ガラスは赤い羽根を閉じ込める。   作:an-ryuka

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最終話 ガラスは赤い羽根を閉じ込める

 

 玄関の鍵は、二本あった。

 

 玻璃は片方を自分のポケットへ入れ、もう片方を啓悟に渡した。小さな透明の飾りがついている。受け取ったとき、それが掌に当たった。

 

「それ、落とさないでね」

「鍵を?」

「そっちも」

 

 わざわざ確かめるまでもなかった。

 

 窓を大きく取った家だった。玄関から居間まで、仕切りにも透明なガラスが使われている。どこかの戸を開けるたび、別の部屋の光まで角度を変えた。

 

 家具は少ない。棚の前には何も置かず、水槽の周囲も空けてある。食卓は、ガラスの脚に透明な天板を載せたものだった。

 

「ここで揚げ物とか食べるんだ」

「汚したら拭けばいいでしょ」

「拭くの、俺?」

「私がやる」

 

 そこには迷いがない。

 

 玻璃が、少し先を歩いて振り返った。

 

「啓悟の部屋、こっち」

 

 見せてもらったときにはなかったカーテンが、窓の両端に収められていた。閉めると庭から中は見えない。引っ越しの荷物を下ろし、試しに端を引くと、玻璃がじっとその手元を見た。

 

「ちゃんと開くよ」

「分かってる」

 

 窓際には、小さな棚があった。

 

 瓶の中の赤い羽根を見つけて、啓悟は足を止めた。

 

「これ、こっちに置くんだ」

「朝はこの部屋がいちばん綺麗だから」

 

 彼のために置いた、とは言わなかった。

 

 瓶は昔から知っているものだった。玻璃の部屋に入るたび、まだあるな、と確かめていた。大人になってからは、彼女の注意が別へ向いているときに見るようになった。

 

 今は隠す必要がない。

 

 ガラスの丸みに沿って、羽根の赤が細く伸びていた。

 

 居間で、低い声がした。

 

「玻璃さん。こちらは、どちらへ」

 

 振り向くと、黒霧が梱包された箱を抱えていた。

 

 啓悟の手が、腰の通信機へ動きかけた。

 

 今はつけていない。これから取りに戻ることも、電話をかけることもできる。相澤の連絡先は消していなかった。

 

 黒霧がこちらを向く。

 

「お邪魔しております」

「……どうも」

 

 玻璃は二人の間を見もしなかった。箱へ駆け寄り、包装の外から角を確かめている。

 

「それ水槽の横。持つから、ゆっくり」

「お一人で持たれないでください」

 

 二人で箱を台へ下ろしたあと、黒霧は帰ると言った。

 

「もう?」

「死柄木弔がお待ちです」

「弔、昨日も一緒だったじゃん」

「昨日とは別の用件ですので」

「私もまだ終わってない」

 

 黒霧は困ったように少し頭を傾けた。それでも帰り支度をやめない。玻璃は唇を尖らせ、次に来る日を二度確認した。

 

 ワープゲートが閉じるまで、啓悟はそこにいた。

 

 居間には棚と箱が残った。黒霧が最後に揃えた包装材が、片隅にきちんと積まれている。

 

「啓悟、それ、持って」

 

 玻璃が梱包を解きながら呼んだ。

 

 啓悟は上着を脱いだ。

 電話は、かけなかった。

 

     *

 

 六人の拘束が解かれたのは、あの夜から七週間後だった。

 

 活動資格は戻らなかった。居住地を変えるときには届出が要り、一定期間ごとの面談も課される。不服を申し立てる手続きはあったが、その審査をする部署は、拘束の継続を認めてきた部署と同じだった。

 

 解放の日付を決めるまでに、ホークスは何度も同じ説明をした。

 

 逃げない。個性を奪う必要はない。家族を監視対象に含める根拠はない。武力行使の計画が再び確認されたら、自分に連絡を寄越せ。

 

 最後の一項は、彼自身が加えた。

 

 引き換えに何を引き受けたのか、六人に知らせる文書にも残した。

 

 オール・フォー・ワンとの面会は、その手続きが終わった午後に行われた。

 

 部屋には窓がなかった。男の右腕にはまだ器具がついていたが、以前のように肩ごと固定されてはいない。指を曲げ、開く。その動作を見ていると気づいたのか、男は手を机に置いた。

 

「君の家は、住みやすいかな」

「その話をするために来たんじゃないんで」

「そう固くならなくてもいい。玻璃が喜んでいる」

「本人から聞きます」

 

 画面には、来期の治安対策の資料が映っていた。

 

