男は、階段から落ちる寸前まで、自分の腕を見ていた。
右手を開く。閉じる。指の間へ息を吐くように力を込める。
何も起こらない。
もう一度同じことをして、後ろへ下がり、踵を踏み外した。
ホークスは先に羽根を飛ばした。
背中を受け、頭を壁から離す。男の体を踊り場へ戻すと、羽根を振り払おうとした手まで一緒に支えた。
「落ち着いて。階段から落ちると、普通に痛いですよ」
「出ねえ」
「そうみたいですね。怪我は」
「出ねえんだよ!」
こちらへ向けて手を突き出す。
登録された個性が正しければ、その掌からは相手を吹き飛ばすだけの圧縮空気が出るはずだった。
ホークスは男の正面を外したまま、顔を見た。
奥歯が鳴っている。
「いつから?」
「分かんねえ。起きたら……おい、戻せよ。お前、ヒーローだろ」
男の肩を支えていた羽根が、シャツ越しの震えを拾った。
「確認します。まず座って」
手錠をかけるために警察官が近づくと、男はまた腕を振った。
何も起こらなかった。
抵抗を押さえるのに、大きな羽根は一枚で足りた。
*
発見されたのは三人だった。
郊外の使われていない事務所。匿名の通報を受けた警察官が踏み込むと、指名手配中の男たちが床に寝かされていた。
目を覚ました一人が逃げようとして、廊下へ出たところでホークスと鉢合わせたのだ。
全員が、個性を使えないと訴えていた。
現場には、彼らが使っていた携帯や帳簿も置かれている。捜査員が端末の一つを確保したとき、画面には、子供の写真が開かれたままだった。
学校の門。
登校する子供たち。
一人だけ、赤い丸で囲まれている。
ホークスは画面を見て、手配資料の内容を思い出した。
この三人は、ある密売組織の関係者を脅迫していた。組織の金の流れを警察へ話した男と、その家族だ。
家族は保護されたが、連中は居場所を探し続けていた。直接手を出せなければ、親戚や、以前の職場へ行く。子供の通っていた学校へ、何度も車を寄せる。
捕まえたかった相手には違いない。
ホークスは携帯を捜査員へ返した。
「これ、家族にはまだ見せないで。確認が必要なときだけでお願いします」
「分かりました」
階段の方から、戻せ、と叫ぶ声がした。
返せと言われても、ホークスには失われたものを戻す方法が分からない。
怒鳴る男を黙らせるより、そのことの方が気になった。
自分の翼が無意識に開きかけている。
狭い廊下で広げる理由はない。彼は肩を動かし、元の幅へ畳んだ。
*
玻璃に連絡を入れたのは、三人が病院へ運ばれたあとだった。
「記憶の確認をお願いします。個性が使えなくなる直前に、何があったか」
『全員ですか』
「まず一人。聞いた話に、時間の抜けがある」
『分かりました。準備が済んだら行きます』
仕事の声だった。
昨夜、明日は一緒に食べようと話した相手と、同じ声ではあるのだけれど。
来た彼女には、対象者の資料と、確認してほしい時間帯だけが渡された。
現場の詳しい様子や、三人の証言の細かな一致は、先には教えない。閲覧で得た情報と、こちらが教えた情報を混ぜないためだった。
対象になった男は、処置を受けて眠っていた。
玻璃が手首へ触れる。
ホークスは今度、彼女の正面ではなく、少し斜め後ろに立った。動く指と、男の顔と、記録係の手元が一度に見える位置だった。
「車に乗ってます。昨日の夜ですね。……建物に入る。商談か何かに呼ばれたみたい」
「誰に?」
「声じゃなくて、連絡が来てる。携帯で。相手の名前は分からない」
記録係が時刻を確かめた。
「それから?」
「エレベーター。五階。廊下……」
玻璃が黙った。
男の手首を支える指は、動かない。
ホークスは待った。急かしても、見えるものが増えるわけではない。
ただ、彼女が一度だけ眉を上げたのを見逃さなかった。
「目盛さん?」
「ここから、今朝の病院になってます」
「間に何もない?」
「今のところ、見つからないです」
別の順番で探し直しても、結果は同じだった。
知らない建物の廊下を歩く。それから、病院の天井。
その間に、男は個性を使えなくなり、別の場所へ運ばれていた。
「気絶してた、ということですか」
「それは私には分かりません。覚えてないところは見られないので」
玻璃は顔を上げた。
ホークスは頷き、その答えを記録させた。
