三度目の移動先にも、黒い霧が現れた。
扉の前ではなかった。
緑谷がいた部屋の、天井近く。
監視映像には、黒い染みのようなものが数秒だけ映っていた。相澤が顔を上げた時には、既に閉じている。
ホークスは映像を止めた。
部屋の割り当てを決めたのは、緑谷が建物へ到着したあとだった。使用する棟は複数用意し、現場で選ばせた。警護の連絡経路も、前の二回とは分けている。
それでも、来た。
「居場所が漏れてるんじゃない」
ホークスは呟いた。
担当者が顔を上げる。
「居場所を変えても、本人が見えてるんだ」
*
ラグドールは、すぐに来てくれた。
個性は戻っている。
その確認を、彼女自身が何度もしていた。
「緑谷君は、今も分かります?」
「分かるよ。合宿のときに見てるから」
「返してもらったあと、もう一度会い直さなくても?」
「うん。覚えてる対象は、そのまま」
ホークスは、研究施設から押収した記録を開いた。
同じ個性名に、複数の管理番号が付いている。
当初は、試料の採取番号か、保管先の区別かと思われていた。だが、それぞれ別の検体への移植記録がある。単に同じものを移動したという順序にはなっていなかった。
「個性を、複製している可能性があります」
ラグドールの顔が止まった。
「私のも?」
「まだ断定はできません。でも、あいつはあなたに返した。自分の手元からなくした、とは言ってない」
彼女が、自分の手を見た。
戻ったものが、また汚されたような顔だった。
ホークスは先に言った。
「返してもらったのが間違いだった、って話じゃありません」
ラグドールは顔を上げた。
「戻ってなかったら、今も向こうだけが使ってた。あなたの個性は、あなたのものです」
彼女はゆっくり頷いた。
「じゃあ、こっちも追える」
「はい」
ホークスは緑谷の位置を示した図を出した。
「もし連れていかれても、探せる。そのために、力を貸してください」
ラグドールは椅子を引き寄せた。
「連れていかれる前にも、できることがあるよ。あの子の周りにいる、私が知ってる人たち。位置が急に変わったら、すぐ言う」
ホークスは頷いた。
返したことまで、失敗にしない。
相手が残したものを、こちらでも使う。
*
緑谷の警護は、隠すことを中心にしたものから変わった。
居場所を知られても防ぐ。
周囲に生徒や一般人のいない訓練施設を使い、警護の人数と配置を見直した。移動させ続ければ、そのたびに車と道路を危険に晒すことになる。
オールマイトは、緑谷と同じ棟に残ると言った。
相澤もいた。
外周には警察とヒーロー。指揮所は離した。ホークスはラグドールと一緒に、映像と無線を見ていた。
机の下で、足を組み替える。
長く同じ姿勢でいると、まだ背中が痛んだ。
『ホークスさん』
緑谷から連絡が入った。
『移動、終わりました』
「確認してます。今日は、そちらで待機してください」
『はい』
返事のあと、少し間があった。
『僕のせいで、皆さんが動けなくなるのは』
「そうならないように、人を割り振る仕事もしてます」
ホークスは画面の配置図を見た。
「君が勝手に動くと、そっちの仕事が増えるんで。今は待っててくれた方が助かります」
『……分かりました』
「何か欲しいものがあったら言って。飯とか、教材とか」
『ノートが、もう一冊あると』
「了解」
通信を切ると、ラグドールが小さく笑った。
「勉強するんだ」
「するでしょうね、あの子は」
ホークスは補給品の欄に、ノートと書いた。
その横に、ペンも足した。
*
襲撃は、日暮れ前に始まった。
最初の変化は、警報より早かった。
「相澤君が動いた」
ラグドールが言った。
「違う。飛んだ。別の棟にいる!」
ホークスは映像を切り替えた。
緑谷のいる部屋に、白い光が残っていた。閃光。黒い霧。覆いかぶさるように立ったオールマイトの背中。
相澤は、隣棟の廊下に投げ出されていた。
『敵襲! 複数のゲート!』
ホークスは手元の回線を開いた。
「第二班、相澤さんの経路を確保。窓の外へ出さないで、建物内で戻して!」
相澤は起き上がっていた。
捕縛布が手すりへ巻きつく。身体が引かれ、階段を二段飛ばしで降りる。
目を閉じさせ、その一瞬に、遠ざけた。
黒霧が狙ったのは、まずそこだった。
