映像の中の玻璃は、今より少し髪が短かった。
椅子に座った男の手首へ触れている。相手は公安の協力者で、違法な個性売買を仲介する集団から抜け出したばかりだった。
『呼び出された場所は?』
『駅の裏。いや、裏じゃなくて……』
そこで映像が止まった。
「閲覧前の聴取では、駅裏の診療所と答えている。建物の特徴も、受付で待った時間も。ただ、肝心の医師について話そうとすると混乱した」
担当者が、別の記録を開く。
「目盛の報告では、極度の恐怖による想起困難。以後の聴取では、診療所へ行ったこと自体を思い出せなくなっている」
ホークスは画面を見た。
玻璃の左手は、男の手首に置かれたままだ。右手は机の陰。頭痛を訴えて中断し、その後は医療担当に引き継いでいる。
あの陰で、何ができた。
「薬は?」
「閲覧前には使っていない。ただし、元々状態が悪い。これだけで彼女の関与とは断定できない」
「他には」
「似たものが二件。いずれも断片的な供述をしたあと、該当する時間を思い出せなくなっている」
数年分を洗って、三件。
多いのか、少ないのか。その判断をするための比較資料も、まだ揃っていない。
これまで玻璃が担当したのは、そもそもまともに話せない人間が多かった。薬、怪我、恐怖、疲労。本人の話と記憶が食い違えば、彼女の報告を優先することもあった。
その報告の正しさを、誰が確かめていたのか。
「診療所は?」
「当時の確認では空き物件だった。写真も設備も残っていない」
ホークスは、停止した映像をもう一度動かしてもらった。
玻璃が手を離す。右手でこめかみを押さえ、目を閉じる。
見慣れた動作だった。
何度も休ませた。水を持ってきたことも、車を呼んだこともある。
必要なことをした。その判断まで間違いだったとは思わない。
ただ、自分が部屋を出たあと、彼女が何をしていたかは知らない。
「再検査は明朝。関連する職員には、接触を伴う情報保全上の問題が見つかったためと説明する。彼女にも、その範囲で通知する」
「家の方は」
「任意の協力を求める。拒否も含めて記録する。監視は継続中だ」
ホークスは頷いた。
画面の玻璃は、もう手袋をはめていた。
*
「先生。玉、預かって」
玻璃は、黒霧が開いた小さな霧の向こうへ言った。
公安からの通知を読んだあとだった。明日の予定が変更されたこと。個性の再評価を行うこと。今夜以降、業務上の対象者への接触を停止すること。
どれも丁寧な文章だったが、お願いではなかった。
「どれを?」
「記憶の。あと、どっちか分かんないのも」
棚の前に膝をつき、玻璃は浅い皿を引き寄せた。
綺麗なものから並べているうちに、いつ作ったものか分からなくなった玉がある。普通に買ったものと一緒に置いてあるから、数もすぐには出てこない。
中身を確かめるために飲むなんて嫌だった。戻すためにはまた作らなければならないし、同じ形になるとも限らない。
「隠していた作用があると認めれば、君への疑いは強くなるよ」
「でも、ないって言って、あるのが出てきたら、もっと怒るでしょ」
「そうだね」
「だから、言う。できることは。先生のことは言わない」
玻璃は丸い玉を二つ避けた。以前、店で買ったものだ。歪みがなくて綺麗だが、今はそれが不満だった。隣の手作りの玉の方が、照明を少し大きく映していた。
取り上げられるかもしれない。
検査で割られたら、取り返しがつかない。
「私が戻るまで、触らないで。ドクターにも貸さないで」
「君が戻れなかったら?」
玻璃の手が止まった。
「戻るよ」
「公安がそう判断するとは限らない」
「……だから、先に言うんじゃん」
霧の向こうで、先生が小さく笑った。馬鹿にされた気がして、玻璃は膝の上の布を引っ張った。
先生の役に立つために、ずっと気をつけていた。言ってはいけないことは言わなかった。見たことを全部報告する必要はないと教わって、必要なものを持ち帰った。
今度も、できるだけそうしたいだけなのに。
「分かった。預かろう。君がこちらへ戻るときには、部屋も用意する」
「公安やめろってこと?」
「まだそうは言っていないよ。ただ、残るために何でもする必要はない」
玻璃は皿の縁を親指で撫でた。
残れなくなったら、この家を捨てることになるのだろうか。水槽を空にして、棚を外して、一つずつ包んで。せっかく、あの器の場所を決めたところだったのに。
「家はそのままがいい」
「それは、状況を見て考えよう」
「絶対そう言う」
「黒霧に持たせなさい。選び終わるまで待たせていい」
先生の姿が霧の奥へ消えたあとも、玻璃はしばらく動かなかった。