 表紙にこの男の名はない。

 実施する行政機関にも、協力企業の役員名簿にも。

 

 それでも、予算の配分も、捜査に協力する地域も、ここで決まる。どの企業の不正を先に調べるか。どの組織を潰し、その仕事を誰に引き継がせるか。

 

 男の指が机を一度叩くと、資料が次へ進んだ。

 

「ヒーローの負担は減っているようだね」

「現場の人数を減らすのは、まだ早い」

「急に仕事がなくなっても困るだろう。救助や災害対策へ回してもらえばいい」

 

 ホークスは配備案の二か所を指した。

 

「ここは維持してください。通報から到着までが長すぎる。輸送を握ってるなら、道も直せるでしょ」

「費用は?」

「去年の被害と復旧費、添付してあります」

 

 男は目を落とし、了承した。

 

 こういう話は早い。

 

 住人が逃げ出す町より、働きに出て、買い物をして、家賃を払う町の方が、あの男には使いやすい。何度も壊すより、維持した方が金も人手もかからない。

 

 刑務所から出てきた男が住む家をなくして再犯するより、系列企業に雇わせる方が安い。その男が誰に雇われているかまで、把握できる。

 

 ホークスが助けた人間は、その仕組みの中で暮らす。

 生活を立て直せた人ほど、仕組みを壊されることを嫌がる。

 

「一つ、確認しておきたい」

 

 オール・フォー・ワンが言った。

 

「君は、僕を倒す機会を待っているのかな」

 

 ホークスは資料を閉じた。

 

 潜入のための答えなら、いくらでも選べた。相手が喜ぶ言葉を知っている。少しだけ不満を残してみせれば、嘘はかえって信用される。

 

「いいえ」

 

 その必要が、もうなかった。

 

「ただ、仕事の条件は確認します。連れ去られた人間を戻すように言うし、処分を止めろとも言う。面倒なら、この窓口ごと潰せばいい」

「有用な窓口を潰す理由はないよ」

 

 男は楽しそうだった。

 

「君がいてくれれば、僕に不満のある者も、話をしようと思うだろう」

「聞いた話を全部そっちへ流すとは言ってません」

「それでいい。全員が僕を好きになる必要もないからね」

 

 ホークスは、膝の上で指を組み直した。

 

 好かれなくても支配できる。

 

 助けを求める先が、ここへ繋がっていればいい。

 自分が繋いでいることを、もう知らないふりはできなかった。

 

「玻璃の仕事についても、一つ」

 

 顔を上げた。

 

「俺と暮らしてることを使って、何かさせようとしないでください」

「僕より彼女の方が、君を使おうとするかもしれないよ」

「そっちは本人と話します」

「彼女は君のことになると、聞き分けが悪い」

 

 ホークスは黙って男を見た。

 

 男はそれ以上説明せず、資料を次へ送った。

 

 会議の最後に渡されたのは、協力事業の担当者一覧だった。その一番上に、自分の名があった。

 

 ホークスは削除を求めなかった。

 

     *

 

 エンデヴァーに会うと、最初に二度見をされた。

 

「何です?」

「……普通の服だと、印象が変わるな」

 

 薄手の上着に、背中の開いていないシャツ。肩には仕事の鞄を掛けている。

 

 ホークスは少し笑った。

 

「穴、要らなくなったんで」

 

 エンデヴァーは笑わなかった。

 

 面会室ではなく、外のベンチだった。解放後の手続きについて話すために、短い時間だけもらっていた。

 

 ホークスは書類を渡した。相談先と、活動資格に関する申立ての控え。解除されていない制限も、一つずつ説明した。

 

「分かった」

 

 エンデヴァーは書類を封筒へ戻した。

 

 それで会話が終わりそうになり、ホークスは膝の上に置いていた手を動かした。

 

「俺に言いたいことがあれば」

「弁護士を通じて出している」

「そうですね」

 

 求めるべきものではなかった。

 

 怒鳴ってくれたら、少しは楽だったかもしれない。そんな期待まで見つけてしまい、ホークスは口を閉じた。

 

 エンデヴァーが立ち上がる。

 

「日曜は駅前にいる」

「駅前?」

「炊き出しを手伝っている」

 

 封筒を脇に挟み、こちらを見た。

 

「あれにも申請が要るようになったら、先に知らせろ」

「……要りませんよ」

「今は、だろう」

 

 ホークスは否定しなかった。

 

 大きな背中が遠ざかっていく。追いかけて伝えるべき用件は、もうない。

 

