SPIDER-MAN 作:戦士
「今度の物語では――君がヴィランなんだ」
鏡の向こうで、黒いスパイダーマンが笑っていた。
ピーター・パーカーは、しばらくその言葉を理解できなかった。
「……何?」
「聞こえなかった? じゃあ、もう一度言おうか?」
黒いスパイダーマンは、わざとらしく両手を広げた。
「今回の悪役は、君だよ。ピーター・パーカー」
「……悪いけど、朝から冗談に付き合う気分じゃないんだ」
「へえ? そうなの?」
「それに、鏡と会話するのは初めてじゃない。ミステリオの幻覚、ストレンジの魔術、あと一度だけ期限切れの牛乳で――」
「ベン・パーカー」
その名前を聞いた瞬間。
ピーターの口が止まった。
「救いたいんだろ?」
黒いスパイダーマンは、静かに言った。
「ベンおじさんを」
「……」
「メイおばさんも。グウェンも。君が救えなかった人たちを、全員」
「お前……何者だ?」
「僕?」
黒いスパイダーマンは、自分の胸に手を当てた。
「ピーター・パーカー」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいないさ。君だって知ってるだろ? 僕らは一人じゃない」
その言葉に、ピーターは思い出した。
別の宇宙。
別の人生。
別のスパイダーマン。
彼はかつて、世界の壁を越えてきた二人のピーター・パーカーと出会っている。
ならば。
目の前のこいつも、その一人なのか?
「……別の世界の、僕?」
「正解。半分だけね」
「半分?」
「残りの半分は、自分で考えて」
黒いスパイダーマンが指を鳴らした。
パチン。
鏡に亀裂が走る。
「おっと。そろそろ時間だ」
「待て! まだ聞きたいことが――」
「ひとつだけ教えてあげる」
鏡の中の男は、笑うのをやめた。
「この世界で君が誰かを救えば、その代わりに誰かが死ぬ」
「……何だって?」
「運命は帳尻を合わせるんだよ、ピーター」
黒いスパイダーマンは、鏡の奥へと後退していく。
「さあ、選んで」
「待て!」
「君はもう一度、ベンおじさんを見殺しにできるかな?」
ガシャン!!
鏡が砕け散った。
「ピーター!?」
階下からメイの声が響く。
「今の音、何!?」
ピーターは割れた鏡を見つめた。
そこにはもう、誰もいなかった。
ただ、床に散らばった破片の一枚に。
小さな文字が刻まれていた。
『DAY 01 / 07』
「……七日?」
その文字は、瞬きをした瞬間に消えた。
午前八時二十二分。
ミッドタウン高校。
「ピーター!」
背後から聞き覚えのある声がした。
振り返ると、一人の少年がこちらに駆け寄ってきた。
少し丸い顔。
人懐っこい笑顔。
背中には、やけに大きなリュックサック。
「ネッド……?」
「何だよ、その顔! 昨日の宿題、やっぱり忘れた?」
ネッド・リーズ。
親友だった。
いや、今も親友なのかもしれない。
ただし、彼はもうピーターを覚えていないはずだった。
「……ネッド」
「ん?」
「僕のこと、知ってる?」
「は?」
「いや、その……僕らって友達?」
ネッドは数秒間、無言になった。
そして。
「お前、寝不足だろ?」
「……うん。たぶん」
「また徹夜で変なもの作ってたんだろ? だから言ったじゃん。三時までに寝ろって!」
そう言いながら、ネッドはピーターの肩を叩いた。
ピーターは笑った。
ほんの少しだけ。
「……そうだね」
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
あの世界では、ネッドは自分のことを忘れてしまった。
何度声をかけようとしても、結局できなかった。
彼には新しい人生があったから。
自分がいない方が、幸せになれると思ったから。
なのに。
今、ネッドは当たり前のように隣を歩いている。
「おーい、ピーター?」
「……何?」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「いや、泣いてるじゃん」
「これは……花粉症」
「十月だぞ?」
「ニューヨークの花粉は季節を選ばないんだ」
