写真の中の少年は、口を大きく開けて笑っていた。
制服の着方は少しだらしない。肩にかけた腕の先に、別の少年がいる。ホークスが知っている顔よりずっと若く、目つきだけが似ていた。
「白雲朧です」
塚内が言った。
「雄英高校在学中、インターン先での事故により死亡。今回押収した記録には、遺体の搬送後に採取された検体と、その後の施術について記載がありました」
隣に座る相澤は、写真を見ていなかった。
机の上には研究施設で回収した資料もある。黒霧の金属製の襟。複数の個性を組み合わせる工程。素体の識別番号。
どれも、あの笑顔とは結びつかなかった。
ホークスにさえ、そうだった。
「あの女は、黒霧と親しかったんですね」
相澤の声は低かった。
「迎えに来たとき、本人は迷わずついていこうとしました。幼い頃から、あちら側と関係があります。ただ、黒霧といつ知り合ったかは、まだ確認できてません」
「記憶を読んだことは」
「聞きます」
相澤が、そこで初めてホークスを見た。
会わせろ、とは言わなかった。机の端に置いた両手も動かさない。
だから、ホークスの方から言った。
「立ち会ってもらえますか。彼女が話す内容を、こちらだけでは判断できないこともあるでしょうから」
「分かりました」
短い返事だった。
写真を片づける際、相澤の指が一度、白雲の写っている端に触れた。
折れていた角を伸ばす。
それから、塚内へ返した。
*
玻璃は相澤を見て、足を止めた。
ほんのわずかな間だったが、ホークスには分かった。
知らない相手を紹介されるときの顔ではない。
「こちらへ」
椅子を示すと、玻璃は座った。白い手袋をはめた両手を膝に置く。机の上にある写真には、まだ目を向けていなかった。
「黒霧について聞きたい」
ホークスが言った。
「記憶を読んだことはある?」
「ある」
「今の姿になる前の記憶を、見たことは」
玻璃の視線が、相澤へ動いた。
相澤は何も言わなかった。
ホークスは写真を彼女の前へ置いた。
「この人を知ってる?」
玻璃は写真を見た。
それから、少し嫌そうに眉を寄せた。
「……それ、黒霧じゃないよ」
相澤の指が、机の下で動いた。
ホークスは声の調子を変えなかった。
「黒霧の素体になった人だ。名前は白雲朧」
「知ってる」
「記憶の中で?」
「うん」
相澤が息を吸った。
大きな音ではなかった。
それでも玻璃はそちらを見た。その顔を確かめるように、少し首を傾けた。
「あなたも、いた」
相澤の顎がわずかに上がった。
「どこに」
「学校。屋上にいて。あと、猫。箱に入ってた」
ホークスは相澤を見なかった。
今、顔を覗き込むべきではないと思った。
ただ、隣で椅子が少し鳴った。
「ほかには」
「いろいろ。授業とか、実習とか。全部は見てない」
「黒霧は、その記憶について何か言っていたか」
「知らなかったと思う。勝手に出てきたから」
相澤が、初めて写真へ目を落とした。
ホークスはその横顔から、玻璃へ視線を戻した。
「それは今も、黒霧の中にある?」
玻璃は答えなかった。
唇を少し押し合わせ、膝の上で手を組み直す。
ホークスは待った。
相澤も待っていた。
「ないよ」
「どうして」
「抜いたから」
空調が一度止まった。
急に、部屋が静かになった。
「玉にした?」
「うん」
「今、どこにある」
玻璃は写真の角を見ていた。
「割った」
相澤が、椅子から腰を浮かせた。
ホークスは手を出さなかった。
相澤も、玻璃には手を伸ばさなかった。
立ちかけた姿勢のまま止まり、ゆっくりと座り直した。
「戻せるのか」
その問いに、玻璃は首を横に振った。
「割れたら、もう無理」
「破片は」
「捨てた」
「破片があれば、戻せるのか」
「無理だってば」
ホークスは玻璃の名を呼びかけた。
相澤が、先に口を開いた。
「なぜ抜いた」
玻璃は相澤を見た。
「黒霧の中に、知らない人がいたから」
誰も返事をしなかった。
彼女は、説明が足りないと思ったらしい。
「黒霧がいなくなったら嫌だった。変なものが混ざってるの、気になったし」
