ハリーに憑依したらライバルが女の子だった件 作:TSドラコファンクラブ終身名誉会長
洋装店のベルがチリンと鳴り、ドラコニアが去っていった静かな店内で、心臓が早鐘のように激しく脈打っていた。
マダム・マルキンが「はい、おしまいだよ」と手際よくローブを畳む声すら、酷く遠くに聞こえる。
(……待て、待て待て待て! なんだ今の!? ドラコ・マルフォイが女の子だった!?)
脳内を猛烈な混乱の嵐が吹き荒れていた。映画の記憶を隅から隅まで掘り起こしても、こんな展開はどこにもない。
それどころか、初対面のシチュエーションそのものが根本から違っていた。
(映画じゃ、ハリーとマルフォイの最初の出会いはホグワーツの大広間の前だぞ……!? あの階段の上で、『よろしくない連中もいる』とか言って握手を求めてくるはずじゃなかったのか!? なんで入学前のダイアゴン横丁で、しかも洋服屋で普通に出会って雑談してんだよ!?)
映画で観たオールバックの憎たらしいクソガキの面影はどこへやら、実際に現れたのは、陶器のように白い肌にプラチナブロンドの長い髪をなびかせた、信じられないほどの美少女だった。しかも、最後に耳まで真っ赤にして怒る始末。
「ハリー! チョコミントと木苺、どっちがいい? どっちも美味いぞ!」
ガラス扉を押し開けて入ってきたハグリッドの能天気な声に、我に返って必死に表情を取り繕った。額にじんわりと冷汗が滲んでいる。
「おや、どうしたハリー? なんだかゴーストでも見たような顔をしてるぞ。気分でも悪いのか?」
ハグリッドが巨大な手で差し出してきたアイスクリームの冷たさが、パニック寸前の頭を無理やり現実に引き戻してくれた。
引きつった笑みを浮かべ、アイスを受け取る
「大丈夫、ちょっと圧倒されただけだよ……ハグリッド、マルフォイ家ってどんな家なの?」
ハグリッドの太い眉が、ピクリと不穏そうに跳ね上がった。
大男はチョコミントのアイスを口へ放り込む手を止め、モジャモジャの髭に覆われた顔を曇らせて、用心深く周囲を見回す。
「……マルフォイだと? ハリー、どこでその名を聞いた? まさか、さっき店から出てきたあの上品ぶった娘っ子か……?」
ハグリッドは溜め息混じりに大きな体をかがめ、声を潜めて語り始めた。その巨大な手から伝わるアイスの冷たさが、じくじくと指先を痺れさせる。
「悪いことは言わねえ。あの一族には関わらん方がいい。マルフォイ家ってのは、代々スリザリン出身の純血主義者で通ってる名家だが……裏じゃ酷い噂ばかりだ。『例のあの人』が力を持ってた暗黒の時代、奴らは真っ先にあの人の側についた連中なんだ」
(……やっぱり、そこは映画通りのデス・イーター家系か)
マルフォイが美少女になっていようと、バックボーンまで変わったわけではないらしい。少しだけホッとする反面、ハグリッドの次の言葉に息を呑んだ。
「あの人が消えた後、奴らは『呪いで操られていただけだ』と嘘八百を並べ立てて、金とコネでまんまとアズカバン送りを免れやがったのさ。父親のルシウスも、母親のナルシッサも、根っからの性悪よ。娘のドラコニアにしたって、その毒をたっぷり吸って育ってるはずだ。ハリー、お前さんのような心優しい奴が近づく相手じゃねえ」
映画の記憶では、マルフォイはただの生意気な同級生のライバルで、終盤に家族共々追い詰められていく情けない姿が印象的だった。だが、ハグリッドの言葉には、生々しい戦争の傷跡と純血名家への拭い去れない警戒心が滲んでいる。
「さあ、湿っぽい話はここまでだ! 次は魔法使いにとって一番大事な相棒を見つけに行かねえとな。オリバンダーの店で、お前さんの『杖』を選ぶ番だぞ!」
ハグリッドが気を取り直したように豪快に笑い、ハリーの肩をポンと叩いた。その衝撃で揺れる視界の先に、古びた金文字で「オリバンダーの店」と書かれた小さな店舗が見えていた。
先ほどのドラコニアの赤い耳を思い出して苦笑しつつ
「そうだね、ハグリッド。僕だけの杖を探しに行こう」
ドアを開けると、チリンと乾いた鈴の音が埃っぽい店内に響き渡った。