主棟の壁が震えた。
オールマイトが、霧の向こうへ拳を突き入れていた。
画面が白く飛ぶ。
音が遅れて割れた。
映像が戻ったとき、入口の壁がなくなっていた。外に、顔を器具で覆った男が立っている。
オール・フォー・ワン。
避けていた衝突を、今度は自分から起こしに来た。
『少年を奥へ!』
オールマイトが叫んだ。
緑谷は後方へ走った。警護のヒーローがその前へ出る。
黒い霧が、床に開いた。
小さい。
足を呑み込むほどではなかった。
緑谷が跳ねるように身を引く。脚の裾に、何かが刺さっていた。
彼の身体を走っていた光が、途切れた。
ホークスは椅子を倒しかけた。
「接触させないで! 薬です!」
別の霧が、緑谷の腰の高さへ開いた。
警護の男が腕を掴む。
男はそのまま少年を引き戻そうとした。
そこへ、もう一つ、黒い面が滑り込んだ。
警護の男だけが、廊下の端に開いた出口から転がり出る。
緑谷が、向こう側から腕を伸ばした。
指が、映像の中で一瞬見えた。
それから、消えた。
*
「位置!」
ホークスが言った。
ラグドールは目を閉じていた。
「遠い。南西。海の方、建物の中」
担当者が地図を広げる。
ラグドールが画面を指した。
「ここ。動いてない」
物流用の埋立地。
古い冷蔵倉庫が並ぶ区画だった。
ホークスは現地の警察へ連絡した。航空隊、近隣のヒーロー、既に待機させていた車両。順に動かす。
一つずつの指示を、言い切る。
同時には喋れない。
以前なら、喋りながら羽を飛ばせた。
今は、電話が繋がる音を待たなければならなかった。
「最寄り、到着まで」
『八分』
「了解。入口を押さえたら、必ずこちらへ」
八分。
長い。
長いが、距離は縮まらない。
訓練施設では、オールマイトが戦っていた。
相澤を戻す経路を、黒霧が塞いでいる。オール・フォー・ワンは、戻ってくるヒーローをまとめて吹き飛ばそうとした。
オールマイトが、前へ出た。
衝撃を受ける。
後ろにいた二人は、転ばずに済んだ。
次の瞬間、オールマイトの拳が男の顔へ届いた。
器具の一部が砕ける。
ホークスは息を止めた。
倒せる。
そう思った。
だが、崩れた男の身体を、黒い霧が受け止めた。
『待て!』
オールマイトが踏み込む。
その足元で、建物の支柱が折れた。
上階にいた警護員の声が、無線へ飛び込んできた。
オールマイトの顔が上を向く。
追うために伸ばした腕が、落ちる梁を受け止めた。
霧は閉じた。
ホークスは、救助の班へ回線を切り替えた。
*
玻璃は、運び込まれた少年の手首を押さえた。
先生に言われたからだった。
夢の中に人影を見たことがあるかもしれない、と聞いていた。そうした記憶があれば探すように、と。
表面にあるのは、さっきの部屋だった。
光。
黒い霧。
誰かの大きな背中。
力を出そうとして、出なかった感覚。
玻璃は、少し顔をしかめた。
あの日の啓悟も、こうだったのだろうか。
手を離したくなったが、先生がそばへ来た。
「見えたかい」
「今、起きたことばっかり。怖がってる」
緑谷は、目を開けていた。
身体を起こそうとする。拘束された腕が動く。
「触るな」
玻璃は彼を見た。
「夢のことを聞きたいだけ」
「嫌だ」
「玻璃、急がなくていい」
先生が言った。
「今は、彼の状態を確かめよう」
玻璃は手を離した。
先生が代わりに、少年の腕へ触れた。
緑谷の肩が強く跳ねる。
「渡さない」
声が震えていた。
でも、はっきり言った。
「僕のものだけじゃ、ないんだ」
先生の手が止まった。
しばらく、そのままだった。
何も起きていないように見えた。
隣の機械を見ていたドクターが、低い声で何かを告げた。薬の作用が、まだ十分ではない。
先生は指を離さなかった。
緑谷は目を閉じ、歯を食いしばっていた。
玻璃には、その奥に何があるのか見えない。
本人が覚えている夢なら読める。今、誰かの声を聞いているなら、その体験も拾えるかもしれない。
だが、個性の中にいるという誰かを、直接取り出すことはできなかった。
ドクターが機械を操作した。
「これ以上は、因子そのものを傷める」
「その手前でいい」
先生が答えた。
緑谷が息を吸った。
起き上がろうとしていた身体が、急に沈む。
眠ったのではない。
目は開いていた。
「……待って」
