ガラスは赤い羽根を閉じ込める。   作:an-ryuka

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第6話 迎えの手

 

「まだ、あの人に触らせるんですか」

 

男は、ホークスが名乗るより先にそう聞いた。

 

診療所の記憶を失った協力者。今は、紹介された工場で働いている。面会は昼休みに合わせた。作業服の袖には細かな金属の粉がつき、卓上の弁当は半分残っていた。

 

「いいえ。今日は、話を聞かせてもらいに来ました」

 

男の肩が少し下がった。

 

ホークスは向かいに座り、書類を出さずに待った。男は蓋を閉めかけ、箸を中へ入れ忘れたことに気づいた。置き直した指が震えている。

 

「私が忘れたこと、あの人は覚えてるんでしょう」

 

「覚えている可能性があります」

 

「それなら、聞けばいいじゃないですか」

 

もっともだった。

 

本人に聞いている。記録と照合している。返ってくるのは、忘れた、試した、残っていない。

 

その説明を、この男に引き受けさせることはできない。

 

「こちらが何を確かめたか、先に説明します。答えたくないことは、答えなくて構いません」

 

男はホークスを見たまま、小さく頷いた。

 

玻璃が申告した作用を説明すると、男は右手首を左手で握った。

 

「忘れたのは、私が弱かったからじゃない?」

 

ホークスはすぐには答えなかった。

 

「あなたのせいだと判断する根拠はありません。個性で記憶を抜かれた可能性がある。それを調べています」

 

男の目が、卓上へ落ちた。

 

しばらくして、弁当箱を脇へ寄せる。

 

「前にも渡したものがあるんです。診療所から貰った紙じゃなくて、その前の」

 

男は携帯を操作した。古いメールを開くまでに、二度検索し直した。

 

紹介状だった。

 

違法な仕事から抜けたいと相談した際、体調を調べた方がいいと言われて送られてきたもの。添付された案内には、診療所の運営を委託している医療法人と、予約担当者の連絡先が記されていた。

 

当時も押収資料に含まれていた。だが、その法人は個性医療の相談窓口を複数請け負っており、案内を発行したこと自体に不審な点はなかった。

 

「ここを紹介されたところまでは覚えてるんです。行く前、俺の個性でも、もう少しまともな仕事があるかもしれないって」

 

そこで男は口を閉じた。

 

ホークスは画面の文字を読んだ。

 

希望を持たせて、呼び出した。

 

そのあとを、玻璃が抜いたかもしれない。

 

「これ、もう一度調べてもらえますか。前は、行ってないんじゃないかって、自分でも思ってしまって」

 

「調べます」

 

ホークスは、今度はすぐ答えた。

 

*

 

同じ医療法人の名前が、ほかの二件にもあった。

 

それだけでは、三人が同じ医師に会ったことにはならない。だが、閲覧の前後で記憶を失った者たちが、皆、その系列の窓口を通っていた。

 

調べる順番は変わった。

 

午後には、玻璃の最初の個性登録に添付された診断書も、机に並んでいた。

 

施設名は違う。運営に関与していた法人が同じだった。

 

「公安より前か」

 

ホークスが言うと、担当者は頷いた。

 

「ただし、系列の施設を受診した子供は多い。この一致だけでは関係を断定できない」

 

「分かってます。彼女には、まだ伝えないでください」

 

疑いの根を、彼女と過ごした時間のもっと前まで掘り返す。

 

そういう仕事になった。

 

関連先へ照会を始める一方で、当時の診療所に出入りしていた職員の所在を確認した。既に廃業した場所もある。名前だけ残り、実際の運営を別の者に任せていた施設もあった。

 

手間はかかったが、全てが消えていたわけではない。

 

翌日、医療機器の搬入を担当していた業者が、一つの住所を挙げた。

 

診療所の廃止後も、同じ担当者から保守の依頼を受けていたという。倉庫名義の建物だった。契約書には、低温設備と大型の培養槽の管理項目がある。

 

脳無。

 

その単語を、塚内が会議で口にした。

 