「科学オタクがそんな雑な説明するなよ!」
二人は笑った。
ピーターは、その何気ない時間を噛みしめた。
だが。
その幸せは、長く続かなかった。
「おはよう、負け犬コンビ」
聞き覚えのある声。
廊下の向こうから、金髪の少年が歩いてきた。
フラッシュ・トンプソン。
「おい、パーカー。今日の社会見学、また先生に媚び売るつもりか?」
「フラッシュ……」
「何だよ?」
ピーターは、しばらく彼を見つめた。
そして。
「……若いなあ」
「は?」
「いや、ごめん。懐かしくて」
「お前、マジで頭おかしくなったのか?」
フラッシュは気味悪そうに去っていった。
ネッドが肩をすくめる。
「今日のお前、変だぞ」
「そうかもね」
ピーターは微笑んだ。
そのときだった。
「ピーター?」
少女の声がした。
振り向く。
そこにいたのは。
「……MJ?」
ミシェル・ジョーンズ。
少し気だるげな表情。
片手に持った本。
相変わらず、周囲の人間をどこか冷めた目で見ている。
「何?」
「いや……」
ピーターは言葉を失った。
MJは怪訝そうに眉をひそめる。
「私の顔に何かついてる?」
「……ううん」
「じゃあ何?」
「会えて、嬉しいなって」
一瞬。
MJの動きが止まった。
「……キモ」
そう言って、彼女は立ち去った。
ネッドが吹き出した。
「ハハハ! お前、今の告白!?」
「違うよ!」
「いや、絶対そうだって!」
「違うってば!」
ピーターは慌てて否定した。
だが、心の中では笑っていた。
ああ。
間違いない。
ここは、僕の世界だ。
僕が失った、あの世界。
もう二度と戻れないと思っていた、あの日々だ。
そして今日。
僕は、クモに噛まれる。
午後一時四十分。
オズコープ研究施設。
「こちらが、我が社で研究中の遺伝子改良クモです」
研究員の説明が続いていた。
透明なガラスケース。
その中に並ぶ、色鮮やかなクモたち。
ピーターは、じっとケースを見つめていた。
覚えている。
この場所。
この匂い。
この光景。
そして、あのクモ。
かつての自分なら、興味本位で近づいていた。
そして噛まれた。
そこから、すべてが始まった。
だが。
今の自分には、すでに力がある。
試しに、手のひらを壁に当ててみた。
吸い付いた。
「……やっぱり」
力は残っている。
ならば、わざわざもう一度噛まれる必要はない。
ピーターはケースから離れた。
その瞬間。
――チリッ。
頭の奥に、小さな違和感が走った。
スパイダーセンス。
「……?」
振り返る。
ガラスケースの上を、一匹のクモが這っていた。
赤と青の模様。
あの日、自分を噛んだクモだ。
しかし、そのクモはピーターの方へ向かわなかった。
ゆっくりと。
別の生徒の肩へと移動していく。
「……待て」
その生徒は、ネッドだった。
「ネッド!」
「ん?」
「動くな!」
ピーターは反射的に手を伸ばした。
クモが跳ねる。
ネッドの首筋へ。
間に合わない。
そう思った瞬間、ピーターの指がクモを弾き飛ばした。
「うわっ!? 何!?」
「……虫だよ」
「虫!?」
「もう大丈夫」
ピーターは床に落ちたクモを見つめた。
クモは動かなかった。
踏み潰されたわけではない。
ただ、突然、灰のように崩れて消えた。
「……何だ?」
その瞬間。
ピーターの耳元で、あの声が囁いた。
『一人目』
「――っ!」
振り返る。
誰もいない。
『運命をひとつ、変えたね』
黒いスパイダーマンの声だった。
『さて、代わりは誰になるかな?』
ピーターの背筋に、冷たいものが走った。
「……まさか」
そのとき。
研究施設の非常ベルが鳴り響いた。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
『警告。第七研究区画で異常発生』
『職員および見学者は、直ちに避難してください』
研究員たちが騒ぎ始める。
「全員、出口へ!」
「走らないで!」
ピーターは周囲を見渡した。
ネッド。
MJ。
フラッシュ。
全員いる。
誰も怪我をしていない。
ならば。
「……誰が?」
ドンッ!!