昨夜の記憶がないことと、昨夜ずっと意識がなかったことは、同じではない。
残る二人にも、似た空白があった。
三人とも商談に呼ばれたことは覚えている。接触した相手の顔や、個性が使えなくなった瞬間は覚えていない。
他の日時に関する記憶は読めた。押収された帳簿と一致する取引も、家族を脅すために出向いた先も。
得られた情報は少なくなかった。
ただし、彼らをここへ置いた人間に繋がる部分だけが、残らなかった。
昼を過ぎる頃には、別の報告も届いた。
ラグドールが、個性を使えなくなっていた。
*
「個性を奪う人間がいる」
塚内は、余計な前置きをしなかった。
公安の一室だった。
ホークスの前には、三人の資料と、ラグドールについて共有された所見が置かれている。閲覧できる者は限られ、玻璃もこの説明には呼ばれていなかった。
「一時的に封じるんじゃなく?」
「自分のものとして奪い、別の人間へ与えることもできる。そういう相手だ」
「……便利ですね」
口にしてから、自分の声が思ったより軽く出たことに気づいた。
塚内は笑わなかった。
「名は、オール・フォー・ワン。オールマイトが長年追っている男だ」
今回もその男の仕業だと、まだ断定はできない。
けれど、神野で回収されたラグドールと、今回の三人。関係の違う人間に、短い間隔で同じことが起きた。
ホークスは資料の端を揃えた。
「そいつを捕まえれば、個性は戻りますか」
「返させる方法も含めて、調べなければならない」
確実に戻るとは言わなかった。
それだけの意味を、ホークスは受け取った。
「連合の後ろにいる可能性がある、と」
「高いと考えている」
「なら、神野では人質を返して逃げて、今度はこっちが追ってた敵を無力化して置いていった」
並べると、なおさら変だった。
逃げるついでに人質を捨てることはある。
同業者を潰すこともある。奪った個性が目当てなら、今回の三人は単に狩られたのかもしれない。
ただ、逮捕に使える帳簿まで、わざわざ揃えて置く必要があるだろうか。
「俺たちに、捕まえてほしかったんですかね」
「そういう意図も疑っている」
「後片づけを任されたみたいで、感じ悪いな」
ホークスは椅子の背から体を離した。
「この三人を捕まえるまでに、警察側で足りなかったものは?」
「所在だ。関係先を何度か捜索しているが、捉えられなかった」
「証拠は、元からあった」
「ある」
「じゃあ、匿名の情報だけでもよかったはずですよね」
居場所を教えれば、ヒーローが踏み込む。
奪うのが目的なら、奪ってそのまま放置してもいい。
安全に踏み込めて、ほとんど抵抗されず、証拠ごと確保できる。
わざわざ、そこまで整えてある。
「彼らの保護対象になっていた家族には、どう伝えます?」
「身柄を確保した事実は伝える。保護の継続については、周辺を調べたうえで判断する」
ホークスは頷いた。
あの子供の写真は、三人の手元から回収された。
少なくとも、今日、それを使って家族に近づくことはできない。
そこだけは、確かな成果だった。
*
家族への説明に立ち会うと、写真の子供は、面談室で算数の問題を解いていた。
小学校の中学年くらいの女の子だ。
母親の隣で鉛筆を動かし、捜査員が「三人とも」と言ったところで、顔を上げた。
「捕まったの?」
「ええ。全員、警察で確保しています」
母親が娘の手に触れた。
それから、担当者へ質問を重ねた。
間違いなく本人たちなのか。
今どこにいるのか。
ほかに、家族の居場所を知っている者はいないのか。
一つずつ返事を聞くたびに、肩が少し下がっていった。
個性が使えなくなっているという説明には、すぐには反応しなかった。意味を確かめるようにホークスを見てから、尋ねた。
「また、使えるようになるんですか」
ホークスは、膝に置いた手を動かさずに答えた。
「まだ分かっていません。調べているところです」
母親は、そうですか、と小さく言った。
少しの沈黙があった。
娘が母親を見て、また問題集へ目を落とした。
「……戻らない方がいいって、思ってしまいます」
捜査員が何か言いかけ、口を閉じた。
「ひどいことを言ってるのは分かってるんです。でも、前に来たときも、扉を壊されて。鍵を替えても意味がないって言われて」
女の手が、膝の上で重なった。