現場を確認する部隊が組まれ、ホークスは施設の警戒へ戻った。調査先への照会が相手に伝われば、玻璃との接触を試みるかもしれない。

 

こちらにも、待つ理由ができた。

 

*

 

「剥がしてくれたんだ」

 

玻璃は窓に近づいた。

 

目線の高さだけ、フィルムが取り除かれている。見えるのは中庭の植え込みと向かいの棟だった。綺麗な眺めとは言い難いが、白く曇っているよりはよかったらしい。

 

ホークスは扉のそばに立ったまま、彼女を見ていた。

 

昼の聴取で、玻璃は過去に記憶を抜いた相手を二人挙げた。いずれも、今回見つかった三件とは別の人物だった。

 

申告のなかった操作が増えた。

 

肝心の三件については、はっきり覚えていないと言った。

 

「電球の話は、まだ返事できないけど」

 

「それは、帰ってからでいいよ」

 

玻璃は窓から離れ、机に置かれた紙コップを持った。

 

中身は水だった。

 

「これも、ガラスのにできない?」

 

「割れる物は、今は難しい」

 

「割らないのに」

 

「そうだろうけど。俺だけでは決められんから」

 

玻璃が口を尖らせた。

 

ホークスは、その顔を見ていられず、机へ視線を移した。

 

残した食事の記録。追加で必要な生活用品の申請。充電器と、髪を留める物。

 

この場所で数日過ごすつもりは、ある。

 

それが、逃げるつもりはないことの証明にはならない。

 

「今日は、もう終わり?」

 

「聴取はね」

 

「啓悟も帰る?」

 

「仕事は残ってる」

 

「ふうん」

 

紙コップの縁が、彼女の指で少しへこんだ。

 

そのとき、廊下へ散らしていた羽が、靴音を拾った。

 

予定どおり、巡回の職員が角を曲がる。別の羽は隣室の換気口にある。そこには変化がない。

 

部屋の奥で、空気の流れが乱れた。

 

ホークスは考えるより先に羽を放った。

 

玻璃と壁の間へ、大きな羽を差し入れる。その肩を引いて、机から離した。

 

黒い霧が、机の脚を呑んだ。

 

「離れて!」

 

玻璃は、ホークスの方を見なかった。

 

霧の中へ顔を向けた。

 

「あ、黒霧」

 

聞いたことのない声だった。

 

明るく、少し甘えて、やっと来た相手を責めるような。

 

「遅い」

 

*

 

ホークスは彼女を入口側へ引き寄せた。

 

羽で肩と腰を支え、霧から離す。同時に廊下へ警報を送る。

 

黒い面が立ち上がり、その向こうに金属の襟が見えた。

 

「玻璃さん。お迎えに参りました」

 

「今日は帰ってもらえます?」

 

ホークスは長い羽を抜いた。

 

「本人と話してる途中なんで」

 

「彼女をお預かりします」

 

「断る」

 

羽を二本、左右へ走らせる。

 

黒霧は前と同じように出口をずらした。一本が天井へ、もう一本が開いた扉の向こうへ抜ける。ホークスは廊下の職員に届く前に止めた。

 

予想した動きだった。

 

本命の細い羽は、床を滑っていた。黒霧の正面を避け、机の陰から霧の縁へ入れる。どこへ出るかは分からない。一本でも、向こう側の音を拾えればいい。

 

玻璃が背中の羽を掴んだ。

 

「啓悟、放して」

 

「下がってて」

 

「帰るから」

 

ホークスは振り返った。

 

玻璃は、彼の翼をどかそうとしていた。

 

人質に取られているのでも、脅されて呼ばれたのでもない。先に行く人の後を追うように、霧へ足を出している。

 

その足首を、羽で止めた。

 

「まだ帰れない」

 

「迎えに来てるじゃん」

 

「誰の迎えなの」

 

玻璃は眉を寄せた。

 

答えずに手袋を引っ張ったので、ホークスはその両手を羽で包んだ。

 

