SPIDER-MAN 作:戦士
「じゃあ、もう一度最初から説明するね」
僕の名前はピーター・パーカー。
ニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ち。
成績は優秀。友達は少なめ。恋愛経験は……まあ、聞かないでほしい。
昔から科学が好きだった。
物理、化学、生物学。世の中のあらゆる現象には理由がある。
そう信じていた。
少なくとも、あの日までは。
十五歳のとき、僕は社会見学で訪れた研究施設で、奇妙なクモに噛まれた。
普通なら病院に行くところだ。
でも、僕の場合は違った。
翌朝、目覚まし時計を握り潰した。
次に、歯磨き粉のチューブを破裂させた。
そして学校に向かう途中、走っているバスを追い抜いた。
……うん。
僕も最初は夢だと思った。
でも、現実だった。
僕は壁を登れるようになった。
信じられないほど遠くまで跳べるようになった。
危険が迫れば、頭の奥で警報が鳴る。
そして何より、以前の僕にはなかった力が手に入った。
そこで僕は考えた。
この力を使えば、何にだってなれるんじゃないかって。
有名人。
ヒーロー。
億万長者。
何だって。
……本当に、馬鹿だった。
そのせいで、ベンおじさんが死んだ。
僕が止められたはずの強盗に殺された。
あの日から、僕の人生は変わった。
大いなる力には、大いなる責任が伴う。
おじさんが教えてくれた、その言葉を胸に、僕はマスクを被った。
赤と青の、ちょっと派手なスーツ。
自作のウェブシューター。
そして、どんなに殴られても減らない軽口。
それが僕。
親愛なる隣人、スパイダーマン。
……さて。
ここまでは、みんなが知っている話だ。
だから、ここからが本題。
僕はこれまで、たくさんのものを失ってきた。
家族。
友達。
愛した人。
それでも立ち上がってきた。
何度倒れても。
何度間違えても。
だって、それがスパイダーマンだから。
でも。
もし、ある日突然。
誰も僕を覚えていなくなったら?
友達も、恋人も、家族も。
僕が救った人たちさえ。
そして、僕自身ですら、自分が何者なのかわからなくなったら?
そんなこと、あり得ないと思うだろう?
……僕もそう思ってた。
あの夜までは。
午前二時十三分。
ニューヨーク、クイーンズ。
「うわあああああああっ!」
夜空に情けない悲鳴が響いた。
赤と青の人影が、ビルの谷間を猛烈な勢いで落下していく。
「オーケー! 大丈夫! 大丈夫だ! こういうときは冷静に――」
右手を突き出す。
カシュッ。
ウェブが発射された。
しかし、糸はビルの壁に届く前に途切れた。
「……ウェブ切れ?」
予備のカートリッジに手を伸ばす。
ない。
「嘘だろ!?」
地面まで残り十メートル。
八メートル。
五メートル。
「ちょ、待っ――!」
ドガシャアアアン!!
ゴミ収集車の荷台に、スパイダーマンが頭から突っ込んだ。
数秒の沈黙。
やがて、ゴミ袋の山から赤い手が突き出た。
「……よし」
ピーター・パーカーは、ゆっくりと親指を立てた。
「今日もニューヨークは平和だ」
その瞬間。
頭の奥で、警報が鳴った。
スパイダーセンス。
ピーターは反射的に顔を上げる。
夜空が、割れていた。
「……は?」
マンハッタンの上空。
星も月もない暗闇に、巨大な亀裂が走っている。
それはガラスに入ったひびのようだった。
だが、亀裂の向こうには宇宙が見えた。
いや。
宇宙ではない。
無数のニューヨークが見えた。
燃え上がるニューヨーク。
海に沈んだニューヨーク。
高層ビルの代わりに巨大な樹木がそびえるニューヨーク。
そして。
スパイダーマンが存在しないニューヨーク。
「……なんだよ、あれ」
突然、亀裂の中心から声が響いた。
『ピーター・パーカー』
聞き覚えのない声だった。
男とも女ともつかない。
若者のようで、老人のようでもある。
『お前は、何度やり直せば気が済む?』
