ガラスは赤い羽根を閉じ込める。   作:an-ryuka

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第5話 手の中に残すもの

 

映像の中の玻璃は、今より少し髪が短かった。

 

椅子に座った男の手首へ触れている。相手は公安の協力者で、違法な個性売買を仲介する集団から抜け出したばかりだった。

 

『呼び出された場所は?』

 

『駅の裏。いや、裏じゃなくて……』

 

そこで映像が止まった。

 

「閲覧前の聴取では、駅裏の診療所と答えている。建物の特徴も、受付で待った時間も。ただ、肝心の医師について話そうとすると混乱した」

 

担当者が、別の記録を開く。

 

「目盛の報告では、極度の恐怖による想起困難。以後の聴取では、診療所へ行ったこと自体を思い出せなくなっている」

 

ホークスは画面を見た。

 

玻璃の左手は、男の手首に置かれたままだ。右手は机の陰。頭痛を訴えて中断し、その後は医療担当に引き継いでいる。

 

あの陰で、何ができた。

 

「薬は?」

 

「閲覧前には使っていない。ただし、元々状態が悪い。これだけで彼女の関与とは断定できない」

 

「他には」

 

「似たものが二件。いずれも断片的な供述をしたあと、該当する時間を思い出せなくなっている」

 

数年分を洗って、三件。

 

多いのか、少ないのか。その判断をするための比較資料も、まだ揃っていない。

 

これまで玻璃が担当したのは、そもそもまともに話せない人間が多かった。薬、怪我、恐怖、疲労。本人の話と記憶が食い違えば、彼女の報告を優先することもあった。

 

その報告の正しさを、誰が確かめていたのか。

 

「診療所は?」

 

「当時の確認では空き物件だった。写真も設備も残っていない」

 

ホークスは、停止した映像をもう一度動かしてもらった。

 

玻璃が手を離す。右手でこめかみを押さえ、目を閉じる。

 

見慣れた動作だった。

 

何度も休ませた。水を持ってきたことも、車を呼んだこともある。

 

必要なことをした。その判断まで間違いだったとは思わない。

 

ただ、自分が部屋を出たあと、彼女が何をしていたかは知らない。

 

「再検査は明朝。関連する職員には、接触を伴う情報保全上の問題が見つかったためと説明する。彼女にも、その範囲で通知する」

 

「家の方は」

 

「任意の協力を求める。拒否も含めて記録する。監視は継続中だ」

 

ホークスは頷いた。

 

画面の玻璃は、もう手袋をはめていた。

 

*

 

「先生。玉、預かって」

 

玻璃は、黒霧が開いた小さな霧の向こうへ言った。

 

公安からの通知を読んだあとだった。明日の予定が変更されたこと。個性の再評価を行うこと。今夜以降、業務上の対象者への接触を停止すること。

 

どれも丁寧な文章だったが、お願いではなかった。

 

「どれを?」

 

「記憶の。あと、どっちか分かんないのも」

 

棚の前に膝をつき、玻璃は浅い皿を引き寄せた。

 

綺麗なものから並べているうちに、いつ作ったものか分からなくなった玉がある。普通に買ったものと一緒に置いてあるから、数もすぐには出てこない。

 

中身を確かめるために飲むなんて嫌だった。戻すためにはまた作らなければならないし、同じ形になるとも限らない。

 

「隠していた作用があると認めれば、君への疑いは強くなるよ」

 

「でも、ないって言って、あるのが出てきたら、もっと怒るでしょ」

 

「そうだね」

 

「だから、言う。できることは。先生のことは言わない」

 

玻璃は丸い玉を二つ避けた。以前、店で買ったものだ。歪みがなくて綺麗だが、今はそれが不満だった。隣の手作りの玉の方が、照明を少し大きく映していた。

 

取り上げられるかもしれない。

 

検査で割られたら、取り返しがつかない。

 

「私が戻るまで、触らないで。ドクターにも貸さないで」

 

「君が戻れなかったら?」

 

玻璃の手が止まった。

 

「戻るよ」

 

「公安がそう判断するとは限らない」

 