「脱がないで」

 

「痛い」

 

締めつけすぎてはいない。だが、抵抗すれば指が圧迫される。

 

ホークスは拘束を少し広げた。手を自由にはしなかった。

 

黒霧の目が、その手元へ向いた。

 

「乱暴はおやめください」

 

「そう言うなら、閉じてくれる?」

 

霧の縁から、三本目の羽が戻ってきた。

 

少し遅れた。

 

通った先で聞こえたのは、低い機械音と、遠くの金属音。人の声は拾えなかった。

 

ホークスはその羽も戻さず、室内へ散らした。

 

「彼女に用があるのは、オール・フォー・ワン?」

 

黒霧は答えなかった。

 

玻璃が、ホークスを見た。

 

それまでの不満とは違う、目の動きだった。

 

「……誰から聞いたの」

 

体の奥が、冷えた。

 

知らない名を聞かれた顔ではなかった。

 

知っていることを知られた顔だった。

 

「先生がお待ちです」

 

黒霧が言った。

 

玻璃の肩が、前へ動いた。

 

ホークスはそれを止めた。

 

*

 

次の出口は、足元に開いた。

 

床が黒くなるより早く、ホークスは玻璃を抱えて跳んだ。

 

背中を天井にぶつけない高さで浮き、入口へ抜ける。玻璃が足をばたつかせた。踵が彼の腿に当たる。

 

「戻って、黒霧!」

 

ホークスを呼ぶ声ではない。

 

分かった。

 

もう、分かったから。

 

「動かんで。落ちる」

 

「放してよ!」

 

廊下の先にも黒い穴が開いた。

 

向こうに部屋が見える。玻璃がいた部屋。逃げ道を戻すつもりだ。

 

ホークスは壁を蹴り、窓のある側へ折れた。先行させた羽が窓の留め具を外す。狭い開口部を抜けるため、一瞬だけ翼を畳んだ。

 

玻璃の肩を庇って、外へ出る。

 

夕方の空気が顔に当たった。

 

彼女が息を呑む。

 

翼を開いて、中庭を横切った。屋上へは上がらない。真っ直ぐ飛べば、行き先に穴を作られる。

 

背後の窓から、黒霧の姿がせり出した。

 

金属の襟が、今度は建物の外へ出ていた。

 

ホークスは室内に残した羽を動かした。

 

後ろから襟を挟む。横へ引く。

 

同時に、外へ回していた一本を下から差し入れた。

 

黒霧の体が、窓枠へぶつかった。硬い音。霧が乱れる。

 

玻璃がそれを見た。

 

「やめて!」

 

彼女の声に、ホークスは手を緩めなかった。

 

捕まえる。

 

この男を捕まえれば、連れていかれる者を止められる。どこへ隠しても入り込まれる家族を、ようやく守れるかもしれない。

 

羽をもう一本、襟の下へ回す。

 

黒霧が体を捻った。

 

窓と襟の間に、霧が膨らむ。挟んだ羽の一本が途中から消え、隣棟の壁際へ出た。

 

拘束の角度が変わった。

 

ホークスは追った。残る一本で襟を押さえ、壁へ固定し直そうとする。

 

だが、その羽に黒い面が重なった。

 

先端の感覚が途切れる。

 

切られた。

 

ホークスは即座に残りを引いた。黒霧の襟に、細い赤い筋が残っていた。

 

「黒霧!」

 

玻璃が彼の腕から身を乗り出した。

 

危ない。

 

腰を抱え直し、強く引き寄せる。彼女の頭が肩に当たった。

 

黒霧の姿が窓の内側へ退く。

 

その奥で、短い電子音が鳴った。何かを聞いている。ホークスは残した羽へ意識を集中したが、声は霧の向こうにあって拾えなかった。

 

「申し訳ありません、玻璃さん」

 

黒霧が言った。

 

「今は、別の場所へ向かわなければなりません」

 

「は?」

 

玻璃の体が止まった。

 

「待って。私、ここ」

 

「必ず、お迎えに参ります」

 