誰に言ったのか、玻璃には分からなかった。
先生の腕へ、太い筋が浮いた。
袖が裂ける。
何かを握り潰すように指が曲がり、その手から、薄い光が広がった。
寝台の金属が鳴った。
ドクターが声を上げた。
先生は、緑谷の腕を離した。
肩で、一度だけ大きく息をする。
身体が軋むような音がして、それから、ゆっくりと背筋が伸びた。
緑谷が自分の手を見た。
指を動かす。
何度も。
玻璃は、その動きを知っていた。
*
「動いた」
ラグドールが言った。
ホークスは地図を見た。
「どちらへ」
「違う、また飛んだ。近い。ここから東、病院の前」
ホークスは担当者を見た。
その病院は、救出後の受け入れ先として確保していた場所だった。
車両が向かう。
病院の監視映像が、指揮所へ繋がった。
救急入口の脇に、緑谷がいた。
座らされている。
隣に黒霧が立ち、職員が出てくると、数歩下がった。
ホークスは音声回線を開かせた。
「本人から離れろ」
黒霧が、カメラの方を向いた。
「治療に必要な情報を、お渡しします」
床へ、書類の入った袋を置く。
緑谷は顔を上げなかった。
医療スタッフが近づく。警察官がその間へ入り、黒霧に止まるよう命じた。
黒霧は、それ以上近づかなかった。
「薬の作用は、時間とともに低下します。ただし、個性の回復はありません」
ホークスは、机に置いた手へ力を入れた。
「何をした」
黒霧は答えなかった。
霧が、彼の姿を隠した。
職員が緑谷の前へ膝をつく。
少年は自分の手を見たまま、何か言った。
マイクには拾えなかった。
ホークスは指揮を隣の職員へ引き継ぎ、病院へ向かう車を呼んだ。
走り出してから、背中が痛むことを思い出した。
止まらなかった。
*
病院で、緑谷は同じことを繰り返した。
渡していない。
自分は、渡そうと思っていない。
医師は頷きながら診察した。
ホークスが入ったときにも、少年はその説明をしていた。
「聞いてます」
ホークスは椅子を引いた。
「君が差し出したとは、誰も思ってない」
緑谷の口が止まった。
「薬が、まだ効いているだけかもしれません」
「検査してます」
「だから、まだ」
その先が続かなかった。
ホークスは黙っていた。
今すぐ大丈夫だと言えば、嘘になる。
なくなったのだと決めつければ、それも、まだ自分の知っている範囲を越える。
緑谷の指が、シーツを掴んだ。
「声が、しなくなった」
ホークスは顔を上げた。
「最後、何か、言ってたと思うんです。皆、止めようとしてて。でも、急に」
少年は唇を噛んだ。
「静かになって」
ホークスは、自分の肩から音が消えた瞬間を思い出した。
あれとは違う。
この少年が失ったものを、自分の知っている痛みに当てはめてはいけない。
それでも、次の一言は聞けた。
「そのあとも、君の意識はあった?」
緑谷は頷いた。
「嫌だと思ってた?」
「ずっと」
ホークスは記録担当へ目を向けた。
書いてもらう。
本人の意思は失われていなかった。
個性の働きが、その意思を守れなくなった。
まだ仮説だった。
だが、少年が弱かったから奪われたという説明を、残してはいけなかった。
*
オールマイトが運ばれてきたのは、それから一時間後だった。
自分の足で歩いていた。
だが、支える者が隣に二人いた。
痩せた身体には、もうあの姿へ戻る余力がなかった。
訓練施設で、最後まで梁を支えた。
閉じ込められた警護員が出るのを待ち、崩れる床から人を運んだ。
その報告を聞きながら、ホークスは廊下で待った。
「少年は」
オールマイトが尋ねた。
「命に別状はありません。今、検査を続けています」
彼は目を閉じた。
安堵した顔だった。
それから、ホークスを見る。
「個性は」
「まだ戻っていません」
オールマイトの喉が動いた。
壁に手をつく。
ホークスは手を出しかけ、止めた。隣の医療スタッフが、すぐに椅子を寄せた。
「会えますか」
オールマイトは聞いた。
誰かに許可を求める声だった。
「本人に確認します」
ホークスは答えた。
緑谷は、会いたいと言った。
扉を開けると、少年がベッドの上で身体を起こした。
オールマイトは、その前へ歩いた。
どちらも、すぐには話さなかった。
ホークスは外へ出て、扉を閉めた。
*
