目を覚ましたとき、仰向けで寝ていた。
それが最初は分からなかった。
天井が正面にある。枕の下へ肩が沈んでいる。身体を横へずらそうとして、背中の痛みで止まった。
手術のあとだった。
動かない翼をかばうために、寝返りの角度を何度も直した。その癖だけが残っている。
ホークスは布団の上で右手を開いた。
羽を呼ぶ。
来ない。
やってから、またか、と思った。
最初の一週間は、戻ったかどうか確かめていた。二週間目には、確かめる回数を減らした。三週間目になっても、考えるより先に個性を使おうとすることだけは、止まらなかった。
四週間が過ぎた。
薬で傷ついた個性の働きは戻っていない。
落下で損傷した翼は治療を受けたが、保てなかった部分があった。数度の手術で取り除かれ、背中の輪郭はすっかり変わった。
医師の説明は覚えている。
同意したことも、署名した場所も。
そのときには、自分で決めたと思えた。
朝になるたび、もう一度、決め直さなければならない気がした。
*
退院前の打ち合わせに、事務所から服が届いた。
背中の開いたものではない。
普通のシャツだった。
ホークスはそれを広げ、裾を膝へ下ろした。
「先にサイズだけ確認してもらえれば。合わないところは直します」
事務員が言った。
彼女は、いつも衣装や取材の調整をしている人だった。今日も、必要な仕事を持ってきている。
ホークスは頷いた。
「ありがとうございます。これ、色いいですね」
「ええ」
返事のあと、彼女は荷物の中を確認した。視線を外す用事を、自分で作ったように見えた。
それがありがたくも、少し腹立たしくもあった。
何も間違っていない相手に腹を立てるのは、疲れる。
ホークスはシャツを畳んだ。
「取材、まだ待ってもらってます?」
「全部止めています」
「子供向けのやつだけ、返事できないかな。飛んでる映像なら、前の記録もあるでしょう」
事務員の手が止まった。
「無理をしなくても」
「無理なら、そう言います。今は、できる方の話してるんで」
少し強くなった。
ホークスは一度、息を吐いた。
「……すみません。日程は、退院してから決めましょう」
「分かりました」
彼女は普段の声で答え、予定表へ書き込んだ。
その対応に、助けられた。
*
捜査の資料は、病室にも届いた。
死穢八斎會から押収した薬には、作用の異なるものが混在していた。ホークスに使用された弾丸は、長く個性を失わせるよう調整されたものと判断された。
回復薬についても、研究は行われていた。
ただし、完成した薬は押収されていない。
見つかったのは試験の記録と、途中で止まった工程だった。
壊理の個性で元へ戻せる可能性も検討されたが、本人には、どこまで何を戻しているのかを制御する手段がなかった。
その説明を聞いたとき、ホークスは一つだけ確認した。
「俺のために練習させる、とかは、やめてくださいね」
医師は、それは予定していないと答えた。
少女が安全に個性と付き合えるようにすることと、彼を治すことは、分けて考える。
ホークスは礼を言った。
望みが一つ遠ざかって、ほっとした。
その両方が同時にあった。
壊理からは、絵が届いた。
紙の中央に、小さな白い頭と、大きな赤い翼が描かれている。文字はミリオに手伝ってもらったらしい。
ありがとう。
ホークスはしばらく見てから、折れないように机の引き出しへ入れた。
返事は書いた。
絵の翼については、何も書かなかった。
*
八斎會のあとも、情報は来た。
違法な個性取引。失踪者を働かせていた工場。輸送会社の名義を使った武器の搬入。
窓口は、あの弁護士だった。
公安は情報を検証し、使えるものを使った。二つの現場から被害者が救出され、三つ目では取引の前に武器を押さえた。
その報告を読んだ日、ホークスは担当者へ聞いた。
「代わりに、どこが儲かりました?」