やがて、棚の下段から箱を出した。買ったときの薄紙を敷き、玉を一つずつ置いていく。
黒霧は急かさなかった。
赤い羽の瓶には、手を伸ばさなかった。
あれは、預ける必要がない。
*
再検査の部屋には、ベッドがなかった。
机と椅子が四脚。記録用のカメラ。医師、個性運用の担当者、そしてホークス。
玻璃は入ってきて、まずホークスを見た。
「おはようございます、ホークスさん」
「おはようございます」
いつもどおりに返した。
彼女もそれ以上は言わず、指定された椅子へ座った。白い手袋を外す。机の中央には、まだ手を出さない。
「始める前に、訂正したいことがあります」
担当者のペンが止まった。
「申告内容について?」
「はい。読むだけじゃありません」
ホークスは、玻璃の指先を見た。
爪は短い。手首に飾りはない。いつも、物を傷つけないようにしている手だった。
「見せられます。触っている相手に、私が覚えていることを」
「以前から?」
「子供の頃から」
声は掠れなかった。
「記憶を取り出すこともできます。取り出した記憶は、元の人からなくなります。玉になります。それを飲むと、その記憶を見られます」
ホークスの耳の中で、空調の音が急にはっきりした。
知っていた、と言うには早い。
でも、そうでなければいいと思っていた。
その分だけ、返事をするまでに息が要った。
「今、玉は持っていますか」
玻璃がホークスを見る。
「持っていません」
「自宅には」
「自分の記憶で作ったものがあります。他のガラス玉と一緒に置いてあるので、すぐには分からないのもあります」
嘘か、本当か。
机の下に入れた手が、膝を掴みかけた。ホークスは指を開いた。
記録を取っている担当者が、順に質問を始めた。
いつからできる。何を取り出せる。取り出す量は選べるか。元に戻せるか。記憶を作り変えられるか。
「起きてないことは作れません。抜くのは、短いところだけなら。人のだと、長いと疲れます」
「抜いた記憶は、本人にも戻せる?」
「飲めば」
「第三者が飲んだ場合は?」
「その人の記憶になるっていうか……見られるようになります。自分が最初からやったことだとは、普通は思わないです」
保護下の男が話したことと、合う。
ホークスは机に置かれた自分の資料を開いた。
「先日、あなたが閲覧した三人について確認します。病院で会う以前に、接触したことはありますか」
「ありません」
即答だった。
「彼らの記憶を抜いたことは」
「ありません」
玻璃は、まっすぐこちらを見ていた。
そこに怯えがあれば、何かが分かっただろうか。言い淀んだら、嘘だと思っただろうか。
小さい頃から、玻璃は嫌いな食べ物を残しても平気な顔をしていた。悪いと思っていないことについて、困った顔をする子ではなかった。
同じ顔をしている。
だから、判断に使えなかった。
「過去の業務で、対象者の記憶を抜いたことはありますか」
担当者が尋ねた。
玻璃はそこで、一度だけ視線を机へ落とした。
「あります」
ホークスは資料から顔を上げた。
「誰の、何を」
「全部は覚えてません。失敗して、ちゃんと玉にならなかったのもあるし」
「指示のない操作をした、ということですね」
「はい」
「目的は?」
玻璃は手を組んだ。
「できるか、試しました」
部屋の中が静かになった。
ホークスは、その言い方に腹が立った。
報告書では怯えていた男が、あの椅子に座っていた。何が起きたのか、誰に何をされたのか、自分でも思い出せず、彼女に手を預けた。
その時間を、試したと言う。
「本人には説明したんですか」
玻璃がホークスへ目を戻す。
「していません」
「戻しました?」
「戻していません」
もう一つ聞けば、声が変わる。
ホークスは口を閉じた。医師が彼の方をちらりと見てから、検証の手順を確認し始める。
怒る順番を待て。
まず、何が起きるのかを確かめろ。
*
試験は、予定よりも慎重なものになった。
未申告の作用がある以上、他人の記憶を抜かせることはできない。最初は玻璃自身が見た、無害な情報だけを使う。
担当者が端末に無作為な数字と図形を表示した。玻璃だけが三十秒間見る。画面を消し、その内容を口頭で答えさせて記録する。
次に、内容を知らない医師へ、同意を得て接触した。
医師が答えた数字と図形は一致した。
それから、抜き出す試験に移った。
玻璃は目を閉じた。両手を軽く重ね、しばらく動かない。
ホークスは指の隙間から目を離さなかった。
やがて、人差し指が持ち上がる。
掌に、丸いものがあった。