薄暗い空間には、床から天井まで届く無数の棚が所狭しと並び、何千本もの細長い箱が几帳面に敷き詰められている。まるで古い図書館か、時が止まった礼拝堂のような、静謐で独特な魔力の匂いが鼻腔をくすぐった。
「……こんにちは」
物音ひとつ立てずに、棚の奥から老人が滑るように現れた。淡い色の大きな瞳が、暗がりの中で月の光のように妖しく光っている。映画で観た通りの、どこか浮世離れした杖作りの名匠、ギャリック・オリバンダーだった。
「 ああ……やはりね。ハリー・ポッター。まるで昨日のことのようだ。君のお父上とお母上が、初めてこの店で杖を買い求めた日のことがね……」
オリバンダーの視線が、ハリーの額の擦れかけた前髪の隙間へと、吸い寄せられるように落ちる。
「そして、君がその傷を負った日も。……悲劇的なことだ。十三インチ半、イチイの木。恐ろしく強力な杖だった。そんな代物が、よからぬ者の手へと渡ってしまったのは……実に遺憾だった」
老人はそれ以上語らず、銀色の目盛りが刻まれたメジャーを取り出してハリーの肩幅、腕の長さ、指と指の間隔を測り始めた。宙に浮いたメジャーがひとりでに採寸を続ける間、オリバンダーは棚の間を素早く動き回り、次々と細長い箱を引き出していく。
「さあ、まずはこれを振ってごらん。ブナの木とドラゴンの心臓の琴線。九インチ。頑丈でしなやかだ」
手渡された杖を恐る恐る振ってみるが、突風が巻き起こって棚の羊皮紙が宙を舞い、すぐさまオリバンダーに手元からひったくられた。
「違う、これではない! では、黒檀と一角獣の毛、八インチ半、弾力性がある――いや、これも違うな!」
花瓶が割れ、引き出しが飛び出す騒動を繰り返し、店内の床には外された箱の山が築かれていく。
映画通りの展開だと内心で確信を深めつつあると、オリバンダーの手が、棚の最奥に眠っていた埃深い一本の箱の前でピタリと止まった。
「 ……まさか、な。いや、しかし……」
老人は吸い寄せられるように箱を手に取り、蓋を静かに開けた。
中から現れたのは、美しく研ぎ澄まされた木目を湛える一本の杖だった。
「柊の木に、不死鳥の尾羽。十一インチ。非凡な組み合わせだ。……さあ、ポッター氏。試してごらん」
差し出された杖の柄に指先が触れた瞬間――。
指先から心臓へ、そして全身の血潮へと、温かな奔流が一気に駆け巡った。杖の先から金色の光の粒子がパチパチと火花のように弾け、暗い店内に柔らかい春風が吹き抜ける。
「おお、奇妙だ……実に、奇妙だ……」
オリバンダーが息を呑み、青白い目を大きく見開いてハリーを見つめた。
オリバンダーの店での運命的な杖との出会いを終えたハリーは、ハグリッドから贈られた白フクロウ(ヘドウィグ)と共に、再びプリベット通り四番地へと戻った。
そこからの1ヶ月間、ハリーは憑依前の「前世の習性」を遺憾なく発揮することになった。
前世の彼はそこそこの難関大学を優秀な成績で卒業した経歴を持つ。元々勉強など新しい何かを学ぶことに対して強い意欲をもつ彼にとって、未知の学問である「魔法」は恐怖の対象ではなく、好奇心を激しく刺激する極上の知的エンターテインメントに他ならなかったのだ。
『標準呪文初級』『魔法史』『変身術入門』『魔法薬学』――。
映画の記憶だけでは到底補いきれない魔法の体系を、ハリーは貪るように読み耽った。前世で培った論理的思考力と情報整理術により、11歳の子供向けに書かれた教科書の内容は、驚くべき速度で頭の中へ吸収されていった。
同時に、ダドリーの暴力から逃げ延びるために始めた基礎トレーニングも継続した。毎朝の腕立て伏せ、腹筋、ランニング。魔法使いが肉体を軽視しがちであるならば、フィジカルを鍛えておくことは必ず生存率を跳ね上げるはずだと考えたからだ。
そして――運命の1991年9月1日。
ロンドン、キングス・クロス駅の9と3/4番線。
蒸気機関車の真っ赤な車体がもうもうと吐き出す白い煙の中を、ハリーは鍛え直した背筋を伸ばし、堂々と歩いていた。