担当者は驚かなかった。
「潰れた運送経路の荷を引き受けた会社がある。資本関係を調べている」
「そっちの会社は、何を運んでるんです?」
「今のところ、申告どおりの荷物だ」
ホークスは次の頁へ進んだ。
捕まった仲介人の取引先一覧がある。そこから、以前に保護した家族の父親が勤めていた会社へ線が引かれていた。
あの父親は、結局、公安が紹介した別の職に就いたという。
娘は学校へ通い始めた。
それは、よかった。
同じ資料の別の頁には、情報提供者側と関係する会社へ移った元従業員の数が載っていた。
犯罪を止めるたびに、人と金が、違うところへ流れる。
その行き先を追う仕事は、現場で人を救う仕事より遅かった。
「ここ、俺にも回してください。名義の変わり方に見覚えがある」
ホークスは一行を指した。
担当者が頷く。
飛べなくても、できることはある。
それを誰かに言われる前に、自分で見つけておきたかった。
*
玻璃からの面会希望は、正式な窓口を通って届いた。
治療に関係する情報を持っている。
本人はそう申告している、と担当者は言った。
「断ることもできます」
「内容を先に聞いて、必要なら会います」
以前なら、その一手間を省いていた。
話せば分かる。顔を見れば、何をしたいかくらいは分かる。
今は、そう思わなかった。
届いた資料には、八斎會で薬の製造に関わった者の記憶を閲覧したという記載があった。そこから採取した情報のうち、回復薬に関する部分を提供する。
直接接触は不要。
ホークスは最後の一文を二度読んだ。
玻璃が付け加えるよう求めた文だという。
「誰がその人を連れてきたかも、聞きますよ」
「もちろんです」
「じゃあ、会います」
面会は、退院の二日前に決まった。
*
玻璃は、机の向こうにいた。
隔てるための透明な板がある。声は通る。手は届かない。
彼女はその縁を一度眺め、指で軽く叩いた。
「これ、ガラスじゃない」
「そうだね」
ホークスが座ると、玻璃の目が彼の肩へ移った。
それから、背中の方へ。
翼のあった場所を、見ている。
普通のシャツを着ている。背中に空間が要らないので、椅子も普段のものだった。
玻璃の唇が少し開いた。
「……本当に、なくなったんだ」
ホークスは机に資料を置いた。
「全部切り取ったわけじゃないけどね。飛べる形では、もうない」
「痛い?」
「まだ少し」
「そっか」
玻璃が膝の上へ目を落とした。
ホークスは、次に来る言葉を待った。
可哀想だと言われるのは嫌だった。
戻るといいね、と言われても、今は困る。
何も言われなければ、それはそれで腹が立つのかもしれない。
自分でも、扱いにくいと思った。
玻璃が顔を上げた。
「でも、啓悟だね」
「何が」
「羽なくても、啓悟だった」
彼女は、少しだけ笑った。
安心したような顔だった。
その顔に、ホークスは返事を忘れた。
「あってもなくても一緒、って言いたい?」
玻璃の笑みが止まった。
「そうじゃなくて」
「俺は、なくなったの嫌なんだよ」
自分でも驚くほど、すぐに出た。
横にいた職員が、顔を動かした。
ホークスは玻璃を見ていた。
「仕事の話だけじゃなくて。普通に、飛べなくなったのが嫌だ」
玻璃は黙った。
「羽でできてたことが、何にもできない。起きるたび、戻ってないか試す。もう戻らないかもしれないって説明されても、やる」
言うつもりのなかったことまで出てきた。
やめればいい。
そう思うのに、口が止まらなかった。
「君には、なくてもよかったのかもしれんけど。俺は、よくない」
玻璃の指が、膝の上で握られた。
怒るかと思った。
そんな意味で言ってない、と言い返すかと思った。
彼女は、少し俯いた。
「……うん」
それだけだった。
ホークスは息を吐き、資料を開いた。
「持ってきた話、聞かせて」
*
玻璃の説明は、具体的だった。
