ガラスは赤い羽根を閉じ込める。   作:an-ryuka

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第4話 迎えに来る人

 

「保護を終わりにしていただきたいんです」

 

母親は、そう言ってから頭を下げた。

 

四日前には、玄関の鍵を一つ増やしてほしいと頼んでいた人だった。今日は膝に外出用の鞄を載せている。口を閉める金具には、娘が貼ったらしい苺のシールが半分残っていた。

 

隣に夫がいる。別の場所で事情聴取を受けていた情報提供者本人だ。ホークスが会うのは初めてだった。

 

「ご迷惑をおかけしたことは、分かっています」

 

「そこは気にせんでください。どこか、行き先が?」

 

「住む所と、仕事を紹介していただいて」

 

男が差し出した封筒から、賃貸物件の間取り図が出てきた。二階建ての集合住宅。学校まで徒歩十分。勤め先は倉庫会社の経理部門で、採用条件には給与も勤務時間も記載されている。

 

逃走用の隠れ家にしては、随分と生活の話が多い。

 

ホークスは紙をめくった。裏に娘の字で、犬はかえるの、と書いてあった。

 

「紹介してくれた方とは、どこで?」

 

男は妻を見た。

 

その一拍で、ホークスは笑みを少し薄くした。知らないまま受け取った親切ではない。少なくとも、こちらに話しづらい相手だとは分かっている。

 

「黒い、霧のような人です」

 

隣の職員が椅子を引いた。

 

「いつ、ここに」

 

「一昨日の夜です。娘が寝てから。窓も、鍵も、開けていません」

 

出入口を固めていた警備は、役に立たなかった。

 

だからといって、見張りを責めたところで始まらない。ホークスは夫婦の顔を順に見た。怪我はない。荷物をまとめて出ていく前に、自分たちへ申し出てきた。

 

まだ話せる。

 

「何か、約束させられました?」

 

「仕事をすることだけです。前の会社で扱っていた取引先を、いくつか覚えているので」

 

「どこにお金を動かす仕事かは?」

 

男の指が、封筒の端を折った。

 

「そこまでは」

 

「なら、そこは確認しましょう。次の仕事も危ないってなったら、今度こそ割に合わんでしょうし」

 

責める調子にならないように言ったつもりだった。それでも男は肩を縮めた。

 

母親が、鞄を抱え直す。

 

「断ったら何かされるんじゃないかって、私も思いました。でも、あの人たちを捕まえたのは、自分たちだと……」

 

「そう言ったんですね」

 

「言っただけじゃ、ないんです」

 

今度は男が口を挟んだ。

 

「見せられました」

 

動画か。ホークスは録画した端末を求めかけ、男の次の言葉で止まった。

 

「私が、床に押さえられていて。右手を、こう」

 

男は自分の掌を伏せた。指を大きく開き、手首を掴まれた形にする。

 

「知らない男が、上から触ってきたんです。顔に機械をつけていて。逃げなきゃと思うのに、体が動かなくて。それで、手の中から何かがなくなった」

 

ホークスは、階段を転がりかけた男を思い出した。

 

何度も開いていた右手。戻せ、と叫んだ声。

 

「それを、あなたが体験した?」

 

「私の記憶じゃありません。こんなこと、言っても」

 

「聞きますよ。続けてください」

 

職員が録音機の位置を直した。

 

男は、水を一口飲んだ。コップを置いても、しばらく右手を離せずにいた。

 

「小さい透明な玉を、飲むように言われました。見れば説明がつくから、と。怖かったですよ。でも、毒ならわざわざそんなことを言わなくても、ここで私たちを殺せるでしょう」

 

安全だから飲んだのではない。

 

断る意味がないと思わされて、飲んだ。

 

「娘さんと奥さんは?」

 

「私だけです。妻には、私から話しました」

 

ホークスは頷いた。机の下で、一本だけ浮きかけた羽を背中に戻す。

 

「玉は、ガラスみたいでした?」

 

「ええ。少し、水色にも見えましたけど。明かりのせいかもしれません」

 

「残っている物はありますか。包みとか」

 

男は首を横に振った。黒い手袋の上に一つ載っていた物を、そのまま受け取ったという。

 