相澤の目が細くなった。
怒鳴らなかった。
「それは、こいつの記憶だ」
写真を指で押さえる。
「お前が気に入るためにあったものじゃない」
玻璃は口を閉じた。
反省した顔ではなかった。
分かってもらえないことに、これ以上説明するのをやめた顔だった。
ホークスは、その顔を相澤に見せているのが嫌だった。
隠してやりたいのではない。
この人に、これ以上、受け取らせたくなかった。
「抜いた範囲を確認します」
自分の声が、思ったより硬く聞こえた。
「見つけた記憶を全部取ったのか、一部なのか。どこまで覚えてる?」
「見えたところは、まとめて。前の名前とか、学校とか。黒霧の邪魔になるところ」
「見えなかったものが残っている可能性は?」
「知らない。あれから、あの人の記憶は出てこなかった」
相澤が顔を上げた。
「お前が見つけなかっただけかもしれないな」
玻璃は少し不満そうにしたが、否定しなかった。
相澤はそれ以上、問いを重ねなかった。
席を立つと、写真を手に取った。
「今の話は、全部記録をください」
担当者へそう告げ、扉へ向かう。
ホークスは途中まで一緒に出た。
廊下で相澤が立ち止まった。
「俺は、あの女に白雲を探させたくありません」
「……はい」
「だが、黒霧は捕まえる。あいつの中に何が残っているかは、俺たちが確かめます」
ホークスは頷いた。
何も残っていないかもしれない。
それを今、言う必要はなかった。
相澤は写真を内ポケットへ入れた。今度は、折れた角を直さなかった。
*
面談室へ戻ると、玻璃は紙コップの水を飲んでいた。
ホークスは座らず、机の脇に立った。
「今の人にとって、友達だったんだよ」
玻璃はコップを下ろした。
「知ってる」
知っている。
記憶で見たのだから、こちらよりよく知っていることさえある。
それでも、割った。
「先生に言われた?」
「違う。怒られたし」
ホークスは目を閉じかけ、やめた。
そこだけは、誰かに命じられたのだと思いたかったのかもしれない。
先生がそうしたかったから。従わなければ何かされるから。
彼女は、その逃げ道を使わなかった。
「でも、黒霧は変にならなかったよ」
「何を確かめたの」
「ちゃんと話してたし。弔のところにも帰ったし」
ホークスは椅子を引いた。
座らなければ、見下ろす形のまま話し続けることになる。
それで通じる話ではなかった。
「覚えてない人は、なくなったものを説明できないんだよ」
玻璃は黙った。
「診療所に行った記憶をなくした人がいた。自分が弱いから思い出せないんだって、ずっとそう思ってた」
「黒霧は、そんなこと言わなかった」
「言わなかったら、よかった?」
玻璃は目を逸らした。
ホークスは追いかけるように、次を言わなかった。
彼女の中では、守ったことになっている。
好きな相手が知らない誰かに変わらないように、余計なものを取り除いた。
その好きの向けられ方を、初めて怖いと思った。
机の上へ出ていた自分の手を、膝に戻す。
玻璃が、その動きを見た。
「啓悟のことは、何もしてないって言ったじゃん」
「聞いたよ」
「信じてないの?」
「今は、確かめる方法がない」
玻璃の顔が強張った。
怒ったのだと思った。
だが、彼女は言い返さず、手袋の指先を一本ずつ引っ張った。
ホークスはその手元を見ていた。
以前なら、窮屈なんだろうとしか思わなかった。
*
取引の申し入れは、その日の夕方に届いた。
保護下の家族へ仕事を紹介した倉庫会社。その代理人を名乗る弁護士が、公安へ文書を持参した。
実際に交渉の意思を持つ依頼人については、名を明かさなかった。
代わりに、十八人分の名前と写真を出した。
ホークスが呼ばれたときには、そのうち七人について、捜索願の記録との一致が確認されていた。
「昨日の施設から救出した四人と、同じ移送記録に載っている者もいます」
担当者が言った。
写真の一枚に、腕を吊った若い女性がいる。病室の寝台に座って、撮影者を見ていた。ほかの写真にも、同じ型の毛布が写っている。
「生存確認は?」