研究者がどの工程を担当していたか。
回復薬と呼んでいたものが、どの段階まで作られていたか。
完成を示す記憶は見つからなかったこと。
聞かれたことには答えた。
誰の指示で閲覧したか、と尋ねられると、先生、と言った。
研究者の所在は言わなかった。
先生がどこまで情報を持っているかも、答えなかった。
その態度を見ていると、少しだけ落ち着いた。
変わっていない。
役立つことを持ってきたからといって、こちらの側へ来たわけではない。
「薬ができるって、約束しに来たんじゃないんだ」
「うん。まだ分かんない」
「なら、その言い方でいい。医師に確認してもらいます」
玻璃は頷いた。
机の上に、彼女の手が出た。
手袋はつけていなかった。
ホークスは反射的に、その指を見た。
玻璃も気づいた。
手が引っ込む。
「触らないよ」
「……分かってる」
板がある。
こちらが勝手に身構えただけだ。
玻璃はもう一度、彼の肩を見た。
今度は、長く見なかった。
「ちゃんと、寝てる?」
「寝てるよ」
「嘘じゃなくて?」
ホークスは少し笑った。
「それ、君が聞く?」
玻璃は笑わなかった。
彼女なら、眠る前に何を考えたかまで知れる。
それを知っている者同士の間に、透明な板が立っていた。
面会時間が終わると、玻璃は先に席を立った。
「また、分かったら持ってくる」
ホークスは、礼を言った。
彼女は扉の前で一度振り向き、何も言わずに出ていった。
*
帰ってきた玻璃は、しばらく棚の前に立っていた。
瓶の中の羽を見る。
赤い。
細いところまで、ちゃんとある。
あれを返したらいいのではないかと、ほんの一瞬だけ思った。
すぐに違うと分かった。
瓶から出して渡したところで、啓悟は飛べない。
彼女は椅子へ座った。
今日の啓悟は、笑うのが少し遅かった。
服を着ているだけなのに、背中が寂しかった。
その姿を見たとき、胸の奥が熱くなった。
羽がない。
どこへも、すぐには飛んでいかない。
誰かが助けを求めたとき、話の途中で自分を置いて出ていくことも、今はできない。
そう思って、嬉しくなった。
それを、啓悟に見られた気がした。
玻璃は両手で顔を覆った。
違う。
違わない。
嬉しかった。でも、痛そうなのが嬉しかったわけではない。眠れていない顔をしてほしかったわけでもない。
啓悟が嫌だと言った。
なくなったのが嫌だと。
それなのに、自分は、近くなったような気がしていた。
「玻璃さん」
黒霧の声がした。
顔を上げる。
「先生がお呼びです」
いつもなら、黒霧が隣に来れば、立っている場所を変えさせたり、ついでの頼み事をしたりした。
今日は、頷くだけだった。
「行く」
立ち上がりかけて、机の端に手をついた。
分かってしまった。
羽がなくてもいいのは、ガラスの瓶だけではなかった。
*
先生は、面会の報告を求めた。
玻璃は、手を差し出しかけて止めた。
見せた方が早い。
いつもそうしていた。
でも、今日の啓悟の声を、先生にそのまま見せるのが嫌だった。
「薬の話は、聞いてくれたよ」
口で言う。
先生は少し間を置き、頷いた。
「治療を諦めてはいないんだね」
「うん」
「それなら、彼にも協力してもらえることがある」
玻璃は顔を上げた。
先生の前には、薬の研究に関する資料があった。
元になった個性。
採取した組織。
治療に使うために、さらに必要な確認。
「少女の個性について、こちらでも詳しく調べたい。今ある記録だけでは足りないからね」
「捕まえるの?」
「協力してもらう方法は、いくつかある」
先生は穏やかに言った。
「ホークスが働きかけてくれれば、話は早い。彼自身の治療にも役立つかもしれない」
「啓悟、嫌がるよ」
「なぜ?」
玻璃は唇を噛んだ。
記憶を読まなくても分かる。
あの子のことを話すときの声も、報告書の書き方も、子供だった頃の啓悟も知っている。