「……誰だ?」
『何度世界を救えば、満足する?』
ピーターは答えなかった。
『何度大切な者を失えば、諦める?』
その言葉に、彼の表情が変わった。
「……黙れ」
『お前の物語は、もう終わっている』
亀裂が大きく開いた。
空間そのものが、悲鳴を上げる。
『だから、今度こそ終わらせてやろう』
次の瞬間。
ニューヨークから、すべての音が消えた。
車のエンジン音。
遠くのパトカーのサイレン。
風の音。
人々の話し声。
何も聞こえない。
そして。
ピーターの視界が真っ白になった。
目を覚ますと、朝だった。
鳥が鳴いている。
窓の外から、子供たちの声が聞こえる。
どこかでトースターが鳴った。
「……夢?」
ピーターはベッドから起き上がった。
見慣れない部屋だった。
いや。
見覚えがある。
壁に貼られた科学雑誌の切り抜き。
机の上の古いパソコン。
棚に置かれた、壊れたカメラ。
そして、ドアの向こうから聞こえる声。
「ピーター! 朝ごはんよ!」
心臓が止まりそうになった。
その声を。
彼は知っていた。
何年も、何年も。
もう二度と聞くことはないと思っていた声。
「……メイ?」
震える手でドアを開ける。
階段を駆け下りる。
キッチンに立っていたのは、白髪交じりの女性だった。
「おはよう、寝坊助さん」
メイ・パーカー。
彼の育ての親。
もう、この世にはいないはずの人。
「……メイおばさん?」
「どうしたの? そんな顔して」
ピーターは答えられなかった。
ただ、駆け寄った。
そして、彼女を抱きしめた。
「ちょっと、ピーター?」
「……っ」
「どうしたのよ、急に」
「……なんでもない」
声が震えた。
「なんでも、ないんだ」
メイは少し驚いた顔をしたあと、優しく彼の背中を叩いた。
「変な子ねえ」
ピーターは目を閉じた。
温かかった。
夢でも、幻でもない。
確かに、そこにいた。
そのとき。
玄関のドアが開いた。
「おーい、ピーター! 今日は遅刻するなよ!」
低く、穏やかな男の声。
ピーターは振り返った。
買い物袋を抱えた男性が立っていた。
ベン・パーカー。
「……ベン、おじさん?」
「なんだ、その顔は。幽霊でも見たみたいじゃないか」
ピーターは何も言えなかった。
ベンおじさんが笑う。
「ほら、学校だろ? 早く支度しなさい」
学校。
その言葉で、ピーターは自分の姿を見下ろした。
小さな手。
細い腕。
鏡に映っていたのは、十五歳の自分だった。
「……嘘だろ」
机の上に置かれた新聞。
その日付は、彼の記憶より何年も前を示していた。
そして、新聞の片隅には小さな記事が載っていた。
『オズコープ社、遺伝子改良クモの研究成果を本日公開』
ピーターは息を呑んだ。
今日だ。
すべてが始まった、あの日。
彼がクモに噛まれる日。
彼がスパイダーマンになる日。
そして。
ベンおじさんを失う未来へと続く、最初の日。
「……やり直せるのか?」
思わず、そう呟いた。
今なら。
今なら、おじさんを救える。
メイおばさんも。
グウェンも。
トニーも。
失ってきた、すべての人たちを。
もう一度。
今度こそ。
その瞬間。
鏡の中のピーターが、笑った。
「――本当に?」
ピーターは凍りついた。
鏡の中の自分だけが、こちらを見ていた。
口元を歪めて。
まるで、何もかも知っているかのように。
「やあ、ピーター」
鏡の中の少年は、楽しそうに手を振った。
「二度目の人生へようこそ」
そして、こう続けた。
「でも、ひとつだけ忠告しておくよ」
鏡の向こうで、少年の顔がゆっくりと変わっていく。
赤いマスク。
大きな白いレンズ。
見慣れた、スパイダーマンの顔。
ただし。
そのスーツは真っ黒だった。
「今度の物語では――」
黒いスパイダーマンが笑った。
「君がヴィランなんだ」
これは、すべてを失ったピーター・パーカーが、すべてを取り戻すために戦う物語。
そして、彼がもう一度「スパイダーマン」になるまでの物語。