「一方的に送られた映像だけでは足りないと返答した。本人への質問を含め、こちらが指定する方法での確認を求めている」
ホークスは最後の頁をめくった。
十八人の引き渡し。
そして、ラグドールから奪った個性の返還。
対価は、目盛玻璃の身柄だった。
「彼女を釈放する法的な話も、引き渡す権限の話も、これから詰める必要がある。今ここで承諾を求められているわけではない」
説明を聞きながら、ホークスは文書の端を押さえた。
印刷された文字は、どれも同じ濃さだった。
失踪者の名前も。
奪われた個性も。
玻璃の名前も。
「これ、取引が成立しなかったら十八人はどうなるんですか」
「記載はない」
「返さない、ってことだけか」
担当者は答えなかった。
殺すとは書かれていない。
だから脅迫ではない、という顔で持ち込まれたのだろう。
こちらには、そんな区別に意味はなかった。
「ラグドールには?」
「まだ伝えていない。まず、返還が可能という前提から確認が必要だ」
「本人には伝えてください」
ホークスが言うと、何人かが顔を上げた。
「期待だけ持たせる結果になる可能性がある」
「それも込みで。あの人の個性でしょう」
担当者は少し考え、医師と連絡を取ると言った。
ホークスは書類へ視線を戻した。
自分に同じ申し出が来たら。
翼を返せると言われたら。
何も聞かされないところで、その話を終わらせてほしいとは思わない。
そう考えたことを、顔には出さなかった。
*
会議は長くなった。
玻璃には未解明の情報がある。流出した機密の範囲も、記憶を抜かれた者の数も、まだ確定していない。
引き渡せば、それを失う。
自由になれば、また誰かの記憶を奪う。
その指摘に、ホークスは頷いた。
一方で、十八人は現に向こうにいる。
交渉を拒めば救出作戦へ移ることになるが、所在は分からない。昨日の施設で確保した職員も、搬出先までは知らなかった。供述の裏づけは続いている。
黒霧がいれば、居場所が分かってからでも移せる。
そこでも、ホークスは頷いた。
どちらかの言い分に間違いがあれば、楽だった。
「目盛本人から、相手の所在を聞き出せる見込みは」
「現時点では低い。移動を黒霧に任せていたという供述が本当なら、住所を知らない場所も多いだろう」
「彼女が覚えている景色を、直接見せてもらえれば」
「本人が選んだものしか見られません」
ホークスは言った。
「実在する場所の記憶を見せられても、それが今使われてる施設かどうかは別です」
玻璃は、捏造できない。
だから、嘘をつけないわけではない。
そこを混同すれば、また彼女の報告だけが事実になる。
ホークスは資料を閉じた。
「十八人の確認と、引き渡しの具体的な手順を詰めてください。交渉は進めるべきです」
担当者が彼を見た。
「目盛を渡すことに、反対はしない?」
ホークスは、昨日の部屋を思い出した。
窓を剥がしてくれと頼んだ顔。
黒霧を見つけた声。
自分の腕の中で、戻せと暴れた体。
「渡したくはないですよ」
静かに言った。
「犯罪に関わった人間です。ここで止めなきゃいけないと思ってます」
言葉を切った。
「でも、それを通すために十八人を待たせるなら、救出できる根拠が要る。俺が嫌だから、じゃ足りんでしょう」
担当者は目を伏せ、何かを書き込んだ。
その紙に何と残ったのかは、見えなかった。
*
ラグドールとの通話が繋がったのは、夜だった。
画面の向こうに仲間がいる。本人は椅子へ座り、膝の上で両手を握っていた。
事情を聞いたあと、最初に尋ねたのは、十八人が本当に生きているのか、だった。
次に、玻璃がどういう人物なのか。
答えられる範囲を説明すると、ラグドールはしばらく黙った。
「私が、いらないって言ったら」
ホークスは画面を見た。
「個性はもういいから、その人を渡さないでって言ったら。皆は、そうできる?」
「あなたに決めてもらうための連絡じゃありません」
ラグドールの目が揺れた。
「返してほしいと思っていいんです。そう思ったことを、取引の責任に数えるつもりはない」
彼女の手が、膝の上で強く握られた。