「嫌がる」
先生は否定しなかった。
「なら、彼が受け入れやすくなるよう、君に手伝ってもらいたい」
玻璃は黙った。
「救出した日の記憶には、強い感情が伴っているだろう。少女の姿や、連れ出したときのやり取り。そこを、少し取り除くことはできるかな」
玻璃は先生を見た。
言われたことは分かった。
何を抜けばいいかも、考えれば分かる。
会った日の記憶だけを消しても、少女の存在を忘れるわけではない。報告書も、周囲の説明も残る。
でも、自分の腕で抱えて、外へ出したことはなくなる。
「そのあとの判断まで、こちらで作れるわけではないよ。ただ、落ち着いて自分の治療を選びやすくなる」
「嫌」
先生の言葉が止まった。
玻璃は、両手を膝へ押しつけた。
「それ、やりたくない」
「彼が失ったものを、取り戻すためでも?」
「違うじゃん」
声が大きくなった。
先生に向かって、そんなふうに返したことはなかった。
玻璃は自分でも驚いたが、引っ込めなかった。
「羽がなくなったの嫌だって言ってた。なのに、また啓悟のもの取るの?」
「君は、黒霧を守るためにはそうした」
胸の奥が、かっと熱くなった。
「黒霧のは違う」
「どう違うのかな」
「違うから」
説明できなかった。
白雲の記憶は、黒霧にあってほしくなかった。だから捨てた。
啓悟の記憶は、啓悟に持っていてほしかった。
自分を嫌っているところも。
もう触らせたくないと思っているところも。
それを取り除いて、前のように手を出してくれるようになったとしても、嫌だった。
「それやるなら、先生が自分でやって」
玻璃は言った。
「個性が要るなら、持ってって。私にはやらせないで」
先生は動かなかった。
玻璃も、目を逸らさなかった。
怖くなかったわけではない。
本当に奪われたら、ガラス玉を作れなくなる。
人の記憶を見ても、綺麗な形で残せなくなる。
それでも、嫌だった。
長い沈黙のあと、先生が口を開いた。
「彼が、君を嫌ったままでも?」
玻璃の指が震えた。
見れば、すぐに確かめられるはずだった。
今日だって、板がなければ。
考えただけで、胸が詰まった。
「……それでも」
先生は椅子へ深く座り直した。
「分かった。今日は、その話はやめよう」
玻璃は動かなかった。
許されたのか、先送りにされただけなのか、分からない。
「ただ、材料が足りないことは変わらない。薬を完成させると約束することもできないよ」
「うん」
「彼にも、期待させすぎないように」
玻璃は頷いた。
先生のところを出てから、廊下で足を止めた。
個性は、まだあった。
自分の指へ触れ、今日見た啓悟の姿を思い出す。
ガラス玉にはしなかった。
忘れたくなかった。
*
翌日、追加の資料が届いた。
玻璃からだった。
職員が同席したうえで、彼女が研究者の記憶から読み取った内容を口述し、記録したものだった。回復薬の試験で失敗した条件も、前日より詳しく書かれている。
最後に、短い伝言があった。
『まだ治せるって決まったわけじゃない。でも、調べる。勝手に触らない』
ホークスは、その一行を読み直した。
信じていいとは、まだ思わなかった。
彼女が何をしたかは消えない。
これから何をするかも、この一行だけでは分からない。
それでも、昨日、手を引っ込めたところを思い出した。
「返事、どうしますか」
職員に聞かれた。
ホークスは少し考えた。
「資料は医師に渡した、と。……あと、了解したって」
「それだけで?」
「はい」
職員が出ていくと、ホークスはベッドから立った。
歩く練習の時間だった。
窓のそばを通る。
空は晴れていた。
見上げれば、風の向きはまだ分かる。雲の流れや、木の枝の揺れ。そんなもので推測しなくても、前は身体で知っていた。
ホークスは窓枠へ手を置いた。
しばらく、そのまま立っていた。
それから手を離し、廊下へ出た。