ホークスは午前中の男を思い出した。
出ない、と何度も手を開いた男。警察官へ腕を振り、そのたびに自分でも驚いた顔をしていた。
彼を制圧するのは、簡単だった。
「今すぐ、あの人たちの心配までしなくていいですよ」
女が顔を上げた。
「まずは、ご家族の生活の方を相談しましょう。今日から全部、元どおりとはいきませんけど。外出や、これからの予定も」
担当者が続けて、今後確認することを説明した。
保護は続く。ほかの関係者についても調べる。そのうえで、制限を減らせるところから減らしていく。
女の子が、机の下で足を揺らした。
「アイス、買いに行っていい?」
「どこの?」
母親が聞く。
「前のおうちの近くの。自分で選ぶやつ」
母親はすぐには答えられなかった。
ホークスも、買ってきてあげようか、とは言わなかった。
欲しいのは、アイスだけではないのだろう。
「そのお店に行けるかも、ちゃんと相談しよう」
担当者がそう言うと、女の子は頷き、問題集の端に何かを書いた。
ホークスの位置からは見えなかった。帰りに買いたいものでも、計算の続きでも、どちらでもよかった。
説明が終わったあと、母親が何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
ホークスは、身柄を確保した捜査員たちへ視線を向けた。
彼らも、少し困ったような顔をしていた。
捜査を重ねたことまで、無駄だったわけではない。証拠を揃え、この家族を守り、今も仕事をしている。
それでも、最後の一番難しいところを片づけたのは、別の誰かだった。
礼を受けている間、ホークスは、三人がどのように床へ並べられていたかを考えていた。
*
「遅かったね」
玻璃は、先に店の個室へ通されていた。
彼が予約の名を告げて入ると、メニューから顔を上げる。
机には既に水が二つあり、彼女の前のグラスだけ、紙の包みが下に敷かれていた。照明が底へ抜けるのを見ていたらしい。
「すみません。待ちました?」
「十五分ほどです、ホークスさん」
案内してきた店員が、飲み物の注文を聞いた。
ホークスは酒を断り、料理をいくつか頼んだ。玻璃は魚の小鉢を一つ追加した。
襖が閉まると、彼女はメニューを畳んだ。
「啓悟、私、それも食べる」
「どれ」
「今頼んだ、鶏の」
「どうぞ。足りなきゃ頼むし」
「うん」
靴を脱いだ足を少し伸ばし、ホークスは息をついた。
昼は手早く何かを腹へ入れただけだった。今になって、味噌の匂いがひどくうまそうに感じる。
玻璃は彼の背中を見ていた。
「羽、ずっと動いてる」
「え?」
振り返る前に、一枚が畳の上へ伸びかけているのに気づいた。
落ちてもいない箸袋の端を、羽の先が追っていた。
ホークスは羽根を戻した。
「気になる?」
「さっきから何回も。落ち着かないの?」
見られていたらしい。
機能しているかを確かめるつもりはなかった。
ただ、動かそうと思う前に、少しずつ使っていた。水の位置を直す。椅子もないのに背後を空ける。手で届くものへ羽根を伸ばす。
「今日の連中を見たからかな」
「個性?」
「うん」
玻璃はグラスから手を離した。
「なくなったら困る?」
「そりゃ困るよ。いつもどおりに動こうとして、誰かを落とすかもしれない」
「飛べなくなったら、飛ばなきゃよくない?」
「そう簡単に切り替わるもんでもないでしょ。今日、落ちかけた人もいたし」
玻璃は首を少し傾けた。
「仕事、できなくなるのが嫌なの?」
「それもある」
「辞めたいって言うことあるじゃん」
「忙しくない方がいいとは思ってるよ。俺が辞めても、助けが要る人は残るからね」
彼女は、ふうん、と言った。
その返事に、どのくらい納得が入っていたかは分からない。
ホークスは自分の手で水を取った。
「あと、仕事じゃなくても、飛べなくなるのは嫌だよ」
「なんで?」
「気持ちいいから」
玻璃が顔を上げた。
「それだけ?」
「それだけじゃ、駄目?」
聞き返すと、彼女は小さく首を振った。
彼はグラスを置いた。
上空の風を思い出す。建物の高さを抜けたところで、急に体の前が空く。下でどれだけ忙しくしていても、翼を広げれば、体はちゃんと次の流れを拾う。
誰かを抱えているときには取れない角度がある。
急いでいるときには、わざわざ回らない場所も。