「……だから、先に言うんじゃん」

 

霧の向こうで、先生が小さく笑った。馬鹿にされた気がして、玻璃は膝の上の布を引っ張った。

 

先生の役に立つために、ずっと気をつけていた。言ってはいけないことは言わなかった。見たことを全部報告する必要はないと教わって、必要なものを持ち帰った。

 

今度も、できるだけそうしたいだけなのに。

 

「分かった。預かろう。君がこちらへ戻るときには、部屋も用意する」

 

「公安やめろってこと?」

 

「まだそうは言っていないよ。ただ、残るために何でもする必要はない」

 

玻璃は皿の縁を親指で撫でた。

 

残れなくなったら、この家を捨てることになるのだろうか。水槽を空にして、棚を外して、一つずつ包んで。せっかく、あの器の場所を決めたところだったのに。

 

「家はそのままがいい」

 

「それは、状況を見て考えよう」

 

「絶対そう言う」

 

「黒霧に持たせなさい。選び終わるまで待たせていい」

 

先生の姿が霧の奥へ消えたあとも、玻璃はしばらく動かなかった。

 

やがて、棚の下段から箱を出した。買ったときの薄紙を敷き、玉を一つずつ置いていく。

 

黒霧は急かさなかった。

 

赤い羽の瓶には、手を伸ばさなかった。

 

あれは、預ける必要がない。

 

*

 

再検査の部屋には、ベッドがなかった。

 

机と椅子が四脚。記録用のカメラ。医師、個性運用の担当者、そしてホークス。

 

玻璃は入ってきて、まずホークスを見た。

 

「おはようございます、ホークスさん」

 

「おはようございます」

 

いつもどおりに返した。

 

彼女もそれ以上は言わず、指定された椅子へ座った。白い手袋を外す。机の中央には、まだ手を出さない。

 

「始める前に、訂正したいことがあります」

 

担当者のペンが止まった。

 

「申告内容について?」

 

「はい。読むだけじゃありません」

 

ホークスは、玻璃の指先を見た。

 

爪は短い。手首に飾りはない。いつも、物を傷つけないようにしている手だった。

 

「見せられます。触っている相手に、私が覚えていることを」

 

「以前から?」

 

「子供の頃から」

 

声は掠れなかった。

 

「記憶を取り出すこともできます。取り出した記憶は、元の人からなくなります。玉になります。それを飲むと、その記憶を見られます」

 

ホークスの耳の中で、空調の音が急にはっきりした。

 

知っていた、と言うには早い。

 

でも、そうでなければいいと思っていた。

 

その分だけ、返事をするまでに息が要った。

 

「今、玉は持っていますか」

 

玻璃がホークスを見る。

 

「持っていません」

 

「自宅には」

 

「自分の記憶で作ったものがあります。他のガラス玉と一緒に置いてあるので、すぐには分からないのもあります」

 

嘘か、本当か。

 

机の下に入れた手が、膝を掴みかけた。ホークスは指を開いた。

 

記録を取っている担当者が、順に質問を始めた。

 

いつからできる。何を取り出せる。取り出す量は選べるか。元に戻せるか。記憶を作り変えられるか。

 

「起きてないことは作れません。抜くのは、短いところだけなら。人のだと、長いと疲れます」

 

「抜いた記憶は、本人にも戻せる?」

 

「飲めば」

 

「第三者が飲んだ場合は?」

 

「その人の記憶になるっていうか……見られるようになります。自分が最初からやったことだとは、普通は思わないです」

 

保護下の男が話したことと、合う。

 

ホークスは机に置かれた自分の資料を開いた。

 

「先日、あなたが閲覧した三人について確認します。病院で会う以前に、接触したことはありますか」

 

「ありません」

 

即答だった。

 

「彼らの記憶を抜いたことは」

 

「ありません」

 

玻璃は、まっすぐこちらを見ていた。

 

そこに怯えがあれば、何かが分かっただろうか。言い淀んだら、嘘だと思っただろうか。

 

小さい頃から、玻璃は嫌いな食べ物を残しても平気な顔をしていた。悪いと思っていないことについて、困った顔をする子ではなかった。

 