飲み込んだあとの身体には異常がない。今でも、目を閉じれば見たことを思い出せる。床の臭いも、自分のものではない恐怖も。

 

ホークスは、そこまで聞いてから職員に医師への連絡を頼んだ。

 

記憶を見せる個性。

 

いや。そう呼んでいいかも、まだ分からない。本人が記憶だと感じる映像を流し込まれた可能性もある。あの三人が覚えていない時間と一致するか、細部を照合しなければ。

 

それでも、一人、顔が浮かんだ。

 

白い手袋。眠った相手の手首に触れる指。

 

その顔に続いてガラスの棚まで思い出したところで、ホークスは一度、考えるのを切った。

 

似ているだけで決めるな。

 

忘れもしないように、覚えておけ。

 

「紹介者とは、また会えます?」

 

夫婦が同時に顔を上げた。

 

「明日、部屋を見に行く約束です。でも、警察に言ったら」

 

「何か言われました?」

 

「いいえ。誰を連れてきても構わないと」

 

ホークスは間取り図を封筒に戻した。

 

随分、歓迎されている。

 

「じゃ、俺も内見に付き合いましょうか」

 

*

 

翌日の正午、紹介された集合住宅には洗濯物が干してあった。

 

一階の端では、作業服の男が自転車のチェーンを直している。二階のベランダから、幼い子供の泣き声と、それをあやす声がした。

 

登記上の所有者も管理会社も実在する。空室は三つ。住人のほとんどは数年前からここで暮らしていた。

 

丸ごと悪党の巣なら、まだ楽だったんだけど。

 

ホークスは夫婦を建物の手前で止め、先に中へ入った。娘は警察が手配した別の場所にいる。本人は部屋を見たがったが、両親が連れてこないと決めた。

 

約束の一室は、窓の大きな二階だった。

 

羽が押入れと流しの下を確かめる。隣室、床下、天井。近くの生活音に、息を殺す者の気配は混じっていない。屋外には警察官を配置したが、住人を退去させるほどの根拠はなかった。

 

相手はワープを使う。包囲を完成させれば捕まえられる、という話でもない。

 

それでも、何も用意せず会ってやる義理はない。

 

夫婦が入室し、待つこと三分。

 

台所と居間を仕切る戸の向こうが、黒くなった。

 

「お待たせいたしました」

 

金属の襟。黄色い目。

 

資料で見た輪郭と、ぴたりと重なる。

 

ホークスの羽が三方から走った。

 

一枚は夫婦の前へ。二枚は黒霧の首元を狙った。霧ではなく、実体のある部分を取る。

 

届く直前、黒い面が横へ広がった。

 

右から入れた羽が、流しの上から飛び出す。もう一枚は天井近くへ。ホークスは即座に止めた。羽の先端が照明の紐を揺らし、壁に乾いた影を作る。

 

夫婦を玄関側へ下げさせながら、背中から長い羽を抜いた。

 

黒霧の姿は、まだ同じ位置にある。

 

だが、こちらへ足を踏み入れてはいなかった。開いた出口の向こうから、顔を見せている。羽が触れようとした部分だけ、別の出口へ繋ぎ替えられたのだ。

 

「いきなりとは、ご挨拶ですね」

 

「誘拐犯と会ったら、まあこうなりますよ」

 

退路に残した羽で、廊下の警察官へ合図を送る。夫婦を外へ。隣の住人には窓から離れてもらう。

 

黒霧はそれを妨げなかった。

 

「本日は、お二人への説明のために参りました」

 

「俺も聞きたいな。まず、保護対象の居場所をどこで知ったか」

 

「お答えできません」

 

「でしょうね」

 

ホークスは笑った。もう一度突っ込ませれば届くか。相手の口数を増やせば、繋ぎ替える反応が鈍るか。

 

霧の向こうには、壁も照明も見えない。羽を送り込めたとして、その先に捕らえるべき胴体がある保証がなかった。

 

「この人を、何に使うつもりです?」

 

「経理の経験を生かせる職を。契約前に業務内容をご確認いただく予定です」

 

「そっちの上司は、随分と人手不足で」

 

「適性のある方に、適切な場所で働いていただきたいだけです」

 

「合わなかったら辞められる?」

 

「雇用契約に従って」

 