オール・フォー・ワンから連絡が来たのは、その夜だった。
あの弁護士を通してではなかった。
確保された研究所の端末へ、通信が入った。警察が記録し、ホークスたちへ回線を繋いだ。
画面に映った男は、椅子へ座っていた。
顔の器具は替わっている。
肩から腕にかけて、太い固定具がついていた。無傷ではない。得たものを、楽に扱えているようにも見えなかった。
それでも、声は明るかった。
「少年は、無事に着いたかな」
ホークスは答えた。
「あなたの用件は」
「今後について、一つ伝えておこうと思ってね」
男の手が、肘掛けを撫でた。
「僕から彼を探す必要は、もうなくなった。彼は学校へ戻っていい」
塚内の手が、机の上で握られた。
ホークスは画面を見ていた。
「あなたの許可で通ってる学校じゃありませんよ」
「もちろん。邪魔をしないと伝えているだけだ」
「個性を返せ」
オールマイトの声だった。
別室から、回線に入っている。
男は少し顔を上げた。
「その話は、終わったよ」
オールマイトが息を吸う音がした。
男は続けた。
「君は今日も、人を助けたそうだね。最後まで君らしい」
「そのために、あの子へ渡したんだ」
「彼も、人を助けることはできる。力がなくてもね」
ホークスは、指を机へ押しつけた。
自分に言われた言葉ではなかった。
それでも、殴りたかった。
男は、こちらの沈黙を待った。
「君たちの通常の活動を、妨げるつもりはない。これからも必要な情報は届けよう」
「それで、済むと思ってるんですか」
ホークスが言った。
男は少し黙った。
「済まないと思う人間が、これから何をするか。その話をすることはできるよ」
画面が暗くなった。
通信を追っていた担当者が、別の経路を確認し始める。
誰も、椅子から立たなかった。
ホークスは、通話の記録が保存されたことを確かめた。
消してはいけない。
この男が、何を言ったか。
こちらが、何を返せなかったか。
*
三日後、緑谷の体内から薬の作用がほぼ消えたと判断された。
個性は戻らなかった。
同じ頃、確保した倉庫からも報告が上がった。
残された装置の測定記録と、黒霧が病院へ置いていった医療資料。別々の経路から得られた記録が、同じ変化を示していた。
少年の個性因子の反応が弱まり、消失したこと。
ほぼ同じ時刻に、別の被験体で、測定範囲を大きく超える反応が現れたこと。
ワン・フォー・オールは、奪われた。
オールマイトも、残された力を使い切った。
報告書へ、その二行を書く担当者の手が止まった。
ホークスは訂正を求めなかった。
別の言葉にしても、取り戻せない。
ただ、その下にある一行だけは、直してもらった。
本人の抵抗にもかかわらず、個性を奪取された。
意思による譲渡ではない。
そこは、明確に残した。
*
緑谷が退院へ向けた説明を受けた日、ホークスは病室へノートを持っていった。
襲撃前に頼まれていたものだった。
買って、補給の荷物に入れたまま、届けられずに残っていた。
「遅くなりました」
緑谷は両手で受け取った。
表紙を撫でる。
その指が動くのを見て、ホークスは少し息をついた。
まだ、動く。
何かを書ける。
「学校には、戻れそう?」
「戻ります」
緑谷は答えた。
「何ができるかは、まだ分からないです。でも、戻って考えます」
ホークスは頷いた。
その返事を、自分の救いに使わないようにした。
少年が前を向いたから、自分たちの失敗が軽くなるわけではない。
それでも、そのための手伝いはできる。
「困ったことがあったら、連絡してください。俺ができんことでも、誰に聞けばいいかは探せるんで」
「はい」
緑谷はノートを開いた。
最初の頁に、日付を書いた。
ホークスはその文字を見てから、席を立った。
廊下へ出ると、携帯に連絡が来ていた。
商店街の会計担当だった男について、面会の希望が出ている。
あの惣菜店には、嫌がらせの形跡はない。
照明の寄贈団体は、警備契約の条件を一部変更した。
すべて、まだ続いている仕事だった。
ホークスは一つずつ返事をした。
最後に、今日の報告書を開く。
緑谷出久、救出。
その行だけなら、成功に見えた。
ホークスは、その下へ、自分で書いた。
警護失敗。
個性奪取を阻止できず。
それから画面を閉じ、次の面会へ向かった。