 その日の面会記録には、本人の異議申立てが継続中であると書いた。

 納得を得た、と書ける欄は空けた。

 

     *

 

 玻璃は、同じ家に暮らしてもよく待った。

 

 玄関で待つ。食卓で待つ。用事があって部屋へ来たとき、啓悟が電話中なら戸口で待つ。

 

 待っている間の機嫌がいいとは限らない。

 

「あとどのくらい?」

「十分」

「さっきも十分って言った」

「もうちょっとかかる」

 

 彼女は露骨に顔をしかめ、それでも電話を取り上げたりはしなかった。

 

 帰宅時間を送ると、返事は早かった。遅れると伝えた日は短い。予定より早く帰れた日には、玄関の鍵を回す前に、足音が聞こえた。

 

 黒霧も来た。玻璃は以前と変わらず、帰るのが早いと文句を言った。

 弔から電話がかかってくると、くだらない言い合いもしていた。

 

 啓悟が帰ってきたからといって、彼らを嫌いになったわけではない。

 先生と呼ぶ声も、変わらない。

 

 食卓にはときどき、外で抜いてきた記憶の玉が置かれていた。

 

 誰のものか尋ねると、玻璃は仕事、と答えた。答えられないことは答えず、綺麗にできたものだけを光へかざす。

 

「ご飯食べるところには、置かないで」

「落とさないよ」

「そういう話してない」

 

 彼女は不満そうに玉を片づけた。

 

 寝室にも持ち込まない。

 啓悟の仕事道具に触れない。

 

 同じ家に住むための決まりが、少しずつ増えた。

 

 玻璃の部屋の棚には、彼が由来を知らないガラス玉が並んだままだった。

 

 ある晩、入浴後に背中の皮膚がひどくつっぱった。

 

 処方されている塗り薬を出したものの、腕を回すと傷の端が引かれる。鏡の前で苦戦していたら、玻璃が戸口から覗いた。

 

「塗ろうか」

「……頼める?」

 

 彼女の目が、啓悟の手の中の容器へ落ちた。

 

 これまでなら、タオルを渡すときにも指が触れないようにしていた。自分から頼んでおいて、その慎重さを意識すると、少し気まずかった。

 

「個性は使わないで」

「うん」

 

 椅子に座り、背中を向けた。

 

 ひやりとした薬のあとに、指の温度が来る。反射的に肩が上がった。

 

「痛い?」

「冷たかっただけ」

 

 玻璃は声をかけながら、指を動かした。

 

 鏡の端に、彼女の顔が映っている。真剣だった。力を入れないように気をつけ、啓悟が息を止めると手も止める。

 

 途中から、その手つきが変わった。

 

 傷の盛り上がったところを、一本の指がゆっくり辿った。薬を伸ばすためには、もう必要のない動きだった。

 

 玻璃の目が細くなる。

 

「……好き」

 

 呟きが、近かった。

 

 啓悟は身体を前へ逃がし、振り向いて手首を掴んだ。

 

「やめて」

 

 玻璃が目を丸くした。

 

「まだ、こっち」

「そういう触り方、やめて」

 

 声が硬くなった。

 

 触れられたところが、遅れてむずむずした。痛みとは違う。失った場所を、彼女の喜びのために確かめられたくなかった。

 

「そこ撫でられるの、嫌なんだよ。本当に」

 

 玻璃は黙った。

 

 掴んでいた手を離すと、彼女は指を自分の掌へ引っ込めた。唇を結び、薬の容器を見下ろす。

 

「……分かった」

 

 不満は顔に残っていた。

 それでも、もう手を伸ばさなかった。

 

「今日は、もういい」

「うん」

 

 彼女は蓋を閉めた。立ち去ろうとして、また止まる。

 

「手もだめ?」

 

 啓悟は少し迷ってから、自分の手を差し出した。

 

 玻璃は、今度はその顔を確かめてから握った。

 

 指は温かかった。背中の不快感が、それでなくなるわけではない。彼女も、なくなったかとは聞かなかった。

 

 しばらくして啓悟がシャツを取ろうとすると、玻璃は手を放した。

 

     *

 

 飛んでいた夢を見ることは、その後もあった。

 

 風の強い朝ほど、目が覚めるまでに時間がかかった。窓の外で木が揺れている音を、上空の風と取り違える。

 

 その日、玻璃は啓悟の部屋で、瓶を拭いていた。

 

 羽根の入った瓶だった。蓋を開け、羽根を柔らかな布の上へ移し、内側へ指に巻いた布を入れている。

 

「そんなに汚れる?」

「汚れてなくても、綺麗になる」

 