「家も出られる?」

 

「はい」

 

「お前らについて知ったことを、警察に話しても?」

 

そこで、初めて間が空いた。

 

ホークスは羽を少しだけ下げた。玄関へ下がった男が、足を止めていた。

 

聞いている。

 

「業務上の秘密については、守っていただく必要があります」

 

「さっきの二つにも、それつくんだ」

 

「それは、どちらの職場でも同じでしょう」

 

「命まで契約に入れなきゃね」

 

黒霧の目は動かなかった。

 

これ以上聞いても、条件のいい募集広告が続くだけだ。ホークスは掌の羽を持ち直した。

 

「昨夜、この方からお話を伺いました」

 

と、黒霧が先に言った。

 

男の肩が動く。

 

「こちらへ連れてこられる前に、必要な物を取りに自宅へ戻りたかったそうですね。ですが、安全のためにと止められた」

 

「命が狙われてましたから」

 

「承知しております」

 

霧の下から、四角い包みが出てきた。

 

羽を走らせて床へ落とす。布がずれて、角の潰れた紙箱が見えた。

 

不用意に手を伸ばさせないよう夫婦の前へ羽を寄せると、母親が口を手で覆っていた。

 

「それ、母の」

 

黒霧は箱に触れようとしなかった。

 

「ご自宅の押入れにありました。他の物には、手をつけておりません」

 

羽で蓋を持ち上げる。箱の中には、古い写真のアルバムと、裁縫道具の入った小さな缶があった。

 

ホークスも引き継ぎ記録で読んだ品だった。回収の希望は出ていた。だが、旧居を見張る者が残っていないか確認するまで待ってほしいと、返答されていた。

 

取りに行けば済む。

 

この男には。

 

「何も、こちらの家に入ってもらう必要はありません」

 

黒霧は夫婦へ言った。

 

「住む場所についてご希望があれば、伺います。お仕事を始めるかどうかも、それからお決めください」

 

「ずっと断っていたら?」

 

ホークスが聞く。

 

「そのときは、お断りになったというだけです」

 

「じゃ、そのことも上司に伝えといて。こっちの協力者に、無断で接触するなって」

 

「お二人から面会を求められた場合もですか」

 

玄関口で男が息を吸った。

 

ホークスは視線を逸らさなかった。

 

「その場合は、本人と相談します」

 

言い終えるより早く、羽を飛ばす。

 

箱を運び終え、霧の縁に見えた黒い袖。その布を狙った。刃を立てずに挟み、引く。

 

手応えはあった。

 

だが引き出せたのは、裂けた袖口の一片だけだった。黒霧は腕を引っ込めると同時に出口を細くし、羽に引かれた布を捨てた。

 

「本日は、ここまでにいたしましょう」

 

「待て」

 

「ご家族のご都合を優先してください」

 

霧が閉じる。

 

飛び込ませた次の羽は、何もない台所を抜けた。窓の手前で止める。

 

水道の蛇口に、赤い羽が映っていた。

 

ホークスは布切れを回収し、廊下へ短く報告した。

 

取り逃がした。夫婦に怪我はない。未知の物品が一箱。調べるまでは触れないように。

 

言うべきことを言い終えてから、羽の剣を背中へ戻した。

 

母親がまだ、箱を見ている。

 

その顔を、自分の方へ向けさせる言葉がすぐには出なかった。

 

*

 

箱から危険物は見つからなかった。

 

アルバムの最初のページには、小さな庭で赤ん坊を抱く女性が写っていた。若い頃の母親と、亡くなった祖母だという。

 

確認を終えた缶を渡すと、母親は両手で受け取った。蓋を開け、糸巻きを指で押さえてから、急いで閉めた。

 

「すみません」

 

「謝ることじゃないですよ」

 

ホークスは向かいの椅子に座った。今度は警察署の一室だった。窓はない。さっきの部屋の日当たりを思い出して、自分まで嫌になった。

 

男が、膝の上で拳を握っていた。

 

「悪い連中なのは分かっています。助けられたから、いい人だなんて思っていません」

 

「はい」

 

「でもあそこなら、娘が出歩けるのかと思って」

 

「それは、あちらがそう言っただけです」

 

口に出してから、男の唇が固くなるのを見た。

 