音もしなかった。
透明な、小さなガラス玉。
机の上に落とせば転がりそうなそれを、玻璃は親指と人差し指で摘まんだ。照明へかざし、少し回す。
その顔を、ホークスは知っていた。
店の写真を見せたとき。棚の照明を直したとき。好みのものが、思ったとおりに見えたとき。
人の頭から取り出したものにも、同じ顔をするのか。
「提出してください」
担当者の声で、玻璃は玉を下ろした。
「落とさないでくださいね」
用意された皿へ置く。硝子の触れる小さな音がした。
同じ数字と図形を尋ねられると、玻璃は答えられなかった。候補を示されても、首を傾げる。本人が忘れたふりをしている可能性は残る。今日の試験だけでは、そこまでは証明できない。
摂取による作用の検証は、物質としての検査と医師の判断を待つことになった。
誰も、玉を口へ持っていかなかった。
玻璃が皿へ向けた視線を、ホークスは見ていた。
「返却については、検査が済んでから説明します」
担当者が告げる。
「割らない検査にできます?」
「保証はできません」
玻璃の眉が寄った。
この場で初めて、はっきりとした不満が顔に出た。
*
玻璃が別室へ移されたあと、ホークスは机に残された玉を見ていた。
触らなかった。
「秘密にしていた理由については、説明を拒んだわけではない」
担当者が言った。
「子供の頃に申告せず、そのまま言い出せなくなった、と。ただし、今の申告が全てだという保証もない」
「他人の記憶を抜いた理由は、あれで通すんですか」
「通していない。誰に何をしたのか、記録との照合を続ける」
ホークスは、短く息を吐いた。
相手に当たっても仕方がない。分かっている。
「すみません」
「君が謝ることじゃない」
そう言われたことが、少し痛かった。
彼女の仕事を知っていたつもりだった。何に疲れているのか、何が負担なのか。近くにいた分だけ、他の職員より理解していると思っていた。
玻璃はガラス以外に興味が薄い。
そんな説明を、自分も何度かしている。
ガラスのために何をするかは、確かめないまま。
「少なくとも、業務には戻せない。記憶操作を受けた可能性のある者の保護が先だ。自宅の確認については、本人の同意が取れた」
「俺も行きます」
担当者が顔を上げた。
「捜索の主担当にはしない。昨日の君の希望もある」
「分かってます。前に見た配置なら、俺の方が分かるところがあるでしょう」
それは仕事上の理由だった。
ほかにも理由があることまで、隠すつもりはなかった。
*
ガラスの部屋は、綺麗なままだった。
魚のいない水槽。水底を滑る光。新しく買った器は、写真と同じ位置にある。
ホークスは入口で立ち止まった。
棚の上段が、少し空いていた。
玉が並んでいた浅い皿。そこに残っているのは、五つだけだった。水槽のそばの器にも、もっとたくさん入っていたはずだ。
勝手に触らず、同行した職員へ場所を示す。
室内の写真を撮り、玻璃から預かった説明書と照合する。持ち帰るものを一つずつ記録する作業は、ひどく遅かった。
彼女の指定も細かい。器を重ねない。底に紙を敷く。持ち上げるとき、口の細い部分を掴まない。
その指示を、職員は守っていた。
棚の中の小瓶に、赤い羽がある。
先端が少し乱れている。昔はもっと、きちんと揃っていた。
ホークスはそこへ一歩近づき、足を止めた。
「その瓶も?」
背後から聞かれた。
「……玉が入ってるものを優先してください。これは、俺が渡した羽です」
職員は頷き、写真だけ撮った。
自分が貰った側なら、ずっと取っておいたと思う。
今も捨てられないのだろうと思う。
あの瓶に関してだけ、彼女と自分の気持ちが同じであればよかった。
ホークスは棚から目を離し、以前この部屋で撮った写真を出した。ガラス器の背景に写った皿を拡大する。
少なくとも、十数個。
記憶の玉かどうかは分からない。だが、なくなっていた。
*
「どこへやったの」
玻璃は、机の上の写真を覗いた。
検査室とは別の、小さな面談室だった。廊下には職員がいる。室内にも記録用のカメラがある。
二人だけではある。
それでも今、ここで話すことは、二人だけのものにはならない。
「捨てた」
「いつ」
「昨日」
「どうして」
「綺麗じゃなかったから」
ホークスは、写真を指で押さえた。
「これ。前に俺が位置ずらしたら、戻せって怒ったやつだよ」
「あのときは、あそこがよかったの」
「昨日は、違った?」
「うん」
彼女の言い分としては成立する。
ずっと見ているうちに、気に入らなくなった。配置を変えたくなった。珍しいが、あり得ないことではない。
