ガラスは赤い羽根を閉じ込める。   作:an-ryuka

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第7話 返せないもの

 

写真の中の少年は、口を大きく開けて笑っていた。

 

制服の着方は少しだらしない。肩にかけた腕の先に、別の少年がいる。ホークスが知っている顔よりずっと若く、目つきだけが似ていた。

 

「白雲朧です」

 

塚内が言った。

 

「雄英高校在学中、インターン先での事故により死亡。今回押収した記録には、遺体の搬送後に採取された検体と、その後の施術について記載がありました」

 

隣に座る相澤は、写真を見ていなかった。

 

机の上には研究施設で回収した資料もある。黒霧の金属製の襟。複数の個性を組み合わせる工程。素体の識別番号。

 

どれも、あの笑顔とは結びつかなかった。

 

ホークスにさえ、そうだった。

 

「あの女は、黒霧と親しかったんですね」

 

相澤の声は低かった。

 

「迎えに来たとき、本人は迷わずついていこうとしました。幼い頃から、あちら側と関係があります。ただ、黒霧といつ知り合ったかは、まだ確認できてません」

 

「記憶を読んだことは」

 

「聞きます」

 

相澤が、そこで初めてホークスを見た。

 

会わせろ、とは言わなかった。机の端に置いた両手も動かさない。

 

だから、ホークスの方から言った。

 

「立ち会ってもらえますか。彼女が話す内容を、こちらだけでは判断できないこともあるでしょうから」

 

「分かりました」

 

短い返事だった。

 

写真を片づける際、相澤の指が一度、白雲の写っている端に触れた。

 

折れていた角を伸ばす。

 

それから、塚内へ返した。

 

*

 

玻璃は相澤を見て、足を止めた。

 

ほんのわずかな間だったが、ホークスには分かった。

 

知らない相手を紹介されるときの顔ではない。

 

「こちらへ」

 

椅子を示すと、玻璃は座った。白い手袋をはめた両手を膝に置く。机の上にある写真には、まだ目を向けていなかった。

 

「黒霧について聞きたい」

 

ホークスが言った。

 

「記憶を読んだことはある?」

 

「ある」

 

「今の姿になる前の記憶を、見たことは」

 

玻璃の視線が、相澤へ動いた。

 

相澤は何も言わなかった。

 

ホークスは写真を彼女の前へ置いた。

 

「この人を知ってる?」

 

玻璃は写真を見た。

 

それから、少し嫌そうに眉を寄せた。

 

「……それ、黒霧じゃないよ」

 

相澤の指が、机の下で動いた。

 

ホークスは声の調子を変えなかった。

 

「黒霧の素体になった人だ。名前は白雲朧」

 

「知ってる」

 

「記憶の中で?」

 

「うん」

 

相澤が息を吸った。

 

大きな音ではなかった。

 

それでも玻璃はそちらを見た。その顔を確かめるように、少し首を傾けた。

 

「あなたも、いた」

 

相澤の顎がわずかに上がった。

 

「どこに」

 

「学校。屋上にいて。あと、猫。箱に入ってた」

 

ホークスは相澤を見なかった。

 

今、顔を覗き込むべきではないと思った。

 

ただ、隣で椅子が少し鳴った。

 

「ほかには」

 

「いろいろ。授業とか、実習とか。全部は見てない」

 

「黒霧は、その記憶について何か言っていたか」

 

「知らなかったと思う。勝手に出てきたから」

 

相澤が、初めて写真へ目を落とした。

 

ホークスはその横顔から、玻璃へ視線を戻した。

 

「それは今も、黒霧の中にある?」

 

玻璃は答えなかった。

 

唇を少し押し合わせ、膝の上で手を組み直す。

 

ホークスは待った。

 

相澤も待っていた。

 

「ないよ」

 

「どうして」

 

「抜いたから」

 

空調が一度止まった。

 

急に、部屋が静かになった。

 

「玉にした?」

 

「うん」

 

「今、どこにある」

 

玻璃は写真の角を見ていた。

 

「割った」

 

相澤が、椅子から腰を浮かせた。

 

ホークスは手を出さなかった。

 

相澤も、玻璃には手を伸ばさなかった。

 

立ちかけた姿勢のまま止まり、ゆっくりと座り直した。

 

「戻せるのか」

 

その問いに、玻璃は首を横に振った。

 

「割れたら、もう無理」

 

「破片は」

 

「捨てた」

 

「破片があれば、戻せるのか」

 

「無理だってば」

 

ホークスは玻璃の名を呼びかけた。

 

相澤が、先に口を開いた。

 

「なぜ抜いた」

 

玻璃は相澤を見た。

 

「黒霧の中に、知らない人がいたから」

 