こっちが安全だと言った家に、黒霧は入ってきた。

 

そりゃ、その言い方はないわ。

 

ホークスは前へ少し身を乗り出した。

 

「……今の保護に不満があるのは、当然です。俺らが用意した場所に、勝手に入られた。そのうえ、帰りたいって頼んでた家の物まで持ってこられた。安心しろとは、言えんですね」

 

男がようやく顔を上げた。

 

「ただ、今ここを出てあの仕事を受けたら、次に助けを呼ぶとき、また全部話すところから始まります。何を知ったか、何をさせられたか。秘密を守る契約ってのが、どこまでなのか」

 

あの家には窓があった。学校も近かった。

 

それを全部、罠の一言で片づけるのは簡単だ。だが、住めば暮らせる家なのだろう。給料も払うつもりに違いない。

 

その程度の金を惜しむ相手ではない。

 

「今度は、犯罪に関わる前に相談してほしいんです。だから、契約はまだしないでください。こっちにも、やれることをやらせてほしい」

 

いつまで、と男が聞いた。

 

ホークスは担当の職員を見た。

 

ここで一生懸命という言葉を使っても、明日の外出許可にはならない。

 

「今日中に、次の住まいの候補と、どこまで普通に生活できるかを出します。全部を今日解決する、とは言えません。でも、待つだけにはしません」

 

職員は頷いた。その場で電話を取り、別室へ出る。

 

母親が小さく頭を下げた。

 

「仕事の話は、いったん断ります」

 

ホークスは息を吐きかけた。

 

「でも、保護される場所は変えたいです。あの人が来た部屋では、もう眠れません」

 

「分かりました」

 

そこは、返事に困らなかった。

 

*

 

その日のうちに、夫婦は別の滞在先へ移った。

 

黒霧に知られた時点で、住所を変えるだけでは足りない。見張りの置き方も、連絡の方法も見直す必要があった。それでも、親子が揃って窓のある食堂で夕飯を食べた、という報告は届いた。

 

娘は野菜を残したらしい。

 

そんなことまで伝えてくれた職員に、ホークスは礼を返した。

 

会議室では、刑事が倉庫会社の資金の流れを壁に貼っている。襲撃の準備ではなく、契約書と登記の捜査が始まっていた。

 

黒霧から取った布片も鑑定に回った。今すぐ居場所に繋がる物ではなかったが、調べられるものは増えた。

 

そして、夫が話した体験の中に、公開していない情報が二つあった。

 

個性を使えなくなった男の右掌には古い火傷がある。床に伏せさせられた際、その傷が爪で掻きむしられていたこと。

 

もう一つは、三人のうち一人が互いに使っていた呼び名だ。

 

それだけなら、犯人自身が教えた可能性もある。

 

ただし体験を見たという夫は、火傷の位置を、自分の掌を見るように正確に示した。

 

「対象者が失った時間を、別の人間が持っている可能性があります」

 

ホークスが言うと、机を囲んだ顔が上がった。

 

「記憶の受け渡し、か」

 

「そうと決めるのはまだ早いですけど。消えてる方と、増えた方がいる。両方、同じ相手の手元を通ってる」

 

言ってから、資料を一枚出した。

 

目盛玻璃。

 

その名前を、自分の手で机の中央へ置いた。

 

「接触による記憶閲覧との関連を調べてください。申告されてない作用があるかもしれません」

 

公安の職員が、ホークスを見た。

 

「本人には?」

 

「まだ伝えてません。俺からも聞かん方がいいでしょう」

 

「ガラス玉という話からか」

 

「それだけじゃありません」

 

家の棚にある、透明な玉。それだけなら、彼女の趣味で説明がつく。知らない人間の家にも、似た物はいくらでもある。

 

「三人の閲覧で、同じ欠落を確認したのが彼女です。神野の捜査情報にも触れてる。個性の作用が近くて、両方の件に接点がある。調べる理由はあります」

 

職員は資料を引き寄せた。

 

「長年の運用記録も洗う。記憶の欠落について、以前に同様の例がなかったか」

 

「お願いします」

 

そこで席を立つつもりだった。

 

なのに、口がもう一度開いた。

 

「本人の監視を、俺に集中させないでください」

 