身なりはダドリーのお下がりではなく、仕立て直した清潔な普段着。カートには大きなトランクと、籠の中で澄ました顔をするヘドウィグが乗っている。
プラットホームは、見送りの家族や興奮した生徒たちでごった返していた。トランクを両手で軽々と持ち上げ、汽車へと乗り込んだハリーは、空いているコンパートメントを探して奥の通路を進んでいく。
その時、前方のコンパートメントのドアが開き、ふわりと上品な香水の匂いと共に、見覚えのあるプラチナブロンドの長い髪が視界をかすめた。
咄嗟の判断で身を翻し、すぐ脇にあった空きのコンパートメントへと滑り込んだ。
カチャリと音を立ててスライドドアを閉め、通路側の曇りガラスからそっと外を窺う。
プラチナブロンドの長い髪を優雅に揺らし、仕立ての良い特注のローブを纏ったドラコニアが、二人の大柄な男子生徒――おそらくクラッブとゴイルだろう――を引き連れて通路を通り過ぎていった。
ダイアゴン横丁で見せたあの動揺した面影は微塵もなく、いかにも純血の名家のお嬢様といった冷徹で凛とした横顔だったが、その姿が見えなくなると、ハリーは小さく息を吐き出した。
(……ふぅ、危ない危ない。いきなり遭遇して波風を立てる必要はないからな)
ハリーは日課のトレーニングで鍛えた腕力で、重いトランクを軽々と頭上の網棚へと持ち上げて載せた。
席に腰を下ろし、ヘドウィグの籠の扉を少しだけ開けてやると、フクロウは満足そうに羽を鳴らす。
ポケットから取り出したのは、夏休みの間に読み進めていた『変身術入門』の教科書だ。ホグワーツへの旅路の間に、まだ完璧に頭に入っていない幾何学的な魔法陣の理論を復習しておこうとページをめくった。
汽笛が長く鋭く鳴り響き、列車がゆっくりとガタゴト揺れ始める。
ロンドンの街並みが車窓の向こうへと滑り出していった、その時だった。
コンパートメントのドアが控えめにノックされ、ガラリと開いた。
「 あの……ここ、空いてる? 他の場所はどこも満席なんだ」
赤毛にそばかすだらけの顔、薄汚れた灰色のネズミ(スキャバース)をポケットに突っ込んだ少年――ロン・ウィーズリーが、大きなトランクを引きずりながら、少し気まずそうにこちらを覗き込んでいた。
ハリーは開いていた教科書から顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、どうぞ。そこ、空いてるよ」
「ありがとう! 助かったよ、どこも上級生でいっぱいでさ……」
安堵の息を吐いた赤毛の少年は、重そうにトランクを引きずり込み、ハリーの向かいの座席へと腰を下ろした。膝の上には、ポケットから引っ張り出された丸々と太った灰色のネズミが大人しく丸まっている。
「 僕はロン。ロン・ウィーズリーだ。君は?」
「僕はハリー。ハリー・ポッターだ」
その瞬間、ロンの目がまん丸に見開かれた。開いた口が塞がらないといった様子で、思わず身を乗り出してくる。
「ほ、本当に!? あのハリー・ポッター!? じゃあ……その、本当にあるの? 例の、あの……」
ロンが自分の額を指差す仕草を見て、ハリーは前髪を少し持ち上げてみせた。前世の知識では何度も映像で見てきた、薄く残る稲妻型の傷跡だ。ロンは「うわあ……」と息を呑み、まるで伝説の秘宝でも見るかのように目を輝かせた。
「 魔法界の人はみんなそれを気にするみたいだけど……正直、僕はマグルの家で育ったから、自分の過去についてほとんど何も知らなくてね。ハグリッドから少し聞いたくらいなんだ。だから、詳しい事情を教えてもらえないかな。特に……僕にその傷をつけた人物のことを」
あえて無知な新入生を装い、自然に話題を誘導する。ロンは「えっ、名前を言うのも怖いんだけど……」と身震いしながら周囲を警戒するように声を潜めた。
「その……普通は『名前を言ってはいけないあの人』とか『例のあの人』って呼ぶんだ。本当の名前は恐ろしくて魔法界の人間は誰も口にしちゃいけないことになってる。十年前まで、魔法界を恐怖で支配してた最悪の闇の魔法使いさ」
ロンはかつての戦争の重苦しい空気を思い出すように、真剣な面持ちで語り続けた。