誰も返事をしなかった。

 

彼女は、説明が足りないと思ったらしい。

 

「黒霧がいなくなったら嫌だった。変なものが混ざってるの、気になったし」

 

相澤の目が細くなった。

 

怒鳴らなかった。

 

「それは、こいつの記憶だ」

 

写真を指で押さえる。

 

「お前が気に入るためにあったものじゃない」

 

玻璃は口を閉じた。

 

反省した顔ではなかった。

 

分かってもらえないことに、これ以上説明するのをやめた顔だった。

 

ホークスは、その顔を相澤に見せているのが嫌だった。

 

隠してやりたいのではない。

 

この人に、これ以上、受け取らせたくなかった。

 

「抜いた範囲を確認します」

 

自分の声が、思ったより硬く聞こえた。

 

「見つけた記憶を全部取ったのか、一部なのか。どこまで覚えてる?」

 

「見えたところは、まとめて。前の名前とか、学校とか。黒霧の邪魔になるところ」

 

「見えなかったものが残っている可能性は?」

 

「知らない。あれから、あの人の記憶は出てこなかった」

 

相澤が顔を上げた。

 

「お前が見つけなかっただけかもしれないな」

 

玻璃は少し不満そうにしたが、否定しなかった。

 

相澤はそれ以上、問いを重ねなかった。

 

席を立つと、写真を手に取った。

 

「今の話は、全部記録をください」

 

担当者へそう告げ、扉へ向かう。

 

ホークスは途中まで一緒に出た。

 

廊下で相澤が立ち止まった。

 

「俺は、あの女に白雲を探させたくありません」

 

「……はい」

 

「だが、黒霧は捕まえる。あいつの中に何が残っているかは、俺たちが確かめます」

 

ホークスは頷いた。

 

何も残っていないかもしれない。

 

それを今、言う必要はなかった。

 

相澤は写真を内ポケットへ入れた。今度は、折れた角を直さなかった。

 

*

 

面談室へ戻ると、玻璃は紙コップの水を飲んでいた。

 

ホークスは座らず、机の脇に立った。

 

「今の人にとって、友達だったんだよ」

 

玻璃はコップを下ろした。

 

「知ってる」

 

知っている。

 

記憶で見たのだから、こちらよりよく知っていることさえある。

 

それでも、割った。

 

「先生に言われた?」

 

「違う。怒られたし」

 

ホークスは目を閉じかけ、やめた。

 

そこだけは、誰かに命じられたのだと思いたかったのかもしれない。

 

先生がそうしたかったから。従わなければ何かされるから。

 

彼女は、その逃げ道を使わなかった。

 

「でも、黒霧は変にならなかったよ」

 

「何を確かめたの」

 

「ちゃんと話してたし。弔のところにも帰ったし」

 

ホークスは椅子を引いた。

 

座らなければ、見下ろす形のまま話し続けることになる。

 

それで通じる話ではなかった。

 

「覚えてない人は、なくなったものを説明できないんだよ」

 

玻璃は黙った。

 

「診療所に行った記憶をなくした人がいた。自分が弱いから思い出せないんだって、ずっとそう思ってた」

 

「黒霧は、そんなこと言わなかった」

 

「言わなかったら、よかった?」

 

玻璃は目を逸らした。

 

ホークスは追いかけるように、次を言わなかった。

 

彼女の中では、守ったことになっている。

 

好きな相手が知らない誰かに変わらないように、余計なものを取り除いた。

 

その好きの向けられ方を、初めて怖いと思った。

 

机の上へ出ていた自分の手を、膝に戻す。

 

玻璃が、その動きを見た。

 

「啓悟のことは、何もしてないって言ったじゃん」

 

「聞いたよ」

 

「信じてないの?」

 

「今は、確かめる方法がない」

 

玻璃の顔が強張った。

 

怒ったのだと思った。

 

だが、彼女は言い返さず、手袋の指先を一本ずつ引っ張った。

 

ホークスはその手元を見ていた。

 

以前なら、窮屈なんだろうとしか思わなかった。

 

*

 

取引の申し入れは、その日の夕方に届いた。

 

保護下の家族へ仕事を紹介した倉庫会社。その代理人を名乗る弁護士が、公安へ文書を持参した。

 

実際に交渉の意思を持つ依頼人については、名を明かさなかった。

 

代わりに、十八人分の名前と写真を出した。

 

ホークスが呼ばれたときには、そのうち七人について、捜索願の記録との一致が確認されていた。

 

「昨日の施設から救出した四人と、同じ移送記録に載っている者もいます」

 

担当者が言った。

 

写真の一枚に、腕を吊った若い女性がいる。病室の寝台に座って、撮影者を見ていた。ほかの写真にも、同じ型の毛布が写っている。

 