職員の手が止まる。

 

「あちらが君への接触を望む可能性は高い」

 

「だからです。俺経由で見えるところだけ確認して、大丈夫だったことにしたくない」

 

疑いたくない。

 

それはもう、理由に数えた。そのうえで名前を出した。

 

ここから先まで自分一人で扱えば、どこかで都合のいい説明を拾うかもしれない。逆に、疑わしいものを探すあまり、ただの癖まで証拠に見えるかもしれない。

 

そんな仕事の仕方を、彼女相手にしたくなかった。

 

「通常の接触は続けてくれ。変更する場合はこちらから伝える」

 

「了解です」

 

軽く返して、会議室を出た。

 

*

 

玻璃から届いていた写真は三枚だった。

 

最初の一枚は、斜めに口の開いたガラス器。神野の店にあった物だ。二枚目は自宅の棚に置いたところ。三枚目は、二枚目とほとんど同じ角度だった。

 

『どっちがいい?』

 

ホークスは廊下の端で足を止めた。

 

二枚目と三枚目を行き来する。照明の反射が、器の縁を横切る位置だけ違っていた。

 

『最後の』

 

返事を送ると、すぐ電話が来た。

 

「なんで?」

 

「正解、不正解あんの、これ」

 

「ないけど。どこ見て言ってるのかなって」

 

いつもの声だった。向こうで小さく水音がしている。魚のいない水槽の、静かな流れ。

 

「最後の方が、口んとこちゃんと見える。二枚目は光って、曲がってる形が分かりにくい」

 

「あ、そう。そうなんだよね」

 

満足したらしい。

 

本当に分かりやすい。こういうことなら。

 

「買えたんだ」

 

「うん。行ってきた」

 

「一人で?」

 

「うん」

 

ホークスは、携帯を持つ手に力が入るのを感じた。

 

いつもと同じ質問。いつもと同じ返事。

 

そこを嘘だと思い始めたら、何一つ分からなくなる。

 

「重くなかった?」

 

「これは大丈夫。持って帰れるやつだもん」

 

買い物へ行った日付を聞くことも、店員の顔を尋ねることもできた。

 

しなかった。その確認は、別の人間がやる。

 

「啓悟、今日まだ仕事?」

 

「うん。もうちょい」

 

「じゃあ今度でいいけど。飛んでるとこ、忘れてないよね」

 

忘れていなかった。

 

むしろ、さっきからそれが困っていた。

 

誰も抱えていないときの飛行。高度を上げて、風を捕まえて、行きたい方へ体を倒す。そういう記憶なら見せてもいいと、四日前の自分は思った。

 

自分が何を楽しいと思うのか、知りたがってくれたのが嬉しかった。

 

「……覚えてるよ」

 

「いつなら空いてる?」

 

向こうは、日程の話をしている。

 

目を閉じれば、手袋を脱ぐ彼女の姿が浮かぶ。差し出した手に指が触れて、ほんの十秒。

 

その十秒で、今日一日の誰を見せることになる。

 

「ちょっと、今は分からん」

 

「ふうん」

 

玻璃の声が平らになった。

 

「じゃあ、決まったらでいい」

 

怒ったか、と聞きかけてやめた。

 

その問いを出せば、機嫌を直す言葉まで続けてしまう。

 

「うん。ごめん」

 

「別に、謝んなくていいけど」

 

間が空いたあと、玻璃が言った。

 

「忙しくなくなってから、綺麗なとこ飛んできてよ。その方がいいし」

 

ホークスは、廊下の窓へ視線を移した。

 

夕方から降りだした雨が、外の灯りを滲ませている。今飛べば濡れる。翼が重くなる。顔にも冷たい水が当たる。

 

それを嫌だと思う自分の記憶まで、彼女に渡すことはない。

 

「……そうする」

 

電話を切った。

 

画面には、まだ三枚の写真が並んでいた。ガラス器の後ろに、小さな瓶が写り込んでいる。

 

赤い羽は、今日もそこにあった。

 

ホークスは写真を消さず、調査担当へ送った。

 

撮影日時と、店での購入記録を確認してほしい。その一文を添えてから、携帯をしまう。

 

翼を畳み、会議室へ引き返した。

 

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