「今でいいじゃん!」

 

霧が閉じ始める。

 

ホークスは最後の羽を走らせた。金属の襟はもう見えない。黒い縁を抜けた羽は、誰もいない部屋の壁へ触れた。

 

玻璃が、腕の中で暴れた。

 

「黒霧!」

 

返事はなかった。

 

中庭の向こうに職員が出てくる。ホークスは無線で退避を指示し、二度、進路を変えた。追ってくる出口はない。

 

建物の陰へ降りたとき、玻璃はまだ窓を見ていた。

 

髪が口元に張りついている。

 

ホークスは足を地面につけさせた。手を離す前に、羽で両腕を確保する。

 

「触らないで」

 

玻璃が言った。

 

ホークスは、その言葉を受け止めた。

 

「今は、離せない」

 

*

 

警戒区域を変え、診察を終え、改めて向かい合うまでに一時間かかった。

 

玻璃の手首には、抵抗した際の赤い痕があった。骨にも筋にも異常はないと、医師は確認した。

 

ホークスの脛には、彼女が蹴った痕がある。

 

どちらも、それについて話さなかった。

 

「いつから」

 

ホークスが聞くと、玻璃は机の端を見たまま黙っていた。

 

部屋には職員が二人いる。さっきまでよりも広い机が、二人の間に置かれていた。

 

「公安に来る前?」

 

返事はなかった。

 

「玻璃。オール・フォー・ワンを知っていたのは、公安に来る前から?」

 

玻璃が顔を上げた。

 

「先生のこと、そういうふうに呼ばないで」

 

ホークスは唇を閉じた。

 

そういうふうに。

 

名前を言っただけだった。彼女には、それだけで気に入らない。

 

「じゃあ、先生は、いつから先生なの」

 

「小さいときから」

 

「公安へ来たのも、その人の指示?」

 

玻璃は、しばらく彼を見た。

 

「うん」

 

職員のペンが動く。

 

ホークスは、彼女が施設へ来た日を思い出した。

 

名前の呼び方に文句を言う子だった。目盛じゃなくて玻璃。こっちがいいから、こっちで呼んで。

 

誰にでもそう言っていたのだろう。

 

それでも自分に言われたときは、少し嬉しかった。

 

その時点で、もういた。

 

彼女の側には、こちらの知らない人間が。

 

「頼まれて、ここで知ったことを渡してた?」

 

「……全部じゃない」

 

「神野の捜査は」

 

玻璃の指が、手袋の縫い目を押した。

 

「言った」

 

ホークスは息を吐いた。

 

書類を揃える必要は、もうなかった。

 

それでも、聞かなければならないことがあった。

 

「あの店の写真は?」

 

玻璃の指が止まる。

 

「俺が見せた記憶も、渡した?」

 

「うん」

 

「どうして」

 

「割れたら嫌だったから」

 

部屋の中で、誰かが椅子を小さく鳴らした。

 

ホークスは玻璃を見ていた。

 

「店を残してって、頼んだの」

 

「頼んだ」

 

「人がいたからじゃなくて?」

 

玻璃が眉を寄せた。

 

「ガラスがあったからだよ」

 

知っていた。

 

それくらい、分かっていたはずだった。

 

あの日、瓦礫を運ばなくて済んだ。焼けた通りを走らずに済んだ。捕まっていた二人は、生きて戻った。

 

店の人は、子供が助かったと聞いて喜んだ。

 

その出来事の中に、自分が彼女へ見せた短い記憶が混ざっている。

 

何人がどういうつもりで動いて、あの結果になったのか。

 

玻璃一人を責めれば、元の形へ戻るものではなかった。

 

「爆豪君たちを返したのは、先生の判断?」

 

「知らない。先生に聞けば」

 

投げやりな言い方だった。

 

ホークスは机に置いた手を引いた。

 

「聞けるなら、聞くよ」

 

玻璃の目が、少し動いた。

 

「俺には、迎えに来てくれんからね」

 

笑いにするつもりの言葉が、笑いにならなかった。

 