「生存確認は?」

 

「一方的に送られた映像だけでは足りないと返答した。本人への質問を含め、こちらが指定する方法での確認を求めている」

 

ホークスは最後の頁をめくった。

 

十八人の引き渡し。

 

そして、ラグドールから奪った個性の返還。

 

対価は、目盛玻璃の身柄だった。

 

「彼女を釈放する法的な話も、引き渡す権限の話も、これから詰める必要がある。今ここで承諾を求められているわけではない」

 

説明を聞きながら、ホークスは文書の端を押さえた。

 

印刷された文字は、どれも同じ濃さだった。

 

失踪者の名前も。

 

奪われた個性も。

 

玻璃の名前も。

 

「これ、取引が成立しなかったら十八人はどうなるんですか」

 

「記載はない」

 

「返さない、ってことだけか」

 

担当者は答えなかった。

 

殺すとは書かれていない。

 

だから脅迫ではない、という顔で持ち込まれたのだろう。

 

こちらには、そんな区別に意味はなかった。

 

「ラグドールには?」

 

「まだ伝えていない。まず、返還が可能という前提から確認が必要だ」

 

「本人には伝えてください」

 

ホークスが言うと、何人かが顔を上げた。

 

「期待だけ持たせる結果になる可能性がある」

 

「それも込みで。あの人の個性でしょう」

 

担当者は少し考え、医師と連絡を取ると言った。

 

ホークスは書類へ視線を戻した。

 

自分に同じ申し出が来たら。

 

翼を返せると言われたら。

 

何も聞かされないところで、その話を終わらせてほしいとは思わない。

 

そう考えたことを、顔には出さなかった。

 

*

 

会議は長くなった。

 

玻璃には未解明の情報がある。流出した機密の範囲も、記憶を抜かれた者の数も、まだ確定していない。

 

引き渡せば、それを失う。

 

自由になれば、また誰かの記憶を奪う。

 

その指摘に、ホークスは頷いた。

 

一方で、十八人は現に向こうにいる。

 

交渉を拒めば救出作戦へ移ることになるが、所在は分からない。昨日の施設で確保した職員も、搬出先までは知らなかった。供述の裏づけは続いている。

 

黒霧がいれば、居場所が分かってからでも移せる。

 

そこでも、ホークスは頷いた。

 

どちらかの言い分に間違いがあれば、楽だった。

 

「目盛本人から、相手の所在を聞き出せる見込みは」

 

「現時点では低い。移動を黒霧に任せていたという供述が本当なら、住所を知らない場所も多いだろう」

 

「彼女が覚えている景色を、直接見せてもらえれば」

 

「本人が選んだものしか見られません」

 

ホークスは言った。

 

「実在する場所の記憶を見せられても、それが今使われてる施設かどうかは別です」

 

玻璃は、捏造できない。

 

だから、嘘をつけないわけではない。

 

そこを混同すれば、また彼女の報告だけが事実になる。

 

ホークスは資料を閉じた。

 

「十八人の確認と、引き渡しの具体的な手順を詰めてください。交渉は進めるべきです」

 

担当者が彼を見た。

 

「目盛を渡すことに、反対はしない?」

 

ホークスは、昨日の部屋を思い出した。

 

窓を剥がしてくれと頼んだ顔。

 

黒霧を見つけた声。

 

自分の腕の中で、戻せと暴れた体。

 

「渡したくはないですよ」

 

静かに言った。

 

「犯罪に関わった人間です。ここで止めなきゃいけないと思ってます」

 

言葉を切った。

 

「でも、それを通すために十八人を待たせるなら、救出できる根拠が要る。俺が嫌だから、じゃ足りんでしょう」

 

担当者は目を伏せ、何かを書き込んだ。

 

その紙に何と残ったのかは、見えなかった。

 

*

 

ラグドールとの通話が繋がったのは、夜だった。

 

画面の向こうに仲間がいる。本人は椅子へ座り、膝の上で両手を握っていた。

 

事情を聞いたあと、最初に尋ねたのは、十八人が本当に生きているのか、だった。

 

次に、玻璃がどういう人物なのか。

 

答えられる範囲を説明すると、ラグドールはしばらく黙った。

 

「私が、いらないって言ったら」

 

ホークスは画面を見た。

 

「個性はもういいから、その人を渡さないでって言ったら。皆は、そうできる?」

 

「あなたに決めてもらうための連絡じゃありません」

 

ラグドールの目が揺れた。

 

「返してほしいと思っていいんです。そう思ったことを、取引の責任に数えるつもりはない」

 

彼女の手が、膝の上で強く握られた。

 