同じ顔をしている。

 

だから、判断に使えなかった。

 

「過去の業務で、対象者の記憶を抜いたことはありますか」

 

担当者が尋ねた。

 

玻璃はそこで、一度だけ視線を机へ落とした。

 

「あります」

 

ホークスは資料から顔を上げた。

 

「誰の、何を」

 

「全部は覚えてません。失敗して、ちゃんと玉にならなかったのもあるし」

 

「指示のない操作をした、ということですね」

 

「はい」

 

「目的は?」

 

玻璃は手を組んだ。

 

「できるか、試しました」

 

部屋の中が静かになった。

 

ホークスは、その言い方に腹が立った。

 

報告書では怯えていた男が、あの椅子に座っていた。何が起きたのか、誰に何をされたのか、自分でも思い出せず、彼女に手を預けた。

 

その時間を、試したと言う。

 

「本人には説明したんですか」

 

玻璃がホークスへ目を戻す。

 

「していません」

 

「戻しました?」

 

「戻していません」

 

もう一つ聞けば、声が変わる。

 

ホークスは口を閉じた。医師が彼の方をちらりと見てから、検証の手順を確認し始める。

 

怒る順番を待て。

 

まず、何が起きるのかを確かめろ。

 

*

 

試験は、予定よりも慎重なものになった。

 

未申告の作用がある以上、他人の記憶を抜かせることはできない。最初は玻璃自身が見た、無害な情報だけを使う。

 

担当者が端末に無作為な数字と図形を表示した。玻璃だけが三十秒間見る。画面を消し、その内容を口頭で答えさせて記録する。

 

次に、内容を知らない医師へ、同意を得て接触した。

 

医師が答えた数字と図形は一致した。

 

それから、抜き出す試験に移った。

 

玻璃は目を閉じた。両手を軽く重ね、しばらく動かない。

 

ホークスは指の隙間から目を離さなかった。

 

やがて、人差し指が持ち上がる。

 

掌に、丸いものがあった。

 

音もしなかった。

 

透明な、小さなガラス玉。

 

机の上に落とせば転がりそうなそれを、玻璃は親指と人差し指で摘まんだ。照明へかざし、少し回す。

 

その顔を、ホークスは知っていた。

 

店の写真を見せたとき。棚の照明を直したとき。好みのものが、思ったとおりに見えたとき。

 

人の頭から取り出したものにも、同じ顔をするのか。

 

「提出してください」

 

担当者の声で、玻璃は玉を下ろした。

 

「落とさないでくださいね」

 

用意された皿へ置く。硝子の触れる小さな音がした。

 

同じ数字と図形を尋ねられると、玻璃は答えられなかった。候補を示されても、首を傾げる。本人が忘れたふりをしている可能性は残る。今日の試験だけでは、そこまでは証明できない。

 

摂取による作用の検証は、物質としての検査と医師の判断を待つことになった。

 

誰も、玉を口へ持っていかなかった。

 

玻璃が皿へ向けた視線を、ホークスは見ていた。

 

「返却については、検査が済んでから説明します」

 

担当者が告げる。

 

「割らない検査にできます?」

 

「保証はできません」

 

玻璃の眉が寄った。

 

この場で初めて、はっきりとした不満が顔に出た。

 

*

 

玻璃が別室へ移されたあと、ホークスは机に残された玉を見ていた。

 

触らなかった。

 

「秘密にしていた理由については、説明を拒んだわけではない」

 

担当者が言った。

 

「子供の頃に申告せず、そのまま言い出せなくなった、と。ただし、今の申告が全てだという保証もない」

 

「他人の記憶を抜いた理由は、あれで通すんですか」

 

「通していない。誰に何をしたのか、記録との照合を続ける」

 

ホークスは、短く息を吐いた。

 

相手に当たっても仕方がない。分かっている。

 

「すみません」

 

「君が謝ることじゃない」

 

そう言われたことが、少し痛かった。

 

彼女の仕事を知っていたつもりだった。何に疲れているのか、何が負担なのか。近くにいた分だけ、他の職員より理解していると思っていた。

 

