくれ」
言い終えても、何も変わらなかった。
男は動かない。
外では、まだ戦闘が続いている。
俺はしばらくその場にしゃがみ込んでいたが、やがて立ち上がった。ここに長くいれば、別の誰かに見つかるかもしれない。
俺は衣服の乱れを直し、呼吸を整えた。
顔に出すな。
今さら、取り返しのつかないことをしたと気づいたところで、何も戻らない。
俺は自分にそう言い聞かせ、物陰から出た。
正面へ戻る途中、黒雲会の構成員と鉢合わせた。
「おい、新入り! どこにいた?」
「……裏手です。逃げてきた事務所の人間と遭遇して、揉み合いになりました」
俺は一度言葉を切った。
「相手は、もう動けません」
男は俺を見て、それから短剣へ目を落とした。
「……そうか。ジュンさんに報告しろ」
「はい」
俺は頷いた。
声は震えていなかった。
足も、動いていた。
けれど、歩き出したあとも、同僚の最後の言葉が頭に残っていた。
――お前がいてよかったぜ。
俺はその言葉を振り払うように、ジュンのいる場所へ向かった。
今はまだ、立ち止まるわけにはいかなかった。