「まだ、あの人に触らせるんですか」
男は、ホークスが名乗るより先にそう聞いた。
診療所の記憶を失った協力者。今は、紹介された工場で働いている。面会は昼休みに合わせた。作業服の袖には細かな金属の粉がつき、卓上の弁当は半分残っていた。
「いいえ。今日は、話を聞かせてもらいに来ました」
男の肩が少し下がった。
ホークスは向かいに座り、書類を出さずに待った。男は蓋を閉めかけ、箸を中へ入れ忘れたことに気づいた。置き直した指が震えている。
「私が忘れたこと、あの人は覚えてるんでしょう」
「覚えている可能性があります」
「それなら、聞けばいいじゃないですか」
もっともだった。
本人に聞いている。記録と照合している。返ってくるのは、忘れた、試した、残っていない。
その説明を、この男に引き受けさせることはできない。
「こちらが何を確かめたか、先に説明します。答えたくないことは、答えなくて構いません」
男はホークスを見たまま、小さく頷いた。
玻璃が申告した作用を説明すると、男は右手首を左手で握った。
「忘れたのは、私が弱かったからじゃない?」
ホークスはすぐには答えなかった。
「あなたのせいだと判断する根拠はありません。個性で記憶を抜かれた可能性がある。それを調べています」
男の目が、卓上へ落ちた。
しばらくして、弁当箱を脇へ寄せる。
「前にも渡したものがあるんです。診療所から貰った紙じゃなくて、その前の」
男は携帯を操作した。古いメールを開くまでに、二度検索し直した。
紹介状だった。
違法な仕事から抜けたいと相談した際、体調を調べた方がいいと言われて送られてきたもの。添付された案内には、診療所の運営を委託している医療法人と、予約担当者の連絡先が記されていた。
当時も押収資料に含まれていた。だが、その法人は個性医療の相談窓口を複数請け負っており、案内を発行したこと自体に不審な点はなかった。
「ここを紹介されたところまでは覚えてるんです。行く前、俺の個性でも、もう少しまともな仕事があるかもしれないって」
そこで男は口を閉じた。
ホークスは画面の文字を読んだ。
希望を持たせて、呼び出した。
そのあとを、玻璃が抜いたかもしれない。
「これ、もう一度調べてもらえますか。前は、行ってないんじゃないかって、自分でも思ってしまって」
「調べます」
ホークスは、今度はすぐ答えた。
*
同じ医療法人の名前が、ほかの二件にもあった。
それだけでは、三人が同じ医師に会ったことにはならない。だが、閲覧の前後で記憶を失った者たちが、皆、その系列の窓口を通っていた。
調べる順番は変わった。
午後には、玻璃の最初の個性登録に添付された診断書も、机に並んでいた。
施設名は違う。運営に関与していた法人が同じだった。
「公安より前か」
ホークスが言うと、担当者は頷いた。
「ただし、系列の施設を受診した子供は多い。この一致だけでは関係を断定できない」
「分かってます。彼女には、まだ伝えないでください」
疑いの根を、彼女と過ごした時間のもっと前まで掘り返す。
そういう仕事になった。
関連先へ照会を始める一方で、当時の診療所に出入りしていた職員の所在を確認した。既に廃業した場所もある。名前だけ残り、実際の運営を別の者に任せていた施設もあった。
手間はかかったが、全てが消えていたわけではない。
翌日、医療機器の搬入を担当していた業者が、一つの住所を挙げた。
診療所の廃止後も、同じ担当者から保守の依頼を受けていたという。倉庫名義の建物だった。契約書には、低温設備と大型の培養槽の管理項目がある。
脳無。
その単語を、塚内が会議で口にした。
現場を確認する部隊が組まれ、ホークスは施設の警戒へ戻った。調査先への照会が相手に伝われば、玻璃との接触を試みるかもしれない。
こちらにも、待つ理由ができた。
*
「剥がしてくれたんだ」
玻璃は窓に近づいた。
目線の高さだけ、フィルムが取り除かれている。見えるのは中庭の植え込みと向かいの棟だった。綺麗な眺めとは言い難いが、白く曇っているよりはよかったらしい。
ホークスは扉のそばに立ったまま、彼女を見ていた。
昼の聴取で、玻璃は過去に記憶を抜いた相手を二人挙げた。いずれも、今回見つかった三件とは別の人物だった。