玻璃も笑わなかった。

 

*

 

夜になって、現場から報告が届いた。

 

倉庫ではなく、稼働中の研究施設だった。

 

部隊の到着時、設備の一部は搬出されていたが、全ては間に合っていなかった。管理を担当する職員二人を確保。意識のない収容者を四人、救出。

 

黒霧の出現が確認されたのは、突入の直前だった。

 

主要な関係者と、いくつかの機材を運び出している。

 

玻璃を置いていった時刻と、重なった。

 

ホークスは報告書を二度読んだ。

 

間に合わなかったものもある。

 

こちらが奪い返したものも、ちゃんとある。

 

だが、彼女を捨てて逃げたのだと、喜ぶ気にはなれなかった。

 

黒霧は必ず迎えに来ると言った。

 

玻璃は、その言葉を疑っていない顔をしていた。

 

机の端へ携帯を置くと、調査担当者から新しい写真が届いた。施設に残された記録の一部だった。

 

個性の組み合わせ。検体番号。移植に関する経過。

 

その中に、人体の写真があった。

 

ホークスは手を止めた。

 

寝台に横たわる、若い男。

 

別の頁には、見覚えのある金属製の部品が写っている。今日、羽で挟んだ襟とよく似ていた。

 

「黒霧に関係する資料かもしれません。身元の照合を進めています」

 

担当者はそう言った。

 

ホークスは、画面を伏せた。

 

今日の彼女の声が、耳から離れなかった。

 

遅い。

 

迎えに来てるじゃん。

 

今でいいじゃん。

 

自分の知らないところで、ああいう声で話していた。

 

誰にも心を開かない人間だったわけではない。

 

こちらに、開かなかった部分があっただけだ。

 

携帯がもう一度震えた。

 

今度は、最初に会った協力者からだった。

 

昼間のことを家族に話せたという。記憶がなくなったのをずっと自分のせいだと思っていた、とも書いてある。

 

最後に、一行。

 

『思い出せなくても、あったことにはなるんですよね』

 

ホークスは、すぐに返事を書いた。

 

なる。

 

あなたが忘れていても、調べる。見つかったことは伝える。

 

送ってから、椅子を引いた。

 

玻璃のところへ行く前に、もう一度、現場の資料を見ることにした。

 

*

 

「玻璃は」

 

弔は、戻ってきた黒霧の肩越しを見た。

 

誰もいない。

 

「連れてこいって言っただろ」

 

「申し訳ありません。途中で、先生から指示が」

 

「先生、先生って。あいつは?」

 

黒霧の襟に傷があることに気づき、弔の指が止まった。

 

爪が首筋に触れたまま、ゆっくり動く。

 

「誰がやった」

 

「ホークスです」

 

聞いたことのある名前だった。

 

玻璃が、たまに口にしていた。羽が便利だとか、勝手に物を動かすとか、そういうどうでもいい話の中で。

 

弔はカウンターの上のグラスを掴んだ。

 

その隣に、透明な小さな置物があった。

 

玻璃が勝手に置いていったものだ。店に合うと言って、黒霧に拭き方まで指図していた。

 

弔はグラスを置物から離して、握り潰した。

 

「返せよ」

 

誰に言ったのか、自分でも選ばなかった。

 

奥のモニターから、先生の声がした。

 

「取り戻すよ、弔」

 

「いつ」

 

「向こうが、彼女を渡したくなるときに」

 

弔が画面を睨む。

 

「待てって言うのか」

 

「今すぐ押し入れば、玻璃も巻き込む。黒霧は場所を変えられる前に追えるよう準備する。君にも、別に頼みたいことがある」

 

先生の声は、いつもと変わらなかった。

 

「彼女が覚えている情報は、公安にとっても価値がある。向こうも、すぐには手放せないだろうね」

 

黒霧の足元には、避難させた機材の箱が積まれていた。

 

その一つだけ、薄紙で丁寧に包まれた玉が入っている。

 

玻璃はまだ、戻っていなかった。

 

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