 彼女らしい返事だった。

 

 啓悟はベッドの端に座り、開いたカーテンを見た。早い時間の光が、瓶の底に集まっていた。

 

「玻璃」

「ん?」

「飛んでたときの記憶、見る?」

 

 布の動きが止まった。

 

 玻璃は瓶を置いてから振り向いた。

 

「……いいの?」

「俺から言ってる」

「でも、もう、あれは」

「うん。今、見せたいと思った」

 

 彼女は近づいてきたものの、手の届く少し前で止まった。

 

「仕事のは見ないよ」

「休みの日の。思い出してるから、その辺を」

「うん」

 

 まだ、触れない。

 

 啓悟は自分の手を膝の上へ出した。玻璃が隣に座ると、寝具が小さく沈んだ。

 

「そんな怖い?」

「……だって、関係ないの見えるかもしれない」

「いいよ」

 

 玻璃が顔を上げた。

 

 自分でも、ずいぶん簡単に言ったと思った。

 

 全部を綺麗に仕分けて、見せてもいい自分だけ出すことに、疲れていた。彼女の前でまで器用にやろうとすれば、きっと、また黙ったまま何年も過ぎる。

 

「読まれるくらい、もういい。ただ、何も抜かないで」

「抜かない」

 

 玻璃の指が、彼の手に触れた。

 

 思い出したのは、まだ何も失っていなかった日の朝だった。

 

 仕事の連絡が来ない休日。街の上へ出て、低い雲の下を通った。頬に当たる空気は冷たく、羽根の端には、少し遅れて違う風が触れる。

 

 身体を傾ける。

 羽の角度を変える。

 それだけで、見えていた景色の全部が動く。

 

 息が、勝手に深くなる。

 

 救助の要請も、追うべき背中もない。次にどちらへ行くか、自分の気分だけで決められた。

 

 あの自由を、確かに持っていた。

 

 指が少し強く握られた。

 

 玻璃は目を伏せたまま動かない。自分が思い出したものが、どんな順序で彼女に見えているのか、啓悟には分からなかった。

 

 やがて、彼女が息を吐いた。

 

「……こんな感じだったんだ」

「うん」

 

 窓から風が入った。

 

 啓悟は、もうないものを動かそうとした。すぐに気づいて、肩を下ろした。

 

 玻璃が、その肩を見た。

 

「帰ってきたくなくならないの」

「どこから」

「飛んでて」

 

 少し考えた。

 

「なるよ。もう一周してからでいいか、って」

「そっか」

 

 彼女は手を放さなかった。

 

 好きだったことを知れば、諦めてくれるとは思っていなかった。羽が戻ればいいと、心の底から言えるようになるとも。

 

 ただ、何を失ったのかは知ってほしかった。

 

 玻璃が顔を上げた。

 

「……あのあと、写真送ってきた日だ」

「写真?」

「ガラスのお店の。入口に青い花瓶が置いてあった」

 

 啓悟は、そこでようやく思い出した。

 

 飛び終えて、朝食を買おうと降りた先に店があった。玻璃が好きそうだと思った。写真を撮って、何と添えようか少し迷って、結局、場所だけ送った。

 

 返事が来るまで、何度も端末を見た。

 

「ああ。そこまでか」

「思い出してたから」

 

 玻璃の声が、わずかに弾んだ。

 

「私の返事、待ってたんだ」

「待ってたね」

「すぐ来てほしかった?」

「……そこ、掘る?」

 

 彼女が笑った。

 

 得意げな笑い方だった。見られたくなかったものを一つ、しっかり抱え込まれた気がした。

 

 それを取り戻そうとしても遅い。

 

「よく用事作ってたよ。お前んち行くのに」

「電球とか?」

「そう。自分で替えられるだろ、と思いながら」

「来てくれてたじゃん」

「行きたかったからね」

 

 玻璃の笑みが止まった。

 

 啓悟は少しだけ身を寄せた。彼女が逃げないのを確かめて、唇に触れた。

 

 思っていたより、短く済ませられなかった。

 

 一度離れたあと、玻璃が服の胸元を掴んだからだった。引っ張り方が遠慮なくて、背中が少し痛んだ。

 

「ちょっと、ゆっくり」

「あ、ごめん」

 

 指の力が緩んだ。

 

 啓悟はその手をほどかず、もう一度、彼女へ顔を寄せた。

 

 あとで羽根を瓶へ戻すとき、玻璃は、置き場所を変えてもいいと言った。

 

「朝、嫌だったら。見えるところにあるの」

 