ホークスは写真から指を離した。
「処分した場所は確認する。回収も手配してる」
「そう」
「見つからなかったら、また聞く」
「うん」
その返事が、昔から嫌いだったことを思い出した。
授業中にこちらの顔を見ていなかったとき。行く気のない誘いに相槌だけ打ったとき。
聞こえてはいる。だから返事はする。
自分の答えを変えるつもりは、少しもない。
「玻璃」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「俺に、記憶見せられたら楽なのにって言ったよね」
唇が、少し開いた。
「あれも、嘘だったんだ」
責めるつもりで持ち出したのではない。
だが、口にしたら、責める言葉にしかならなかった。
玻璃は写真を見下ろした。
「できるって、知られたくなかったから」
「そうだね」
ホークスは椅子の背に寄りかかりかけ、やめた。
「俺が知ってたら、何か困った?」
玻璃が黙る。
いつものように、読む必要のない相手の心まで察してやる気にはなれなかった。
返事を待った。
「……言うでしょ。上に」
「言うよ」
そこは、迷わなかった。
「勝手に人の記憶抜いてるって知ったら、止める」
「だから」
玻璃は、その先を言わなかった。
言われなくても分かった。
知れば止める人間だから、知らせなかった。
近かったから忘れていたわけではない。遠慮したのでも、機会がなかったのでもない。
ちゃんと自分を見て、外していた。
ホークスは膝の上で両手を合わせた。
「誰の記憶を抜いたか、思い出せる分だけでいいから話して。戻せるものがあるなら、戻さなきゃいけない」
「全部は無理だよ」
「全部じゃなくていい」
「玉が残ってないのもある」
「それも聞く」
玻璃は彼の顔を見た。
ようやく、何かを考えている目になった。
どこまで話すか。何を残すか。
今までも、こうして選んでいたのだろう。
「啓悟のは、抜いてないよ」
欲しかった返事ではなかった。
それでも、一瞬、胸の奥が緩んだ。
自分だけは傷つけられていなかった。その保証に飛びつきかけたことが、たまらなく嫌だった。
「俺の話じゃない」
玻璃の視線が止まる。
ホークスは、今度は目を逸らさなかった。
「俺にしてないならいいって、そういう話じゃないでしょ」
彼女は口を結んだ。
その顔には、傷つけてしまった相手への申し訳なさよりも、通じなかったことへの不満が先に出ていた。
知っている顔だった。
今日は、知っていることが何一つ助けにならない。
*
玻璃は、その晩も施設に残った。
業務への復帰は認められず、外部との連絡にも立ち会いを求められた。今後の扱いについて説明を受けたうえで、彼女は滞在に同意した。自宅から運ばれた物は、生活用品だけだった。
部屋へ向かう廊下で、彼女がホークスを振り返った。
「窓、ある?」
「あるよ」
「磨りガラス?」
「そこまでは見てない」
「見てよ」
つい、いつもの頼み方が出たらしい。
ホークスは扉を開けた。窓には外からの視線を遮るフィルムが貼られている。奥の灯りは見えるが、景色は分からない。
玻璃はそれを見て、あからさまに嫌な顔をした。
「これ、剥がせない?」
「確認する。勝手には剥がさないで」
「はいはい」
ベッドの端へ座り、鞄を置く。
白い手袋は、もうはめていた。
ホークスが扉へ手をかけると、玻璃が顔を上げた。
「啓悟」
彼は振り向いた。
「瓶、ちゃんとあった?」
どの瓶かは聞かなかった。
「あったよ」
「倒してない?」
「倒してない」
「そっか」
彼女は、そこで初めて肩を下ろした。
ホークスは言いかけた。あれだけ大事にできるのに、と。
言ってどうする。
ガラスが大事なことは、最初から知っていた。それと同じように人を扱うと、約束されたことは一度もない。
「今日は休んで。続きは明日」
「うん」
扉を閉める前に、玻璃がもう一度言った。
「帰れるようになったら、電球、替えてね。右のやつ、ちょっと暗い」
ホークスは取っ手を握ったまま止まった。
彼女の予定には、まだそれがある。
この部屋を出て、あの家へ戻って、自分を呼ぶ。
前と同じように羽を使えば、棚に触れずに手が届く。
「……今は、約束できない」
玻璃は彼を見た。
何か言い返すかと思ったが、唇が動いただけだった。
ホークスは扉を閉めた。
廊下で待っていた職員に、窓のフィルムを剥がせるか確認を頼んだ。それから、診療所の記憶をなくした男への面会を手配した。
まずは、そちらへ行かなければならなかった。