申告のなかった操作が増えた。
肝心の三件については、はっきり覚えていないと言った。
「電球の話は、まだ返事できないけど」
「それは、帰ってからでいいよ」
玻璃は窓から離れ、机に置かれた紙コップを持った。
中身は水だった。
「これも、ガラスのにできない?」
「割れる物は、今は難しい」
「割らないのに」
「そうだろうけど。俺だけでは決められんから」
玻璃が口を尖らせた。
ホークスは、その顔を見ていられず、机へ視線を移した。
残した食事の記録。追加で必要な生活用品の申請。充電器と、髪を留める物。
この場所で数日過ごすつもりは、ある。
それが、逃げるつもりはないことの証明にはならない。
「今日は、もう終わり?」
「聴取はね」
「啓悟も帰る?」
「仕事は残ってる」
「ふうん」
紙コップの縁が、彼女の指で少しへこんだ。
そのとき、廊下へ散らしていた羽が、靴音を拾った。
予定どおり、巡回の職員が角を曲がる。別の羽は隣室の換気口にある。そこには変化がない。
部屋の奥で、空気の流れが乱れた。
ホークスは考えるより先に羽を放った。
玻璃と壁の間へ、大きな羽を差し入れる。その肩を引いて、机から離した。
黒い霧が、机の脚を呑んだ。
「離れて!」
玻璃は、ホークスの方を見なかった。
霧の中へ顔を向けた。
「あ、黒霧」
聞いたことのない声だった。
明るく、少し甘えて、やっと来た相手を責めるような。
「遅い」
*
ホークスは彼女を入口側へ引き寄せた。
羽で肩と腰を支え、霧から離す。同時に廊下へ警報を送る。
黒い面が立ち上がり、その向こうに金属の襟が見えた。
「玻璃さん。お迎えに参りました」
「今日は帰ってもらえます?」
ホークスは長い羽を抜いた。
「本人と話してる途中なんで」
「彼女をお預かりします」
「断る」
羽を二本、左右へ走らせる。
黒霧は前と同じように出口をずらした。一本が天井へ、もう一本が開いた扉の向こうへ抜ける。ホークスは廊下の職員に届く前に止めた。
予想した動きだった。
本命の細い羽は、床を滑っていた。黒霧の正面を避け、机の陰から霧の縁へ入れる。どこへ出るかは分からない。一本でも、向こう側の音を拾えればいい。
玻璃が背中の羽を掴んだ。
「啓悟、放して」
「下がってて」
「帰るから」
ホークスは振り返った。
玻璃は、彼の翼をどかそうとしていた。
人質に取られているのでも、脅されて呼ばれたのでもない。先に行く人の後を追うように、霧へ足を出している。
その足首を、羽で止めた。
「まだ帰れない」
「迎えに来てるじゃん」
「誰の迎えなの」
玻璃は眉を寄せた。
答えずに手袋を引っ張ったので、ホークスはその両手を羽で包んだ。
「脱がないで」
「痛い」
締めつけすぎてはいない。だが、抵抗すれば指が圧迫される。
ホークスは拘束を少し広げた。手を自由にはしなかった。
黒霧の目が、その手元へ向いた。
「乱暴はおやめください」
「そう言うなら、閉じてくれる?」
霧の縁から、三本目の羽が戻ってきた。
少し遅れた。
通った先で聞こえたのは、低い機械音と、遠くの金属音。人の声は拾えなかった。
ホークスはその羽も戻さず、室内へ散らした。
「彼女に用があるのは、オール・フォー・ワン?」
黒霧は答えなかった。
玻璃が、ホークスを見た。
それまでの不満とは違う、目の動きだった。
「……誰から聞いたの」
体の奥が、冷えた。
知らない名を聞かれた顔ではなかった。
知っていることを知られた顔だった。
「先生がお待ちです」
黒霧が言った。
玻璃の肩が、前へ動いた。
ホークスはそれを止めた。
*
次の出口は、足元に開いた。
床が黒くなるより早く、ホークスは玻璃を抱えて跳んだ。
背中を天井にぶつけない高さで浮き、入口へ抜ける。玻璃が足をばたつかせた。踵が彼の腿に当たる。
「戻って、黒霧!」
ホークスを呼ぶ声ではない。
分かった。
もう、分かったから。
「動かんで。落ちる」
「放してよ!」
廊下の先にも黒い穴が開いた。
向こうに部屋が見える。玻璃がいた部屋。逃げ道を戻すつもりだ。
ホークスは壁を蹴り、窓のある側へ折れた。先行させた羽が窓の留め具を外す。狭い開口部を抜けるため、一瞬だけ翼を畳んだ。
玻璃の肩を庇って、外へ出る。