「 逆らう者は容赦なく殺された。たくさんの優秀な魔法使いが死んで、みんな疑心暗鬼になって……僕の叔父さんたちも殺されたんだ。でも、あの人が君の家を襲って、君の両親を殺したあと……なぜか、赤ん坊だった君に放った死の呪いだけが跳ね返った。それで、あの人の力は粉々に吹き飛んで、姿を消したんだ。だから君は『生き残った男の子』として、魔法界の英雄なんだよ」
映画で知っていた筋書き通りの説明だったが、当事者の家族から生々しく語られると、この世界の過酷な歴史が皮膚感覚で伝わってくるようだった。
そして話題を切り替えるように微笑む
「重い話をしちゃって悪かったね。ところで、そのネズミの名前はなんていうの?」
ロンはハッと我に返ったように表情を和らげ、気まずさを払拭するように手元のネズミを撫でた。
「ああ、いや、いいんだ! 君が知らなくて当然だしさ。……こいつはスキャバース。兄貴のパーシーのお下がりなんだ。一日中寝てばかりで、何の役にも立たない間抜けなネズミだけどね」
ロンの膝の上で丸まった灰色のネズミ――ピーター・ペティグリューの化けた姿――は、ハリーの視線にも気づかずに呑気ないびきをかいていた。映画の結末を知るハリーの背筋に冷や汗が走るが、今はまだ知らぬ存ぜぬを通すのが賢明だった。
「そういえば、兄貴たちが『ネズミを黄色く染める呪文』を教えてくれたんだ。ちょっと試して――」
ロンがボロ布のようなローブのポケットから、先端の剥げかけた杖を取り出そうとした、その時だった。
コンパートメントのドアが勢いよくガラリと開け放たれた。
「 あの、ヒキガエルを見かけなかった? ネビルっていう子が失くしちゃったのよ」
そこに立っていたのは、豊かな茶色の縮れ毛と、少し前に出た前歯が特徴的な少女――ハーマイオニー・グレンジャーだった。すでに完璧に着こなしたホグワーツの制服に身を包み、堂々たる態度でコンパートメント内を見渡している。
その視線が、ロンの手にある杖、そしてハリーの膝の上に置かれた『変身術入門』の教科書へと向けられた。
「あら、魔法を試すところだったの? 見せてくれる? ……それに、あなた、もう教科書を読んでいるのね。私なんて指定の教科書は全部暗記しちゃったわ。もちろん、簡単な呪文なら全部家で試してみたけれど、どれもちゃんと使えたのよ」
早口で一気にまくし立てる彼女の姿は、まさに映画で見た通りの「知ったかぶりの優等生」そのものだった。ロンは呆気にとられたように口を半開きにしている。
ロンの杖を見守りながら
「ロンが今から呪文を試すところだったんだ。君の予習の成果も、あとでぜひ聞かせてほしいな」
ハリーの穏やかで大人びた受け答えに、ハーマイオニーは少し拍子抜けしたように目を丸くし、それから誇らしげに胸を張った。
「ええ、もちろんよ! 分からないところがあれば、いつでも聞いてくれて構わないわ」
一方、ロンは助け舟を出されたことに感謝しつつも、威圧的な少女の視線に居心地悪そうに身を縮めた。咳払いをひとつし、剥げかけた古い杖を構え直す。
「えーと……お日様、ヒナギク、溶けたバター、この間抜けなデブネズミを黄色に変えよ!」
杖を一振りしたものの、パチリと小さな火花が散っただけで、箱の中で眠るスキャバースの毛並みはくすんだ灰色のままピクリとも動かなかった。
「本当にそれ、本物の呪文? あまり効果があるようには見えないけれど。……例えば、こういう風にやるものよ」
ハーマイオニーはハリーの向かい、ロンの隣にすっと腰を下ろすと、自らの杖を取り出してハリーの顔の前へと突き出した。ハリーが身構える間もなく、杖先が軽く振られる。
「オキュラス・レパロ(眼鏡よ、直れ)」
パッと小さな閃光が走り、ハリーの鼻梁に乗っていた丸眼鏡のわずかな歪みと擦り傷が、瞬時に新品のように滑らかに整えられた。前世の知識では映画の名シーンとして知っていたが、目の前で発動した無駄のない魔力の流れには、思わず知的好奇心が刺激される。
「 ほらね、こっちの方がずっと綺麗……あ」