背後にいた仲間が、一歩近づく。

 

「……返してほしいよ」

 

小さな声だった。

 

「やっと、なくてもやれること探そうって思ったのに。返せるって聞いたら、そんなの」

 

声が途切れた。

 

ホークスは待った。

 

励ませば、また立ち直る方へ急がせてしまう。

 

ラグドールは目元を押さえ、それから顔を上げた。

 

「でも、私のために決めたことにはしないで」

 

「はい」

 

「あと、その十八人。ちゃんと助けて」

 

「助けるために、話を進めてます」

 

通話を終えると、暗くなった画面に自分の翼が映った。

 

ホークスは、一本だけ羽を浮かせた。

 

机の向こうまで飛ばし、戻す。

 

何も持たせなかった。

 

*

 

玻璃に取引の話を伝える役は、別の職員が務めた。

 

ホークスは同席した。

 

説明が終わる前に、彼女の顔が明るくなった。

 

「じゃあ、帰れる?」

 

まだ決まっていない、と職員が答える。

 

「条件の確認を進めている段階です。あなた自身の意思も確認します」

 

「帰る」

 

即答だった。

 

「脅されて、戻らなければならないということではありませんか」

 

「違います」

 

「戻ったあと、どのような扱いを受けるか分かりますか」

 

玻璃は少し考えた。

 

「怒られるかもしれないけど。先生のこと、喋ったから」

 

「危害を加えられる可能性は」

 

「ないと思う。迎えに来てるのに、何で?」

 

職員は質問を続けた。

 

玻璃も、答えられるものには答えた。

 

帰りたい場所について話す人間の顔だった。

 

ホークスは一度だけ、机の下で拳を握った。

 

その質問が必要なことは分かっている。本人の意思を、誰かの支配や恐怖だけで説明してはいけない。

 

それでも、否定してくれたらと思った。

 

帰りたくないと一度でも言えば。

 

その言葉を、こちらが守る理由にできたのに。

 

「啓悟も来る?」

 

突然、名前を呼ばれた。

 

ホークスは顔を上げた。

 

「どこに」

 

「迎えのとこ」

 

「まだ担当は決まってない」

 

「来てよ」

 

玻璃は、当たり前のように言った。

 

職員が二人を見た。

 

ホークスは玻璃から目を逸らさなかった。

 

「何で?」

 

「この前、途中で連れてったじゃん。今度は、ちゃんと渡して」

 

胸の奥が、鈍く痛んだ。

 

彼女には、そういう出来事だった。

 

会いたかった人のところへ行くのを、自分が止めた。

 

「そのために呼んでる?」

 

玻璃の眉が動いた。

 

「……違う。あと、黒霧にはもう怪我させないで」

 

違わないじゃん。

 

言いそうになって、飲み込んだ。

 

玻璃は彼の顔を見て、ようやく言葉を止めた。

 

ホークスは椅子を引いた。

 

「引き渡しを邪魔するためには行かない。行くなら、向こうにいる人を連れて帰るために行く」

 

「うん」

 

「玻璃だけ送って、終わりにはできないんだよ」

 

今度の返事は、少し遅れた。

 

「……分かってる」

 

どこまで分かっているかを、聞き返しはしなかった。

 

*

 

深夜、十八人のうち数人について、追加の生存確認が取れた。

 

家族が指定した質問に、本人の声で答えている。日時を確認できる物も画面に映っていた。

 

一人は、娘に謝っていた。

 

誕生日に帰れなかったことを。

 

その映像を最後まで見てから、ホークスは交渉担当へ連絡した。

 

「当日の同行に、俺を入れてください」

 

『目盛との関係を考えると、別の者を置く選択もある』

 

「拘束の引き継ぎも、彼女への対応もできます。黒霧の動きは二度見た。十八人を運ぶ手も多い方がいい」

 

『それだけか』

 

ホークスは、空になった紙コップを見た。

 

玻璃が嫌がるやつだった。

 

「それだけじゃありません」

 

言ってから、少し息をついた。

 

「でも、ほかの理由で作戦を変えるつもりはないです」

 

返事は、翌朝すると言われた。

 

電話を切り、窓際へ立つ。

 

中庭の向こうに、玻璃を置いていた部屋が見えた。今は誰もいない。剥がしたフィルムの部分だけ、暗い四角になっていた。

 

あそこから連れ出して、守ったつもりではなかった。

 

逃がさず、捕まえた。

 

それでいいはずだった。

 

ホークスは窓を開けた。少しだけ、冷たい空気が入る。

 

向こうの十八人は、この風に触れられる場所にいるだろうか。

 

翼を広げると、室内の空気が動いた。

 

明日のために、羽の数を確かめた。

 

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