夕方の空気が顔に当たった。
彼女が息を呑む。
翼を開いて、中庭を横切った。屋上へは上がらない。真っ直ぐ飛べば、行き先に穴を作られる。
背後の窓から、黒霧の姿がせり出した。
金属の襟が、今度は建物の外へ出ていた。
ホークスは室内に残した羽を動かした。
後ろから襟を挟む。横へ引く。
同時に、外へ回していた一本を下から差し入れた。
黒霧の体が、窓枠へぶつかった。硬い音。霧が乱れる。
玻璃がそれを見た。
「やめて!」
彼女の声に、ホークスは手を緩めなかった。
捕まえる。
この男を捕まえれば、連れていかれる者を止められる。どこへ隠しても入り込まれる家族を、ようやく守れるかもしれない。
羽をもう一本、襟の下へ回す。
黒霧が体を捻った。
窓と襟の間に、霧が膨らむ。挟んだ羽の一本が途中から消え、隣棟の壁際へ出た。
拘束の角度が変わった。
ホークスは追った。残る一本で襟を押さえ、壁へ固定し直そうとする。
だが、その羽に黒い面が重なった。
先端の感覚が途切れる。
切られた。
ホークスは即座に残りを引いた。黒霧の襟に、細い赤い筋が残っていた。
「黒霧!」
玻璃が彼の腕から身を乗り出した。
危ない。
腰を抱え直し、強く引き寄せる。彼女の頭が肩に当たった。
黒霧の姿が窓の内側へ退く。
その奥で、短い電子音が鳴った。何かを聞いている。ホークスは残した羽へ意識を集中したが、声は霧の向こうにあって拾えなかった。
「申し訳ありません、玻璃さん」
黒霧が言った。
「今は、別の場所へ向かわなければなりません」
「は?」
玻璃の体が止まった。
「待って。私、ここ」
「必ず、お迎えに参ります」
「今でいいじゃん!」
霧が閉じ始める。
ホークスは最後の羽を走らせた。金属の襟はもう見えない。黒い縁を抜けた羽は、誰もいない部屋の壁へ触れた。
玻璃が、腕の中で暴れた。
「黒霧!」
返事はなかった。
中庭の向こうに職員が出てくる。ホークスは無線で退避を指示し、二度、進路を変えた。追ってくる出口はない。
建物の陰へ降りたとき、玻璃はまだ窓を見ていた。
髪が口元に張りついている。
ホークスは足を地面につけさせた。手を離す前に、羽で両腕を確保する。
「触らないで」
玻璃が言った。
ホークスは、その言葉を受け止めた。
「今は、離せない」
*
警戒区域を変え、診察を終え、改めて向かい合うまでに一時間かかった。
玻璃の手首には、抵抗した際の赤い痕があった。骨にも筋にも異常はないと、医師は確認した。
ホークスの脛には、彼女が蹴った痕がある。
どちらも、それについて話さなかった。
「いつから」
ホークスが聞くと、玻璃は机の端を見たまま黙っていた。
部屋には職員が二人いる。さっきまでよりも広い机が、二人の間に置かれていた。
「公安に来る前?」
返事はなかった。
「玻璃。オール・フォー・ワンを知っていたのは、公安に来る前から?」
玻璃が顔を上げた。
「先生のこと、そういうふうに呼ばないで」
ホークスは唇を閉じた。
そういうふうに。
名前を言っただけだった。彼女には、それだけで気に入らない。
「じゃあ、先生は、いつから先生なの」
「小さいときから」
「公安へ来たのも、その人の指示?」
玻璃は、しばらく彼を見た。
「うん」
職員のペンが動く。
ホークスは、彼女が施設へ来た日を思い出した。
名前の呼び方に文句を言う子だった。目盛じゃなくて玻璃。こっちがいいから、こっちで呼んで。
誰にでもそう言っていたのだろう。
それでも自分に言われたときは、少し嬉しかった。
その時点で、もういた。
彼女の側には、こちらの知らない人間が。
「頼まれて、ここで知ったことを渡してた?」
「……全部じゃない」
「神野の捜査は」
玻璃の指が、手袋の縫い目を押した。
「言った」
ホークスは息を吐いた。
書類を揃える必要は、もうなかった。
それでも、聞かなければならないことがあった。
「あの店の写真は?」
玻璃の指が止まる。
「俺が見せた記憶も、渡した?」
「うん」
「どうして」
「割れたら嫌だったから」
部屋の中で、誰かが椅子を小さく鳴らした。
ホークスは玻璃を見ていた。
「店を残してって、頼んだの」
「頼んだ」
「人がいたからじゃなくて?」
玻璃が眉を寄せた。