玻璃はガラス以外に興味が薄い。

 

そんな説明を、自分も何度かしている。

 

ガラスのために何をするかは、確かめないまま。

 

「少なくとも、業務には戻せない。記憶操作を受けた可能性のある者の保護が先だ。自宅の確認については、本人の同意が取れた」

 

「俺も行きます」

 

担当者が顔を上げた。

 

「捜索の主担当にはしない。昨日の君の希望もある」

 

「分かってます。前に見た配置なら、俺の方が分かるところがあるでしょう」

 

それは仕事上の理由だった。

 

ほかにも理由があることまで、隠すつもりはなかった。

 

*

 

ガラスの部屋は、綺麗なままだった。

 

魚のいない水槽。水底を滑る光。新しく買った器は、写真と同じ位置にある。

 

ホークスは入口で立ち止まった。

 

棚の上段が、少し空いていた。

 

玉が並んでいた浅い皿。そこに残っているのは、五つだけだった。水槽のそばの器にも、もっとたくさん入っていたはずだ。

 

勝手に触らず、同行した職員へ場所を示す。

 

室内の写真を撮り、玻璃から預かった説明書と照合する。持ち帰るものを一つずつ記録する作業は、ひどく遅かった。

 

彼女の指定も細かい。器を重ねない。底に紙を敷く。持ち上げるとき、口の細い部分を掴まない。

 

その指示を、職員は守っていた。

 

棚の中の小瓶に、赤い羽がある。

 

先端が少し乱れている。昔はもっと、きちんと揃っていた。

 

ホークスはそこへ一歩近づき、足を止めた。

 

「その瓶も?」

 

背後から聞かれた。

 

「……玉が入ってるものを優先してください。これは、俺が渡した羽です」

 

職員は頷き、写真だけ撮った。

 

自分が貰った側なら、ずっと取っておいたと思う。

 

今も捨てられないのだろうと思う。

 

あの瓶に関してだけ、彼女と自分の気持ちが同じであればよかった。

 

ホークスは棚から目を離し、以前この部屋で撮った写真を出した。ガラス器の背景に写った皿を拡大する。

 

少なくとも、十数個。

 

記憶の玉かどうかは分からない。だが、なくなっていた。

 

*

 

「どこへやったの」

 

玻璃は、机の上の写真を覗いた。

 

検査室とは別の、小さな面談室だった。廊下には職員がいる。室内にも記録用のカメラがある。

 

二人だけではある。

 

それでも今、ここで話すことは、二人だけのものにはならない。

 

「捨てた」

 

「いつ」

 

「昨日」

 

「どうして」

 

「綺麗じゃなかったから」

 

ホークスは、写真を指で押さえた。

 

「これ。前に俺が位置ずらしたら、戻せって怒ったやつだよ」

 

「あのときは、あそこがよかったの」

 

「昨日は、違った?」

 

「うん」

 

彼女の言い分としては成立する。

 

ずっと見ているうちに、気に入らなくなった。配置を変えたくなった。珍しいが、あり得ないことではない。

 

ホークスは写真から指を離した。

 

「処分した場所は確認する。回収も手配してる」

 

「そう」

 

「見つからなかったら、また聞く」

 

「うん」

 

その返事が、昔から嫌いだったことを思い出した。

 

授業中にこちらの顔を見ていなかったとき。行く気のない誘いに相槌だけ打ったとき。

 

聞こえてはいる。だから返事はする。

 

自分の答えを変えるつもりは、少しもない。

 

「玻璃」

 

名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。

 

「俺に、記憶見せられたら楽なのにって言ったよね」

 

唇が、少し開いた。

 

「あれも、嘘だったんだ」

 

責めるつもりで持ち出したのではない。

 

だが、口にしたら、責める言葉にしかならなかった。

 

玻璃は写真を見下ろした。

 

「できるって、知られたくなかったから」

 

「そうだね」

 

ホークスは椅子の背に寄りかかりかけ、やめた。

 

「俺が知ってたら、何か困った?」

 

玻璃が黙る。

 