建物全体が揺れた。
天井の照明が砕け散る。
人々の悲鳴。
そして、施設の奥から。
巨大な緑色の腕が、壁を突き破って現れた。
「……嘘だろ」
ピーターは、その姿を知っていた。
緑色の皮膚。
異常に発達した筋肉。
人間離れした巨大な体。
「リザード……?」
しかし、違った。
顔が違う。
手足の形も違う。
何より、その怪物には。
巨大なクモの脚が、背中から六本生えていた。
『被験体番号:P-001』
施設のスピーカーから、機械音声が響く。
『遺伝子適合実験、失敗』
『対象の生命活動、制御不能』
怪物が咆哮した。
「グオオオオオオオオッ!!」
そして。
その怪物の胸元に、見覚えのある社員証がぶら下がっていた。
ピーターは目を見開く。
そこに書かれていた名前。
リチャード・パーカー。
「……父さん?」
ピーターの父、リチャード・パーカー。
彼は幼い頃に亡くなった。
母とともに、飛行機事故で。
そう聞かされていた。
だから、あり得ない。
目の前にいる怪物が、父親のはずがない。
「……そんなわけ、ないだろ」
怪物は、ゆっくりとピーターを見た。
その瞳は、奇妙なほど人間らしかった。
「……ピ……ター……」
声がした。
確かに。
怪物の口から。
「……ピー……ター……」
ピーターは動けなかった。
「……父さん?」
怪物の巨大な腕が伸びる。
その手は、ピーターを掴もうとしていた。
だが。
「ピーター!!」
横からネッドが飛び込んできた。
ピーターを突き飛ばす。
次の瞬間。
怪物の爪が、ネッドの胸を貫いた。
「――え?」
時間が止まった。
ネッドの身体が、ゆっくりと宙に浮く。
赤い血が、床に落ちる。
一滴。
二滴。
三滴。
「……ネッド?」
返事はない。
「おい……」
怪物が腕を振った。
ネッドの身体が、壁に叩きつけられる。
鈍い音がした。
「……ネッド?」
ピーターは駆け寄った。
ネッドの身体を抱き起こす。
「おい、ネッド」
返事はない。
「冗談だろ?」
ピーターは笑おうとした。
「ほら、いつものやつだろ? びっくりさせようとして……」
ネッドの目は、開いたままだった。
「……やめろよ」
手が震える。
「頼むよ……」
何度も呼びかけた。
何度も肩を揺すった。
しかし。
親友は、二度と目を覚まさなかった。
「……なんで」
ピーターは呟いた。
「なんでだよ……」
そのとき。
耳元で、声がした。
『言っただろ?』
黒いスパイダーマン。
『誰かを救えば、誰かが死ぬ』
「……お前」
『本来、ネッドはクモに噛まれるはずだった』
「……何?」
『君が歴史に干渉したせいで、運命が修正されたんだ』
「ふざけるな……」
『彼は死ぬ予定じゃなかった。でも君が救ったから――』
「黙れ!!」
ピーターの叫びが、施設中に響いた。
その瞬間。
彼の身体から、凄まじい衝撃波が放たれた。
ガラスが砕ける。
壁が崩れる。
怪物が吹き飛ぶ。
ピーターは、ネッドを抱きしめたまま叫んだ。
「僕は……!」
呼吸が荒くなる。
「僕は、ただ……!」
助けたかっただけだ。
もう一度、みんなに会いたかった。
もう誰も失いたくなかった。
それだけなのに。
「……どうして」
涙が、マスクのない頬を伝った。
「どうして、また……」
そのとき。
背後から声がした。
「ピーター」
振り返る。
そこに立っていたのは。
黒いスパイダーマンだった。
鏡の中ではない。
現実の世界に。
「……お前」
ピーターは、ゆっくりと立ち上がった。
「お前が……やったのか?」
黒いスパイダーマンは答えない。
ただ、静かにネッドを見下ろした。
「……かわいそうに」
「答えろ!!」
ピーターが飛びかかる。
拳を振り抜く。
だが。
黒いスパイダーマンは、その拳を片手で受け止めた。
「……っ!?」
「怒る相手を間違えてるよ」
「何だと……?」
「僕は何もしてない」
黒いスパイダーマンは、ピーターの腕を捻り上げた。
「選んだのは君だ」
「……!」
「君がクモを止めた」
「……」
「君が運命を変えた」
「……黙れ」
「そして、君がネッドを殺した」
「黙れえええええええ!!」
ピーターは、もう片方の拳を振り上げた。
しかし。
その拳も、止められた。
黒いスパイダーマンが、静かに言う。
「まだわからないのか?」
「……何が」
「この世界に必要なのは、君じゃない」
黒いスパイダーマンは、ゆっくりと顔を近づけた。
「君がいなくなることなんだよ」
そして。
ピーターの胸に、拳を叩き込んだ。
ドゴォッ!!
