「ぐぬぬぬ……と、届かない」
こういう時、上官の背丈的にギリギリ届くか届かないかの高さにある書庫の書類を取って差し上げるべきかべきではないかは悩ましいのではないかと思う。
取って差し上げれば、感謝されるかもしれないが、「彼女」の低くなってしまった背丈を思い出させて刺激する可能性がある。だからといって見過ごせば、あとで「なぜ手伝わなかった!」と冗談抜きで鳩尾に右ストレートがさく裂して演習場まで飛んで逝く可能性もある。
悩ましい。
非常に悩ましいが、よくよく考えたら叱責をもろに受けるほうが良くないか……仕方ない、少佐のためにも取って差し上げるべきか。
「あ、少佐、私が取りましょう――」
「お、取れそう――」
「あっ」
と私が歩み寄るも時すでに遅し、慣れない脚立の上で白鳥の湖を踊っていた少佐はバランスを崩して私に向かって落下してきたのだった。
軍人として訓練は受けていたからか、私には落下してくる少佐が、油を差していない自転車の車輪のように、時がゆっくりと流れているような錯覚を受けながらも視界に入れていた。
咄嗟に両手を差し出して彼女を受け止めようとした時には、少佐の2本の“角”が私の額に直撃して、星が飛んだ。
「ぬわあああっ!」
「ぐへっ」
視界が一瞬で点滅し、散った星が私の脳裏を交錯した。 両親の顔が三途の川の向こうで手を振っているような錯覚を覚えたが、そんな臨死体験に浸る余裕すら与えられなかった。
重力という絶対的な法則に従い、私と少佐の二つの身体は激しくもつれ合いながら、書庫の埃っぽい床の上へとドサリと崩れ落ちたのだ。
「ぶほわッ……!」
私の背中が床を打ち、受衝撃体勢を取る間もなく、上に覆いかぶさる形で少佐の華奢な体が乗っかる。 物理的な痛みに耐えつつ、私はとっさに軍人としての本能で「上官を床に直接叩きつけまい」と両手を上に伸ばして支えていた。
衝撃を和らげるクッションの役目を果たせたはずだと、心の中でささやかな達成感を覚えた次の瞬間――。
手のひらに、信じられないほどの触感が伝わった。
(……ん?)
吸い付くような柔らかさ。吸湿性の高い上質な綿をさらに極限まで高密度に凝縮したような、弾力と温もり。軍服の分厚い生地越しであっても誤魔化しようのない、圧倒的な『女性』の感触。
少佐が降魔実験の事故によって「鬼娘」へ変化を遂げた際、その小柄な体躯には不釣り合いなほど立派に育ってしまった、二つの膨らみの真ん中に――私の両手がジャストミートしていた。
(あ、これ、あかんやつだ)
思考が凍りつく。無意識に、本当に無意識に、私の指先が微かな感覚を確かめようと動いてしまった。
――むにゅっ。
「……ひゃっ!?」
書庫の封魔壁を突き破らんばかりに響き渡ったのは、かつて「鬼の少佐」として前線で数々の魔物を血祭りにあげてきた人物のものとは到底思えない、鈴を転がしたように高く、愛らしい悲鳴だった。
敏感になった鬼娘の身体がビクンと激しく跳ね上がり、少佐は私の胸の上でキュッと身体を縮こまらせる。
「……っ!?」
目の前に広がるのは、熟しきった林檎のように耳の先まで真っ赤に染め上げた少佐の顔面だった。 額の二本の角からはポッポと異常な熱気が立ち昇り、怒りと恥ずかしさで潤んだ瞳が涙目になって私を見つめている。チラリと覗く小さな八重歯が、わなわなと震えていた。
「し、少佐殿! 違います! これは決して邪心から出た行いではなく、落下運動における不慮の軌道修正と、人道的保護観察に基づく不可抗力で――っ!」
「き、貴様……っ! ど、どこを触っているんだ……っ! こ、こ、この破廉恥漢めがぁぁぁ!!」
言い訳を口にする私の言葉を、怒声が掻き消す。いや、怒声のつもりなのだろうが、ソプラノボイスの可愛い声で「どこ触ってんだ」と言われても、怒られているというよりは、完全に甘酸っぱい恋模様のワンシーンである。しかし、目の前にあるのはただの「恥じらう少女」ではない。
中身は誇り高き軍人。そして身体は、鬼の怪力を宿した人間兵器なのだ。
「あ、ちょっと待ってくだ――」
絶望的な速度で少佐の小さな右拳に魔力が収束し、握りしめられた手が圧倒的な密度で赤く発光し始める。
「阿呆ぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
爆音。
それは書庫で鳴っていい音ではなかった。破城槌が防壁を粉砕したような衝撃波が室内を駆け巡り、私の顎骨を捉えた少佐の右ストレートが、私の全身を文字通り砲弾へと変えた。
「ぐふぁッ!?」
私の巨体はふわりと宙を舞い、そのまま書庫の分厚い封魔ガラスに向かって一直線。
「パリンッ」という意外と拍子抜けする音とともにガラス片を飛び散らせ、私は青空の中へと綺麗な放物線を描いて突き抜けていった。
「少佐ぁぁぁぁぁぁぁぁ――……!!」
どこまでも晴れ渡る北方の空に、私の遺言めいた叫び声が悲しく響き渡る。
――パラパラ、と。 枠だけ残された窓辺からガラスの小さな破片が床に落ちる音が響き、冷たい秋風が室内へと吹き込んできた。
静まり返った書庫。
「……あ」
煙をふわりと吹いている自分の小さな右拳を、少佐は呆然と見つめていた。
今しがた放った一撃の手応えを反芻し、真っ赤になった顔のままポカンと口を開ける。
「……やべ。手加減忘れてた」
鬼特有の身体能力にまだ身体が馴染んでいないせいなのか、パニックのあまり本気を出してしまったのか。
少佐はぺたんと床にへたり込むと、自分の両手で真っ赤な顔を覆い隠した。
「あ、あいつ……死んでねぇだろうな……。いや、まぁあいつだしな……大丈夫だろ、たぶん……」
ぶつぶつと自分に言い聞かせるように呟くものの、胸元に残る「触られた感触」と「男子に抱きつかれてしまった恥ずかしさ」が胸の奥で爆発を起こし、頭の角が再度シュウシュウと熱を吹き始めた。
「〜〜〜っ! 戻ったら腕立て千回追加だ!!」
誰もいなくなった書庫で、小さな上官は一人、真っ赤な顔でジタバタと脚をバタつかせるのだった。
お気に入りとか評価が好調かと思ったら続編書くかも~
胸はありゃいいってもんじゃないのよ