背後にいた仲間が、一歩近づく。
「……返してほしいよ」
小さな声だった。
「やっと、なくてもやれること探そうって思ったのに。返せるって聞いたら、そんなの」
声が途切れた。
ホークスは待った。
励ませば、また立ち直る方へ急がせてしまう。
ラグドールは目元を押さえ、それから顔を上げた。
「でも、私のために決めたことにはしないで」
「はい」
「あと、その十八人。ちゃんと助けて」
「助けるために、話を進めてます」
通話を終えると、暗くなった画面に自分の翼が映った。
ホークスは、一本だけ羽を浮かせた。
机の向こうまで飛ばし、戻す。
何も持たせなかった。
*
玻璃に取引の話を伝える役は、別の職員が務めた。
ホークスは同席した。
説明が終わる前に、彼女の顔が明るくなった。
「じゃあ、帰れる?」
まだ決まっていない、と職員が答える。
「条件の確認を進めている段階です。あなた自身の意思も確認します」
「帰る」
即答だった。
「脅されて、戻らなければならないということではありませんか」
「違います」
「戻ったあと、どのような扱いを受けるか分かりますか」
玻璃は少し考えた。
「怒られるかもしれないけど。先生のこと、喋ったから」
「危害を加えられる可能性は」
「ないと思う。迎えに来てるのに、何で?」
職員は質問を続けた。
玻璃も、答えられるものには答えた。
帰りたい場所について話す人間の顔だった。
ホークスは一度だけ、机の下で拳を握った。
その質問が必要なことは分かっている。本人の意思を、誰かの支配や恐怖だけで説明してはいけない。
それでも、否定してくれたらと思った。
帰りたくないと一度でも言えば。
その言葉を、こちらが守る理由にできたのに。
「啓悟も来る?」
突然、名前を呼ばれた。
ホークスは顔を上げた。
「どこに」
「迎えのとこ」
「まだ担当は決まってない」
「来てよ」
玻璃は、当たり前のように言った。
職員が二人を見た。
ホークスは玻璃から目を逸らさなかった。
「何で?」
「この前、途中で連れてったじゃん。今度は、ちゃんと渡して」
胸の奥が、鈍く痛んだ。
彼女には、そういう出来事だった。
会いたかった人のところへ行くのを、自分が止めた。
「そのために呼んでる?」
玻璃の眉が動いた。
「……違う。あと、黒霧にはもう怪我させないで」
違わないじゃん。
言いそうになって、飲み込んだ。
玻璃は彼の顔を見て、ようやく言葉を止めた。
ホークスは椅子を引いた。
「引き渡しを邪魔するためには行かない。行くなら、向こうにいる人を連れて帰るために行く」
「うん」
「玻璃だけ送って、終わりにはできないんだよ」
今度の返事は、少し遅れた。
「……分かってる」
どこまで分かっているかを、聞き返しはしなかった。
*
深夜、十八人のうち数人について、追加の生存確認が取れた。
家族が指定した質問に、本人の声で答えている。日時を確認できる物も画面に映っていた。
一人は、娘に謝っていた。
誕生日に帰れなかったことを。
その映像を最後まで見てから、ホークスは交渉担当へ連絡した。
「当日の同行に、俺を入れてください」
『目盛との関係を考えると、別の者を置く選択もある』
「拘束の引き継ぎも、彼女への対応もできます。黒霧の動きは二度見た。十八人を運ぶ手も多い方がいい」
『それだけか』
ホークスは、空になった紙コップを見た。
玻璃が嫌がるやつだった。
「それだけじゃありません」
言ってから、少し息をついた。
「でも、ほかの理由で作戦を変えるつもりはないです」
返事は、翌朝すると言われた。
電話を切り、窓際へ立つ。
中庭の向こうに、玻璃を置いていた部屋が見えた。今は誰もいない。剥がしたフィルムの部分だけ、暗い四角になっていた。
あそこから連れ出して、守ったつもりではなかった。
逃がさず、捕まえた。
それでいいはずだった。
ホークスは窓を開けた。少しだけ、冷たい空気が入る。
向こうの十八人は、この風に触れられる場所にいるだろうか。
翼を広げると、室内の空気が動いた。
明日のために、羽の数を確かめた。