 赤い羽根を持ったまま、啓悟は棚を見た。

 

 以前の彼女なら、光の入り方がいいという理由だけで、ここを譲らなかっただろう。

 

「ここでいい」

「ほんと?」

「見たくない日は、言う」

 

 玻璃は頷いた。

 

 羽根を戻し、蓋を閉めた。

 瓶を棚へ置くと、玻璃が少しだけ角度を直した。

 

     *

 

 一年後、街はさらに静かになっていた。

 

 ヒーロー事務所の多くは、以前のような夜間の待機人数を置かなくなった。空いた時間で救助訓練を増やすところも、職員に休暇を取らせるところもあった。

 

 街頭で人を襲えば、ほどなく捕まる。あの男に敵対する組織は、育つ前に潰される。

 認められた企業には仕事が入り、認められなくなった企業からは、少しずつ取引先が減った。

 

 暮らしに困らない人間にとって、その違いを調べる用事はあまりなかった。

 

 ヒーローの活動を決める会議も、選挙も、裁判も続いている。

 ただ、決め直せないことが増えた。

 

 ホークスは週に三日、事務所へ出た。それ以外の日も連絡は来たが、全てを自分で抱えることはやめた。

 

 彼の名を見て相談に来る人がいる。

 その名があるために、来なくなる人もいる。

 

 別の窓口に届いた抗議文を読んで、自分が助けたことのある相手だと気づくこともあった。手紙は破棄せず、回答をつけた。回答に満足しなかった相手が、再び書いてくることもあった。

 

 玻璃は仕事へ出かけ、ガラスを買って帰った。

 

 彼女の個性を奪うという話は、出なかった。公安の内側へ置いた少女は、とうに外から情報を盗むだけの役ではなくなっていた。

 

 誰が何を恐れ、何を隠しているか。

 誰の言葉が、本当にその人間の知ることと一致しているか。

 

 必要なときに、それを確かめられる人間がいる。その事実だけで、口を閉じる者もいた。

 

 玻璃自身は、その仕事の大きさより、帰りに寄れる店の方を気にしていた。

 

 ある夕方、ホークスが事務所を出ると、通りの向こうから子供に呼び止められた。

 

「ホークス!」

 

 手を振り返すと、隣にいた母親が頭を下げた。

 

 密告者の家族だった。

 子供の背は、最後に会ったときより伸びていた。

 

「もう帰るの?」

「今日はね」

「飛ばないの?」

 

 母親が慌てて子供の肩に触れた。

 

 ホークスはしゃがんだ。

 

「歩いて帰る。途中で買い物もあるんで」

「何買うの?」

「晩飯」

「うちカレー」

「いいねえ」

 

 子供は、具の話をした。母親が急かすまで喋り、最後にもう一度手を振った。

 

 ホークスは二人を見送った。

 

 助けたことを、間違いだったとは思わなかった。

 この親子が安心して歩いていることを、取り上げたいとも。

 

 端末が振動した。

 

 玻璃からだった。

 

『何時?』

 

 時計を見て、返信する。

 

『あと四十分。ご飯買って帰る』

『私も行きたかった』

 

 少し迷い、店の場所を送った。

 

『じゃあ待ってる』

 

 すぐに既読がついた。

 

 待ち合わせの店へ着くと、玻璃は既に向かいのガラス店を覗いていた。夢中になって、こちらに気づかない。

 

 啓悟は隣へ立ち、同じ棚を見た。

 

「今日は買わないんじゃなかった?」

「見てるだけ」

「その袋は」

「これは違うお店」

 

 そう言ってから、玻璃が顔を上げた。

 

 仕事の話は聞かなかった。啓悟も、今日届いた抗議文をここで開かなかった。

 

 夕飯を選び、二人で家まで歩いた。

 

 荷物を持ち替えたところで、玻璃の手が空いた方へ入ってきた。啓悟はその指を握った。記憶を見ていないかとは、もう尋ねなかった。

 

 家に着くと、彼女はすぐ新しいガラスを包みから出したくなったらしい。

 

「鍵、開けて」

「はいはい。まず中入ってからにしな」

 

 啓悟は、自分の鍵を出した。

 

 透明な飾りは、割れずについている。

 

 扉を開けると、奥の部屋まで夕方の光が入っていた。居間の向こう、開いた寝室の戸の内側に、赤い羽根の瓶が見えた。

 

 玻璃が先に靴を脱いだ。ガラスを抱え、振り返って彼を待っている。

 

 啓悟は家に入り、後ろ手に鍵をかけた。

 

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