ピーターの身体が吹き飛ぶ。
壁を突き破り、施設の外へ。
空中を舞い。
地面へ叩きつけられた。
「がはっ……!」
呼吸ができない。
視界が霞む。
骨が折れている。
それでも、ピーターは立ち上がろうとした。
「……ネッド」
戻らなければ。
まだ、何かできるかもしれない。
心臓マッサージ。
人工呼吸。
病院へ運べば。
まだ。
まだ、間に合うかもしれない。
「……ネッド……!」
しかし、身体が動かなかった。
そして。
目の前に、黒いスパイダーマンが降り立った。
「さて」
彼は、手首の装置を操作した。
空中に、青白い文字が浮かび上がる。
DAY 01 / 07
その下に、新たな表示が現れた。
CASUALTY:NED LEEDS
「一日目、終了」
黒いスパイダーマンは、そう告げた。
「あと六日」
「……何を、する気だ」
「簡単な話さ」
彼は、ピーターを見下ろした。
「君に選んでもらう」
「……何を」
「誰を生かして、誰を殺すか」
「……っ」
「七日間。君には七回、選択の機会が与えられる」
黒いスパイダーマンは、指を一本立てた。
「ただし、七日目が終わるまでに答えを出せなければ――」
彼は空を見上げた。
そこには、あの亀裂があった。
無数の世界。
無数のニューヨーク。
無数のスパイダーマン。
「すべての世界が消える」
ピーターは、呆然と空を見上げた。
「……なんで、僕なんだ」
黒いスパイダーマンは、しばらく黙っていた。
そして。
初めて、寂しそうに笑った。
「……僕も、そう聞いたよ」
「……え?」
「最初の世界でね」
その言葉を最後に。
世界が白く染まった。
4 二日目
「ピーター! 朝ごはんよ!」
声が聞こえた。
目を開ける。
見慣れた天井。
机の上の古いパソコン。
壁に貼られた科学雑誌。
ピーターは、ゆっくりと身体を起こした。
「……また?」
時計を見る。
午前七時。
日付は、昨日と同じだった。
「……まさか」
慌てて階段を駆け下りる。
キッチンには、メイおばさんがいた。
そして、玄関から。
「おーい、ピーター! 今日は遅刻するなよ!」
ベンおじさんが入ってきた。
昨日と同じ言葉。
昨日と同じ笑顔。
ピーターは震えた。
「……戻った?」
すぐに携帯電話を取り出す。
ネッドに電話をかける。
数回の呼び出し音。
そして。
『もしもし?』
「……ネッド?」
『何だよ、ピーター。こんな朝早くに』
生きている。
ネッドが。
「……ネッド」
『おい、どうした?』
「……なんでもない」
涙が溢れた。
「なんでもないんだ……!」
『お前、また変な夢でも見たのか?』
「……うん」
ピーターは笑った。
「最悪の夢だったよ」
通話を終える。
そして、ゆっくりと拳を握った。
やり直せる。
何度でも。
ならば。
次こそは。
誰も死なせない。
そう決意した、そのとき。
携帯電話の画面が突然、真っ黒になった。
そこに白い文字が浮かび上がる。
DAY 02 / 07
続いて、メッセージが表示された。
『本日の死亡予定者:ベン・パーカー』
ピーターの呼吸が止まった。
そして、最後の一文。
『救済可能。ただし、代償はメイ・パーカーの生命』
「……ふざけるな」
ピーターは、携帯電話を握りしめた。
「そんな選択……」
窓の外。
向かいの家の屋根に、黒い人影が立っていた。
黒いスパイダーマン。
彼は、こちらに向かって小さく手を振った。
ピーターは睨みつけた。
「……選ばない」
そして、静かに言った。
「僕は、どっちも救う」
黒いスパイダーマンは、しばらく動かなかった。
やがて。
ゆっくりと、拍手をした。
パチ。
パチ。
パチ。
その声が、ピーターの頭の中に響く。
『そうだよ』
『それでこそ、スパイダーマンだ』
そして。
『――かつての僕と、まったく同じだ』
黒いスパイダーマンの胸に、奇妙な紋章が浮かび上がった。
赤い砂時計。
その中心に描かれた、八本脚のクモ。
ピーターは、まだ知らなかった。
この七日間が、初めて繰り返されるものではないことを。
そして。
黒いスパイダーマンの正体が、別の宇宙のピーター・パーカーなどではないことを。
彼は。
七日目を、すでに迎えてしまったピーター・パーカーだった。