いつものように、読む必要のない相手の心まで察してやる気にはなれなかった。

 

返事を待った。

 

「……言うでしょ。上に」

 

「言うよ」

 

そこは、迷わなかった。

 

「勝手に人の記憶抜いてるって知ったら、止める」

 

「だから」

 

玻璃は、その先を言わなかった。

 

言われなくても分かった。

 

知れば止める人間だから、知らせなかった。

 

近かったから忘れていたわけではない。遠慮したのでも、機会がなかったのでもない。

 

ちゃんと自分を見て、外していた。

 

ホークスは膝の上で両手を合わせた。

 

「誰の記憶を抜いたか、思い出せる分だけでいいから話して。戻せるものがあるなら、戻さなきゃいけない」

 

「全部は無理だよ」

 

「全部じゃなくていい」

 

「玉が残ってないのもある」

 

「それも聞く」

 

玻璃は彼の顔を見た。

 

ようやく、何かを考えている目になった。

 

どこまで話すか。何を残すか。

 

今までも、こうして選んでいたのだろう。

 

「啓悟のは、抜いてないよ」

 

欲しかった返事ではなかった。

 

それでも、一瞬、胸の奥が緩んだ。

 

自分だけは傷つけられていなかった。その保証に飛びつきかけたことが、たまらなく嫌だった。

 

「俺の話じゃない」

 

玻璃の視線が止まる。

 

ホークスは、今度は目を逸らさなかった。

 

「俺にしてないならいいって、そういう話じゃないでしょ」

 

彼女は口を結んだ。

 

その顔には、傷つけてしまった相手への申し訳なさよりも、通じなかったことへの不満が先に出ていた。

 

知っている顔だった。

 

今日は、知っていることが何一つ助けにならない。

 

*

 

玻璃は、その晩も施設に残った。

 

業務への復帰は認められず、外部との連絡にも立ち会いを求められた。今後の扱いについて説明を受けたうえで、彼女は滞在に同意した。自宅から運ばれた物は、生活用品だけだった。

 

部屋へ向かう廊下で、彼女がホークスを振り返った。

 

「窓、ある?」

 

「あるよ」

 

「磨りガラス?」

 

「そこまでは見てない」

 

「見てよ」

 

つい、いつもの頼み方が出たらしい。

 

ホークスは扉を開けた。窓には外からの視線を遮るフィルムが貼られている。奥の灯りは見えるが、景色は分からない。

 

玻璃はそれを見て、あからさまに嫌な顔をした。

 

「これ、剥がせない?」

 

「確認する。勝手には剥がさないで」

 

「はいはい」

 

ベッドの端へ座り、鞄を置く。

 

白い手袋は、もうはめていた。

 

ホークスが扉へ手をかけると、玻璃が顔を上げた。

 

「啓悟」

 

彼は振り向いた。

 

「瓶、ちゃんとあった?」

 

どの瓶かは聞かなかった。

 

「あったよ」

 

「倒してない?」

 

「倒してない」

 

「そっか」

 

彼女は、そこで初めて肩を下ろした。

 

ホークスは言いかけた。あれだけ大事にできるのに、と。

 

言ってどうする。

 

ガラスが大事なことは、最初から知っていた。それと同じように人を扱うと、約束されたことは一度もない。

 

「今日は休んで。続きは明日」

 

「うん」

 

扉を閉める前に、玻璃がもう一度言った。

 

「帰れるようになったら、電球、替えてね。右のやつ、ちょっと暗い」

 

ホークスは取っ手を握ったまま止まった。

 

彼女の予定には、まだそれがある。

 

この部屋を出て、あの家へ戻って、自分を呼ぶ。

 

前と同じように羽を使えば、棚に触れずに手が届く。

 

「……今は、約束できない」

 

玻璃は彼を見た。

 

何か言い返すかと思ったが、唇が動いただけだった。

 

ホークスは扉を閉めた。

 

廊下で待っていた職員に、窓のフィルムを剥がせるか確認を頼んだ。それから、診療所の記憶をなくした男への面会を手配した。

 

まずは、そちらへ行かなければならなかった。

 

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