至近距離でハリーの顔をまじまじと見つめたハーマイオニーは、その前髪の隙間に覗く特徴的な傷跡に気づき、ハッと息を呑んだ。
「 あなた……もしかして、ハリー・ポッター!? 信じられない、本で読んだわ!『現代魔法史』にも『闇の魔術の興亡』にも、あなたの名前が載っていたもの!」
少女の興奮した声が狭い個室に響き渡った。
ハリーは苦笑いを浮かべながら話題を変えようと視線を動かす。
そしてハリーはロンの膝の上で丸くなる灰色のネズミへと、わずかに冷ややかな視線を落とした。
「呪文が効かなかったのは、このネズミが本当に『ただのネズミ』じゃないからかもしれないね」
一瞬、コンパートメントの空気がシンと静まり返った。ロンが怪訝そうに眉をひそめ、スキャバース自身も微かにピクリと耳を震わせたように見えた。だが、ハリーはすぐに柔らかな笑みを浮かべ、軽く肩をすくめてみせる。
「なんてね、冗談だよ。……それよりハーマイオニー、ネビルのヒキガエルのことは忘れてないかい? 探してあげていた途中だったんじゃないの?」
「 あら、そうだったわ! いけない、つい夢中になって……」
ハッと我に返ったハーマイオニーが慌てて立ち上がろうとした時、ハリーは手元のポケットから自身の柊の杖を静かに抜き取った。
「よかったら、僕も予習した呪文をひとつ試してみたいんだ。……少し難易度が高い呪文だけど、理屈は頭に入ってる」
ハリーは前世で培った論理的思考で術式の構造を脳裏に素早く組み上げ、明確に「ネビルのヒキガエル」の質量と位置関係を意識した。杖先を鋭く振る。
「アクシオ(来い)――ネビルのヒキガエル」
空気が一瞬だけ重く波打ち、目に見えない引力の糸が通路の奥へと伸びていった。数秒の沈黙の後――。
『ケロロロロッ!?』
間の抜けた鳴き声を上げながら、通路の向こうから茶色い丸っこい物体がふわりと宙を飛び、開いたままのドアをすり抜けて、ハリーが差し出した掌の上へと器地よく「ペタッ」と着地した。
「う、嘘だろ……!? 今のアクシオって……呼び寄せ呪文だろ!? 兄貴のパーシーでさえ苦戦してた上級呪文なのに!」
「信じられないわ……! 呼び寄せ呪文は教科書なら四年生レベルの高度な集中力が必要なはずよ! それを杖を振っただけで、一度も見たことのない対象を引き寄せるなんて……空間認識と魔力の指向性を完全に把握していないと不可能よ!」
目を丸くして顎が外れそうなほど驚愕するロンと、興奮と知的な嫉妬が入り混じった熱い眼差しでハリーを凝視するハーマイオニー。二人の反応をよそに、ハリーの手のひらの上では、無傷のヒキガエル(トレバー)が満足そうに瞬きをしていた。
ハリーは驚きを隠せない二人に気後れさせることのないよう、親しみやすい穏やかな苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「運が良かっただけだよ。夏休みの間、本とにらめっこして頭の中でシミュレーションばかりしていたからね。たまたまうまく噛み合ってくれたんだと思う」
驕る様子など微塵も見せず、相手を立てるような謙虚な声音。その物腰の柔らかさに、劣等感を抱きかけていたロンの表情もすっと緩み、ハーマイオニーの警戒心も自然とほどけていった。
「ほら、ネビルに届けてあげて。無事でよかったよ」
両手でそっと持ち上げたヒキガエルを差し出すと、ハーマイオニーは感心しきった様子で丁寧に受け取った。手のひらの上のカエルを見つめる彼女の瞳には、先ほどまでの張り詰めた競争心ではなく、純粋な敬意と好意が宿っている。
「ありがとう、ハリー……本当に助かったわ。ネビル、泣きそうになっていたから。あなた、ただ本を読むだけじゃなくて、実技の理解も本当に深いのね。……私、もっとあなたと魔法の理論についてお話ししてみたいわ」
「 いや、たまたまだとしても凄すぎるって! 兄貴たちに見せたら腰を抜かすよ……」
居心地の良さを感じさせるハリーの社交的な気配りに、狭いコンパートメント内の空気は一気に打ち解けたものへと変わっていた。