そういう話なら、いくらでもできた。
けれど言い始める前に料理が運ばれてきて、彼は膝を引いた。
「私、それがいい」
玻璃が、皿の端を指す。
ホークスは取り箸で一つ取り、彼女の小皿へ載せた。
「大きいの選んだ?」
「うん」
「俺のおごりだと思って」
「啓悟がそう言ったんだよ」
知ってる、と返して、自分の分を取った。
熱くて、すぐには噛み切れなかった。
玻璃も口を閉じたまま、しばらく動かない。
二人で同じことになっているのがおかしくて、ホークスは少し笑った。
飲み込んだあと、彼女が言った。
「今度、見せて」
「何を?」
「飛んでるときの記憶。仕事してないときの」
箸を持つ指が止まった。
「空から?」
「うん。気持ちいいって、どんなのか」
ホークスは彼女を見た。
玻璃は小鉢の中の魚を選んでいて、こちらの返事を待ちながらも、食べる手を止めるつもりはなさそうだった。
「今でもいいよ」
「今日はいい。もう人の記憶、いっぱい見た」
「……そっか」
「今度ね。忘れないで」
そちらから念を押されるとは思わなかった。
「忘れませんよ」
ホークスは自分の小皿へ目を戻した。
綺麗な景色を見たいだけかもしれない。
それでも、ガラスの店の場所でも、仕事の見落としでもなく、自分が気持ちいいと話したものを選ばれたことは、嬉しかった。
そういうところだけ都合よく受け取るのは、相変わらず得意らしい。
携帯が震え、彼は画面を確かめた。
捜査の途中経過だった。三人が呼び出された建物では、貸室の名義も、連絡に使われた端末も、その先を辿るための確認が続いている。
玻璃が彼の手元を見た。
「帰る?」
「いや。連絡だけ」
彼は必要な返事を送り、携帯を伏せた。
目の前では、彼女が最後の鶏を自分の皿へ移そうとしている。
「それ、俺の」
「もう一個頼めば?」
「お前が頼みなよ」
「じゃあ頼む。啓悟も食べる?」
「食べる」
今度は羽根を使わず、自分の指で呼び鈴を押した。
*
帰宅してから、玻璃は棚の中の玉を選んだ。
昨日の夜にできたものは三つ。
大きさが少しずつ違う。透明さは、どれも悪くなかった。
仕事で見るだけなら、記憶はその人の中に残る。
抜けば、残らない。
公安で今日探したものが見つからなかったのは、玻璃が探すふりをしていたからではない。
そこにはもう、なかった。
昨日、先生の前へ連れてこられた男たちは、もっと大きな声を出していた。
力を使おうとして、使えなくて、どうしてなのか理解したところで、また騒いだ。
玻璃が触れたときには、眠らされていた。
先生の姿を見た時間と、黒霧に運ばれた時間。意識を失う前に見聞きしたうち、外へ持ち帰らせたくない部分を抜いた。
男たちの中にあったものは、今、玻璃の指に挟まれている。
光へかざした。
綺麗だった。
「こちらでしょうか」
黒霧が、テーブルに用意された小箱を見た。
「待って。これ、本当に使うの?」
「先生からのご指示です」
「飲ませちゃうの?」
「ええ」
「……これ、すごく綺麗にできたんだけど」
黒霧は急かさなかった。
先生は、この記憶を、男たちに脅かされていた人間へ渡すと言っていた。
何をされたか。誰によって力を失ったか。どれほど抵抗できなかったか。
その人が知りたいなら、見せればいいらしい。
玻璃には、その必要があまり分からなかった。もう怖い相手はいなくなったのだから、それでいいではないか。
わざわざ、人の記憶を飲み込んでまで確かめたいのか。
でも、先生がそうしたいのなら、仕方ない。
「別の玉じゃ駄目?」
「この記憶が必要とのことです」
「……じゃあ、持ってって」
小箱へ置く。
黒霧が蓋を閉めるまで、玻璃は玉を見ていた。
「明日は買い物、来てよ」
「午後でしたら、ご一緒できます」
「ほんと?」
顔を上げると、黒霧が頷いた。
「お時間が変わる場合は、事前にお伝えします」
「変えないで。弔にも言っといて」
「承りました」
玻璃は残りの二つを持ち、棚へ戻った。
赤い羽根の瓶の近くに、浅いガラスの器がある。
買ってきた玉と、抜き出した玉を、色と大きさだけ見て並べる。どちらも透明で、光の通り方に違いはなかった。
一つを指先で回してから、明日行く店のことを考えた。
啓悟の空も、そのうち見せてもらおう。
綺麗だといいな、と思った。