「ガラスがあったからだよ」
知っていた。
それくらい、分かっていたはずだった。
あの日、瓦礫を運ばなくて済んだ。焼けた通りを走らずに済んだ。捕まっていた二人は、生きて戻った。
店の人は、子供が助かったと聞いて喜んだ。
その出来事の中に、自分が彼女へ見せた短い記憶が混ざっている。
何人がどういうつもりで動いて、あの結果になったのか。
玻璃一人を責めれば、元の形へ戻るものではなかった。
「爆豪君たちを返したのは、先生の判断?」
「知らない。先生に聞けば」
投げやりな言い方だった。
ホークスは机に置いた手を引いた。
「聞けるなら、聞くよ」
玻璃の目が、少し動いた。
「俺には、迎えに来てくれんからね」
笑いにするつもりの言葉が、笑いにならなかった。
玻璃も笑わなかった。
*
夜になって、現場から報告が届いた。
倉庫ではなく、稼働中の研究施設だった。
部隊の到着時、設備の一部は搬出されていたが、全ては間に合っていなかった。管理を担当する職員二人を確保。意識のない収容者を四人、救出。
黒霧の出現が確認されたのは、突入の直前だった。
主要な関係者と、いくつかの機材を運び出している。
玻璃を置いていった時刻と、重なった。
ホークスは報告書を二度読んだ。
間に合わなかったものもある。
こちらが奪い返したものも、ちゃんとある。
だが、彼女を捨てて逃げたのだと、喜ぶ気にはなれなかった。
黒霧は必ず迎えに来ると言った。
玻璃は、その言葉を疑っていない顔をしていた。
机の端へ携帯を置くと、調査担当者から新しい写真が届いた。施設に残された記録の一部だった。
個性の組み合わせ。検体番号。移植に関する経過。
その中に、人体の写真があった。
ホークスは手を止めた。
寝台に横たわる、若い男。
別の頁には、見覚えのある金属製の部品が写っている。今日、羽で挟んだ襟とよく似ていた。
「黒霧に関係する資料かもしれません。身元の照合を進めています」
担当者はそう言った。
ホークスは、画面を伏せた。
今日の彼女の声が、耳から離れなかった。
遅い。
迎えに来てるじゃん。
今でいいじゃん。
自分の知らないところで、ああいう声で話していた。
誰にも心を開かない人間だったわけではない。
こちらに、開かなかった部分があっただけだ。
携帯がもう一度震えた。
今度は、最初に会った協力者からだった。
昼間のことを家族に話せたという。記憶がなくなったのをずっと自分のせいだと思っていた、とも書いてある。
最後に、一行。
『思い出せなくても、あったことにはなるんですよね』
ホークスは、すぐに返事を書いた。
なる。
あなたが忘れていても、調べる。見つかったことは伝える。
送ってから、椅子を引いた。
玻璃のところへ行く前に、もう一度、現場の資料を見ることにした。
*
「玻璃は」
弔は、戻ってきた黒霧の肩越しを見た。
誰もいない。
「連れてこいって言っただろ」
「申し訳ありません。途中で、先生から指示が」
「先生、先生って。あいつは?」
黒霧の襟に傷があることに気づき、弔の指が止まった。
爪が首筋に触れたまま、ゆっくり動く。
「誰がやった」
「ホークスです」
聞いたことのある名前だった。
玻璃が、たまに口にしていた。羽が便利だとか、勝手に物を動かすとか、そういうどうでもいい話の中で。
弔はカウンターの上のグラスを掴んだ。
その隣に、透明な小さな置物があった。
玻璃が勝手に置いていったものだ。店に合うと言って、黒霧に拭き方まで指図していた。
弔はグラスを置物から離して、握り潰した。
「返せよ」
誰に言ったのか、自分でも選ばなかった。
奥のモニターから、先生の声がした。
「取り戻すよ、弔」
「いつ」
「向こうが、彼女を渡したくなるときに」
弔が画面を睨む。
「待てって言うのか」
「今すぐ押し入れば、玻璃も巻き込む。黒霧は場所を変えられる前に追えるよう準備する。君にも、別に頼みたいことがある」
先生の声は、いつもと変わらなかった。
「彼女が覚えている情報は、公安にとっても価値がある。向こうも、すぐには手放せないだろうね」
黒霧の足元には、避難させた機材の箱が積まれていた。
その一つだけ、薄紙で丁寧に包まれた玉が入っている。
玻璃はまだ、戻っていなかった。